第5話
第三章 人の心をもつ鬼
それから、モモと葵は一つ屋根の下で楽しく過ごした。
毎朝一緒にご飯を食べ、ときどきお昼寝もして、毎晩一緒にお風呂に入っては同じ布団で眠った。まるで本当の姉妹だった。
たくさんのお話をした。葵はモモの知らないことをたくさん知っていた。
絵本も読んでもらって、少しずつ色んな言葉を覚えていった。
文字の読み書きも、簡単なものだけはできるようになってきた。
お互いの癖がうつるくらいに、生活をともにした。幸せで、あたたかくて、なにものにもかえがたい素敵な思い出を重ねていきながら、二人は誰かとともに生きていく素晴らしさをお互いから学び合っていた。
そんな、ある日のこと。
「モモ、ちょっとこっちに来てもらえないかしら」
モモが洗い終わった皿を拭いていると、二階から葵の声がする。
「?」
たたた、と階段をのぼるモモ。
葵の部屋の扉は開きっぱなしだったので、そのまま入っていくと、
「ふふーん」
後ろ手になにかを隠したまま、なにやらにやにやとご機嫌そうな葵がいた。
「どうしたの?」
モモが近づきながらたずねる。葵はいっそう笑顔を明るくする。
「突然だけど、実はあなたにプレゼントがあるの」
「ぷれぜんと……」
たしかそれは、素敵なもの、という意味だ。
「ええ、きっと喜んでくれるわ」
はい、と渡されたものを見てモモは思わず目を丸くする。
「これって……」
「そ、モモの新しい着物よ」
「おお……」
色は紅葉を思わせるような鮮やかな唐紅。
言うまでもなく、生地も上質なものだった。
しっかりした繊維で丈夫そうなのに柔らかい手触りでふんわりしている。
広げてみると、ぱっと見で一番近いのは子どもたちが祭りの日に着る甚平だろう。
その上衣の裾をスカートらしく長めにして、袖には浴衣のようにゆとりがある。
本格的な帯も当然のごとく用意されている。
「この前、お洋服も作らなきゃって思ってね。……結局できあがったのは和風なものになっちゃったけど、でもきっとあなたによく似合うわ」
モモは一目見でその何から何までを気に入った。
その気持ちをなんと表現すればいいのかは知らなかったが、とても胸が躍った。
心が弾み、なんだかとっても嬉しい気持ちになった。
頬を緩ませながら、他のものも見てみる。
甚平の上衣、帯、ときたら今度は下衣。
どんな感じのだろう。
「おお……」
それはショートパンツだった。動きやすさ重視なのだろう。
デニム生地とまではいかないけれども、それでもかなりしっかりした作りをしている。
そして最も驚かされるのが、それらすべてが完全な手作りということだった。
「ふふ、喜んでもらえたしら?」
葵が眠い目をこすりながら、誇らしげに微笑む。
このところ夜モモを寝かしつけてからこっそり作業していたのはこのためだったのだ。
「……うん!」
モモも素直に明るく答える。
「さっそくきていい?」
きらきらした瞳でたずねると、葵は嬉しそうに顔をほころばせた。
「もちろんよ。そのために作ったんだもの」
それから葵が姿見の前で手招きする。
「おいで。帯の結び方も教えてあげる」
そして実際に袖を通してみるモモ。
「おお……。おお……!!」
モモは感動のあまり、普段一回しか使わない「おお……」を二度も使った。
そして煌めく瞳で、吸い込まれるように姿見の中を見つめている。
そこに映った可愛らしい服。それをまとう自分。
墨のように艶やかで美しい、眉あたりで真っ直ぐ切りそろえられた前髪。
ルビーのように鮮やかに澄んだ瞳。
雪のごとくほの白い滑らかな肌。
それらと調和する燃える紅葉のような唐紅の着物。
これから祭りにでも出かけていきそうな華やかな美しさもありながら、その落ち着いた色合いや古き良きデザインから普段着としての着こなしにも問題はなさそうだった。
着物そのものの魅力もさることながら、けれど一番魅力的なのは帯だった。
