14

 翌日、池脇はゴロツキのような顔で宮の城の通りを歩いていた。

 ずいぶんな難問を食わされたと、池脇は思った。世の親というのは、時々、まわりくどいやり方で子に何かを悟らせようとする。


「おー。池脇君」

 HKCのドアを開けると、中央にある広い長テーブルのそばで、本村が小さなかごを抱えて立っていた。ボタンのない、シンプルなグレーの学ラン服。頑なに守られた、寝癖頭。「どうしたの? ヒュプシュでカワイイプレート、略してHKプレート食べに来た?」

「お前だろ。父さんに住宅相談会の話したの」

「したよ。まずかった?」

 髪型に似合いのとぼけ顔で、本村は言った。

「そんなにこの家が嫌なら責任持って自分で話聞いてこいって。俺、家建て替えろなんて言ってねえよ。引き戸の立て付けのこと言っただけで————」

「なら丁度いいよ。モリサワハウスって部分リフォームもやってるらしいから。どういうのがいい? 綾子ちゃんちみたいなクローザー付きのシンプルなスライドドア? それとも、カレンのドールハウスみたいなアーチスタイルのがいい? AI搭載のもあるよ。顔認証で自動開閉ができて、帰ってきたら『おかえりなさい何々さん。お風呂にしますかご飯にしますか』って言ってくれたり、宅配業者の人と勝手にやり取りしてくれるやつ。池脇君のお父さんは嫌がってたみたいだけど。あ、この店みたいな小窓つきのヒュプシーなやつがいい?」

 テーブルをぐるりと回り、かごから出したナイフやフォークをだらだらと並べながら本村はたずねた。

 長テーブルにはイスが、それぞれ向かい合わせに三脚ずつと、端の議長席に一脚、計七席が用意されていた。

 以前本村たちが来たとき同様、店内は大変な混雑ぶりだった。飾られたピンクのオープンカーに乗り込み、撮影をしている客たち。白黒ドットの制服を着た店員は、ビビッドな色彩と造形をしたスイーツの盛り合わせ————すなわちヒュプシュでカワイイプレートを持ち、客たちがうきうきとして待つテーブルの上へ次々と置いてゆく。

 本当に、これからここで特別大きな買い物の相談会が始まるとは、池脇には思えなかった。みな、非現実的な場所で怠惰な午後を過ごしたいだけの、住まいや将来のことなどどうとも思っていない、うつけなお花畑の住人のように見える。

「昨日、入学式のあと、父さんたちと飯食いに行ったんだって?」

 本村が提示したドアプランを丸めて放り、池脇は聞いた。

「そう! 入学式のあと、校内でばったり会っちゃってさ」

 嬉しそうに、本村は話した。

 それはそうだろうと、池脇は思った。式の欠席を決め込んだ、息子のことなどお構いなしに、守が朝からいそいそと車に大量の玩具の箱を積み込んでいるのを、池脇はしらけた顔で二階から眺めていた。本村は言った。

「雛町にある、ビアンカって店でごちそうしてもらったんだ。ブラジル料理とデンマーク料理が両方食べられる、多国籍カフェレストラン。ムケッカとフリッカデーラ、おいしかったなあ。ついでに僕がちまちま運ぶ予定だったメイリスの荷物、家まで届けてくれたんだよ。すごく助かっちゃった。だからさ、昨日は部屋の模様替えが楽しくて楽しくて眠れなくて。あ。池脇君のお母さんて世紀末乗り切れそうなくらい明るい人だね。息子が殺人事件の容疑者にまでなったら、入学式すっ飛ばすのなんてもう大したことじゃないって大笑いしてた。メイリスのこともかわいがってくれて、『私もそろそろ新しい服の一着でもプレゼントされたいわ。まあ、贈ってくれる人はセンスがないから期待しようがないけれど』って。おじさん、僕と二人のときはすごくおしゃべりなのに、おばさんの前だと借りてきた猫みたいになるんだね」

