第8話
第四章 泣いた赤鬼
この日も葵邸にはたくさんの子どもが遊びに来ていた。
この頃になると、ときおり大人たちが足を運ぶ姿も見えるようになっていた。
その目的は料理や裁縫の勉強であったり、葵がどこから物資を仕入れているのかや各村の情勢、物々交換相場など村の外の情報を仕入れるためだったりした。
あるいは、何かあっても自分たちがついているから子どもたちは大丈夫という意識も働いていたのかも知れない。
ともかく今日も今日とてお喋りの種が尽きなかった。
そんななかで。
「ねえ、いつになったら帽子はずしたとこ見せてくれるの」
「あ、ちょっと!」
もはや恒例行事。子供らが挨拶のようにしつこく葵の帽子を狙ってくる。
肌身離さず帽子をつけていることは「帽子を被るのが好きだから」で通していて、そのこと自体にはなんの問題もなかった。
けれど、毎日毎日帽子を被っていることが「帽子をとった姿」に対する好奇心を育ててしまう結果を招いた。そのとき何かの細工をして、ほら、なにもないでしょと見せればよかったのだろうけれど頑なに拒み続けたことが余計に事態を悪化させた。
「こら、やめなさいってば!」
必死になってつい手荒く振り払う。すると向こうもムキになって
「いいじゃんかよ、ちょっとくらい!」
強引に飛びかかってくる。そして帽子が取られてしまい――
「へへっやったぜ――あれ?」
誇らしげに拝む子ども。
……しかし。そこにはその男の子の目を引くような何物もなかった。
帽子の下にあるのはごく普通の女の人の頭だった。
丸くて、髪の毛があって、それだけ。
どこか禿げているとか、角が生えているとかいう面白いことはなんにもない。
「なんだよ、つまんねえの」
「で、でしょ?ほら、わかったらはやく帽子返しなさい」
実は先日、いつかこういう日がくるかもしれないと思い、仲間の鬼に頼んで除角手術を受けてきたのだった。
やりかたは簡単。牛の除角作業と同じで角を切り取ってそこに焼きゴテを当てるだけ。
とはいえ、牛の除角作業と同じで死ぬほどの苦痛を伴うのだけれど。
そうとは知らず、ちょっと期待外れな結果に口を尖らせた男の子が、
「べつに必死に帽子かぶることないだろ。なにをそんなに――」
ぶつくさ言いながらぺたぺた頭を触っていると、
「ん?」
ちょっと奇妙なものに気づいた。
指の先になにかが触れるのだ。
それも額の真ん中あたり、ちょうど、鬼の角でもありそうな場所にひとつだけ。
気になって髪の下をさわさわしてみると、こつん、とやはり指の先に硬い手応えがあった。
「これ、って……」
「あ――」
気づかれたことに気づいたときには、もう遅かった。
「鬼だあああぁぁぁ!」
いくら目に見えないように落としても、髪の毛の中には、角を削り取ってそれを焼いて塞いだ痕跡が残る。それが見つけられてしまったのだ。
葵の全身を血が逆流していくようだった。背筋が凍りつき、急に目の前が白黒したり、近くなったり遠くなったりして見える。
ああ、もうだめだおしまいだ――
鬼だとバレたらどうなるのだろう――これまで出会ってきた仲間たちの噂が急に頭の中でどうしようもなく膨張しだす。そうならないように気をつけていたつもりだった。あんなに痛い思いまでして、除角手術だってして、紙芝居も料理も、たくさん頑張って――
――けれど、それでもだめだった。
もうここにいられなくなる……葵はすっかり顔色をなくした。
――が。
「すげえ、ホントに鬼だったんだ!」
帰ってきたのは予想とは異なる反応だった。
「……え?」
「へー本当に鬼っていたんだな。モモも半分は鬼ってきいたけど、これって百パーセント全部鬼ってことだよな! 火とか噴けるの!?」
爛々と目を輝かせながら、恐竜を生で見たような嬉しそうな顔をする。
「いえ、そういうのは、できないけど」
「えー?じゃあなにができるの」
「えっと、お菓子づくりとか、お裁縫とか……」
「そういうんじゃなくって!」
