砂生川を間にはさんで、東に宮の城が、西には鞠尾まりおがあった。

 鞠尾は、夜が来ればひと際にぎわう歓楽街となる。大きなイベントなどなくとも、毎晩、なめらかに移り変わる商業ビルの白々とした照明が、さあ、やって来ましたとばかりに通行人の解放欲をあおる。

 おかげで、宮の城の中でも砂生川沿いは、閑静な住宅街ながら、川越しに鞠尾の夜景を望むことのできる絶景地だった。

 そこから、鞠尾の象徴とでも言うべき、『ランプタワー』と呼ばれる細長なビルを真正面に見据えられ、大木とベンチがそばに置かれたマンションは、ただ一つだった。


 町民意識の高さを示すように、江口が住むと思われるそのマンションの脇にも、植栽風のゴミ集積ボックスが設置されていた。

 本村は河川側からマンションの外観を仰ぎ、首を傾けた。「これって、あの写真の窓とはちがうよね」

 それは事件のあとにSNSの投稿が途絶えた、『Hibiki Hosoda』のアカウントのことだった。

 投稿された写真には、ミニチュアのテーブルが置かれた出窓が写っていた。「後藤さんのマンションにも、出窓なんてなかったんだよね」

「じゃああのアカウントは、冴木の裏アカってこと?」池脇は言った。「俺はあいつが休みの日にちまちま人形の写真撮ってネットに上げるようなやつには見えないんだけど」

「さあ。人は見かけによらないんじゃない」

 そう言って、本村はマンションのエントランスへ向かった。それから、インターフォンで三階から上の部屋番号を順に鳴らした。「江口さんですか? 久留美の物件のことでご相談に伺いました」

 留守と空振りが続いた。このままでは、大木の下で人形遊びでもするしかないと思われた。

 だが、403号室まで来たところで、住人がぽろりとこぼした。

「ああ、江口さんは上の階ですよ」

 それは、明らかな親切心だった。

 本村は403の住人に謝罪と礼を述べ、すぐさま503号室を呼び出した。

「よかったね。江口さんが今時珍しい近所付き合い怠らない人で」

 一仕事終えたように肩の力を抜き、安堵の表情でインターフォンの前に立ちながら本村は言った。池脇はいたたまれない気持ちをもみ消した。

 間を置くことなく、トゲのない穏やかな声が応答をした。

 本村は告げた。「あの、僕、冨樫綾子さんの代理人の、本村っていいます。『モリサワハウス』にお勤めの、江口さんですよね?」

「はい?」

 503の住人は言った。

「単刀直入に言います。先日亡くなった、冨樫幸雄さんの事件のことで伺いました」

「冨樫部長の?」

「そうです。僕たち、綾子ちゃんを助けたいんです。協力してもらえませんか?」

「僕たちって?」

「あの、連れがいます」

 本村はカメラの前にふてぶてしい顔の池脇を引きずり出した。

「怪しいもんじゃありません。綾子ちゃんと一緒に撮った写真もあります。あ、モニター越しじゃ、分かりづらいかも————」

 本村がカメラに向かってスマホを寄せたり、引いたりしていると、男はふいに、落ち着いた声で「どうぞ」と言った。

 二人は、自動ドアを抜けて中へ進んだ。

「なんだよ、それ」

 エレベーターに乗りながら、池脇は先の写真の件をたずねた。

「うーん」

 本村は、自分と、綾子が並んで写っている画像を拡大しながらうなった。

「多少コラった」


 江口の部屋は雑然としたワンルームだった。

 玄関にはサンダルが一足、その脇の簡易的な小さなラックには、革靴が何足か並んでいた。

 ソファベッドの上は物置と化しているようで、ラップトップや衣類やマンガ、『KASHIMA』と書かれた黒い箱、薄っぺらいナイロンバッグなどが放り置かれていた。

 キッチンとローテーブルとの中間地点には、大きな透明のゴミ袋が、オブジェのように鎮座している。人形の姉妹どころか、古めかしい木の椅子も、ミニチュアのテーブルが設置できそうな出窓も、部屋の中には見受けられない。