 池脇は手近にあったイスを乱暴に引き、大股を開いて腰かけた。手を叩いて甲高い笑いを上げる母と、丸まった背中の父の姿が目に浮かんでいた。

「本村君」

 騒がしい店内で、入口から呼びかけたのは冨樫綾子だった。

「あー。綾子ちゃん」

 本村は手を振って招いた。

 綾子は颯爽と長テーブルの方へやって来た。イラストラで会ったとき、本村たちの前で激昂したことなど少しも感じさせないどころか、凛然さはそのままに、ずいぶんといきいきした雰囲気だ。

「なんで冨樫がいんの?」

 ぼやくように池脇は言った。イスから見上げる姿は、不満げに本村と綾子ににらみを利かせているとも受け取られかねない。

「一応、第三者の意見もあった方がいいと思って」本村は答えた。

「これでも、大手ハウスメーカーの部長の娘だからね」やっと池脇を視界に入れて、綾子も言った。

 店のドアが開き、ぞろぞろと背の高い男性客が入ってきた。

 これについては池脇は想定済みだった。まさか三人揃っての登場とは、思わなかったが————。

「冴木さん、普段着で来てくださいって言ったのに」

 本村がテーブルから呼びかけた。

「俺はこれが普段着なの」

 冴木は言った。爽やかな水色のジャケットに黒のスラックス、黒のネクタイを締めていた。

「なんか、すごくファンシーな店だね」

 きょろきょろと店内を見回して、江口は言った。「僕ら場違いじゃないかな」

「そんなことないですよ。すごくとけ込んでます」

 言って本村は、池脇の向かい側の席に、冴木と江口を順にうながした。

 その後ろでことさら主張もせずに、無地のバスクシャツを着た男が立っていた。

「後藤さん、絶対来てくれないと思ってました」

「そのつもりだった、けど、先輩命令だし」

 後藤は冷ややかな視線を冴木に向けた。

「うわ、なに、その。やめてよ人をパワハラみたいに」

 慣れた調子で冴木は茶化した。

「マジで。パワハラっすよ冴木さん。一応、この子に家のこと協力するって言っちゃったから来ましたけど。こういうのもう無理ですから」

「はいはい。いいから座れ」

 人気店HKCは客が途切れることはなかった。

 後藤が江口の隣に着席しようとしたとき、入店してきた女の姿に冴木は驚き、思わず立ち上がった。

「由利子さん!」

 江口と後藤も、起立して会釈した。綾子は驚き、目を凝らして母を見た。

「遅くなってごめんなさい」

 少しばかり息を切らし、由利子は言った。すっきりとしたスプリングコートを羽織り、上等そうなハンドバッグと、大きな紙袋を手にしていた。「佐藤君、これ、頼まれてたやつね」

 由利子は紙袋の方を本村に差し出した。

「『佐藤』?」

 冴木は眉を寄せた。綾子たちも、いぶかしげな顔を浮かべた。

「ありがとうございます」

 本村は袋を受け取ると、由利子に着席をうながした。

 由利子は池脇の隣の席を一つ空け、後藤の真向かいに座った。

 綾子が軽蔑のまなざしで由利子を見た。冴木と江口も面食らっていた。

「じゃあ、はい、綾子ちゃんも座って」

 本村は、池脇と由利子の間のイスを引いた。

「え?」

 綾子は、きまりの悪そうにそこに腰をおろした。由利子にも、どこか緊張が漂っていた。

 立ち去ろうとする本村の腕を、綾子がつかんで耳打ちした。「どうしてママが来るの?」

 本村は答えた。「一応、主婦層の意見もあった方がいいと思って」

 綾子は納得いかないという風に顔をしかめた。本村はそれへの対応を微笑んで拒否して、飲み物の注文を聞いてまわり始めた。

 綾子は、池脇に耳打ちをした。「席、変わってよ」

「あん?」

「いいから、変わってよ」

 なかば強引に、綾子は池脇と席を取り換えた。張りつめた関係の、母娘の間に着席をする。父が背中を丸めたくなる気持ちが、池脇にも少し分かる気がした。

 由利子が持ち込んだ紙袋から、本村は四角い箱を取り出した。中身は、ブルーベリーの飾られたヨーグルトタルトだった。

 ピンクのティーカップや、ピンクのリボンつきのストローが挿さったアイスティー、エアトベーレミルヒなど、注文した飲み物が次々と運ばれてきた。本村が淡々と、切り分けられたタルトを皿にのせ、それぞれのもとに配った。