葵の正体を暴いた少年は鬼というものに興味津々な様子である。
鬼に襲われる本当の恐怖を知らない無知ゆえの侮ったものの見方であることは否めないけれど、モモという片子がいかにも無害な振る舞いをしてくれていることが鬼に対する不信感を和らげてくれたのもあるだろう。
それだけでなく葵自身が今まで懸命に行ってきた、自分たちがいかに無害であるかを辛抱強く伝え続けてきたその努力も、こうして実を結んだといってよかった。
「え、鬼って本当に……?」
「でも、アオイさんは悪い鬼じゃないでしょ?」
とはいえ、鬼と聞いて動揺を隠せない子供らもいる。
むしろそちらが健全な反応なのだ。
事実世の中の鬼は人を襲う方ほうが圧倒的過半数を占めるのだし、村人たちは教育という洗脳によって生まれたときから鬼を憎むようにたたきこまれているのだから。
なにより、葵が自分の素性を偽り彼らを騙していた事実だけは覆しようがない。
部屋の中の子どもたちの反応は十人十色だった。
未知の存在に沸き立つ一部の者と、急に恐怖心を覚え泣き出す者、事態をどう受け止めて良いかわからずに動揺する者……様々な反応が起こり、異様な様相を呈している。
ただそれでも大人たちの反応は皆「敵対」の一色に染まっていた。
これまで築き上げてきた信頼が、取り返しのつかない崩れ方をしていく音が聞こえてきそうな絶望だった。
「……とうとう。ばれちゃったわね」
これ以上言い逃れしたところで、良いことがひとつもないことだけは明らかだった。
俯く葵の表情に影が落ちる。
「みんな、今日はもう帰りなさい。そしてもう、ここには二度とこないことね」
あの明るい「葵お姉さん」の顔からはすっかり笑顔が消えてしまっていた。
誰も見たことがないくらいに意気消沈し、もう自分でも歩いてるのかどうかすら分からなさそうに朦朧としながら、子どもらに帰るよう促すのだった。
その、葵に向かって、
「別にいいじゃんか、鬼だって」
「…………」
のっそりと振り返ると、ある男の子があっけらかんと言ってくれる。
その白く眩しい歯、人の良さそうな笑顔。
そこにこめられた気持ち。それは、それは葵にとっても、もちろん嬉しい。
すべての人間が鬼に敵対しているわけではない、ということを教えてくれるから。
しかし――。
「あなたのように思ってくれない人間もいるの。その方が多いの」
やはり、それだけでは現実を変えるには届かないのだ。
少年は不服そうな顔をする。
たぶん人種や民族についてあまり深く考えたことなどもないのだろう。
お菓子をくれて遊び相手になってくれるという単純な理由で慕ってくれていたのだということは葵自身もよく分かっている。
それでも、自分にそんな表情を向けてくれる人間と出会ったことは今までなかった。
だから、その表情だけでも十分だった。
たとえ一時的でも人間とこうしてふれ合い、交流を結ぶことができただけでも。
鬼の身の上からすれば、本来願うことすら許されない望外の幸せだったのだ。
「さ、早く帰って。もうお開きよ」
そうして異文化交流の時間は終わった。
葵とモモと子どもたちが育みあった、ささやかな幸せの時間も終わりを告げた。
「…………」
子どもたちが全員帰っていったあと。
賑やかな笑い声がすべて消え失せ、切ない寂しさだけが残された洋館のリビング。
その、一人で使うにはあまりにも広すぎる空間の中央にある机。
その机に肘をつき、葵は泣き出してしまいそうなのを必死にこらえながら、両手で顔を覆っていた。
「……もう、終わりね」
こらえようとしても、どうしても弱音が唇からこぼれ落ちてしまう。
とうとう終わってしまったのだ。これまで築き上げてきたなにもかもが。
楽しかった日々も、幸せも、人間として暮らした偽りの時間も。
――そう。最初からすべてが偽りだったのだ。
最初から鬼だと名乗っていればまずこんなことにはならなかった。
