第17話 平成31年4月17日(水)「一昨日の出来事」

 彼との二人きりの時間。クラスが離れてしまってからは、放課後だけがゆっくり会える貴重な時間だ。


 他愛のない会話。部活のざわめきがBGM。春のお日様がわたしたちの幸せを見届けてくれる。


 でも、そんな至福はほんのひとときで終わる。彼はこのあと塾。もう少しこのままでいたいという気持ちを振りほどいて歩き出す。


「あ!」


 彼が怪訝な顔でわたしを見る。


「ごめん、先に帰ってて! 宿題のプリント、机に入れたままだ」


「校門のところで待ってるよ」


 そんな彼に一度手を振ると、わたしは走り出した。待たせるわけにはいかない。


 ガシャン!


 階段を駆け上がり、自分の教室の前に着いた時、大きな音が響いた。一瞬で身がすくむ。それほど大きな音。教室の中に人の気配がする。わたしは息を潜め、中を覗き込む。


 教室の後方に二人の女子がいた。こちらに背を向けた子がもうひとりに突っかかっている。突然、手前の子が手近にあった机を持ち上げ、振り回した。あんなのが当たったら大けがする!


 思わず悲鳴が出かかった。奥にいる子はその机を余裕を持って避けている。今度はその机を投げつけた。だが、奥の子には当たらない。その頃には二人が誰だか分かった。手前が麓さん、奥が日野さん。麓さんの噂は聞いている。どうしよう。これはイジメだ!


 止めなきゃいけないとは頭の中では分かっている。でも、一歩も動けない。こんなところに飛び込む勇気はわたしにはない。ごめん、日野さん。心の中で、そう謝るしかできなかった。


 しかし、よく見ると様子が変だ。麓さんが両手を挙げている。自分の机から何かを取り出し、日野さんに渡そうとしている。わたしはただ黙ってその光景を見ていた。


 麓さんが手に持っていたものを日野さんに投げつけた。息を呑む。日野さんはそれを上から叩きつけた。その手はそのまま麓さんに振り下ろされた。麓さんは日野さんの足下に崩れ落ちた。


 わたしは呆気に取られていた。もしかして、日野さんって無茶苦茶強い? そんなイメージは全然なかった。いや、体力測定で活躍していたから、運動はできるのだろう。でも、なんと言うか、圧倒的なんだけど・・・・・・。


 机の陰になって麓さんは見えない。大丈夫なのかなと思ったが、床を這う音が聞こえる。日野さんが素早く動いた。その手に何か持っている。スマホのようだ。麓さんは取り返そうとするが、立つことさえもできないでいる。


 最初は怒声だった麓さんが、懇願するような言葉になっていった。少し可哀想に思ってしまう。・・・・・・麓さんが先に仕掛けたんだろうけど。


 ようやく麓さんが立ち上がった。日野さんはそれをじっと見ている。麓さんはまた自分の机から何かを取り出した。それを日野さんが受け取り、スマホを麓さんに返した。どうやら終わったみたい。二人で床に散らばったものを拾ったり、机を並べ直したりしている。わたしはゆっくりとそこを離れた。


 階段のところまで来て、ようやく身体の力が抜けた。気付かないうちに、力が入っていたみたい。体中がガクガクする感じだ。わたしは息を吐く。見たことを頭の中で整理できていない。


「塚本さん」


 肩を叩かれた。わたしは悲鳴を上げそうになる。しかし、その前に口を塞がれた。


「ごめんなさい。驚かせたよね」


 まったく気配を感じなかったのに、わたしの背後に日野さんが立っていた。驚きで言葉が出ない。


「大丈夫?」


 全然大丈夫じゃなかったけど、頷いてしまう。


「ひとりで立てる?」


 気が付けば、日野さんに身体を支えられていた。足を踏ん張ろうとするけど、力が入らない。


「うーん、じゃあ、しっかりつかまってて」


 そう言うと、日野さんはわたしを持ち上げた。ちょっと変則的なお姫様だっこ。上体は抱き合うような感じで、ぴったり身体がくっついている。わたしは彼女の身体に手を回してしがみつく。彼女の体温が伝わってくる。思い切り、恥ずかしい。わたしは顔がほてるのを感じた。


 日野さんはわたしを抱っこしたまま階段を降りる。ゆっくりと。危なっかしい感じはしない。どこにそんな力があるのだろうと思うほどだ。


「このまま彼氏のところまで行く?」


 階段を降りるとそう聞かれた。


「あ、だ、だい、大丈夫! 大丈夫のはず!」


 わたしは慌てすぎて言葉が支離滅裂になる。さすがにこれで彼に会えない。女同士だけど。日野さんはわたしを下ろしてくれた。まだふらふらするが、支えてもらいながらゆっくりと歩く。


「ひとつお願いがあるんだけど、いいかな?」


 耳元で囁くようにそう言われた。彼女の方を向く。日野さんはわたしの目を覗き込むようにしてから言葉を続けた。


「さっきのことは誰にも言わないで欲しいの」


 顔が近い。キスをする時のような距離感。日野さんは整った顔立ちだから、余計ドキドキしてしまう。


「気付いてた?」


「うん」


「えーっと、なにがあったのか、ちゃんと説明してくれる?」


 ペラペラ話していいことじゃないのはわたしにも分かる。でも、このままだと、もやもやした気持ちが残ってしまいそうだ。日野さんが優しそうなので、つい、そう聞いてしまった。


「うん。今度でいいよね」


「うん。じゃあ、秘密ね」


 わたしがニッコリ笑うと、日野さんも微笑んでくれた。校門に着く。彼が心配そうに駆け寄ってきた。塾なのに、ずいぶん待たせてしまった。早く帰らないとと思ったのに、彼に身体を支えられると、しがみついてちょっと泣いた。


 宿題のプリントを忘れたことに気付いたのは家に帰ってからだった。




 それが月曜日の話。今日の放課後、わたしは日野さんから話を聞いた。麓さんに教科書を取られて、取り返したという話。空手をやっていること。わたしは麓さんからの仕返しを心配したけど、日野さんは「大丈夫」と微笑んだ。その笑顔はとても素敵だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る