「では、早速ですが、春の住宅相談会を始めたいと思います」

 議長席に立つと本村は言った。

「大袈裟な。一応プライベートな集まりなんだから、気楽にやろうよ」

 場を和ますように冴木は言った。

「これ、間取りのプランです」

 本村は自身のスマホを営業の三方に向けて差し出した。先日、宮の城公園の寒空の下でちまちまと作成していたものだ。

「へー。これ、自分で作ったの?」感心しながら、江口は言った。

「よくできてるね。ここまでビジョンがはっきりしてると、俺らも助かっちゃうな」冴木は言った。

 マグロの握りが張りついたスマホが、テーブルの上をテンポよく回った。それぞれが画面を確認していく中、池脇は一見もせずにそれを見送った。起立したまま、本村は説明した。

「一階は、メイリスの部屋にするつもりです。全体に、僕の胸の高さくらいのカウンターをめぐらせて、そこにミニチュア家具を置いて、いつでもメイリスと同じ目線で過ごせるようにしたいです。二階は僕とメイリスのドレッシングルームです。フロアを半分に割って、僕の方は機能性重視、メイリスの方はショップみたいな、見せる収納ができるようにしたいです」

「うん、すごく、彼女への愛が感じられる間取りだけど————」

 遠慮深く、慎重に、江口は言った。「君の、スペースは?」

「え?」

「基本的な部分だよ。リビングとかキッチンとか」再び巡ってきた本村のスマホを見ながら、冴木は言った。「人形の部屋とクローゼットだけで生きていけんの? 寝室は? ゲストルームとか、広い駐車スペースも欲しくない?」

「これだと、言っちゃあれだけど」

 協力的でなさそうだった後藤が口を開いた。「ただの人形の展示場だよ。生活するのは、あくまで君でしょ?」

「それも、そうですね」

 ぐるりと目線を天に向けて、本村は考えた。「でも、メイリスの部屋があるならリビングを別に作る理由がないですし、料理はしないのでキッチンも必要ないですし。僕はいつでもメイリスの隣で眠るつもりなのでゲストも強制的にそうなりますし、車も買う予定はないので駐車スペースも要らないですし。あ、縁側があれば、嬉しいですけど。あまり多くは求めないです。ネット環境さえあれば、それでいいです」

「うん、今はそれでいいかもしれないけど、いろいろな可能性を考えておくべきだと思うよ」

 後藤が、冷静な口調で指摘した。

「そうそう。外食に飽きる日が来るかもしれないし、車にハマる日だって来るかもよ」

 タルトを食べながら、雑談的な調子で冴木が言った。

「これだと、人を呼ぶときに、ね。困るでしょ?」

 優しい、気遣いにあふれた表情と、口調で、江口が言った。

「困るって、どうしてですか?」

 はっきりと、本村はたずねた。問いかけであるにもかかわらず、簡潔明瞭な回答のような、気持ちのよささえあった。

「どうしてって、リビングやゲストルームがないと————」

 にこやかな表情はそのままに、助けを求めるように、江口は隣に座る冴木を見やった。

 冴木は明らかな空気の変化を察知し、気楽な相談会のアドバイザーから、顧客をなだめる営業マンへと表情をすばやく切り替え、臨戦態勢で本村の顔を見上げていた。

 本村は再度たずねた。

「人形の家なんかに、人は呼べないってことですか?」

「いや、そういうわけじゃなくて————」

 誰が見ても分かるような苦々しい作り笑顔で、江口は踏みとどまっていた。

 場を収めたのは冴木ではなく、由利子だった。

「そうよ。佐藤君がお人形さんのために建てる家なんだもの。堂々と、お人形さんのいる家に招くべきだわ」

 由利子はテーブルの端に品よく座りながら、やんわりと本村に同意した。「佐藤君だって、そのつもりなんでしょう?」

「はい、そうです」

「でも、後藤さんの言うとおり、いろいろな可能性を考えておくべきだと思うわ」

 由利子が言い、背筋を伸ばしてアイスティーを飲んでいた綾子の眉がぴくりとなった。由利子は話し続けていた。「もしも恋人ができたときは?」

「恋人、ですか?」

「そうよ」由利子は真剣な表情で言った。「大切な人と、その家で一緒に暮らすことになったら? その方との間に、子どもが生まれたら? その人たちのために、基本的な生活スペースを整えておけばよかったと、後悔するかもしれないわ」