背中で結んだその帯は、リボンのような形をしている。
それが蝶々の羽根を背中につけているようでこの上なく可憐なのだ。
大剣を背負っていると、背中や腰が痛くなるんじゃなかろうかという、葵なりの配慮が偶然デザインとしても実を結んだ結果だった。
「うんうん。やっぱりとっても似合うわ。あたしの目に狂いはなかったわね」
葵もその様子を満足げに眺めている。
好きな人に好きなもの、それも自分が作ったものを着てもらうのは気分が良い。
そしてなんといってもモモが可愛い。あの子このままモデルにでもしちゃいたいわね。
「おお…………!!」
キラキラした瞳で何度も姿見の前でポージングをするモモ。
大剣を背負ってみたり、脇差を構えたり、背中の様子を確かめてみたり。
その姿は年頃の少女そのものだった。
以前にもまして、その表情はますます豊かに、明るくなっていった。
そして。
「ちょっとまってて」
「…………?」
何か思いついたようにとたたた、とモモが脱ぎ捨てたボロ布に駆け寄る。
そしてそこから何か取って戻ってくる。
「はい、これ」
やおら何かを葵に差し出す。
「くれるの?」
「うん」
「あら、ありがとう――って」
そこにあるのは、鬼の角だった。
思わずモモの表情を確かめる。
――が。そこにあるのは、やはりあどけなく、そしていつもよりちょっぴり嬉しそうにしているだけのモモの表情で、微塵も嫌味や皮肉といった悪意は読み取れなかった。
ということは、つまり、これは純粋な「お礼の気持ち」ということなのだろう。
「あ、あはははは」
とはいえ、思わず苦笑いしてしまう葵。
さすがに同胞の屍の一部を手渡されるとどうしたって困惑するのは仕方がない。これ、嬉しいけど、どうしようかなあと考えていた葵であったが――
しかし。
「それ、わたしがとったなかでいちばんおおきいやつ」
自慢げに話してくれるモモの笑顔が眩しかった。
その想いが、なににもまして嬉しかった。
「ありがとう。大事にするわね」
鬼斬は鬼の角をとって換金するという話は聞いたことがある。
とするなら、これも鬼斬同士での贈り物としては当たり前なのかもしれない。
ましてやモモは自分が持ってる一番大きな角をわざわざ渡してくれたのだ。
大事にしよう――葵は心からそう想うのだった。
そんなことを考えていると、モモが不思議そうにこちらを覗き込んでる。
「…………」
「あら、どうしたの?」
「……どうして?」
どうやらなにか疑問に思うことがあるらしい。
葵がじっと質問を待っていると、モモは、
「どうして、アオイはこんなにやさしくしてくれるの?」
というのだった。
モモからしてみれば「にんげん」というのは、基本的に話の通じにくい、なぜだか分からないがよく怒る生き物でしかなかった。よく石を投げつけてきたり、なにかをわめいていたりする。
ところが「アオイ」はそうじゃなかった。
「人間でも鬼でもなく葵」だと言われたから、そういうことなのかもしれないが、それでもモモにとっては不思議でならなかった。モモは仕事だから鬼を殺す。人々は、たぶん鬼斬を叱るのが仕事なのだろう。けれどもアオイのそれは、どうやら仕事には思われない。
だからたずねるのだった。一体どうしてアオイは優しいのか。
すると。
「……どうして? うーん、どうしって言われてもねえ……」
本人にも分からない様子で、腕を組んでうんうんうなっている。
「それがしごとなの?」
モモは自分が思いつくことをあげてみるけれども、
「仕事……では、ない気がするなあ。というより、別にあたしは優しくもなんともないわよ」
「そう、なの?」
「そうよ。そうね、でも強いて理由があるのだとしたら、ひとつはあなたが可愛いからっていうのと――」
それから、いつもの、面倒見のよさそうなお姉さんらしい笑顔で、
「単純に『あたしがそうしたいから』――じゃないかしら?」
