第10話

第四章 鬼の心


「おいまだ生きてやがるぞ!」

「今のうちだ、やっちまえ!」

 倒れ伏すモモの前で討伐隊が葵の周囲に群がる。

 その群衆の隙間から、血を流しながら横たわる葵の姿が見える。

 モモはどうにかそこへ辿り着こうと這っていくが、腹に穴が開いているせいで思うように進めない。

 やがて一人が高く掲げた槍を振り下ろし――

「――――!」

 モモが見ている、その目の前で、葵の心臓に槍が突き立てられた。

 けれど、悲劇はまだ終わらない。

「まだだ! まだ生きてるかもしれん!」

 討伐隊員は次々に葵の身体へと武器と突き刺していく。

「この野郎、よくも!」

 なにもされずとも、すでに虫の息だったのだ。

 さきほどの一撃で間違いなく命を絶たれた。

 それなのに。

 もう死んでいるというのに、それでも執拗に討伐隊はモモの大切な人の亡骸を蹂躙する。槍で突き刺し、刀で突き刺し、穢賊だの鬼畜外道だのざまあみろだのと罵詈雑言を浴びせかけ。

 槍で刺し、刀で刺し、何度も何度も何度も何度も何度も。

「アオ、イ……」

 かすれてしまって声さえも出ない。

 討伐隊はまだ葵の肉体に憎しみをぶつける。

 それはもう、葵に対するものだけでなく、なにか他の負の感情もついでに上乗せされているようにさえ見えた。

 何度も何度も何度も何度も。

 突き刺される度、ぐちゃぐちゃ肉がえぐられる音が生々しく響く。

 血だまりがどこまでも広がり、人々の靴底は血の池を踏み、顔も手も真っ赤に染まり、やがてモモのいるところまで葵の血が流れてきた。

 それを見て。

 ――ドクン、と、どす黒い何かが律動する。

 今まで味わったことのない、葵さえも教えてくれなかった感情。

「……、す」

 それが何なのか自分でもわからない。

 けれど、どうやら抑えられそうもない。

 そのどす黒い何かが冷たいほどに思考をクリアにし、しかし体中は血が滾ったように熱かった。

 このときモモの頭の片隅には、葵とともに過ごした日々が走馬燈のように駆け巡っているのだった。

 その中で、ある、何気ない会話が思い出された。

 その日葵は「なぜ鬼を殺さなければならないか」とモモが問うたのに対し、その答えとして、たしかこんなことを言っていた。

『それは鬼が悪いことをするから』

 懐かしい日々がよぎる。もう見ることのできない優しい笑顔の幻が見える。

 その大好きな人が殺されて、その上まだ亡骸をぐちゃぐちゃに蹂躙されている。

「…に……ろ、す」

 もう二度と帰らない日常の思い出。

 血のように紅い瞳から、真っ赤な涙が流れ落ちる。

 会話の続きが、悪魔の囁きのように、耳元で聞こえる。

 ――悪いこととはなにか。

『誰かの大切な人を傷つけたり大切なものをわざと奪ったりする』

 自分が今まで鬼を殺してきたのは、そういう輩を退治するためだった。