人間と関わり合いになりたいなどと願わなければ、こんな悲しみも味わわずにすんだ。人々の信頼を裏切り、それまで友好的だった人々の眼差しが、あんな侮蔑的なものへ変わってしまう瞬間だって目撃せずにすんだのだ。
最初から、たったひとり、誰にも知られないところに隠れてさえいれば――。
けれど、できなかった。
どうやって願う気持ちを押し殺そうとしても、それだけは耐えられなかった。
このもてあました「人と関わりたい」という願いこそが、葵のもつ〈霊魂の嘆き〉だったから。鬼として二度目の生を受けた葵には自分の最も大切な願いから目をそらして生きることなど最初からできなかったのだ。
だから、やっぱり、分かっていたはずなのだ。
人と関わることを自分が抑えられないことも。その結果、どんな結末が待ち構えていたのかも。
最初から全部、何もかも分かっていたはずなのに――
本当は、今すぐにでも荷物をまとめて逃げ出すべき状況ではあったものの、そうする気にもなれないでいた葵に、とことこ歩み寄ってきたモモがとある質問を投げかける。
「……なんで」
うなだれていた葵が、虚ろになりかける目でモモを振り返る。
「アオイ、鬼じゃないのに。なんで鬼って言ったの?」
「え、ああ、そのことなんだけど――」
自分が鬼であることを説明しようとして、そのときようやく葵は気づく。
ああ、そうか。自分はまだこの子を騙したままだったのか。
そんなことが頭をよぎったとき、葵は自分が犯したもうひとつの罪に気づいた。
自分の正体が鬼であるとばれてしまったということは、それを今まで傍でかばってくれていたモモまで村人を欺いた悪人と見なされてしまうのだ。
何度も何度もモモは自分は鬼ではないと証言してくれた。
そのおかげで信用を得ることができたけれど、その信用が失墜した今、葵に対する不信感や敵対心がそのままモモにも向けられてしまう。
勝ち得た信用が大きいだけ、それが裏切られたときの反動も大きくなる。
このままではモモが、ひいては大和中のすべての鬼斬が今まで以上の偏見と迫害にさらされてしまうのだ。自分という、たったひとりの愚かで哀れな鬼のせいで。
自分が身勝手な目的のためにモモを利用してしまったせいで。
それだけは――放っておくことはできない。
葵は確信した。荷物をまとめて逃げるだなんて、そんなつまらないことをしている場合じゃない。事態はもっと深刻で、危険な状態にあるのだ。
「モモ、ちょっと外まで出てきてちょうだい」
思い詰めた顔をして立ち上がると、葵はモモを伴って外に出た。
洋館の外に出て、これまで何度も憧れをこめて眺めてきた村を見下ろす。
人の口に戸を立てることなど誰にも出来ない。
そのくらいは知っていたから、最初から口止めもなにもしなかった。
今頃あの村では人の姿をした鬼と、それと共犯関係にある鬼斬の話でもちきりだろう。
早ければ今晩にでも、つまり、もうそろそろ討伐隊が来てもおかしくはないのだ。
鬼として生き延びることを考えるなら、モモも含めてあの場に居合わせた人たちを皆殺しにして口封じをし、逃走時間を稼ぐことが最良の選択だっただろう。やろうと思えばそうすることだってできたかもしれない。
けれど葵は、あえてそんな手段は選ばなかった。
そしてこれからも選ばない。
きっと今できる最良の手は、このままモモを殺すか、あるいは置き去りにして自分一人どこまでも逃げ延びることだろう。そうして誰一人自分のことを知らない場所まで逃げ延びて暮らしをまた一からやりなおす。
ただ、そんな風に現実から逃げ出してしまったら、それこそ本当に鬼と変わらない。
だからそんな卑怯な真似だけは命にかえてもやらないつもりでいる。
たとえこの身が鬼であっても、心だけは人として生き、そして人として死にたかった。
――そんな葵の心中など、誰も知るはずがないのだけれど。
見ると、もうすでに松明の明かりが列となってこちらに向かってくるのが見える。
それは鬼火の葬列のようだった。
あれが間もなくここへ到着して自分とモモを殺しにかかるのだ。