それでもモモにはよく分からなかったけれど、なんとなく腑に落ちるものがあった。
その答えが、そういう風に思えることが、なんだかとても素晴らしいことのような気がした。
来る日も来る日も獣のように鬼を殺すだけだったこれまでとは、まるで違う日々の彩りだった。優しくて、あたたかくて、心地よかった。
最初無表情しか示さなかったモモもだんだんと笑顔を見せるようになってきた。
見えにくくいだけで感情表出はちゃんとあったのだ。
それどころか、注意を凝らせばむしろ表情豊かであることを葵は感じ始めていた。
こんな日々がいつまでも続けばいい――。
……叶うはずもない、そんな願いを抱いていた、ある日のことである。
モモが川で魚をとって葵邸へ帰って行く途中のことだった。
モモの視線は珍しく葵邸の近くにいる人間の姿をとらえた。見た目からも匂いからも人間であることは間違いなかった。
おそらく村人であろうその二人が自分たちの家のそばで何か話している。
「なんだよ、結局どうにもなってねえじゃねえか」
一人が苛立たしげに舌打ちをする。
「仕方ねえだろ。あの鬼斬まだガキだったんだからよ」
「つっかえねえな、ほんと」
「あいつ、殺されちまったのかなあ」
「知るか」
ここで一旦会話が途切れた。一人がわざとらしくため息をつき、
もう一人が考え込むようにじっと足下の地面を見つめて、それから顔を上げて切り出した。
「……でもよ、ほんとに鬼なのかな」
「あ? なにが」
「ここに住んでるやつさのことさ。こんなに村の近くに住んでるのに俺たちを襲わねえっておかしいだろ。いくらでもチャンスはあるってのによ」
噂の真偽について、疑問をもったらしい。
「馬鹿。知恵をつけた鬼くらいいんだろ。どうせ何かの罠にきまってる。それに討伐に向かった鬼斬のガキだって結局いまだに帰ってきてねえのが何よりの証拠だよ」
「そう言われると……確かにその通りだな」
鬼斬が鬼を殺しにいったのにも関わらず、そのまま帰ってこない――
その事実が意味するところは誰の頭にも明らかだったのだ。
つまり、討伐に失敗し返り討ちにあったに違いない。
「だろ?せめて今日はここに何体いるかくらい確認して帰ろうぜ」
男は、相手はそれくらい手強い鬼であることを繰り返し強調した。
ことによると、一体だけではなく、複数の鬼が潜伏していることだって考えられる。なにせこれだけ大きな洋館なのだ。むしろ一人で使うことの方が考えにくい。
……と。
そこへ魚籠を担いだモモが声かける。
「……アオイにようなの?」
さきほどから様子を見ながら近づいてきていたのだけれど、この二人は話に夢中で、どうにも気づいてくれそうになかったので、自分から声をかけることにしたのだ。
――が。
「うあぁぁぁっ!」
「鬼斬っ!」
たまらず絶叫する二人。
まるで幽霊かなにかにでも出くわしたような顔をして、情けないほどすっとんきょうな顔をしたり恐怖で顔を引きつらせたりしている。
だが、それも無理はないだろう。
突然背後から――それも死んだとばかり思っていた「人ならざる者」から――声をかけられてしまったのだから。
ひとしきり怖がって満足したのか、あるいは、鬼斬の小娘がいっこうになにもしてこないことにようやく安心を覚えたのか。
ある程度の落ち着きを取り戻した二人は、お互いの顔を見合わせたあと、鬼斬の小娘を指さしながら囁きあった。
「ほほほ、本物か? こいつ」
が、その小さな囁きも鬼斬の目にはすんなり届く。
「……? なんのこと」
「な、なんだよ生きてんじゃんかよ。ビビらせやがって」
「…………?」
一向に用件が見えない。この人たちは何をしにきたのだろう。
わけも分からずにモモが首をかしげていると、どうやら相手が幽霊の類ではないと知って気を大きくした一人が声を荒げて指図する。
「おい、お前鬼斬だろ、ちゃんと仕事しろよ」