 本村の瞳が、また、天を向いた。

 それをじっと見つめる、一同の心配をよそに、本村は軽い調子で答えた。「それも、そうですね」

「相手が見つかってからじゃ、だめなの?」

 言ったのは綾子だった。

 冴木たちがタルトを口にする中、綾子だけは、頑なにそれに手をつけようとはしなかった。「普通は、結婚したり、子どもが生まれたりしてから、家を建てるものでしょ?」

「ああ。人生の節目ってやつだね」

 気楽な表情に戻って、冴木は言った。

「まあ、一般的にはそういう人が多いね」

 態勢を持ち直して、江口も言った。

「具体的に、いつ頃とか、考えてるの?」

 ピンクのカップを手に、後藤がたずねた。

「社会人になって、お金に余裕ができたら、折を見てと思ってます」

「オリって?」

 聞きながら、冴木はブラックコーヒーを口にした。「三十代になったら、とか?」

「そこら辺はまだ決めてないですけど」本村は言った。「冴木さんはどうして、今年の初めにマクガーニを買ったんですか?」

「え? 俺?」

 驚いて、冴木はコーヒーを味わうことなく呑み込んだ。

「はい。あれだって結構大きな買い物だと思うんですけど」

「うーん。勢いかな。これを乗り回して、今年も頑張るぞっていう意味も込めて」

「でも、年初めの買い物は良くないって言うわよ」由利子が言った。

「ああ、聞いたことありますよ。散財の年になるからって」寄り添うように、江口も言った。

「そういうお前だって、カシマの靴、新調したんだろ?」冴木は言った。

「あれはセーフ。滑り込みで去年のうちに買ったから」

「分かります。年末年始って、そういう時ですよね。変化を起こしたくなるっていうか、人を衝動的にさせるっていうか」

 何度も頷きながら、本村は言った。「冴木さんがマクガーニを買ったり、江口さんがカシマの靴を新調したり。由利子さんがお菓子作りを始めたり、フルスペック36がみそ汁一杯無料サービスを始めたり、池脇いけわき奈美恵なみえさんが、自宅で転倒して亡くなったり」

「誰それ」興味なげに、冴木が聞いた。

「俺の叔母さん」冷徹な顔で、池脇は答えた。

「あ、悪い」

「いーえ」

「奈美恵さんって、雛町にある、ラ・プティット・プペの近くに住んでたらしいですよ。亡くなった冨樫さんが行きたがってたっていう、人形焼店」

 ようやく席に着きながら、本村は言った。

「ラ・プティット・プペ?」

 綾子が聞いた。「あの、ビアンカの隣の?」

「うん。綾子ちゃん知ってるの?」

「知ってるよ。私、前はよくビアンカに通ってたんだもん。パパがラ・プティット・プペに行きたがってたなんて、知らなかったな」

「奈美恵さんはカレンドールが大好きで、そして、『幸雄』さんて名前の年上の彼氏がいたらしいです」

 早速ヨーグルトタルトを食べ始めながら、本村は続けた。「すごい出来過ぎ感ありません? 同じ名前の冨樫幸雄さんが、去年まで雛町によく通っていて、奈美恵さんの家族から、奈美恵さんの遺品のドールハウスを譲り受けたなんて」