 そういう悪を為すものを殺すために産み落とされ、そしてそのためだけに生きてきた。

「……を、ころ、す」

 だから、殺す。

 一匹残らずこの手で殺す。

 なんの油断も容赦もなく、完膚なきまでに殺し尽くす。

 慈悲も情けも、ためらいとてなにも要らない。

「鬼を、殺す……」

 なぜならわたしは――〈鬼斬〉だから。


 超常的な自然治癒力をもってしても、腹に開けられた穴はそう簡単には塞がらない。

 それでも立ち上がる。自分には為すべきことがある。

 目の前にこんなにもたくさん殺すべき鬼がいるのだ。

 のんびりと寝ていられる状況ではない。

 体中に熱く漲り、滾る憎悪が動くはずのない手足を動かす。

 悪鬼のような執念が、ボロボロの四肢と魂を復讐へと駆り立てる。

「おい、こいつもまだ生きてやがるぞ」

「ちゃんと殺しとけよ!」

 討伐隊員は、まだ殺したりないと見える。

 けれど、それはモモとて同じことだった。

「そいつは放って置いてもいいんじゃねえか?子どもだし、どのみち死にかけだろ」

「は? 馬鹿言ってんじゃねえよ」

「ビビんなよ。もう血だらけだぜ、ちゃんと仕留めてやらあ!」

 その男に息子や娘がいるのかは知らないが、ともかくなんのためらいもなく、それどころか喜々として片膝立ちのモモに対し、立ち上がる暇さえ与えず刀を振り下ろす。

 それを。

「――な!嘘だろこいつ!」

 モモは、素手で受け止めた。

「ありえねえだろ!」

 驚きと恐怖に男は凍りつく。

 目の前の男は、鬼だけでなく、鬼斬という生き物についても何も知らないらしい。

 モモはそんな男の恐怖には構わずに、手のひらから血が滴るのも構わずに強く刀を握りしめ、紅い眼光で殺すべき鬼を睨む。

「ひ、ひいぃぃ!」

 たったそれだけで、鬼は情けなく刀を捨て、後ずさって尻餅をつく。

「…………」

 涙を流しながら歯の根をがたがた言わせる鬼を見下ろして、奪った刀で首を刎ねる。

「うわあああぁぁぁ!」

 その光景に動揺が走る。

 無理もない。

 なんだかんだで、今まで討伐隊の側には一人の死者も出ていなかった。

 葵の手加減のおかげでほとんどは打撲や骨折程度ですんでいる。首をへし折られたり、腕をねじ切られたり、あるいはこういう風にして頭を刎ねとばされたりなどという悲惨な目に遭った討伐隊員はこれまでのところ一人もいなかった。

 つまり、彼らはまだ「鬼と殺し合う」ことの本当の恐怖に触れてすらいなかったのだ。

「…………」

 モモは獲物を狩る獣の目つきでじろりを辺りを見渡す。

 その壊れたように無表情な瞳はいっそ美しさを感じてしまうほど、不気味だった。

 視線を向けられただけで討伐隊は情けなく怯えた声を上げる。

 いち、に、さん、し、それから先の数え方はまだよく覚えていないけれど、とにかくたくさいる。その数の多さを目の当たりにしてモモは少しだけ残念に思った。これが動物であればたらふくご飯が食べられたものを。

