13

 次の日曜、本村は再び池脇家を訪れた。

 手には、桜を背景に少女の絵が描かれた、紙袋があった。

 守は本村との再会をひどく喜んだ。和室には、まだ運び出されていない玩具の箱が置かれたままになっていた。

 本村は座布団に落ち着くと、紙袋の中身を取り出した。包装紙で包まれた、中程度の箱だった。

「ああ、これ」

 思わず守は言った。「雛町にあるお菓子屋さんだよね。なんたっけ、ラピ、ラピ————」

「ラ・プティット・プペです」

「あ、そうそう。かわいい袋だね」

「期間限定の、『サクラバージョン』らしいですよ」

「なるほど。うちのがさ、前々から食べたいって言ってたんだよ」

 守は、改まって菓子折りを開いた。星型の焼き菓子と、くまの形の焼き菓子が、三つずつ入っている。

「なんだか、食べるのが勿体ないね」

 守は小さく笑った。

 牛乳でいいかい? と、守は立ち上がりながらたずねた。

 しっかりと正座したまま、本村は答えた。

「冷たいお茶がいいです」

 守は福々と口角を上げながら台所へ飲み物を取りに行った。

 ピンクのナイロンパーカーにピンクのパンツ。ピンクのラメ入りのソックスと、傍らに置かれたピンクのスケルトンバッグ。玄関では大ぶりのピンクのスニーカーを見た。

 対して頭は雑然としていて、寝癖と思われる毛束が、十時十五分を指している。

 自分とも、息子とも毛色のちがう風変わりな少年が、風変わりなままそこにいてくれることが、嬉しかった。

「徹也君は?」

 守が冷たいウーロン茶と温かいほうじ茶を持って戻ると、本村はたずねた。

「上にいるよ。明日入学式だから、ナーバスになってるんじゃないのかな。あの顔とあのガタイで、意外と小心者だからね。あれでほんとに殺人犯だったら、びっくりだね」

「その冗談はさすがに笑えないです、おじさん」

「ああ、ごめんごめん」

 つい調子に乗りすぎてしまったと、守は小さく自省した。

「こっちがカスタードで、こっちがチョコレートなんですよ」

 菓子折りの中身を指して、本村は説明した。

「へーえ。僕の知ってる人形焼とは、ずいぶんちがうんだね」

 くまの方をつまみ上げ、守は言った。

「僕の知ってるのとも、ちがいます」

 本村はウーロン茶を飲んだ。

「何もかも、変わっていくね」

 守は小ぐまの頭を躊躇なくかじった。「僕は、昔ながらの素朴なやつだって、味があっていいと思うんだけど……。本を読むにも、いまだに紙じゃなきゃだめなんだ。もう何年かしたら、脳にチップが入って、機械が頭の中で朗読をしてくれて、ページをめくる必要も、文字を追う必要もなくなって、眠るみたいに、読書ができるようになったりしてね。それを、『読書』と呼ぶのかは、分からないけど……そういうのは、やだなあ。この家だって、徹也が————見れば分かると思うんだけど————あいつ、上品さのかけらもないだろう? 玄関の戸をさ、親の仇みたいに、すごい音立てて閉めるんだよ。注意したら、新しいのにすればいいって。自分が十五年も暮らした家に、愛着はないのかって。こないだなんか宮の城に行ったんだけど、ちょっと見ない間に遊園地みたいな町になっちゃってて。少し休もうと思って喫茶店に入ったら、現金は使えないって言うんだ。あれにはびっくりしたね。SF小説の世界かと思ったよ。昔はのんびり散歩ができるような町だったのに……。僕がおじいさんになるころには、勝手が分からなくて、家に引きこもるしかなくなるかもね」

「宮の城でも、公園側はまだ静かなもんですよ」

 ころりと丸い星を食べながら、本村は言った。

「よく行くのかい? 宮の城」

「行きますよ。今日も行ってきました。砂生川沿いを散歩して、こないだ見つけた新しい服屋に寄ったりして。すごいんですよ。外観は、ちょっとおしゃれなカフェみたいなんですけど、洋服が、画廊みたいに額に入って並んでるんです。服のデザインもアートの一つとして捉えるっていう趣向の店らしいですよ。どれも高額で手が出せませんでしたけど」

「アート、か。僕みたいな、普段着もよそ行きも代わり映えしないようなおじさんには、よく分からないな」

「僕もさすがに、額に入れて飾るまではしないですね。レア物のスニーカー、履かずにずっと取っておく人とか、いるじゃないですか。ああいうのもできないです。買ったそばから、履いて歩きたくなっちゃうんで。僕、やっぱりコレクタータイプじゃないのかもしれませんね」

「『ギター・ギャン』、だっけ? 流行ってる、スニーカー」

「そうです。知ってるんですか、ギター・ギャン」

「前に買ったんだよ。徹也に。着るものなんて、なんでもいいって言うやつだったのに。去年の、終わりくらいかな。急にTシャツなんか集めだして。それもなんていうか、親からしたら、ちょっと暴力的というか、非人道的な————」