もはや時間は残されていない。弁解の余地など、なおのことありはしない。
となれば、自分が選べる道はたったひとつ――。
「ごめんね、モモ。あなたを騙してた。あたし本当は鬼なの」
葵は月明かりの下で、初めて自分の「ともだち」になってくれた少女に告げる。
こんなことで信用が取り戻せるのかは分からないけれど、
「だからあなたは、あたしを殺さなくちゃいけない」
それ以外にモモを生かす方法が思いつかなかった。
葵は、最期まで人として生き抜くために、鬼として殺される道を選んだ。
「…………う、ぐ」
そして。
葵は強く拳を握る。なにやら力を込めて低くうなる。
ぞわっと鳥肌が立ってぶるっと全身が震える。
すると、とたんに葵の身体に明らかな異常が発生しはじめた。
「――っ!」
骨が軋み肉が歪む音がする。次第に人間としての形を失って巨大化していく。
内側から突き上げられるように見る見るうちに身体が膨張し、背丈が優に三メートルを超す。美しくなめらかだった肌が浅黒い青色に変わる。手足が丸太のように太くなる。
やがて背中から翼のように三本目、四本目の腕が生えてくる。
眼光鋭く光り、歯だったものは凶悪な牙に変わり。
角を折ったはずの場所から、新しく一本ののそそり立つものが伸びてくる。
そうして最終的にそこに立っていた「鬼」には、もはや人間だった頃の葵の面影をとどめるものは何一つなかった。
モモが見ている、その目の前で、葵は己の本当の姿を曝け出した。
「アオ、イ……?」
鬼の姿など、何十、何百と見てきたはずのモモですらも驚きを隠せないでいた。
そこにいるのはっただの一体の鬼でしかなかった。
その残酷な真実を、あまりに悲しい光で月明かりが照らす。
そして。
「――……!」
鬼が地の底から響いてくるような咆哮をあげる。
およそ人間には声帯や肺の構造からして不可能な、その咆哮。
「――!」
モモは威嚇を受けて咄嗟に背中の大剣に手を伸ばそうとしたが、
「…………」
大剣も脇差も、ここ最近のうちに身につける習慣をなくしてしまっていた。
あの穏やかに過ぎていった日々が、いくらかモモの直観を鈍らせてしまったのだ。
丸腰のまま自分を見上げる少女に鬼が語りかける。
「……これがあたしの本当の姿。孤独に塗れた哀れな人間の末路」
その姿形は、まったくモモが知らないものであるはずなのに、
「アオイ……どうして?」
鬼の口から零れてくるのは、毎日、ずっと誰よりも近くで耳にしてきた声だった。
朝自分を起こす声を、食事をともにしてきた声を、一緒にお風呂にはいり、同じ布団で絵本を読み聞かせてくれたその声を、味わったことのない気持ちをたくさん教えてくれた「だいすきな」その声を、モモが忘れられようはずがない。
その戸惑いをよそに、鬼は冷酷に犯行を予告する。
「あたしは自分が襲われてしまう前に、これから村の人たちを襲いに行く。……そんな鬼を見つけたら、どうすればいいか分かっているでしょう?」
青い鬼は感情を感じさせない声で話す。
孤独によって本心を塗りつぶし、押し殺し、わざと怖い人のふりをしているみたいに。
だからモモは、正直に思ったとおりのことを伝えた。
「そんなことしなくてもいい。アオイはそんなことのぞんでない」
「…………!」
たったその一言だけで、鬼の目には動揺がよぎった。
――見透かされていたのだ。
とうとう葵は思い知った。
この子は、この子だけは自分のことをこんなにも分かってくれている。それほどまでに慕ってくれている。ずっとずっと傍にいて、一緒に暮らして、そういう生活を重ねているうちに、自分とこの子の心は通じ合ってしまったのだ。
だから、こんな強がりですら見透かされてしまっているのに、それなのに――
それなのに。これから自分はこのモモに、一番酷いことをさせようとしている。
ならば、ならばせめて――。
「葵という女など最初からいないわ」
モモがあたしを殺すとき、悲しみなど味わわなくてすむように。