 本村の問いに、誰も、親身な答えを返さなかった。江口さえも、口を閉ざした。

 発言している本村を除く、全員のもとに、また、不穏な空気が押し寄せた。タルトを食す本村を、張りつめた顔で、由利子は見ていた。

「で、僕、昨日徹夜で部屋の模様替えをしてたら考えついちゃったんですけどね。ほら、遅くまで起きててとんでもないこと思いついちゃうときってあるじゃないですか? 大体朝起きるとしょーもないことだったりするんですけど。で、僕が思いついたしょーもないことっていうのはですね、幸雄さんは妻帯者でありながら奈美恵さんといけない関係を築いていて、奈美恵さんと会うために、頻繁に雛町に通っていた。でも、昨年末に奈美恵さんが亡くなってしまったため、雛町に通う必要がなくなった。そして奈美恵さんの形見として、カレンのドールハウスを譲り受けた。さらに幸雄さんは奈美恵さんを殺害した犯人の手がかりをつかんでいて、それを探るために、今年から犯人が住むと思われる宮の城に通い始めた。結果、それに気づいた犯人に殺されてしまったんじゃないか、ってことなんです」

 にぎやかなHKCの、フロアの真ん中で、たった一つの長テーブルだけが、ファンシーな世界からくっきりと切り離されたようだった。

 テーブルを中心に、ピンク色の、雑言だらけの背景が狂ったように回っている。誰もその場にとけ込めてなどいなかった。明らかに不適当だった。なんて、低俗な店だ————。

「じゃあ、奈美恵おばさんは他殺だったってこと?」雑音に耳を傾けてはいられないと、まず、池脇が口を切った。

「うん。多分。ごめんね」

「いや、そういう意味じゃなくて————」

「パパは、その奈美恵さんって人と、不倫してたってこと?」綾子が聞いた。

「うん。多分。ごめん、綾子ちゃん」

 本村が言うと、綾子は止まりかけた呼吸を無理やり続けるように、さりげなく深い息をしてうつむいた。皿の上にのった、つややかな白のタルトには頼れなかった。由利子は物言いたげに、本村を見つめたままだった。

 また、綾子のわきあがる気持ちが噴き出すことを、その横顔を見て、池脇は予感した。だが、綾子はうつむいたまま、当たり前に備わっていた凛然ささえもを、静かに抜き消していた。

 どんなときもぴんと伸びていた背筋が、しおれるように折れている。怒れる気持ちが、ゆく当てもなく、狭くなった胸中で跳びはね、悲しみにも、落胆にも、無にも変われることを、池脇は知っていた。

「幸雄さんがドールハウスを引き取りに来たとき、初対面のはずのお父さんと、十年来の友だちみたいだったって、池脇君、言ってたよね?」本村は聞いた。

「ああ」

 はっと綾子から目をそらし、池脇は答えた。

「それは多分、奈美恵さんの遺品整理のときに、二人がもう知り合ってたからなんだよ。普通はさ、不倫相手の遺品整理になんて顔出せないし、奈美恵さんの家族にだって、自分が結婚してることは隠しておきたいはずでしょ? でも、それを打ち明けたのは、幸雄さんのせめてもの誠意なんだよ。池脇君のお父さんはそれに応えるために、二人の関係を、黙っていようと決めたんだと思う」

 それは思慮深い判断だ、などと池脇は思えなかった。よその家庭を引っ掻き回せとは言わないが、事件が起きてもなお、冨樫幸雄と叔母との関係を秘めたままにしておくのは、問題だろうと感じていた。

 声には出さずに、池脇の険しい顔はぶつぶつと思案し始めた。それを見送って、本村は反対側の席にぱたりと顔を向けた。

「幸雄さんが誰のことを探っていたか、心当たりなんてありませんかね? 江口さん」

「え、僕?」

 小さく動揺しながら、江口は言った。

「だって、宮の城に住んでますよね?」

「まあ、そうだけど……」

 気まずそうに、江口は言った。卓上の視線が、一斉に江口へと向けられた。

「ゴミは自治体回収ですよね? 江口さんのマンション。分別、大変そうですね。ゴミ袋、何色でしたっけ? 赤、白、黄色————あとは————?」

 江口は答えに詰まった。後藤が少し驚いた表情で、隣に座る江口を見た。本村は言った。

「知るはずないですよね。わざわざ、色つきの、有料のゴミ袋を買って、分別するのなんて面倒ですもんね。それに砂生川沿いだと鞠尾の夜景がうるさくて、『夜の来ないその場所にひっそりと佇むドールハウス』に逃避するのは難しいですし、人形なんて家に置いていたら、人も呼べませんしね。だから休みの日は、適当に詰めたゴミ袋と、替えのスーツが入ったガーメントバッグを持って、出窓のある、自由気ままな姉妹たちが待つセカンドハウスに帰るんですよね、細田ほそだひびきさん」