「ああ、ヘビメタTですね。安心してください。ただのファッションですよ。別に本気で悪魔を崇拝してるとか、暴力行為がしたいと思ってるわけじゃないんです————ほとんどの人は」

「そうなのかい? なら、いいんだけど……。昔から、あんまりおもちゃとかゲームとか、ねだらない子でさ。あんなかわいげのない、もう高校生にもなる歳の子だけど、それでも、親からしたらいつまでも子どもなんだな。スマホで洋服見てるの、覗いちゃったときに、つい親心っていうか。何か欲しいものあるのかって聞いたら、そのスニーカーでさ。きみどり色の、妙にギラギラしたやつ」

「あ。バブルガムボーイシリーズのディスコティック×シトラスですね。僕が初めてここに来たとき、履いてきたのもそうですよ。色違いのやつ。徹也君も持ってたんですね。履いてるの、見たことないですけど」

「それがね……」

 守は渋い顔を浮かべた。

「事件の日に履いてたのが、そのスニーカーだったらしいんだよ。捨てたわけじゃなさそうだけど、そりゃあ、やっぱり、履きたくもなくなるよね」

 守は、至って穏やかな表情で茶をすすった。


 かわいげのない、息子の気持ちを思えば————。

 手の中で温もりをそやすその茶湯を、ぶちまけてやりたいほど、腹立たしく、不甲斐ない。

 勇んで叫べばよかったか。大袈裟なと笑われるまで、足掻き倒せばよかったか。

 息子が、否と言うのなら。それが真実なら。

 潔白だ。安心だ。あとは他人に任せてしまおうと、気楽に、呑気に、居心地のよい古家に落ち着いたのだ。

 無知だった。浅はかだった。ここにあるのはみすぼらしい木々と、添えものにもならない雑草ばかりだというのに。

 さも、花野にでもいる気分で、茶を飲みすぎていた。

 想像力のない親だった。

 小説の中では、些細な動作を疑い、展開を予期し、何気ない言葉に、敏感になれるというのに。

 あの蔓が、じりじりと。

 あの子の脚を、腕を。

 首を、絞めるだろう。

 じりじりと、じりじりと。

 だから、見よ、この庭を————。


「おじさん?」

 温和な響きに、守は湯呑みからやっと目を離して顔を上げた。

 おそるおそる、ガラス戸を見やる。

 観賞を放棄された殺風景な小庭が、映りを変えずにそこにある。

「僕、憧れるんですよね。縁側って」

 同じように庭先を見つめながら、本村は言った。慰めのつもりなのだろうと、守は思った。

「若い子でも、そんな風に思うものかい?」

「僕らの世代だからじゃないですか。ないものねだりなんですよ。うち、ばあちゃんちにも、縁側がなかったので。ドラマとかだと、たまに見るじゃないですか。登場人物がそこでごろごろしたりして。そういうの、いいなって。徹也君はしないんですか?」

「してるしてる。事件のあとは、特に寝転がってることが多くて。自分の部屋か、居間のソファか、この縁側」

「ああ、やっぱり」

 風など吹いていなかった。

 だがこの男は、時たま、眼前にある曇りも淀みも、事なかれという顔で、一陣の風を呼びつけて、爽々と、咲うのだ。

「僕も好きです。この、小さくて地味な庭」

 それは、ありがたいなと、守は控えめに言って茶をすすった。


 おちゃらけた、身なりだけを見て取れば。

 物腰に頷けば。発せられる声を聞けば。

 丸め込めてしまえそうだと、思ってしまう。

 が、分かっているのだ。その瞳の有様に、気づいてしまった自分には。

 つけ入ってはいけないと、もう、納得したことではないか————。


「他には? 宮の城では、洋服屋さん以外にも何か面白いものはあったかい?」

 これ以上気を使わせるまいと、守は話題を変えた。

「その、画廊みたいな服屋の近くに、また新しいカフェができるみたいですよ。カフェばっか作って、宮の城民のカフェイン摂取量とか大丈夫かなって思うんですけど。それから、明後日に宮の城で春の住宅相談会があるので、それの下見とかしてました」

「住宅相談会?」

「そうです。それから、メイリスの新しい服も引き取りに行ってきました。すごくかわいく仕上がってたので、着せていくのが楽しみで」

「住宅相談会に?」

「いいえ、パーティーがあるんです。っていっても、ただの楽しいパーティーですよ? すごく急だったんですけど、無理言って作ってもらって。僕、こういうの初めてなんですけど、パーティーの準備って結構大変なんですね。招待状出したり食べ物発注したり。誰かに丸投げしたくなりました」

