なんて好立地な、と二人は思った。

 コンビニ兼弁当屋兼ドラッグストア『フルスペック36サンロク』、ケチャップ料理専門店『ミスター・オレンジ』、散歩コースのついた広々とした宮の城公園————。

 宮の城グリーンパークマンションは、そのどれにも徒歩一分圏内の位置にあった。これはある種の夢だった。学生は、フルスペとミスオレと公園があるだけで生きていけるというものだ。

 少し肌寒い午後だった。

 本村は、マンションの周りをぐるぐると徘徊し始めた。裏手に立ち、規則的に窓辺が並んだ外観を見上げると、首を大きく傾けた。

 それからエントランスの方へと戻り、道路沿いにある生垣に目を留めた。

 よくよく見ると、生垣の一角は人工葉でできており、中央には葉に紛れるようにして、緑色の取っ手が付いていた。

「何これ」

「お前知らねーの? 宮の城のゴミ集積ボックス、景観を損ねないようにとか言って、『生垣風』とか、『植栽風』ので統一されることになったんだって」

「ええ……なんか汚ったない金の匂いがする」

「黙れや」

 二人はエントランスへ向かい、インターフォンで後藤ごとう秀徳ひでのりの部屋番号を呼び出した。応答はなかった。

 無挙動でマンションを出ると、本村は目の前の道路を渡り、宮の城公園に向かった。池脇はフルスペに弁当を買いに行った。

 フルスペック36は昨年の末から、弁当一折につき、みそ汁一杯無料というサービスを始めた。セルフのみそ汁サーバーの横に専用のカップが備え置かれており、店員の目を盗めば弁当を買わずとも、何杯でも持ち帰ることができてしまうという、完全に客のモラル任せの大胆なサービスだった。

 唐揚げ弁当と生姜焼き弁当。迷った挙句、池脇は白身魚フライ弁当のライス大盛りを注文した。

 緊張感のない時を感じていた。見渡す店内にいる、家族連れや、学生や、年配の客たちが、まるで殺人事件など起きていないかのように日常を過ごしていることに、池脇は拍子抜けしていた。

