第23話 平成31年4月23日(火)「札幌」

 昨日の月曜日。学校から帰ると、両親が居間で荷物の整理をしていた。


「いっぱい買ったねー」


「車、出してくれて助かったわ」


 わたしが笑って言うと、お母さんが答えた。連休中に休めないお母さんは今週前倒しで休暇を取っている。家中の掃除や模様替えをこの機会に頑張るというお母さんのために、お父さんは午後に半休を取って買い物に付き合っていた。


 わたしの後を追うようにお姉ちゃんも帰ってきて、平日の夕方だというのに一家四人が揃った。お父さんとお姉ちゃんはすぐに夕食の支度を始めた。わたしは自分の部屋で休んでいた間のプリント類の整理をする。何よりありがたいのが日野さんのノートのコピーだ。わたしのためにわざわざコピーを用意してくれていた。その丁寧なこと。市販の参考書より分かりやすいんじゃないかと思ってしまう。


 晩ご飯の準備ができたと呼ばれて食卓に着く。一家揃って食事を始めようとした、まさにそのタイミングでスマホの着信のコールがあった。お母さんのだ。「先に食べてて」と言って席を立つ。でも、なんとなく待ってしまう。


「……えっ」


 仕事の電話だと離れていてもお母さんの話し声はよく聞こえる。ハキハキ喋るし、声も大きい。そんなお母さんが声を潜めて話している。どうしたんだろうと気になった。その声の調子が変わらないまま電話が終わり、こちらに戻って来る。その顔が青ざめていた。


「どうしたの? お母さん」


 わたしが最初に気付き、そう声を掛ける。でも、お母さんはふらふらと近付いてくるだけで、わたしの問いに答えない。お父さんやお姉ちゃんもお母さんの異変に気付いた。お父さんはすぐに立ち上がり、お母さんの肩に手を置いた。「どうしたんだい?」お父さんは落ち着いた声で問いかけた。


「お母さんが……お母さんが……、……車に……」


 わたしは息を呑む。お母さんはお父さんにではなく、独り言のように呟いた。


「今の電話は宣子さん?」


 お母さんが頷く。宣子叔母さんはお母さんの妹で、お祖母ちゃんと同じ札幌に住んでいる。


「容態は分かってる?」


「……意識不明で、多分もう……」


 わたしは固まってしまう。お祖母ちゃんの顔が浮かぶ。最後に会ったのは小六の夏休みだ。もう2年近く経っている。小柄だけど、元気で、お母さんと同じように働き者。大きな声で「ひーなちゃん、ひーなちゃん」と呼んでくれたのを思い出す。


 お父さんはその後もいくつか質問して状況を確認すると、「すぐに札幌に向かう準備をしなさい。僕はチケット取れるか見てみるから」とお母さんに言って自分のスマホを取り出した。


 その画面を見る前に、わたしとお姉ちゃんの顔を見てから「陽稲、お母さんに付いて行ってくれるかい」とわたしに問いかけた。わたしはすぐに頷く。「華菜は明日お父さんと一緒に行こう」お姉ちゃんが頷くのを見ながら、わたしは自分の部屋へ向かった。


 必要最低限の着替えなどがあれば良いだろう。わたしは急いで荷物を詰める。父方の祖父である”じいじ”の家によく泊まりに行くので準備には慣れている。荷物を持って居間に戻る。お母さんはまだいなかった。わたしは両親の部屋に行く。ノックをして声を掛けて中に入る。お母さんは下着姿で立っていた。いつもならお父さんより先に周囲を仕切り、自分でもテキパキと動くのに、今は何をしていいか分からないといった表情でわたしを見ている。胸が締め付けられた。わたしはまずお母さんの着ていく服を準備する。お母さんの持っている服はだいたい覚えている。余所行きだけど、派手でなく、動きやすい服。タンスから出して渡すと、「ありがとう」と言って着始めた。次は持って行く着替えだ。下着や寝間着をお母さんに聞きながら用意する。後は……。わたしはお手洗いに行くと言って部屋を出た。


「お父さん」


 居間にいるお父さんはちょうど電話が終わったタイミングで、わたしの話を聞いてくれた。


「お母さんの荷物だけど、喪服は……」


 お父さんは一度目を閉じ、「明日、僕が持って行くよ」と言った。「一式、僕のクローゼットに入れておいてくれるとありがたい」という言葉にわたしは頷いた。両親の部屋に戻ると、お母さんは着替え終わっていた。ふたりで手荷物の準備を整え、トイレ行っておいた方がいいよとお母さんを部屋から出す。その隙に喪服の用意をしておいた。