 ……あいつらの肉は、まずいからよくない。

「おい! 相手は手合いのガキひとりだぞ! なに怯んでんだ!」

 互いを叱咤しあうけれどまるで息が合っていない。てんでばらばらな連携。

 なんの訓練も覚悟もない者が武器をもったとて、戦力として数えるに足りるかは甚だ疑問なところであった。

 けれども当人たちは、怯えながらでも生き延びることに必死らしく、右と左から恐怖に歪んだ顔で精一杯いきがりながら敵が斬りかかってくる。

「……」

 避けるまでもなく、モモは奪った刀と自前の脇差でそれらを難なく払いのける。

 そしてそのまま近くにいる鬼へ斬りかかり首を刎ねる。

 ついでにその傍にいた鬼の腹にも一刺し見舞う。

「うおおおおおおお!」

 今度は背後から、懲りもせず芸のない単調な太刀筋でまた別の鬼が襲い来る。

 それをかわし、すれ違い様に袈裟斬りに斬り伏せる。ここまでで四つ。

 すると、この惨状を見た鬼が尻尾を巻いて逃げだそうとするので、その背中めがけて奪った刀を投擲する。

「がああぁ!」

 情けない声を上げて転倒する。うなじに命中したけれども即死ではない。

 槍であったなら喉笛を貫いていただろうからそれが残念ではあるけれど、どの道あれでは助かるまい。

 モモはまた自分を取り囲む大勢に向き直る。

 その胸中に湧き上がるのは、不安でも恐怖でもなかった。

 あまりに少し拍子抜けした退屈さに、苛立ちを覚え始めていたのだ。

 ――弱い。

 あまりに相手が弱すぎるのだ。

 今まで戦ってきたどの鬼よりも、熊や猪や狼よりも弱い。

 徒党を組んでいるのと武器をもっているのでそれなりの煩雑さはあるけれども、それにしたってあまりに殺し甲斐に乏しい相手である。

 ――だからこそ。

 こんなやつらに、とモモは憎しみを募らせる。

 こんなやつらに葵は自分から殺されたのだ。

 葵の力をもってすれば、こんな連中を皆殺しにするのは造作もないはずだった。

 直接剣を交えたからこそよく分かる。

 絵本一ページ読むほどの時間もかからずに始末できるのは間違いない。

 それなのにアオイはやつらに殺され、その遺体さえもあんな酷たらしくて残忍な目に遭わされた。

 憎しみが燃え上がるほど、心はより冷たく、残忍になっていく。

 いかに合理的に効率よく惨殺できるかを本能が計算する。

「……」

 息を吸う。地を蹴って、鬼の大群の中に飛び込む。

 通常そんな危険な行為などするわけがないのだが、彼らに反応することが出来ないことは承知の上だった。

 人間ではありえない跳躍にまず驚く。

 敵がすぐ近くにいることに恐怖し、焦る。

 その動揺から抜けだし「相手を攻撃しなければ」という至極当然の判断に辿り着いたときにはその者はすでに事切れている。

 モモはばったばったと面白いように殺し尽くしていく。

 斬り殺し、刺し殺し、あるときは傍らの者を片手で掴んで盾にして、またあるときは投げ飛ばし、武器を投擲し、殺せるだけ殺す。

 手元に武器がなくなれば素手で殴り飛ばした。

 木の幹や地面などが相手の向こうにあれば、特にいい。

 鬼にも劣らないモモの剛拳があれば、武器などなくとも文字通り相手の顔面を粉砕することなど赤子の手をひねるより容易い。

 頭蓋が砕け脳汁が溢れても殺戮の日常に身を置く狩人は表情1つ変えない。

「…………」

 いつの間にか、立っているものは一人もいなくなっていた。

 目につく全員を殺し尽くしたとき、気づけば森は炎に包まれていた。

 討伐隊が持ってきていた松明が地面に落ちたときに燃え移ったのだろう。

 大地を赤く染める血だまりと酷たらしい惨状を、燃えさかる炎が煌々と照らす。

 それは止めるものがなにもなければ、この森だけでなく山全体をも丸ごと焼き尽くしてしまいそうな勢いだった。

「…………そうだ」

 モモは返り血に塗れた身体を引きずって、もはやただの肉片と貸してしまった大切な友だちの傍らに膝をつく。

 胴体に至っては、どのあたりが胸でどのあたりが胴なのかも見分けられないほどの有様だったが、幸いといっていいのか、首から上は比較的無事といってよかった。

「さよなら、アオイ」

 その異様な目つきで見開かれた両目にそっと手のひらを重ね、瞼をおろしてあげる。

 死んだあとまでこんな醜い世界のことを目にせずともよいのだ。

 そのとき、ふと葵のボロボロになった着物からなにかがはみ出しているのが見えた。

「…………」

 それは、かつて着物のお礼に自分が渡した鬼の角だった。

