deep sea mermaid

碧木 愁

第1話化け物

 きりきりと傷口が痛む。打撃によって生じた痛みとは違って、この痛みには慣れていない。それ故、魚が地上に放り出されたかのように、僕は荒く呼吸をして、患部を左手で覆うことしか出来なかった。遠目に通り過ぎた子供連れの親子が、憎しみの対象に映るほどには、今の僕は余裕がなかった。親子は、僕の存在なんてこの世界にはないみたいに、二人で町全体の喧噪に花を添えている。その甘い香りに僕は歯を食いしばった。すると、先ほどよりもっと傷口が痛んだ気がした。

 血の匂い。滴る汗。早くなっているのに、鈍くなっているように感じる鼓動。

 母親一人で育て上げられた僕の小さな体は、決して惰性で維持してきた訳ではない。母が大変なのはそれなりに僕も理解出来ていたから、精一杯手助けはしてきた筈だ。料理をこなせば、母は喜んでくれた。洗濯物を干せば、母は喜んでくれた。そんな母を見れば、僕の苦痛は刹那に吹き飛んだ。町中で盗みを働いたのをバレて、暴力の雨に体を晒すのも、母の笑みと比べてれば石ころよりも小さく感じた。


 「――――」


 右足を引きずっていると、母の啜り泣く声が聞こえた気がした。その方向を思わず振り向いてしまうけれど、そこには誰もいない。僕は再び前を見る。あまりに聞き過ぎて、きっと耳が覚えてしまったのだ。写真立ての前で崩れ、神に懺悔でもするかのように静かに泣くあの声。

 どうするのが正解だったのかな、なんて一人歩きながら考えてみる。僕の精一杯の奉仕は、今日この日、母の悲痛の叫びと、振りかざされたナイフによって、終わりを迎えた。母は常に自分の中にいる化け物と戦っていた。そいつはどろどろの体躯をしていて、母の負の感情を食い物にしていく。その劣等感という名の化け物は、矛先を僕に向けた。僕はあらがうこともしなかった。ただただ恐ろしくて、家を飛び出した。その時に受けた傷からは、止めどなく血液が流れ出ているが、それよりも僕は、自分の心に訪れた空虚さだけが辛く感じた。

 裏路地の比較的安全な場所を通ると、歩き慣れた細い路地、よく犯罪をする際に利用した経路に出る。そこはあまりいい噂が後を絶たなくて、暴漢でさえ近付かない。だから、兵隊なんて尚更だ。あんな見た目だけの金食らいに、ここを通るような勇敢な奴は一人としていない。僕にとってはいい脱走経路でもあった。

 パン屋の後側、他の建物に圧迫された正方形の窪みみたいな空白にたどり着くと、僕はそこで静かに倒れ込む。石畳が敷かれているだけで、それ以外特筆するようなものは一切ない場所。

 僕はここを、砂浜、と呼んでいる。砂なんてどこにも見当たらないのだが、何故かここに来ると幼いころのに一人で遊んでいた砂場を思い出す。だから、隠語の意味も兼ねてそう呼んでいた。隣は、綺麗を通り越して、きらきらと輝く運河のような水が、生活用水路部分を颯爽と走っている。これが誰も近付かない理由だ。

 身近な神秘というのは、却って不気味に感じてしまう。例えば見知らぬ人が生き返るとして、それが遠くのどこかで起これば、話の種にでも出来そうだと考えるやも知れないが、目の前で起こったら、当の本人はぞっとしないだろう。

 だからみな、この神秘とはつかず離れずのような毎日を送っている。たまに好奇心旺盛な奴とか、どこかの神の信仰者とかが訪れることもあるが、それは本当に希。いつもは、僕の隠れ家として利用させてもらっている。かれこれ悪さをするようになってからの付き合いだが、今のところ何も異常はないので、きっとあの噂はデマなのだろう。見慣れれば、この神秘もただの綺麗な水だ。

 「僕、死ぬのかな」

 血の後はなるべく消してきたつもりだ。自分の衣服に、事前に水を染み込ませておいて、血が滴ると同時に衣服を絞り、水に浮き上がった血液を足で広げてきた。だから、母が追ってくることはないだろう。いや、あれは母じゃない。母はまだ戦っているのだ。僕を襲ったのは、あのおぞましい化け物で、その皮として利用されたのが母に過ぎない。

 だが、どうして僕は逃げたのだろう、と不思議に思う。別に生きたいと強く思えるような何かが心の中にある訳ではなかった。それなのに僕は、死にたくない、とは思うのだから半端者だ。今は人間の本能に縛られていて、辛うじて希望を見失っていない。だが、体はそんなこと知らぬようだ。血は、一向に止まる兆しが見えない。

 母さん、と声が漏れた。いつだって僕のことを最善に考えてくれた母。あの温もりに、今は早く浸りたい。早く会いたい。

 用水路を流れる神秘の流水音が、とても遅くなっているのに気付いた。僕は体を動かそうと試みるが、地面に杭でも打ち付けられたかのように、四肢は微動だにしない。

 地面が暖かかった。それは紛れもない自分の温みだった。それに包まれると、なんだか母に抱きしめられているような気がして、僕は瞼を閉じる。

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