 居間に戻ると、お姉ちゃんがおにぎりや軽食、お菓子、ペットボトルなどの用意をしてくれていた。そういえば夕食を食べ損なった。でも、お腹は空いていない。ありがとうと受け取っておく。お母さんが居間に入ってきたタイミングで玄関のベルが鳴る。お父さんが呼んだタクシーが来たようだ。お父さんは心配そうにわたしに色々気を付けることを挙げた。なんとかなるだろう。困ったら、誰かに訊けばいい。お父さんは最後にわたしに言った。


「お母さんと離れないようにね」




 タクシーの中でお母さんは一言も喋らなかった。わたしも掛ける言葉がなかった。今日、日野さんと話したことを思い出す。日野さんは「誰だって重い病気に罹る可能性はある。事故や災害に遭う可能性だってある」と言った。まさにその当日にこんなことが起きるなんて。誰だってそんな可能性があるのは知っている。でも、実際にそれが起きると、冷静ではいられないのが人間だろう。


 羽田に着いて、お父さんに連絡。色々と指示をもらい、搭乗の手続きをする。少し時間がある。わたしはお姉ちゃんが作ったおにぎりを食べることにした。食欲はないけど、わたしがしっかりしないといけない。お母さんは首を振り、水分を少し取っただけだった。


 飛行機に乗り込む。窓の外は暗く、鏡のようにお母さんとわたしの姿が映っている。わたしは身近な人の死を体験したことはない。ひいお祖父ちゃんのお葬式に出た記憶はあるけど、ほとんど面識がなかったし、大往生で周りも暗い雰囲気はなかった。わたしは隣に座るお母さんの手を握った。その手はとても冷たかった。


 新千歳空港に到着。精神的にも肉体的にも疲労を感じる。お父さんに連絡すると、宣子叔母さんの旦那さんが車で迎えに来てくれているそうだ。しばらくロビーで待っていると、見覚えのある男性がキョロキョロと人を探していた。叔父さんだ。お母さんと一緒に駆け寄る。簡単な挨拶を交わし、車に向かう。会話の乏しさからこれから向かう先の状況を察してしまう。胃のあたりがキリリと痛んだ。


 車の中でもお母さんの手を握り続けた。叫んで逃げ出したい。その思いを必死に打ち消そうと、手に力を込めていた。ついに病院に着いた。もう深夜。非常口のようなところから病院に入る。薄暗いけど常夜灯が点いているので不気味な雰囲気はない。それでも重苦しい空気がまとわりついて、わたしの足取りは重くなる。叔父さんの後をお母さんとわたしが付いて歩く。お母さんから離れちゃいけない。ただそれだけを考えて足を進めた。


 廊下の椅子に座る何人かの人影が見えた。みんなうなだれるように下を向いている。そのひとりが足音を聞きつけてこちらを見た。まだ距離はあったが、それが宣子叔母さんだと分かった。「お姉ちゃん!」決して大きな声ではなかった。しかし、病院内の静けさを切り裂くような響きに感じた。


 宣子叔母さんが駆け寄り、お母さんと抱き合う。すすり泣きが聞こえる。わたしは胸が締め付けられ、足を止めた。叔父さんがそんなわたしに気付き、「よくお母さんを支えてあげたね」と言ってくれた。わたしはその言葉を聞き、すっと力が抜けた。ひとつ大きな荷を降ろした気分だった。わたしはお母さんたちの横を早足で通り抜ける。その先にはお祖父ちゃんとふたりの従妹がいた。お祖父ちゃんは立ち上がり、わたしの頭を撫でて「よく来てくれた」と言った。


 従妹ふたりは眠そうでぐったりしている。相当疲れているのだろう。壁にもたれかかるように座っている。父方の従兄弟たちは全員わたしより年上だが、このふたりはわたしより年下の貴重な親戚だ。背はもう抜かれているんだけど。


 しばらくして、宣子叔母さんとお母さんが病室に入る。わたしもその後に続く。部屋の奥のベッドにシーツを掛けられた人が横たわっていた。顔には白い布がかぶせられている。その布を宣子叔母さんがめくる。お母さんの身体がストップモーションのようにゆっくりとその人の胸元に崩れ落ちた。言葉にならない声が聞こえる。「……ごめん、ね……」聞き取れたのはいくつかの謝罪の言葉だった。


「交通事故だったけど、打ち所が悪かっただけで、身体にはあまり大きな傷が残らなくて良かったねって……」


 宣子叔母さんの声が病室内を漂う。わたしは入口のところから近付くことができず、ただ立っているだけで精一杯だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る