「ごめんね、来客用のイスとかなくて」

 江口は小さな冷蔵庫をあさりながら言った。噂通りのすらりとした長身で、メガネをかけた温厚そうな男だった。「そこら辺、適当に座っていいから」

「あ、お構いなく。突然お伺いしてすみません」本村は言った。

 本村と池脇はローテーブルの前に正座していた。キッチンから戻ってきた江口が小さく笑いながら、楽にしていいよ、と言うので、池脇は素直に胡座をかいた。

 江口はペットボトルのままの『鬼炭酸おにたんさん小笠原おがさわらレモン』を三本、テーブルの上に置いた。

「それで、何が聞きたいの?」

 江口はペットボトルを開けながら、身構えるようすもなく言った。

「綾子ちゃんのお母さん————つまり、冨樫幸雄さんの奥さんと、部下の後藤秀徳さんが、不倫してるんじゃないかって話です」

 本村は正座のまま話し出した。

「そして、二人が共謀して冨樫さんを殺害したと————。でも僕、綾子ちゃんの話から察するに、まだ確証がないんじゃないかって思うんです。それなのに、綾子ちゃん、自分のお母さんのこと、疑ってばっかりで————。だから、後藤さんの同僚で、同じ宮の城に住んでる江口さんに、話を聞きに来たんです。二人のこと、何か見たり、聞いたりしていませんか?」

「あの後藤が? まさか」

 江口は炭酸を飲み込んで笑いながら言った。

「そもそも、あいつが色恋に興味あるかも疑わしいよ。あいつ、プライベートは謎に包まれてるからさ。ほんと、何が好きで何に興味あるとか、さっぱりだし。休みの日、何してるのって聞いても、特に何もって。恋愛どうのこうのっていうより、人に興味がないっていうか。それで営業の仕事務まるの?って話なんだけど、あいつモデルばりに顔もスタイルもよくてさ。顧客の奥様伝いにどんどん噂が広まって、名指しで仕事取ってくるんだよ。あ、今のは悪口じゃないよ。ただの妬み」

「へーえ。淡泊な人なんですね、後藤さんて」

「まあ、人は見かけによらないとも言うしね。あれであいつが休日に人妻ひっかけて遊んだりしてるっていうなら、相当面白いけどね。あ、うそうそ。今の綾子ちゃんには言わないでね」

「はい。言いません。実はさっき、後藤さんのマンションにも行ってきたんですよ。留守だったんですけど」

「うーん。どこにいるのか僕には見当もつかないな。居留守でも使ってるんじゃない?」

「ああ。なるほど。人嫌いなら、その可能性もありますね」

 本村は納得して、鬼の炭酸水を飲み込んだ。「お゛う」

「不倫と関係あるか、分からないけど————」

 知的な表情で、江口は言い出した。

「今年に入って、宮の城でよく、冨樫部長の車を見たよ」

「それって、後藤さんのマンションの近くですか?」

「僕、君たちより後藤のこと知らないんだ」

 江口は冗談っぽく言った。「あいつ、宮の城のどの辺に住んでるの?」

「宮の城公園のすぐそばですよ。フルスペとミスオレがある方」

「いや、そっち側よりは、カフェとかある————ほら、最近ごちゃついてきた方。部長が宮の城エリアの顧客を直々に担当してるなんて話、聞いてなかったし、部長の家、久留美だから、ちょっと気にはなってたんだよね。でも、部長もあれで新しもの好きだったから。前はよく雛町に通ってたらしいんだけど————。なんだっけ、プチ——プピ————パピプペポ? みたいな名前のスイーツ店が気になってるって。でもそのうち、宮の城の方もおしゃれになってきて。だからさ、部長も、流行りに合わせて乗り替えたのかもね」