 『大事にするわね』――そう言ってくれた、あの角。

 本当に、お守りのように肌身離さず身につけてくれていたのだ。

 けれど、そんなお守りにはなんの意味も効果もなかった。

「………………」

 モモは目をつぶり、一度だけ自分の拳を強く握りしめる。

 すっと立ち上がると、落ちていた大剣を拾ってきて、構える。

「――」

 なれた動作で葵の角を砕き折ると、それを拾って懐にしまう。

「……さようなら」

 凍てついた心は、もう涙を流さなかった。

 生き死にというものについて生来シビアな価値観をもっているせいかもしれない。

 悲しみよりも大きな殺意に心が塗りつぶされてしまっているせいかもしれない。

 ともかく、それ以上モモはそこに立ち止まらなかった。

 別れをすませ、去ろうとすると、

「――――」

 背後の気配に気づいたときには、反射的に脇差を振り抜いていた。

「――が」

 どこかに隠れていたのであろう残党が、振り返り様の一太刀で虚しく倒れ落ちる。

「まだ、いたんだ」

 ぽつりと呟く。

 あれだけたくさんいたのだから、もしかしたら討ち漏らしがあるかもしれない。

 そうだとするならば。

「よいしょ、と」

 討伐隊らが落とした槍や刀を拾い集めて、それを背負うような形に帯びで固定する。

 弓を拾い矢も集められるだけ拾う。

 残党たちが逃げるとしたらあそこだろう。

 ――モモの視線の先には、かつて葵と訪れた村の景色が広がっていた。

 

「きゃっ何!?」

 どんどん、と急に激しくドアが叩かれる。

 村の男たちは討伐隊として鬼を狩りに向かったはず。

 女は強張らせた身を縮こまらせて震える。

「俺だ、早く開けてくれ!」

 それは女の恋人の声だった。慌ててドアを開けると真っ青な顔の男がいる。

「来い、早く逃げよう!」

「え、待って。鬼を倒しに行ったはずじゃ――」

「全滅した。残ったのは俺だけだ」

「そんな……」

 女はにわかには信じがたい言葉に絶句する。あるいは、信じたくないのだろう。

「だから早く逃げるぞ!」

「私、お金と食べ物とってくる」

「そんなのはいいから――」

 そんなやりとりをしていると、また別の所から悲鳴があがる。

 振り返ると、村の家屋のひとつがごうごうと燃えさかっている。

「ち、もう来やがったか!」

 無理矢理女の手を取って走り出す。

 そうして火の手が上がったのと反対方向に逃げながらある疑問に気づいた。

 炎上している家は、この村で最も山から遠い場所にある。

 先回りして、逃げる者を迎え撃つための策なのだろうが、だとするとあそこまで派手に燃やすのはおかしい。相手に気取られないからこそ奇襲は成り立つ。

 あんなものはあそこで待ち構えていると宣言しているようなもの――。

 そして、男は目にしたのだ。

 真っ暗な空中を流星のように横切る火矢を。

 そしてそれは、山の方から飛んできた。

 これが意味することはつまり――。

「引き返せ!家の陰に隠れろ――」

 それが男の最期の言葉となった。

 三本目の火矢が男に命中し男は恋人の見ている目の前で生きたままその身を焼かれる。

 逃れることのできない業火に包まれておぞましい悲鳴が上がる。

 この世のものとは思えない、身の毛もよだつ苦悶に満ちた断末魔。

 それを見る女は逃げることも隠れることもできず、その場に凍りついて立ち尽くす。

 なすすべもなくすすり泣くその女へ、四本目の火矢が命中する。

 あっとういう間に村一帯が火の海と化していた。

 退路を塞ぐように、周縁部が念入りに燃やされている。

 自然、火の手から逃れる人々は村の中央へと集まることを余儀なくされる。

 そしてそれはこの地獄を作り出した下手人の思うつぼだった。

「ぐがっ!」

 ある女が突然倒れる。その腹には槍が刺さっている。

 周囲の人間の注意がそこに集まっていると、今度は刀が飛んでききた。

 それにより子どもが絶命する。

 残された村の女子どもは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑うが、どこも炎の壁が立ちふさがっており行き場がない。

 子どものほとんどは泣き叫び、あるいは喚き、逃げることすらままならない。

 女たちも怯え、惑い、自分たちの夫や恋人や父親たちが死んでしまった事実を突きつけられ、そして自分たちもこれから同じ末路を辿ることになるという予感が強まるにつれてほとんど正気も生気も失ってしまう者が多数を占めた。