それでようやくモモも用件を心得た。
ああ、なんだそんなことか。
「しごとしてる」
モモは魚籠の中の収穫を見せる。
我ながらなかなかに大量だった。きっとアオイにも褒めてもらえる。
が、どういうわけか目の前の男はそれがむしろ不服であったらしい。
ますます横暴な態度になった。
「はあ? そんなんじゃねえよ。鬼がそこにいるんだから退治しろっていってんだよ」
男は次第に苛立っていく。
「鬼じゃない。アオイ」
「あん?」
「あそこにすんでるひとのこと。鬼じゃなくてオアイ。鬼じゃないから殺さない」
用件はすんだと判断したモモはさっさと歩き出していく。
はやくこれをアオイに「ちょーり」して欲しかったのだ。
「おい待てよ。それはどういう意味なんだよ」
その肩をつかんで男が引き留める。
モモは振り返って、淡々と答える。
「ことばどおり。わたしは鬼を殺す。けどアオイは鬼じゃない。だから殺さない」
どうして人間は同じことを何度も言わせるのだろうか。
モモにはいつもそれが分からなかった。
「…………」
村人たちは村人たちで、鬼斬の小娘の言うことをどう受け止めればいいかわからない、といった顔をしている。
それでも何か言いたそうな様子ではあったけれども、聞かれたことには答えたし、言うべきこともちゃんと伝えた。
これ以上、この場にとどまるべき理由などなかった。
モモはその場に村人たちを残して家に帰った。
「ただいま」
「おかえり、モモ。大丈夫だった?」
家に帰ると、葵が出迎えてくれる。
その表情には少しだけ不安そうな影がさしていた。
「なにが?」
「だってさっき外で村の人たちと話してたでしょう?なにか悪いことでも起きたんじゃないかって心配してたの」
「あのひとたちはわたしに鬼を殺せといってきた」
「え?」
にわかに血の気が引いて、すっと青ざめる。
「だから鬼はいないといった。ここにいるのは、鬼じゃなくてアオイ」
そう言って本日の魚を手渡す。
思いの外、時間を食ってしまったからお腹が減ってしかたなかった。
「……ほ。ありがとう、モモ。――まあ! 今日もたくさんとれたわね」
「うん」
さすが常日頃から自分の食料を自力で調達しているだけはある。
葵は魚の選別をしながら、それとない風を装ってたずねる。
「それで……村の人たちはわかってくれたのかしら」
「よくわかんないってかおしてた」
「そりゃそうよねぇ。……うーんどうやって分かってもらおうかしら」
そんなことを考えていると、
「…………」
ぐぅ~、とモモのお腹が鳴った。
「……ごはんたべたい」
そう言うそばから、もう涎がたれていた。
「あら、ごめんなさい。そうよね魚とってきたんだからお腹も減るわよね」
「うん」
「待ってて、すぐ作るから」
葵はすぐに笑顔をつくると、さっそく調理にとりかかった。
「いただきます」
「いただまます」
窓の外から降り注ぐ日差しによって光で満たされたリビング。
そこで二人はいつものように昼食をとっている。
けれども今日の葵は箸が進まないようだった。
「……鬼ってひとくちに言っても悪いひとたちばかりじゃないんだけどね」
そう呟く顔には陰りが見える。
「ねえ、あなたに聞きたいことがあるの」
思い詰めたような声色の問いかけ。
拙いながらにナイフとフォークを使うようになってきたモモが顔を上げる。
「なに」
鬼斬としてしか育てられなかったこの子に、こんな問いをするのは酷なことだろう。
そう思いながらも、葵は聞かずにはいられなかった。
「――モモは、どうして鬼を殺すの?」
しかし、モモはなぜそんなことを聞くのか不思議そうな顔をする。
「……? 鬼斬だから」
あまりにも当然の、分かりきった答えだった。
「そう、よね。じゃあ、どうして鬼斬は鬼を殺さなきゃいけないんだろう」
「鬼だから」
即答である。
最初から分かりきっていたことだろうに。自分は何を期待していたのだろう?
