東京

 僕はこの東京という街に生まれ育った。薄汚れた灰色のビルと、あちこちひび割れた継ぎ接ぎのアスファルトに囲まれた街。濁り切った排気ガスまみれの空気のせいか、あるいは殺気立った人々が織りなす雑踏のせいか、いつもどことなく息苦しさを感じる。街路樹の緑色はすっかりくすんでいて、けれどビルの隙間に見える狭い空だけは妙に青く澄み切っていた。

 街を歩くのにイヤホンで耳を塞ぐようになったのはいつからだったろう。確かその頃から、純粋に音楽を聴くことができなくなった。どんなに音量を上げても、街が蠢く音をかき消すことができない。まるで死者に唱える念仏のように低く鈍い音が、僕の脳をゆっくりとかき混ぜる。

 交差点ですれ違う顔のない人々。時折肩がぶつかり足を踏みつけられても、振り返ればそこにはもう誰もいない。そんな中をすり抜けるようにして進む僕も、きっとそんな顔のない彼らと何ら変わりなく見えることだろう。そうやって僕はずっと生きる意味もわからず、この蜃気楼のような仮初の街に生き続けている。

 この街を好きになるにはあまりにモノが溢れていて、嫌いになるにはあまりに何もない。すべてがハリボテのように空虚で、真っ直ぐ向き合おうとすることは無意味だった。だから僕は漠然とその薄っぺらでぼんやりとした景色を見つめている。

 遠くの街からやってきた友人が少し羨ましかった。彼はその街を酷く嫌っていたけれど、それでもそこが彼の故郷であることに変わりはないから。僕はこの東京という色のない街に生まれてしまったばかりに、恨みがましく思い出を語ることさえできなかった。望郷の想いを知らず、もしこの街を出たとして、どこを目指せばいいのかもわからない。世界はあまりに広すぎて、帰る場所を持たない僕に旅立つ勇気が芽生えない。

 君から見たこの東京という街は、一体どんな色に見えているんだろうか。棺桶のように静まり返った最終電車の窓から、世闇に浮かぶ疎らな光を見つめる。流れ行く景色に何の感情も抱けぬまま、僕は大人になってしまった。機械的で淡白なアナウンスが次の停車駅を告げる。こういう日に限って、スマートフォンの充電が切れていて音楽が流せなかった。いっそ暴れ回る酔っ払いの一人でもいれば、こんな気分にはならずに済んだかもしれない。けれど生憎今日は線路の上を電車が揺れる周期的な音が響き渡っていた。

 この線路が僕の知らないところまで続いていたとしたら、あるいはこの絶え間なく続く日常から抜け出すことができたのだろうか。そんなことを考えながら、僕は無意識のうちに最寄駅で下車し、去っていく電車を見送っていた。せめて電車の額に書かれた終着駅まで乗っていくことができたら、違う景色を見ることができたのだろうか。

 駅前でフォークソングを歌う青年を横目に、街灯が照らす夜道を歩く。一つ電球が切れかかっていたのか、白い光が震えるようにちらついていた。その上に消えては現れを繰り返す自分の影を見つめて、ほんの少しだけ、不思議な懐かしさを覚える。

 遠くの方で救急車のサイレンが聞こえた。僕は一瞬だけ足を止めて、その音に耳を澄ませる。そして、遠ざかるサイレンに歩幅を合わせるようにして、再びゆっくりと家路を辿るのだった。

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