 ――その、恐怖と絶望が渦を巻く獄炎の地へ。

 ゆっくりと近づいてくる一人の少女の姿があった。

 それはあるときは鬼を屠り村を救い、また別のは鬼となって村を滅ぼす者の姿だった。

 身の丈を優に超す巨大な大剣を背負い、その刃は鮫の牙のような凶悪な鋸刃である。

 それだけではない。

 武蔵坊弁慶のように何十本という槍や刀の類も背にくくりつけている。

 ただでさえ紅い服が血に濡れてよりいっそう赤黒く染められている。

 腰には脇差をさしている。

 人間の生き血を結晶にしたような美しくも禍々しい赤色の瞳を持ち、そこからはなんの人間らしい感情も読み取ることができない。

 鬼の血を継ぎ、鬼を殺すために産まれ、鬼を殺すことによって生きてきた殺戮の化身。

 その姿が、揺らめく炎が生み出す蜃気楼の中で歪んだり揺れたりする不確かな像として、しかしまぎれもない死神の足音を伴って近づいてくる。

 目的は明白。

 自分たちを、皆殺しにするつもりなのだ。

「…………」

 無言のまま少女の手が背中の無数の武器に伸びる。

 手が動いたと見えたときには、また1人村の者が息絶えていた。

 それがもう一度。もう二度、もう三度繰り返される。

 武器が風を切る度に人が死ぬ。

 ひとつも外すことなくすべて正確な軌道で急所を狙ってくる。

 村の者は腰を抜かして座り込み、あるいは失禁したまま動けないものを除いて誰もが悲鳴をあげて逃げようと走り回る。

 しかし火の手が大きくなるほどに逃げられる場所は限られてくる。

 唯一の退路は、あの鬼の後ろ、山へと続く一本道のみ。

 その山とて燃えさかっているけれども、麓から迂回すれば逃げる道はありそうだった。

 この返り血に塗れた殺戮の化身を殺すことができたなら、の話だけれど。

 無論、女子どものなかにも気のしっかりした者はいる。

 そういう者は逃げるときからこうなることにも備えているもので、持ち出してきた包丁やら鎌やらを携えている。

 それらを向けて脅したり、あるいは落ちている石を拾って投げつけたりして威嚇をする者とていないではなかったが、効果から言えばまったく無意味と言って良かった。

 まず、錯乱した精神状態で投擲しているためほとんどが的に当たらない。

 直撃したとしても、石ころ程度鬼はまったく気に掛けない。

 大きめのものだとしても避けられるか、弾かれる。

 そもそも、その気になればあの巨大な大剣でひとつ残らず防ぐ手段とて残されている。

 打つ手なく失意のどん底に叩き落とされる村人たちをよそに、淡々と涼しい表情で鬼は近づいてくる。

 半狂乱の女が包丁を手に襲いかかると、包丁の間合いに届く前に中距離から槍でひと突きされる。

 なんとか鬼の脇を通り抜けて逃げ延びようとする者たちも武器の投擲によって仕留められる。

 すべての殺戮がとるにたりない作業のようにごく淡々と行われていく。

「…………」

 やがて鬼は背に子どもを隠した女の前で立ち止まる。

 母親は必死に子どもをかばいながら、怯えた目から涙を流しながら、鬼を見上げる。

 そんなことには構わずに鬼が刀を振り上げると――

「お願いします!」

 女が勢いよく額を地面にこすりつけた。

「どうか! どうかこの子の命だけでもお助けください !どうか!」

 それは、自らの犠牲に代えても我が子を救おうとする命がけの母親の姿だった。

 もしこの鬼にほんの欠片でも人の心が残っているのなら、この嘆願に心が動かないはずはない――。

「…………」

 しかし。

 鬼は顔色ひとつ変えずに、額を地につける女の首を脇差で切り落とした。

「……なんで?」

 ――鬼は。

 単純に、純粋に。

 言っている意味がわからない、というあどけない表情をしているのだった。