「忙しいんだね、本村君」

「はい、忙しいんです、僕」

 言って、本村はのんびりと星のかけらをかじった。

「これね」

 守は遠慮がちに、座卓の下から何かを取り出した。ピンクのベロアの生地が張られた、手乗りサイズの、背もたれの高いアームチェアだった。

「なんですか?」

 本村はたずねた。自分が仕分けた玩具の中に、その椅子を見た覚えがなかった。

「今日は、連れてきてないのかい? その————」

 守は、ちらちらと本村のそばに置かれたスケルトンバッグを見やった。「メイリスさんは————」

「いますよ」

 本村はバッグをさぐりだした。

 取り出されたメイリス人形は、チュールがたっぷりとついたクリーム色のドレスを着て、栗毛をゆるやかに巻き、赤い小花が点々と咲いたゴールドの冠を頭に載せていた。

「本村君のこと、話したらね、うちのが張り切っちゃって」守は言った。「性格は大雑把なのに、こういう、ちまちましたもの、作るの好きなんだよ。上手いもんでしょ? 本村君も、きっとこだわりがあるだろうからやめといた方がいいって言ったんだけど、うちには人形用の座布団がないし、あったとしても、正座させるのは難しいんだって? そんなに大事にしてるなら、また、遊びに来てくれたときに困るでしょって————」

 聞きながら、本村はメイリスを椅子に座らせ、花冠の位置や、栗毛の流れ、チュールの膨らみを整えていた。とっさに、守は言った。

「あ、いいんだよ。無理に使わなくても。メイリスさんも、本村君の膝の上の方が、落ち着くだろうし————」

「いいえ」

 メイリスにおもいきりの無表情をぐっと近づけ、本村は言った。メイリスは、光沢を帯びたストロベリー色の椅子に座り、クリーム色のチュールにうずもれながら、甘やかに微笑みかける。「すっごく嬉しいです」

「……別に、媚を売るつもりなんて、なかったんだけどね」

 こめかみを掻き、守は言った。「今日、本村君が来るって聞いて、気がついたんだ。恥ずかしい話だけど、期待してるんだよ、僕ら夫婦は。その、本村君に、面倒見てもらおう、なんて————」

 本村はメイリスに顔を寄せたまま、守の方へ視線を向けた。守は続けた。

「味方になってくれる人がいてくれたら、心強いけど、本来は、僕ら家族の問題だし、周りに迷惑をかけるわけにはいかない。徹也と同い年だっていうなら、尚のことだよ。でも、どこかで思ってるんだ。噂話なんか気にしないっていう、心優しい誰かが、そばにいて、そのまま、何事もなかったように切り抜けられたら、ラッキーじゃないかって。情けない親だろう? でも、偽ったところで、本村君には、なんだか見透かされてしまうような気がしてね」

 守は三度こめかみを掻いた。

 本村はゆっくりと体を起こし、考えた。

 表情は真剣そのものだった。だがその周りには、ひなたに佇むような、うららかな空気が漂っていた。本村は言った。「頼まれても、僕は誰の面倒も見るつもりはないです」

 守は、本村の顔を見た。予期していた答えだった。それでも、少し、淋しい気持ちにはなった。本村は続けた。

「それに、おじさんは何か誤解しています。僕みたいな人間と一緒にいて迷惑を被るのは、徹也君の方なんです」


 なぜ?

 そう、たずねようとして、守は踏みとどまった。

 少女趣味だよね————。

 初めて会った日に、自分が漏らした言葉を、まざまざと、思い返していた。


「世の中には、見えない線がたくさん張られているんです。そこからはみ出ても、怒られることはないし、それどころか、個性だとか、自由だとか、面白いって言われたりもします。けど、それがどういう意味かなんて、本当のところは分かり得ないので」

 本村は瞳を伏せて、椅子に座るメイリスを見た。そして言った。

「おばさんは、明日来ますか?」

「え?」

「入学式。直接会って、椅子のお礼がしたいです」

「ああ、その予定だけど、一応は————」

 守は言葉を濁した。

「来るといいですね、池脇君」

 本村は顔を上げて守の方を見た。

 凛々しい瞳の映える、爽やかな笑顔————。

「明日、四人で会えたらいいですね」


 守は躊躇した。

 その、笑顔を受け取る資格が、自分にあると思えなかった。

 あそこの息子がやらかしたらしい————。

 そんな、刺すような風を、この、平凡な住宅街で守は聞いた。

 我が身のことではないと、知らないふりをした。

 自分が、誰かを————たかだか十五の少年を突き刺しているとは、思いもせずに————。


「手土産なんて、要らないから」

 座卓を間に、少年と向き合い、深々と、守は言った。

「いつでも遊びにおいで。見られるような庭も、洒落た茶菓子もないけど、椅子を用意して、待ってる」

 暖かい陽気の中で。

 本村は頷いた。それから二人で、残った人形焼を、こっそり平らげた。

 次の日、岩月市の桜は満開になった。

 池脇は、入学式に出なかった。

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