それまでの鬼と同じように、なんの迷いもなく殺せるように
人でも鬼でもない「葵」など、さっさとこの手で殺してしまうべきなのだ。
自分が「人の心」をもって「鬼」として死ぬためには。
これからも、このモモに幸せに生きてもらうためには。
「それに、あたしはあなたのことを道具としか見てこなかったの」
嫌われることだけが、私のせめてもの愛情だ。
胸の締め付けられる想いを無理矢理ねじふせ。
身の避けるほどつらい別れをすませ。
「あたしは村の人たちを騙すためだけに、あなたに近寄り、そしてあなたを利用した」
しかし。
「ちがう……!」
「――!」
「アオイはそんな人じゃない。わたしはしってる。おいしいごはんをつくってくれた。ずっとなかよくあそんでくれた。はじめてわたしの『ともだち』になってくれ――」
「――……!」
その言葉を遮るように、心の迷いを断ち切るように、葵は鬼としての咆哮をあげる。
これ以上モモの話に耳を傾けるにはいかなかった。
どんなにモモが自分のことを想ってくれているかなど、なおさら教えられるわけにはいかなかった。
もし、それをすべて聞いてしまったら、こんな弱い心の決意は、あっという間に揺れてしまうから。どうやっても押し殺せない、本当の願いを思い出してしまうから。
それが最も不幸な結末に繋がると分かっているのに「二人で逃げ延びてモモと生きていく」ことを、つい選んでしまいそうになるから。
「――――……!」
だから、葵は鬼になる。身体を鬼のものへと変えて、心も鬼にする。
自分はモモの敵なのだ。この子を騙し、巻き込み、あろうことか危険にまでさらした。
殺されるべきだ。生きていてはならない。
それを他ならぬモモ自身に教え込む必要がある。
「――……!」
……ごめん、モモ。
誰にも聞こえることのない胸の内でそう呟き。
葵は渾身の力をこめてモモを殴り飛ばした。
「――!」
大剣もなにももたないモモは、なすすべもなく吹っ飛ばされ、そのまま洋館の壁をぶち抜いて見えなくなった。
「……さようなら」
最後にそれだけを言いのこして、青い鬼は、真っ暗な夜の闇の中へと跳んだ。
「……く」
ぱらぱらと土煙があがる室内。
モモが身を起こすと、目の前の壁に大きな穴が開いているのが見えた。
そうしてその事実が意味するものに気づいて胸を痛めた。
身体的な負傷だけなら、大したことはなかったけれども心が受けたショックは大きかった。
アオイは、自分の手でこの洋館を壊したのだ。
自分とアオイが暮らした、この二人の幸せな日々の象徴とも言える洋館を。重ねてきた思い出が息づく、この大切な大切な帰るべき居場所を。
それはつまり、アオイはもう、どこにも帰るつもりがないということだ。
居場所も故郷もすべて捨てて、これから「なにか」をしようというのだ。
「――とめなくちゃ」
アオイの身に何が起こったのかは分からない。
けれど、アオイはあんなにも、今まで見たことがないくらいに苦しい表情を隠しきれないでいたのだ。なにかがアオイを苦しめた。なにかがアオイを追い詰めて、鬼になるように仕向けているのだ。
すぐさま走り、後を追おうとして、ふと身体が軽いのに気づいた。
そういえばさっき殴られたときも、大剣がなかったせいでもろに拳を受けてしまった。
斬撃と違い、打撲による傷は比較的治り安いからよかったけれど、用心のために武器をもっていくに超したことはないだろう。
……どこにやったっけ。
モモは明かりのない洋館の廊下を歩き、自分のためだけにあてがわれた部屋に辿り着くと、そこに畳み込まれたボロ布と、その傍らに立てかけてある大剣と脇差を見つけた。
「…………」
それらを慎重に装備する。
ここに来るまでずっと慣れてきた、むしろ身体の一部くらいに感じていたはずのものなのに、どうしてなのか久しぶりに背負ってみると、ずしんとした確かな重みがあった。
そして今のモモには、それが単なる重量によるものだけとは思われなかった。