 面白がって蟻を殺す子どもが親に注意されても「命」という形而上的な価値をまだ飲み込めないのと同じように。

 どうして鬼を殺してはいけないのか、とこの鬼は疑問に思っているのだった。

 それから、母を惨殺され泣きわめく赤子の頭さえ脇差で真っ二つにかち割る。

 すると。

「お前、なんでこんなヒドイこと平気でできるんだよ!!」

 少女の所業を非難する声が上がった。

 聞いたことのある声だな、と思いながら振り返る。

 するとそこには見覚えのある少年――ショーイチの姿があった。

 葵の家によく出入りする子どもの1人で、かつて「ともだち」だった少年である。

 その傍らには、他にも何人かかつて一緒に遊んだりお喋りに花を咲かせたりした子どもたちの姿があった。

「モモちゃん、なんでそんな風になっちゃったの……?」

 たしか……あの女の子の名前はサキだった。

 モモはこのときでもそのことを覚えていた。

 けれど。

 ――一体それになんの意味があるというのか。

「…………」

 目の前に鬼がいるのならば、皆殺しにするだけのことである。

「おかしいよ、こんなの絶対、おかしいよ」

 サキは、わけがわからない、という顔をしている。

 それが当然の反応なのだ。

 こんな地獄絵図を淡々と作り出して眉一つ動かさない方がどう見ても異常である。

 そんな異常者に向けてショーイチが叫ぶ。

「俺は村の大人たちがなんて言ったって、お前のこと信じてたのに。ずっと友だちだって思ってたのによぉ!」

 怒りと悔しさと、それから裏切られた悲しみもあるのだろう。

 ショーイチの目には涙が光っていた。

 それを拭いもしないまま、何かが壊れたように乾いた声で笑い出す。

「へへへ、お前……やっぱただの鬼だったんだな。お前みたいなの村に入れちゃいけなかったんだよな。ちょっとでも期待してた俺たちが馬鹿だったんだよな」

 モモが村人を鬼としか見ることができなくなったのと同じように。

 少年の瞳にもまた、かつての「ともだち」が鬼としか映らなくなっていた。

「――だったらそうだよな。俺がやることも決まってるよな」

 ふらふらと村人の死体に近寄る。

 その心臓に突き刺さった刀を引き抜いて。

 ギロリ、と鬼の方を睨んで。

「死ねえええええぇぇぇ!!!」

 半狂乱に逆上し、血気迫る勢いで、鬼のもとへ突っ込んでいく。

「…………」

 それを無感動に見つめる鬼。

 間もなく少年が間合いに入る。

 すると、脇差の側面で相手の刀をなでるように添え、ひねり絡ませながら弧を描くように凄まじい速さと力で一息に巻き上げる。

 少年の刀はあっけなく宙を舞う。

 獲物を失った少年はなすすべなく呆然と目を見開く。

「しぬのは、あなた」

 その無防備な首をなんのためらいもなく横一閃に刎ねる。

 やがて血飛沫が吹き出し、少年の生首と刀とが音を立てて地面に落ちた。


 おぎゃあおぎゃあと泣き声をあげる赤子を脇差で黙らせる。

「…………」

 これでようやくすべての泣き声がやんだ。

 鬼は女子ども、一切の容赦なく皆殺しにした。

 一緒にサッカーをや野球をやっていたケンタも、ショーイチも。

 お人形遊びを教えてくれたサキちゃんも、ミナミちゃんも、それ以外のみんなも。

 もう、うめき声もなにも聞こえない。

 ただただ炎が燃えさかり、ときどき家屋の木材が爆ぜる音が聞こえてくるだけだ。

 いつの間にか、村には雨が降っていた。

「ほかに、鬼は……」

 夜の暗闇と炎の明るさのせいで天気の変化に気づかなかったのだろう。

 モモは濡れるのも構わずに殺すべき敵を求めて彷徨う。

 あらかた家は焼き尽くした。

 一軒一軒回ってしらみつぶしに殺しもした。

 目につく限りの獲物はすべて仕留めた。

 おそらく、討ち漏らしはないだろう。