「ぱぴぷぺぽ、ですか————」

 考え始めた、本村と、黙ったままの、池脇を、江口は笑みを浮かべてじっと見つめていた。

 池脇と江口は目が合った。江口は言った。

「怪しいのは、その二人だけ?」

 本村は『ぱぴぷぺぽ』の連想ゲームをやめた。

「僕や後藤のことを知ってるってことは、もちろん、冴木のことも調査済みだよね?」

 江口はスマホを取り出して本村たちに見せた。そこには、警官と向かい合う池脇の写真があった。「冴木から送られてきたんだ。部長を殺したのはこいつだって」

「俺の顔を知ってて、どうして中に入れたんすか?」

 沈黙していた池脇が、腹立たしいとばかりに口を開いた。

「君が犯人だとして、僕に殺されるいわれはないからね。だとしたら、自分の潔白を証明するために真犯人を捜してるのかなって。めぼしい情報を提供することはできないかもしれないけど、話くらいなら、いくらでも聞くよ」

「おばさんの言うとおり、優しいんですね、江口さんって」本村は言った。

「え?」

「綾子ちゃんのお母さんです。すごく優しくて気のつく人だって、言ってました」

由利子ゆりこさんの方にも事情聴取したんだ? 警察顔負けだね、君たち」

 参ったという風に、江口は笑った。

「事件のとき、リビングにあったドールハウスの箱、二階に運んだの、江口さんだそうですね」

「そうだよ。警察の人が調べるだけ調べて、置いて帰っちゃったらしいんだよ。リビングに置きっぱなしじゃ、何かと不便だろうと思って」

「その時、何かおかしなところはありませんでしたか?」

「うーん。事が事だから少し疲れていたようだけど、それ以外は————」

「あ、ちがいます。おばさんじゃなくて、ドールハウスの方です」

「ああ、いや、別に。意外と重くて、男の僕でも運ぶのが結構大変だったくらいで————」

「一緒に、黄色いリボンが置いてあるのを見たんですけど、それを運んだのも江口さんですか?」

「そうだよ。箱の上に置いてあったから、由利子さんに聞いて、一緒に持っていったんだよ」

「箱の中を、確認しましたか?」

「いいや」江口は小さく首を振った。

「亡くなった冨樫さんから、生前、カレンドールについて何か聞かされたことは?」

「ないよ、ないない。ねえ、これって、冨樫部長の事件の調査なんだよね? あのおもちゃ、そんなに重要なのかな?」

「さあ。どうですかね」

 言いながら、本村はバックパックからおもむろにメイリスを取り出した。濃赤のワンピースと、ポニーテールが乱れている。

 本村がそれらを整えている間、江口は、数歩離れた位置から覗くような顔で、一連の作業を凝視していた。身仕舞いを終えると、本村は手の中で尊く光るものを慈しみ、囲うように、メイリスをそっとテーブルの上に置いた。

「これがなんだか分かりますか?」

「人形、だね」当然のように、江口は答えた。

「これも、カレンドールなんですよ」

「へえ、そうなんだ。部長の家にあったドールハウスの箱に写ってたのは、金髪の人形だったから————」

「そうですよね。よっぽどのオタクじゃなきゃ、どれがなんの人形かなんて、分かりませんよね。向こうのカレンとちがうのは髪の色だけじゃないんですよ。どうぞ手に取って見てみてください」