 ありがとうございましたと、中年の店員が宣伝通りの笑顔で言った。いつもなら、さして気にも留めないその顔をじっと観察しながら、池脇はできたての弁当を受け取った。

「お客様!」

 池脇がみそ汁を取りに行こうとすると、店員が叫んだ。

 池脇はどきりとして振り向いた。

「お箸、つけ忘れちゃって……」

 申し訳なさそうに、店員は割り箸を差し出した。

 池脇はカウンターに歩み出て受け取った。「あの」

「はい?」

「みそ汁、もう一杯追加したいんすけど……」

「え?」

 店員は宣伝にはない間の抜けた表情で言った。何かおかしなことを言ったかと、池脇は動揺した。

「いえ、すみません」店員は小さく笑った。「結構いるんですよ、勝手に持ってっちゃう人。いいですよ。サービスするんで、持っていってください」

「どもす」

 二つのカップにみそ汁を注いだ。見慣れきり、もはや映えも感じない、『3×6』のロゴマーク。たちのぼる湯気が、緊張感のない時の長さを際立たせた。

 気前のいい店員に頭を下げ、池脇は店を出た。その時でさえ、店員は笑顔でカウンターに立っていた。

 その顔を、一瞬でも疑った自分が憐れだった。

 白身魚フライ弁当の上に、みそ汁二つと、割り箸を重ね、池脇は前屈みになりながら道路を横断した。


 宮の城公園の桜は咲き始めていた。

 本村はアスレチック遊具の上に、無惨な横髪をなびかせながら腰かけていた。メイリスを膝の上に乗せ、向かいにある後藤のマンションを見つめている。

「おら」

 池脇はみそ汁のカップを一つ差し出した。

 本村は白い目で池脇を見た。

「池脇君、サイテー。サービスのみそ汁は弁当一個につき一杯までなんだよ」

「うるせえ。店員の許可取った」早速弁当のふたを開け、池脇は言った。

「え、嘘、いいって? それってずるくない?」

「店員は分かってんだよ。俺が犯人じゃないって」

「は?」

「要らねえならいいけど」

「いや、要る。飲む。ありがとう」

 言い終えてすぐに、本村はカップのふたを開け、まだ湯気のたつみそ汁を飲んだ。「ああ、安定のインスタント」

 穏やか過ぎる午後だった。防寒した夫婦が、散歩をしながらほころぶ木々に目を細めている。寝て起きてきたようなスウェットにサンダル姿の老人が、大袈裟に犬とじゃれ合っている。

 花に動物に目もくれず、子どもたちは寄り集まって黙々とゲームをしている。誰もが平穏の背景に徹している。弁当とみそ汁を食す、二人の学生も————。

 アスレチックを、小さな女の子が登ってきた。

「お人形さん!」

 女の子は危なかしくも本村の方へかけてきた。短い髪を無理矢理ポニーテールにし、ピンクのトップスにピンクのキュロットスカートを身につけていた。

 服が汚れることなど気にもしない風に、女の子はしゃがみ込んでメイリスに手を伸ばした。本村はみそ汁のカップを、遠くの方へ追いやった。

杏奈アンナ、だめよ」

 アスレチックの下から、女の子の母親が呼びかけた。

「いいんです」本村は言った。「お人形、好き?」

 杏奈は頷き、目を凝らしたあと、少し不服そうな顔をした。「カレンじゃない」

「え?」

「アンナ、カレンがいいの」

「杏奈、あのお人形さんはね、もういないの。だから、一緒には遊べないのよ」母親が言った。

「やだ! カレンがいい!」杏奈は駄々をこねるように言った。

「杏奈ちゃんの好きなカレンって、これのこと?」

 本村はスマホを取り出し、冨樫邸にあったドールハウスの付属品の、ブロンドのカレンドールの画像を見せた。

 杏奈は本村のスマホを小さな両手でつかむと、あっという間にうっとりとした顔になった。そうそう、その気持ちはよく分かると、本村は微笑ましく思った。

「杏奈ちゃん、この子もカレンだよ?」

 本村はメイリスを揺らしてみせた。杏奈は、ぽかんとした表情を浮かべていた。

「カレンはね、おしゃれだから、いろんな髪型をしているし、いろんなお洋服を着てるんだよ?」

「うぅん?」

 杏奈は分かったのか、どうなのか、曖昧な返事をして、今度はスマホの画面に興味津々になっていた。

「奇遇ですね」

 本村は下にいる杏奈の母親に向かって言った。「僕もカレンドールが好きなんです。まだちっちゃいのに、カレンが好きだなんて————。僕でさえ、もう知らない世代だと思うんですけど」

「ええ、そうね————」

 母親は本村とろくに目も合わせず、そわそわしたようすで杏奈の方を見ていた。

「どなたか知り合いに、カレンドールが好きな方とか————」

「杏奈、もう行くわよ」

 本村の話を遮り、母親は言った。杏奈は、聞かないふりをした。

「杏奈!」

 母親は苛立っているようだった。

 杏奈ちゃん、ママが呼んでいるよと、本村はこっそりささやいた。

 杏奈はかわいらしいほどに頰を膨らませた。それから、本村にスマホを突き返し、メイリスに向かって小さな手を振った。「ばいばい」

「ばいばい」

 本村はメイリスの手を振った。

 杏奈の手を引き、母親は公園を突っ切っていった。

「なんだあれ。今来たばっかじゃね」フライをかじりながら、池脇は言った。

「うん」

 本村はみそ汁に手を伸ばした。スマホを見ると、勝手にトンプソン・ヒルズのアプリが開かれ、勝手に高額の絵画アイテムを購入されるすんでのところだった。「わ、わ、わ」

 杏奈と母親は公園を出ると、手を繋いで道路を横断した。

 親子は、宮の城グリーンパークマンションに入っていった。

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