第14話 平成31年4月14日(日)「日野可恋」

 朝の空気を切り裂くように、気合いの籠もった声があちこちから聞こえてくる。組み手の稽古。コンタクトは禁止だが、それでも気を抜けば危険が伴う。私は注意深く全体を観察する。


 この時間は一定以上のレベルの者にしか稽古を許していない。それだけに迫力は凄まじく、見守る私も気合いを入れていないと後ずさってしまうほどだ。10代から50代まで。男性の方がやや多いが、女性も少なくない。今は男女入り交じって稽古をしている。


 この中で一際目立つのが日野可恋だ。強さや技術はまだ未熟なことろも多い。しかし、集中力の高さは他の追随を許さない。この道場に来て3ヶ月だが、誰もが彼女の稽古を褒め称える。彼女の影響を受けて、他の人たちの稽古の質も高まっていると感じるほどだ。


 彼女の特徴は、とにかくよく考えていることだ。観察し、考え、実行する。それは当然誰もが行うことではあるのだが、経験の蓄積に従って考えることを省略することが増える。実戦ではそれは悪いことではない。考えていては遅いということは多々ある。だが、稽古では向上するために考えることは大切だ。


 彼女は組み手が苦手だと言っている。自分のことをよく分かっているからだろう。彼女のその特徴は形でより生きる。女子としては長身で、身体のバランスが良い。やや力強さに欠けるが、彼女の形は美しい。身体の端々まで神経が行き届き、洗練さと繊細さ、動きの切れの良さが伝わってくる。体操やフィギュアスケートの演技を見ているかのようだった。


 うちの道場は関東ではそれなりに名が通っている。東京五輪の有力候補のひとりがここ出身だし、過去にも有力な選手を輩出した。私自身、現役の頃は全日本で優勝したこともある。私が師範代として指導の中心になってからは、特に女性の入門者が増えた。日野も私の指導を求めて、引っ越し先をこの街に決めたという。


 私が日野可恋と初めて会ったのは昨年の秋のことだった。冬に関西から関東へ引っ越すというので、うちの道場を見学に来た。空手を続けるのは体力向上が目的で、大会への出場は数えるほどだと聞いた。そのため、最初は特に気に留める存在ではなかった。


 だが、稽古を見て考えが一変した。全中・全国中学生空手道選手権大会でも十分勝てる逸材だ。しかし、本人は競技会の出場に関心を示さなかった。その理由のひとつが彼女の体質だ。免疫力がかなり低いということで、特に冬場はすぐに体調を崩す。朝の稽古も週に2、3日来るのがやっと。来た時は目覚ましい集中力を発揮してくれるが、確かにこれは大変だ。


 彼女は自由に身体を動かせないことが多いから、元気な時に身体を動かすだけで喜びを感じると言った。そして、自分の望む通りに身体を動かすことが空手をやっている理由だとも。自分のイメージした通りに身体を動かすことは非常に難しいことだ。その困難さを彼女は誰よりも知っている。


 練習する時間も限られる。道場に来るのは朝の稽古だけ。元気な時は家でトレーニングをしていると言うが、練習のし過ぎは体調に悪影響を及ぼすそうだ。限られた練習量でこれだけの実力を身に付けたことは驚嘆に値する。だが、それ以上を目指すには足りない。それを彼女は自覚している。この体質があるから身に付いた集中力です、と彼女はさらりと言った。




 今日は東京の高校空手部の女子が稽古に来ている。午前中は私が直接見ることになっている。その手伝いを日野に頼んだ。部員は4人。創部2年目とあって、まだまだ足りないところが目立つ。


 日野相手の組み手を見た上で、各自の指導に入る。そこで、4人のうち最も小柄で筋の良い一人を日野に任せてみた。高校生にしてはかなり背が低く、高校生に見えない。逆に、日野は普通に高校生に見える。


 他の3人は明らかに基礎ができていない。そのため、悪い癖がついている。基礎の大切さを説くのに労力を割きつつ、日野の指導の様子を窺う。彼女は普段口数が多くない。でも、かなり丁寧に教えているようだ。身振り手振りを交え、実際にやってみせたりしている。


 最後に成果を確認する。私が指導した3人は時間が掛かりそうだ。基礎の重要性を自覚して継続できるかどうかだろう。一方、小柄な少女は目に見えて良くなっている。学ぶ姿勢があったからだが、教え方も良かったのだろう。この小柄な子は筋が良い。それは基本がしっかりとできているということだ。向上心があればどんどん伸びる素材だ。そこに適切な指導があれば、このように一気に良くなることがある。


 適切な指導というのは難しい。私も未だに悩んでいる。経験があれば、教える相手の特徴や欠点は気付く。どうすれば良くなるのかも、指導者であれば分かるだろう。だが、そこからが険しい道のりだ。昔なら、指導者がこうやれと言ったことを盲目的にやっていた。その中で成功した人の体験談だけが語られた。今では、しっかりと本人に伝え、本人が納得して練習することが当たり前になった。それが最も効果的だと分かっている。


 今日の稽古で、日野が良い指導者になりそうだと感じた。競技者としては体質の問題で限界があるだろうが、指導者なら・・・・・・そんなことを思ってしまう。でも、まだ14歳。今は自分のこと優先で良いだろう。


 日野に午後の稽古も参加しないかと誘ってみたが、今日は珍しく母が家にいますのでと言って、そそくさと帰ってしまった。彼女は母と二人暮らし。しかし、母親は忙しい人で滅多に顔を合わさないという。寝込んだ時は、寂しいだろうと私もよく顔を出すようになった。そんな時、彼女は喜んでくれる。いっそ、うちに下宿させようかとも考えたが、嬉しそうに母親のことを話す彼女を見ていると切り出せないでいる。


 せめて友だちでもたくさんいれば。大会出場を熱心に誘っているのも、そのきっかけ作りになればと思ってのことだ。ゴールデンウィークの大会には参加を承諾してもらった。押しつけがましいのは分かっているが、おばさんだからお節介になるのは許して欲しい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る