 江口の顔には、苦い笑みさえなかった。寛大な心を持って、抑えていた気持ち。それが、焦りを引き連れ現れていた。

「ブロンドのカレンはカシマの箱の中ですか?」

 本村は聞いた。「そりゃあ、微妙に睫毛が短い、身長が三ミリ低くなってる付属品はレアだから、コレクターにとっては堪らなかったんでしょうけど。だからって盗むのはよくないと思いますよ。ほとぼりが冷めるまでセカンドハウスに行って撮影した写真を投稿するのは控えてたんでしょうけど。どの道バレちゃってたと思います。人形がなくなってること、僕、警察の人に告げ口しちゃいましたし」

 江口は腿に手を置き、黙りこくっていた。それから、少しして、口を開いた。

「人形は、盗みました」

 斜め向かいに座る由利子に対し、真摯な態度で、江口は述べた。「それはお詫びします。けど、僕は部長を殺してません」

 一同の視線が、今度は由利子に向けられた。由利子は戸惑い、返事を模索していた。

「そういえばおばさん、今日はカシマのバッグじゃないんですね」本村はたずねた。

「え? ええ、あれは————」

「あれは宮の城の、後藤さんが住むマンションに通うときのバッグですよね」

 本村が言うと同時に、綾子は後藤の顔を見やった。あからさまなにらみ面は引っ込めている。だが、強い軽蔑と嫌悪の圧線が、派手な目元から放たれていた。

 弁解する気などさらさらないが、という冷めきった顔で、後藤は言った。「君の勘違いだよ」

「あのね、綾子ちゃんのお母さんは、友だちと一緒にお菓子作りをしてたんだよ。宮の城の、後藤さんと同じマンションに住む、友だちの家で」本村が説明した。

 綾子は池脇の体越しに、ほとんどおそるおそる、ゆっくりと、由利子の方を見た。

 由利子はそれを受け止めるように、小さく頷いた。

「なんで、隠してたの」つぶやくように、綾子は言った。

「それは綾子ちゃんも分かることだと思うよ」本村が言った。

「え?」

「お父さん、厳しかったんでしょ? もしもお母さんがお菓子作りを始めるために、友だちの家に頻繁に通うなんて言い出したら————しかもその友だちと、宮の城に店を開くなんて言い出したら、お父さん、なんて言ったと思う?」

 綾子は眉をひそめて、もう一度由利子を見た。申し訳なさそうに、由利子は言った。

「……言わなくちゃいけないとは、思ってたの。だからせめて、綾子の受験が落ち着いて、それから、報告しようと思っていたところだったの……」

「でもその前に、綾子ちゃん、お母さんと口利かなくなっちゃったでしょ? だから、言い出しづらくなっちゃったんだよ」本村は言った。

 後藤から逃れるように、綾子はうつむいた。それを気遣ってか、呆れてか、後藤は、さして見たくもないであろうピンク色の背景へ視線を投げた。

「話を戻しますね」

 本村は言った。

「奈美恵さんの死後、犯人によって奈美恵さんの部屋から持ち出されたものが二つあります。一つは黒髪のカレンドール。もう一つは、マーシワールのドレスです。冴木さんのお気に入りのブランドですよね」

「は? 知らねえよ、俺、奈美恵なんて人」

 すぐさまキツい口調で、冴木は否定した。

「ほんとですか? SNSをたどってったら、一人くらいはいるんじゃないですか?」

「お前よ、いい加減にしろよ。他人の内情引っ掻き回してそんなに楽————」

「どうすんだよ、そんなもん盗んで」

 眉をひそめて、池脇が聞いた。

「どうするって、分かるでしょ。一緒に暮らすんだよ。人形を、奈美恵さんの身代わりにして。奈美恵さんが着ていた服の生地から作った、ドレスを着せて」

 池脇を見てあっさりと言うと、本村はエアトベーレミルヒをみるみるうちに飲み干した。それから、口元に曲線を引くようににっこりと笑い、一同を見渡した。

「服の特徴って、柄やロゴだけじゃないんですよ。シンプルな無地のものでも、首回りや、袖の太さや、裾の形とか、些細な部分に、作り手のこだわりがあったりするんです。それが自分の気に入った形だったりすると、ずっと着続けたいって思うんですよね。でも、服って消耗品ですから。着れば着るほど、維持していくのが大変なんです」