鬼と対峙して戦う重み、あるいは、自分の手で奪い取る命の重み――
そんな抽象的な概念はまだモモの頭のなかには描かれることはないけれど、それでもこのときのモモには、経験したことのない緊張感が漂っていた。
夜の闇の中、成人男性からなる急ごしらえの討伐隊が葵邸を目指して進軍していた。
村の衛士の経験者もいるにはいたが、戦闘訓練はおろか、まともに武器をもったこともない者がほとんどだった。
「なあ、ほんとうに俺らたちだけで殺せるのか?」
当然、初陣の衛士の胸中には不安が渦巻く。
それを他の衛士が叱咤する。
「なにを言ってる。相手はたった一人だぞ」
「そうだ。それに見るからに弱そうな鬼だっただろ」
その事実誤認を、ある者が訂正する。
「おいちょっと待てよ。敵は二人だ。鬼斬のガキもいただろ」
「ああ、そういやいたな」
「でもあれだって年端もいかない子どもだしなんとかなるだろ」
すると、討伐隊を率いていた老齢の衛士が苦々しい顔で戒めた。
おそらくは村の中でも最も経験豊富な人物であり、この部隊の要でもあるのだろう。
「おいお前ら。姿に騙されるな。どんな見た目や年齢だろうと鬼は鬼だ。死ぬ気で殺しにいけ……そうでないと殺されるのはこちらになる」
隊長が忌々しく思うのも無理がないほど、あまりに緊張感に欠けた空気だった。到底これから命の奪い合いをするとは思われない。
隊員のほとんどが殺し合うとはどういうことをさすのか、相手を仕留め損ねたとき自分たちがどうなるかということについてまったく想像力をもっていなかった。
裏返せば、その無知を矯正する必要がないほど平和に恵まれた村であったということでもある。それは幸運ではあったけれど、それと同時に不幸でもあった。
その平和は鍛錬や努力によって勝ち取り、築き上げたものではなくてたまたま運命の気まぐれが村に血の雨を降らせなかったというだけのことにすぎなかったのだから。それゆえに彼らは、自分たちの愚かさや傲慢に気づき、それらを修正するだけの機会を与えられてこなかったのだから。
ところが、彼らは今こうして無知なままに怪物と戦わざるを得なくなってしまった。
運命の気まぐれとは、得てしてそれに振り回されるもののことなどまったく考慮しないものなのだ。
「なーに、大丈夫ですって隊長殿。御覧になってやいないかもしれませんがねえ、ありゃただの若い女と頭の足りない小娘ですよ」
「そうだよ、連中なんざ全然大したことない。だから鬼のくせに怖じ気づいて今まで俺たちを襲ってこなかったんだ」
――が。
そんなことを話している最中のことだった。
「――…………!」
この世のものとは思われない、おぞましい咆哮が夜の森に響き渡った。
暗闇を貫いて、聞いたこともない身の毛もよだつ咆哮が鼓膜を震わした。
その直後に、その咆哮によって巻き起こされたかのようなタイミングで、いやに生ぬるい不気味な風が吹いてきて、生い茂る木々の葉を揺らしていった。
「おい、今の聞いたか」
それを聞いただけで、隊員たちはいともたやすく気勢を削がれる。
「……なんだあの声」
山全体を震動させるようなその声はまず間違いなく鬼のものだと誰もが分かった。
この瞬間、半ば空想上の生き物にすぎなかった鬼という生き物が初めて隊員たちにとって現実味を帯びた脅威となった。
――無知は人々から、正しく脅威を推定する機能を奪う。
ゆえに本当は恐れるべきものを恐れずに挑める蛮勇へと駆り立てることもあるが、その逆の事態を招くこともあるのだ。
つまり、このとき討伐隊は初めて相対することになる鬼というものに必要以上の恐怖を抱き、その恐怖に呑まれようとしているところだったのだ。
「――ほ、ほんとにいたんだな鬼って」
顔を引きつらせた隊員が虚勢をはりながら言う。
「どど、どんな姿してんだろうな」
怯えのために膝の震えがとまらない別の男が返す。
彼らの頭の中を、今まで旅の者や行商から聞いたあらゆる鬼の噂が脳内を駆け巡る。