「……そうね、その通りだわ。鬼斬として満点の答えよ」
微笑む葵の目元には悲しみが漂う。
そうだ、このままが良い。その方がこの子にとっても幸せだろう。
なにも知らず、何も疑わず、純粋に、無垢に。言われたとおりに鬼を殺すだけ。
そうやって生きていた方がずっと楽で、苦しみが少ない。
そもそも、この子は望みもしないのに片子に生まれ落ちて何を選ぶ自由もなく、鬼斬なんてものに仕立て上げられたのだ。
そこへもってきてこの上また重荷や期待を背負わせるのはあまりに酷すぎる。なによりも身勝手な話である。
「…………」
けれど、そう簡単に諦めきれない事情もあった。
葵はその純粋さ、無垢さに希望を感じてもいたのだ。
悪く言えば単純。よく言えば素直。
なんにせよそんな天然さを失くさずに生活していける者なんてほとんどいない。
それほどの人物に今こうして出会っているのだという実感があった。
実を言えば葵はこれまでにも何度か鬼斬の手から逃れてきたことがあった。
けれど、他の鬼斬ならばこうはいかない。
もちろん鬼斬にも色々いるのだろうけれど、大抵は逃れられない宿命に縛れて否応なく鬼を殺しているうちに「なぜ鬼を殺さなければならないのか」などということはどうでも良くなってくる。
そんな問いに答えなどありはしないし、あったところで役に立たない。
働きたくなくても働かなければならないのだ。
そんな中で、働く上で苦痛や迷いの種となりはするけれど実質的な利益をもたらさない疑問など、誰が後生大事に抱き続けるだろうか。
実生活の上で最も重要なのはいかに楽に、楽しく働くかである。
しかしだからこそ、もし鬼と人間が共生する道を探すとするなら、その間にたって架け橋となる人間が現れるとしたら、それは「なぜ鬼を殺さなければならないのか」という問いをどこまでも突き詰めることから逃げ出さない存在であるのだろう。
そしてその役割を果たすことができるのは鬼でもあり人でもある鬼斬――その中でも特に常識や偏見に囚われない類い稀な人物。
目の前にいるのは、そんな人物であるように思われるのだ。
「…………」
――でも、いいんだろうか。
何かを望むことも選ぶことも知らないこの子の無知につけこんで自分の理想を植え付けるなんてことをしてしまっても。この子のあどけない人の好さを利用してこれ以上の苦渋や重荷を背負わせるなんてことをしてしまっても。
それは、果たして許されるんだろうか。
「……どうしたの?」
あまりに深刻な顔をしていたのであろう。モモがこちらの顔を覗き込んでくる。
「どこかいたい?」
その真っ直ぐな優しさをもつ瞳が、心配そうにこちらを見つめるのが辛かった。
「いいえ……なんでもないわ」
笑顔を作り、食べ物を口に運ぶ。
何も知らずこちらの身を案じてくれる思いやりに胸が締め付けられる。
そうだ、やめにしよう。
この子は今やっと人間らしい生き方にも触れ始めたところなのだ。このままででいい。
これまでもこれからも、どうせこの子の人生は血で血を洗う鬼との戦いに塗りつぶされてしまうのだ。
だから今くらい、なんの責任も難解さもない楽しいひとときを過ごさせた方がいい。
そう考えた。
もう変なことを企てるのはよそう、と。
けれど――
「おしえて。まんてんじゃないこたえ」
「え?」
「どうして鬼を殺さなきゃいけないの」
葵は気づいた。
初めてここに来た日は手づかみで食事をしていたモモが、今では少しずつナイフやフォークといった食器を使い始めるようになったことに。
葵は知るのだった。
自分がモモと交流を持ち人間らしい生活を覚えさせようとしてしまった時点で、自分はすでに罪を犯しているのだということに。