「う、うん……」

 江口は本村からメイリスを受け取り、両手でそっと抱き上げた。本村の警察ごっこに付き合う江口の優しさに、池脇は感服していた。

 メイリスを宙に抱き上げたまま、江口はたずねた。「この子は、君のなの?」

「はい。メイリスっていいます」少し嬉しそうに、本村は答えた。

「ハハ……。ちゃんと、名前あるんだ……。何体くらい持ってるの?」

「一体だけです。僕はコレクターではないので」

「部長の家にあったみたいな、ドールハウスに住んでるの?」

「ドールハウスもありますけど————どちらかというと、僕の部屋の一角が、メイリスの家みたいな感じです」

「へえ……」

「いつかはメイリスのために、本物の家を買ってあげたいですね」

「ははは。大きな夢だね。その時は、ぜひうちに相談してね」

 メイリスを本村に引き渡しながら、優しい口調で江口は言った。

「あ。そうですね。そうします。僕、もう間取りのプランとかあるので、今度相談してもいいですか?」

「うん。もちろんだよ」

「ありがとうございます」

 本村は笑顔でそう言うと、丹念に整えたばかりの人形を、バックパックの中へ押し込んだ。

「ちょちょちょ————」

 江口はテーブルに前のめりになり、とっさに手を伸ばした。

「なんですか?」

 寸前までの笑顔が嘘のような呆け顔で、本村はたずねた。メイリスは微笑を浮かべたまま、本村の手によってバッグに生き埋めとなっている。

「え? いいの? そんな風にして」戸惑ったようすで、江口はたずねた。

「問題ないです。人形なので」

 きっぱりと言い、本村は勢いよくバックパックのファスナーを閉めた。

 池脇は強炭酸を飲み干した。


「これがカシマですか?」

 江口の部屋を出ようと玄関へ向かったとき、本村は、シューズラックに並んでいる革靴を指してたずねた。

「そう、知ってる?」見送りに立った江口は言った。

 スニーカーを履き、立ち上がった池脇は、江口が細身ながら、自分と大して変わらない長身なのだと改めて思い知った。

 だが、事件の日に自分が目撃した男と同一人物かどうか、確信は持てない。

「持ってないですけど、知ってますよ、なんとなく」本村は答えた。

「去年の————年末にさ、思いきって全部新調したんだよ」

 照れくさそうに江口は言った。「別に買うつもりなんてなかったんだけど————分かるかな? 仕事納めして、家ん中大掃除して、すっきりした気持ちで、年越しの買い出しに出かけたらさ、なーんかいろいろ目に入って。全部取っ替えたくなっちゃって。まあ、衝動買いってやつだよ。でも、買って正解だったかな。丸洗いできるのはもちろんだけど、軽いし、雨の日も神経使わなくていいしね」

「職場の人たちの間でも、人気ですか?」

「うーん、どうだろう? 冴木は、持ってるけど」

「え?」

 露骨な嫌悪感と共に、池脇は疑問符を発した。

「え、何?」江口は不思議そうにたずねた。

 池脇は無遠慮に答えた。「いや、あの人、バカ高い海外ブランドの靴にしか興味ないみたいな人に見えたんで」

「あー」と、否定もせずに考えて、江口は言った。「あいつの買い物は、欲しいものだけじゃなく、話のネタ集めってところもあるから。バカ高くなくても、新しいものとか、話題になってるものとかは、とりあえず手ぇ出すかもね。僕、流行には疎いけど、冴木のおかげでなんとかついていけてるって感じ。君の————」

 江口は、本村のちらし寿司にまみれたシャツを見やった。

「そのシャツも面白いよね。僕のばあちゃんとかが見たら、『チンピラシャツ』って言いそうだけど。今は、そういう柄シャツが流行ってるの?」

「いえ。そういう訳では」

 本村は答えた。

「へーえ。じゃあ、何が流行り?」

「『ギター・ギャン』、ですかね。スニーカーなんですけど。最新のは『90sバブルガムボーイシリーズ』といって、はじける90年代と風船ガムをコンセプトに、『シャンパン×ブルーベリー』『ディスコティック×シトラス』『ダイアモンド×ベリーベリー』『ドライビング×クールミント』と素敵風味に四色展開しています。素材は複雑過ぎてなんとも言えません」

 本村は流れるように説明した。

「そ、そうなんだ……」

 江口は気後れ気味に頷いていた。「このあとも、捜査を続けるの?」

「はい。このあとは冴木さんのところに行こうと思ってます」

「ああ、あいつ多分家にはいないよ。毎週火曜は————」

「はい」

 江口の親切心を遮って、本村は言った。

「全部見てます」

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