その中には根も葉もないものもあっただろうし、眉唾と馬鹿にしてきたものもある。
誇張され尾ひれがついたものがほとんどだと彼らも平生笑いものにしてきた。
けれど、どれだけ理屈をこね回したところで実際のことなど自分の身で経験しなければ確かめようがない。そしてそれらを経験し、その上で生き延びて語り継げる人間の方がまれなのだ。
……自分たちも、と討伐隊は焦りに苛まれる。
その噂に出てくるような怪物に今まさに挑もうとしているのだという緊張感がここにきて過剰に吹き出す。いや、自分たちは挑んでいるつもりだけれど、向こうからすれば今から自分たちの方こそ狩られる立場なのかもしれない。
そういう怯えによってばらばらになりかけた討伐隊員たちに、隊長からの一喝がとぶ。
「おい静かにしろ。隊列を乱すな。今のを聞いただろう。いつどこからやつらが現れてくるか分からんのだ。気を引き締めてかかれ」
数少ない正常な戦闘感覚の持ち主が指揮を務めていることだけが、この討伐隊の唯一の幸運だった。
しかし――。
「よし、これからはもう少し急いでむか――」
突然黒い影が藪の中から飛び出してきたと思う間もなく。
その隊長の身体がボールか何かのように吹っ飛ばされた。
「な――!」
見ると浅黒い肌、4本の腕を持つ鬼の巨体がすぐそこにあった。
よく見ると藍色をしているのだが、この暗さではほとんど黒と変わらず、その姿は闇に溶け込む漆黒の獣のようだった。
「うわああああああああ!」
たちまち隊員たちの間に動揺が走る。
最も優秀な人間を初手で戦闘不能にする不意打ち。
統率を失った烏合の衆。
腰を抜かして動けなくなる者、血走った目で息を荒くしている者。
中には仲間を見捨てて逃げ出す者まで出てくる始末。
予想を超える恐怖というものは、薄っぺらい理性の皮を無情にも剥ぎ取り、人間の覆い隠してきた本性をまざまざと明らかにしてみせるものなのだ。
そこへ鬼のだめ押しが加わる。
「――……!」
さきほど遠くから聞こえた、あの大地を揺るがすような咆哮。
遠くから聞いてさえ恐怖を心に生じさせたあの異形の雄叫びが、今度は息さえ感じられそうなほどの至近距離で発せられるのだ。
鼓膜が破けそうなほどの声量、鳥肌が立ち全身の毛が逆立つほどの恐怖。
常人であれば正気を保つのも困難なほどの圧倒的な威圧感。
「く、殺せ殺せえ!」
「行くぞ!」
それでも何人かは無謀にも果敢に挑む。弓兵も必死に射る。
けれど案の定あっさり四本の腕に撥ねのけられる。矢はまるで効果がない。
よしんばそれらをくぐり抜けて槍先や剣先が鬼に届き、皮膚を破ったとしても、およそ致命傷たりうるものではないのは明らかだった。それほどまでに頑強な肉体をしているのだった。そして、討伐隊もそのことを出会うまでまったく知らなかった。たちまち弓兵は全滅させられた。
幸い相手が素手であるため討伐隊にも死者は出ていない。
激しく木の幹や地面に叩きつけられ、あるいはあの巨腕で殴り飛ばされ骨折や脳震盪を起こしたものはいるらしいが、最悪の惨状とはほど遠い有様だった。
もっとも、そのことをきちんと把握できる隊員が何名いたのかは疑問だけれど。
とはいえ、戦闘可能な討伐隊員は次第に減少していく。
ほとんどの者が戦意喪失か負傷により戦闘困難の状況に追いやられていた。
このままでは全滅してしまうかもしれない……。
そういった懸念が、討伐隊の間に色濃く浸透しようとしたときのことだった。
「アオイ!」
月から聞こえてきたかと思うほど涼しい声が降ってきた。
見上げると、自身の身の丈よりも巨大な大剣を背負った少女がまるで空から落ちてきたように降ってくるのだ。
ルビーのように紅く澄んだ瞳。左手に刻まれた鬼印。
それが何者であるかを、これ以上ないくらい鮮明に知らしめていた。
鬼の血を継ぎ、鬼を殺ずためだけに生きるもう一人の異形――鬼斬の少女だった。
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