「…………」
モモはもう、ここに来るまでの無教養な獣でも、野蛮な野生児でもない。
言葉や挨拶を覚え、感情の機微を知り、自分から何かに疑問をもつほどの好奇心をもってしまったのだ。
たしかに自分が関わらずとも、成長に従いそのステップはやってくるだろう。
けれどもなんにしても、その時期を早めてしまったのも、今まさに立ち会っているのも他ならぬ自分であることを葵はこのとき意識した。
「……そうね、私も正解を知っているんじゃないけど私が知っている限りのことは教えるわ。そのためにはまず、みんなに『鬼』って言われてる人たちがいったい何者なのか話さなくちゃいけないわね」
そう前置きして、葵は語り出した。
結論から言えば、鬼とは元々人間だったもののなれの果てである。
では――どのようにして人間が鬼になってしまうのか。
それには魂とよばれるものが関わっている。
普通、人間の魂は死後肉体を離れた際に一度霧散し、黄泉に送られる。その後、輪廻転生する機会があれば再び地上に戻ってくることになる。このあたりの話は水の循環をイメージすると把握しやすい。水は雨として地上に降ってきた後やがて蒸発し空にのぼる。そこで雲となって雨となって再び地上へと戻ってくる。
ところが、大厄災が起こってからというもの、その魂の循環に破綻が生じた。
死後も妄念や未練によって黄泉送りを拒み地上を彷徨う〈怨霊〉や、生きた肉体に宿っていても執着や欲望を肥大化させ不安定なあり方を示す〈生霊〉などが出現するようになったのだ。
災鬼喰らいと呼ばれる超常現象が多発する中で、これらのように魂が原因と引き起こされる種類のものを〈霊魂の嘆き〉と呼ぶ。
その霊魂の嘆きの中に〈鬼憑き〉というものがある。
そしてこれこそがズバリ、人が鬼となってしまう原因であるなのである。
鬼憑きとはその名の通り、怨霊や生霊がある人間に取り憑いてしまうことだが、ここに大きな問題がある。本来肉体という1つの器には1つの魂しか宿れないようになっている。にも関わらず怨霊や生霊が無理矢理自分の宿主ではない人間を食らい、憑くことによって、食らわれた人間は人の理を外れその結果として鬼になる。鬼になった人間は自分を食らった魂が抱えていた妄念や執着に支配されて彷徨うことになる。
ただ、憑かれた者が人の姿のまま呪い殺されずに鬼となるには、ひとつの条件がある。
それは被憑依者が憑依霊とまったく同じ「負の執着」を持っていることである。
つまり鬼になった人間には元から人としての道を踏み外す下地があるのだ。
そこへ自分とまったく同じネガティブな感情が上乗せされることによって、それらが理性で抑えられないほどに増幅され、鬼という形になって現れる。
当然、憎悪や殺意や復讐心から生まれた鬼は人を襲う。殺し犯し奪い壊す。
それが鬼という生き物が他の野生動物以上に人間へ敵対的な行動を起こす理由である。そもそも人間への復讐を誓った「人間の魂のなれのはて」なのだから理性や知性のない者は衝動のままに人を標的として暴れ狂うし、理性や知性があってもそれを狡猾に駆使してより合理的かつ効率的に人を殺しいたぶり尽くすのみである。
ところが、人の持つ妄念は未練はなにも敵意だけではない。
もっと人と接すればよかった、もっと好きなことをして生きればよかった、もっと誰かに優しくすればよかった、そういう想いや未練から生まれる鬼だっているのだ。
それらは決して敵対的な行動をとらない。友好的で穏やかで平和的なな態度を取る。
けれどもやはりそれらとて「鬼」であることには変わりがない。
