令和掌編

倉海葉音

令和掌編

 れいわ、と知らない国の言葉のように僕は呟いた。


 官房長官が、新元号の書かれた紙を掲げていた。モニタの端に中継画面を映しながら、僕はソフトウェアのコードの修正に入る。「新元号」と暫定的に書いていた箇所を「令和」に書き換え、「xxx」を「R」に置換して、コンパイルを開始した。


 コンパイルの完了待ちの間にニュースを探り始める。万葉集が由来。梅花の歌。とても雅だな、と思う。涼し気な語感だと思っていたけれど、ふわりと柔らかいじゃないか。梅の香りを思い起こそうとして、ピンとこない自分に気が付いた。


 就職して、東京に来てから、花の香りを感じた記憶がない。


 奈良の実家には、近くの家に梅の木があった。2月になると白い花をつけて、肌寒い日々の目と鼻の癒やしになっていた。


 今は国道沿いのマンションから、地下鉄に乗って、駅から近いオフィスへ。夜遅くまでデジタルの世界と格闘して、帰りは反対向き。花で四季を感じるなんて発想、きれいさっぱり忘れていた。


 ふと、懐かしい香りが鼻をくすぐった。

 あっ、これが梅の香りだ。こんなところで?


「東風吹かば、匂い起こせよ、梅の花。ってね」


 目の前にマグカップが差し出された。振り返れば、お疲れ様、と令奈れな先輩が微笑んでいる。どきっとしながら僕は梅昆布茶を受け取る。


「ええよね、万葉集なんて風流で」

「さっきの歌、菅原道真やから無関係ですよ?」

「あれ、そうやっけ? そっか、天満宮やもんな」


 京都生まれやから無意識にかな、と彼女は隣に腰を下ろした。僕はお茶をすする。梅昆布茶のすっぱい香りと優しい味。疲れていた頭がほんわかと温まっていく。

 令奈先輩は、人事異動で今日から隣になった。部署が違った頃から、関西出身の縁で仲が良くて、ひそかに僕が憧れている人。


「修正は済んだ?」

「今コンパイル中で……あれ、エラーか」


 僕はもう一度お茶をすすり、モニタに向き直る。もうすぐお昼休憩だ、その前に修正しておきたい。


 横から指が伸びてきた。


「ここ、コメントアウトやない?」


 あっすいません、と僕は苦笑した。どこかのタイミングで、知らないうちに不要なキーを押していたらしい。元に戻して再びコンパイルを始めると、ちょうど誰かの時

計が12時をぴぴっと告げた。


和田わだくんは奈良出身やっけ? 奈良にも有名な梅ってある?」

「ありますよ。奈良公園の梅園とか。何度も行きました」


 でも、こっちに来てからは全然花も見てないですね、と付け足した。モニタの中で文字は順調にスクロールしている。大丈夫そうだな。お茶を飲み干して、鞄から財布を取り出す。


「東京でも、皇居とか、池上本門寺とか、色々あるよ」

「そうなんですね」

「それでさ、梅やなくて桜やけど、お花見行かへん?」

「桜ですか?」


 そう言えば桜も全然見ていない。今はちょうど見頃だったか。僕は了解した。


「じゃあ、裏の公園に行こっか。お弁当もあるよ」


 ああ、そういう。僕は頷いて、モニタの電源を消した。



「春は、始まりの季節やしね」



 先輩の柔らかい声が、耳元数センチからくすぐってくる。


 その場で固まった僕からさっと離れて、先輩は「何してるん?」とニヤつきながら歩きだす。


 からかわれている。でも、そのためだけに弁当まで作るか? うーむ?


 他の社員はみな新元号の話で盛り上がっている。僕の周りには梅昆布茶の香りがまだ僅かに漂っている。始まりの季節、始まりの香り。


「待ってください、先輩」


 いいや、何か、始めてみよう。このお祭りムードに乗って。

 春風の待つオフィスの外へと、僕は早足に向かう。

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令和掌編 倉海葉音 @hano888_yaw444

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