「もう、いないのかな」

 何気なく脇差を見る。

 その目に映った人斬り包丁は、鬼と人間の血と油とに汚れきっていた。

 これではもう使い物にならない。

 相手が弱い人間であったからまだ武器として通用したものの、本当の鬼相手ではなんの用もなさないだろう。

「まただめになっちゃった」

 せっかく研いでもらったというのに。

 なんといったっけ、あの少年。

「…………」 

 まあ、いいかそんなこと。

 脇差の刃を見つめているうち、雨が脇差の血を洗い流していく。

 次第に元の銀色の肌があらわになる。

 そして、鏡を覗いたときのようにそこに映し出されたのは――

「…………」

 返り血に塗れた悪鬼の様相を呈する自分自身の姿だった。

 お風呂で洗った手も顔も髪も、せっかくアオイが仕立ててくれた着物でさえも。

 なにもかもが血まみれで、かつて屋敷の鏡に映っていた少女の姿ではなかった。

 少女はもう、自分が汚れきってしまった存在だということにこのとき気づいた。

 モモは改めて地獄をそのまま地上に現したような惨状を見渡す。

 男も女も、年寄りも子どもも、皆酷たらしく殺し尽くされている。

 慈悲も情けもなにもなく、一方的に。

 そこら中から人間の肉が焼ける焦げた匂いと、腸から溢れる汚物の匂いと、それからむせるほど濃い鉄のような血の匂いで埋め尽くされている。

 それは、ほかならぬ自分の所業によるものだった。

 これを成し遂げた者が鬼でなくて、何であろうか。

 アオイを残虐極まるやり方で蹂躙した討伐隊。

 あるいは今まで手にかけてきた、妄念と殺意にその身を支配されて人間を襲う鬼ども。

 それら怪物たちと自分との間に、一体なんの違いがあるだろう。

「――いた。ここに、もうひとり」

 鬼だ、とモモは思った。

 この世に溢れる全ての命は。

 皆、命を奪わずにはいられない。

 誰かを殺さずには生きることさえできない。

 殺す方も、殺される方も、誰もがすべて鬼なのだ。

 普段は人間の顔をしていても、自分を人間だと思っていても戦争だとか大衆の熱狂だとか、なにかのきっかけを得たときに隠してきた鬼としての本性が顔を出す。

 化けの皮が剥がれて人を人とも思わなくなる。

 自分が正しいと思い込み、自分には人を虐げる権利があると盲信し、相手は蹂躙されるべき存在だと履き違える。

 ならば、殺さねばなるまい。

 それこそが自分の背負った宿命なのだから。

 たとえその対象が他ならぬ自分自身であったとしても。

「…………」

 モモは背負っていた大剣を取り出す。

 もうすでに山で討伐隊に刺された腹の傷が完治してしまっているほどの頑丈さをもつこの身であれば、刃こぼれした脇差程度では命を断つことはかなわないだろう。

 だからこそ、一撃必殺、鬼を殺すためだけに造られたこの大剣の出番である。

 モモは、一度だけ雨粒を際限なく落としてくる真っ黒な空を見上げた。

 アオイは死んだ。

 死んだ人間がどうなるのかは分からないが、自分もこれから同じ末路を辿るのだ。

 そんなこと、別にどうということはないけれど。

 鬼を殺すことしか教えられなかった少女は、自分の命の大切さもまた、誰からも教えられたことがなかった。死んだあとどこに行くのか興味もなかった。

 その虚しく広がる果てのない空へ大剣を高く高く放り投げる。

 大剣は回転しながら真っ直ぐに落下してくる。

 その進路の終着、最終落下地点に立つモモは詫びるようにうなだれる。

 それは、断首台に首を差し出す罪人の姿そのものだった。

 そして。

 風を切り、雨を砕きながら、無情な殺意で大剣が落下してきて――。


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