ゆえにそのことを知らない人間は、悪い鬼が無差別に人間を襲うのと同じように、鬼であるという理由だけで友好的な彼らの存在さえも無差別に殺そうとする。
確かに人間ではない。寿命もないし、超常的な力を持ってもいる。
けれど、心をもつ点においては人と全く変わらないのだ。
そこまで話し終えて、葵は一呼吸いれる。
モモにこれまで話したことを整理させるための時間なのか。
それとも自分自身の気持ちを整理するための時間なのか。
「あたしはあなたに聞いたわよね。『なぜ鬼を殺さなければならないか』って」
「うん」
モモは神妙な顔で聴き入ってくれている。その表情が勇気を与えてくれる。
葵は、人間と鬼とが共存できる可能性を信じてみることにした。
「あたしの答えはこうよ。『それは鬼が悪いことをするから』」
この想いが通じるといい――そんなことを思いながら。
「鬼の中には誰かの大切な人を傷つけたり大切なものをわざと奪ったりする奴らがいるの。それらは決して許されない悪いこと。だから、そういう悪いことから人々を守る仕事をしてくれる人が必要なの」
そうして何体もの鬼を屠り続けてきたであろうモモの目を見つめる。
「だから、あたしはあなたのお仕事をとっても素敵なものだと思うわ。鬼斬っていうのは、鬼を殺す仕事というのは――誰かを守るためのものだから」
「…………」
「誰がなんと言って馬鹿にしてきても、あなた自信は誇りをもってていいのよ」
その言葉を結びとして、葵はこの話を終えることにした。
「ごめんなさい。あんまり面白くない話だったわね」
少し喋りすぎちゃったわね、そんな風に反省しつつ誤魔化すようにお茶を口に運ぶ。
「でも……そうね、私もこんなところに引きこもって置いて自分を理解してくれだなんて甘えたことを考えていたもの。村の人たちのこと悪くは言えないわ」
これまでの棚に上げてきた後悔を取り戻すようにしみじみと呟く。
それから大きなため息をついて、
「そのせいで鬼だなんだって、殺されそうになっちゃってるんだし……」
それを見たモモが、あっけらかんと顔で言い放った。
「だったらいえばいい」
「え?」
「わたしにいったみたいに、『鬼じゃない、アオイ』っていえばいい」
「でも、そんな簡単にみんな信じてくれるかしら」
「わたしはしんじた」
その何物にも曇らされない瞳は、今まで葵が目にしてきたなによりも澄んでいた。
それを美しいとも思ったし、世間知らずだとも感じるし、あるいは、妬ましくすら思うことだってあった。
――しかし。
みんなあなたみたいに純粋じゃないの、とは言わない。言うことができない。
せっかくできた友だちが、こんな自分でも信じてくれた妹みたいなこの子が、自分のために言ってくれたことなのだ。
なにもしなくてもきっと村の人間はそのうちここを襲うだろう。
どのみちこの家も捨てて逃げ延びなければならないというのなら、打てる手はすべて打ってからでも遅くはない。
「――そう、ね。それがいいかもしれないわね」
今まで、そんなことできるわけないって思っていたけれど。
これまでとこれからは、別のものであるはずだから。
「あたしみんなに話を聞いてもらいにいく。他人に期待したってしょうがないんだし、何かを変えようとするならそれは自分自身にしなきゃね」
現にこうして自分の話を聞いてくれる人に出会えたではないか。
つまり、過去と未来は違うのだ。
そうしてこの日をきっかけに、葵の和平作戦が始まった。
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