 本村は立ち上がり、歩き出した。

「秀麗なパターンはすぐ分かるんです」

 後藤の背後から、本村は言った。

「『TOONトゥーン』っていうらしいですね、そのブランド。こないだ宮の城に新しくできた服屋で聞いてきました。アボリジナルアートをモチーフにしていて、無地のデザインのものは絶対に存在しないそうです。誰かがその服をバラして、パターンをトレースしたりしないかぎりは。ちなみに本物には、ヘビのロゴが入った虹色のタグがついてるんですよ」

 本村は狙いを定めたように、後藤のシャツの襟ぐりを見ていた。

 後藤は座ったまま、静かに、気怠そうに、本村を見上げた。彫刻のような、美しい顔————。

「だから何? 俺が洋裁してるのが、意外だって話?」

 後藤の冷たい表情に、本村は微笑みを返した。

 テーブルの端の、後藤と、由利子との間に立ち、本村は続けた。

「幸雄さんが池脇君のお父さんから譲り受けたものが、ドールハウスの他にもう一つあります」

 さあ、なんでしょうという風に、本村は間を置いた。

 一同は見当もつかず、本村の解答を待つため、騒がしい店内で耳を傾けた。池脇がはっと思い出しかけたとき、本村は言った。

「たった一枚の、マーシワールの紙袋。池脇君のご両親は、レア物だったその紙袋を、幸雄さんがネットか何かで売るのだと思ったそうです。でも、物が捨てられない性格の奈美恵さんの部屋には、ブランド物の箱や紙袋なら、他にもたくさんあったそうですよ。なのに、その中からたった一枚を、わざわざお金に換えようと持ち帰ったりしますか? ねえ冴木さん」

「はい?」

 びくりとなって、冴木は答えた。続けざまに本村は聞いた。

「マーシワールの紙袋は何色でしたっけ?」

「白、だけど————」

 たどたどしい口調で、冴木は言った。

「けど?」

「いや、普段は白地にゴールドのロゴが入ったショッパーなんだけど」

 調子を取り戻し、冴木は説明し始めた。

「ホリデーシーズン限定のやつは、赤なんだよ。ロゴがシルバーの————」

 本村は、斜め横ですまし顔を続ける男を見下ろした。

「ですって。後藤さん。よく知ってましたね。限定アイテムの、ロゴの色がシルバーだって。ブランドに、疎いのに」

「だって、冴木さんが」

 嘲笑うように、後藤は言った。

「え?」

 怪訝な顔で、冴木は後藤の方を見た。

「俺、仕事にはつけていかないよ、マーシワールは————」

 後藤の嘲り顔が、一瞬にして冷淡な真顔に戻った。いつもの、余裕が消えていた。血のかよった不快感が、彫刻の顔に表れていた。

「昨年、幸雄さんはクリスマスプレゼントとして、奈美恵さんにマーシワールのドレスを贈った。でもそのすぐあとに奈美恵さんが亡くなり、遺品整理のとき、ドレスがなくなっていることに気がついた。幸雄さんはショックだったと思います。でも、そんなこと、奈美恵さんの家族には言えませんよね。自分が贈ったプレゼント、気に食わなかったようで、ソッコー売られたか処分されたかしたみたいなんですけど、知りませんか、なんて。でも、幸雄さんにとってはそのクリスマスプレゼントが奈美恵さんとの最後の思い出だった。だからなくなく、紙袋だけを、引き取ることにしたんです」

 一同に向かってなめらかに、長々と、本村は述べた。後ろに、ピンク色の背景が広がっている。一足お先に、とでもいうように、やっかいな現実に閉じ込められた池脇たちを眺めているようだった。

 本村は後藤を見やった。

 凛々しく、まぶしい瞳が、笑顔の中で、憐れんだ。

「あなたのメイリスは、今も他の男のドレスを着ています」

 後藤は顔を上げた。

 誰の存在をも軽んじてきた厭人な瞳が、熱烈なまなざしで本村に焦点を合わせた。

 荒々しい音を立て、後藤は立ち上がった。

 手元のフォークをつかみ取り、本村へ向かって振りかざした。

 悲鳴が上がった。

 冴木と江口が、まっさきに後藤を羽交い締めにした。

 花野で退屈をしのいでいた住人たちは物騒な現実に引き戻され、一斉に壁際へと離れた。四、五名の男たちがかけ寄り、後藤を取り押さえた。その中には、佐野と相原の姿もあった。

 予期せぬ指名でも受けたように、当てもなく、ただぬるりと、池脇は立ち尽くしていた。間違いなく動揺していた。正しい選択が分からなかった。

 本村は両手を上げ、固まっていた。流れていたらしいBGMが、ようやく、鮮明に響いて聞こえた。

 冷静を取り戻したかに見えた後藤が再び荒ぶり、腕を振り乱してタルトにフォークを突き刺した。冷たい瞳は、たがが外れた獣のように、獰猛で、衝動的な有様となっていた。

 後藤は由利子を見てにたりと笑った。

「ばっかじゃねえの。夫が不倫してるのに、呑気にお菓子作りだぁ?」

 由利子は恐怖し、両手で口元を押さえた。

 綾子が、由利子の肩を抱いた。地面を這いずる、醜い、けだものでも見るように、綾子は目を潤ませ、自分が一瞬でも〝美しいもの〟と信じたそれを見下ろした。

 後藤はなおも荒々しく罵った。

「夫婦なら、人様に迷惑かけないようにきっちり管理しとけよな!」

 物々しい雰囲気で、刑事たちは後藤を連行した。後藤のシャツはすっかり乱れ、伸び上がり、自慢の型をなくしていた。

 店のドアに向かうまでの間、後藤は綾子に向かって叫び続けた。

「お前もだよ! 最初っから俺の顔しか見てなかったくせに、勝手に勘違いして、勝手に敵視しやがって! お前の望むとおり、顔がいいだけのクズになってやったよ! 満足かよ!」

 後藤は外に連れ出された。

 最後に佐野が、本村と池脇に軽い目配せをし、小窓つきの、ヒュプシーなドアを閉めた。

 冴木がスマホを手に取った。


  □フォーク





 その後、後藤のマンションの家宅捜索が行われた。

 2LDKの、広々とした住まい。

 複数のゴミ箱が用意された、ほとんど使われたようすのないキッチン。ウィメンズサイズの洋服ばかりが掛かった衣装部屋。

 室内のいたるところから、池脇奈美恵のものと思われる指紋や毛髪が、寝室の隅に置かれた裁縫セットからは、冨樫幸雄の殺害に使用されたハサミと揃いのデザインの、糸切りバサミが発見された。

 どの部屋も分厚いカーテンで閉め切られ、暗く陰っていた。後藤自身の荷物は少なく、仕事と裁縫の道具以外、その人柄を表すものはほとんど見受けられなかった。

 ただ一つ、リビングルームだけが、後藤の欲望を濃々と誇示しているようだった。

 重々しい、南京錠が取り付けられたドア。入口から壁際まで隙間なく敷かれた、深紫の絨毯。窓辺やダイニングを覆い隠すように、壁にぐるりと張り巡らされたフリルの幔幕。

 家具はほとんどないが、部屋の真ん中に、アンティーク調の小さなテーブルとソファが一組置かれ、その周りを、いくつもの燭台が取り巻いていた。テーブルの上には、錬鉄製の鳥かごが一挺、置かれていた。

 鳥かごの中に、ピンクと緑のマドラスチェックのドレスを着た、黒髪のカレンドールが入っていた。人形は、かごの中からつぶらな瞳を輝かせ、何不自由ない充足の中にいるように、愛らしく微笑んでいた。

 池脇奈美恵は、陰鬱に捻れた、代わり映えのしない夜に、閉じ籠められたままだった————。

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