「もう帰らなきゃ」

 イラストラを出るなり本村は言った。

 池脇は言った。

「お前、ここまで引っ掻き回しておいてよく言えたな」

「うん、でも、時間は時間だし。あ、もうすぐバスが来る」

「父親が殺されたってのに、こんなふざけた感じの店に来てゲームなんかすんだな。心配して損した」

 池脇は振り返り、イラストラの窓ガラスを見やった。綾子はまだ、しゃんとした格好で店内に残っていた。希望の物件を手に入れ、満足したのかどうかは、すまし顔からうかがい知ることはできない。

「心配してたなら心配してたよって言えばいいのに」

 スマホをいじりながら、本村は言った。

 ばかな。文字通りに心配りができるほど、気の利いた人間ではない。叔母が死んだときでさえ、父をどう助けてやればよいのか、分からなかった。

 言おうとしていたことは、すべて本村が言った。『万引きは他言していない』『お前は親に見守られている』。自分も言葉をかけた。慰めの言葉ではなかったが、何かしらの、言葉を————。

「ふざけた場所でふざけたことしてるからってふざけてるわけじゃないときもあるよね」

 池脇が心の中で反論しているうち、本村は言った。

「ソファでごろごろしながら愚痴をこぼす人もいるし」

 本村は続けた。

「流行りの町を歩きながら自問自答してる人もいるよ」

 相変わらず、スマホを見つめたままだ。

「気持ちと振る舞いがごちゃごちゃなときって、僕はあってもおかしくないと思う」

 まるで個人的な意見だとでもいうように、本村は言った。

 わざとか。池脇は思った。

『僕は』という主語には、なんの働きもない。訳せばこうだ。『なぜ、〝お前は〟分からないのか』————。

「池脇君、僕、本当に急ぐんだ」

 パンツのポケットにスマホを落とし、本村は言った。「今日は料理当番の日だから」

「は?」

「じゃあ、車に気をつけて」

 五月町方面行のバス停に向かい、本村は走り出した。

 メイリス人形の入った、大きな黒のバックパックが揺れていた。

 ここ半年以内に岩月市宮の城にオープンしたおしゃれな子たちに人気のかわいいカフェ、イラストラの前に、池脇は一人立ち尽くした。

 池脇の心情は、その佇まいどおりに、ただ呆然となっていた。



 翌週。火曜。

 池脇は自室のベッドに腰かけ、壁に掛かったグレーの学ランをにらみつけていた。

 はたからすれば、〝本当に〟そのように見える。池脇としては、恨みつらみなく眺めているつもりなのだが。

 平日の昼間は家に一人だった。

 事件の直後、母の典子のりこは仕事を休むと言った。

 だが、ものの二日で池脇は降参をした。

 ずいぶん保たせた方だった。十五歳。自宅で一日中、母親と二人きり。春休みの、退屈の中で浮かれ立つような、奇妙な時間。どこにも行けない。ネットの世界すら苦痛になった。親を安心させる術は知らない。そんなもの、必要になるとも思わなかった。

 一人きりにしてほしいのだと、池脇は申し出た。両親はそれを承諾した。頼りないが懐の深い父と、気が若く、呑気な性格の母だった。

 平穏無事とやら。その深みを、存分と感じていた。空の住まいはつい先日までの、〝何も起きていない〟日常と同等だった。

 だがすぐに、そこで悠々と寛いではいられないと気がついた。自分の姿だけが浮き彫りになり、ようやくできたその場所で、落ち着きたがる方の自分を無視して、もう終わりだとのたうった。

 平穏無事とやら。その底辺を、まざまざと感じていた。まるでかわいこぶった、さめざめとした焦燥感がうとましかった。

 だがこの日、目が覚めると、それらは解毒でもされたかのように消え失せていた。昨日までの自分が、何が欲しくてそこに落ち着いていたのかさえ、よく覚えていなかった。

 池脇は熱湯のシャワーを顔面に浴び、ジャンパースの四枚目のアルバム、『バンジージャンプ・イン・ア・モーニングドレス』のジャケットがプリントされたTシャツに着替えると、両親が家を出るのを、白米とみそ汁をとりながら見送った。

 忌まわしい火曜日。

 その学ランを着るのが自分だと、池脇はまだ信じられなかった。

 ベッドの上に放り置いたスマホが、他人の庭のよく吠える板切れに見える。こちらが世話を焼いてやる義理などない。便利なやつだと撫でまわせば、夜も眠れず、ひどいときには噛みつかれてしまう。

 午後になり、空腹で台所をあさっていると、人形焼の残りを見つけた。それを食べながら、空の家の、居間のソファに、主のごとく腰かけた。

 サイドボードの上に、守の読みかけの本が置かれている。池脇はしおりが挿まれてあるページを開いた。恋人を失った主人公は、森の中で新しい恋人を拾った。

 池脇は和室にゆき、畳の上に座り込むと、人形焼をくわえながら山積みにされた玩具の箱と向き合った。華美な彩色の小さな箱の中で、つぶらな瞳の人形たちが、示し合わせたかのように微笑んでいる。

 忌まわしい人形。

 その、完璧な容姿を持って、誰かの理想の中でしか生きられない。

 できるものならやってみろ。

 その、不条理な世界から、お前は潔白だと叫べ————。

 チャイムが鳴った。玄関の戸を開けると、派手な柄シャツにブルーのトラックパンツをはいた、春も釣れない無表情の本村が立っていた。頭髪の片側が、引きずられたようになびいている。

 池脇は引き戸を開け放したまま、一人でずかずかと和室へ戻った。本村は静かに戸を閉め、履いてきた雪駄をたたきに揃え置いてからそのあとに続いた。

 畳に落ち着くと、本村はスクエア型の黄色いバックパックからメイリスを取り出した。栗毛をポニーテールにし、白い二本のラインがざっくりと斜めに入った、濃い赤のワンピースを着ていた。

 本村は黙々と和室に置かれた玩具の箱を仕分け始めた。カレンドール本体は次々と、本村が取り決めた『持っていかないゾーン』へ追いやられた。しばらくして、池脇は気がついた。本村の着ているシャツには、海老、しいたけ、絹さや、錦糸卵、イクラ、桜でんぶが描かれていた。

「これは、ちがうかな」

 一昨日見た、『カレンのときめきパティスリー』を箱から出して本村は言った。立派なショーケースが設置され、軒先にフリルのテントが張られた店。細かなデコレーションが再現された、ケーキやエクレアなどの小道具までもが揃っている。

 メイリスは、ケーキ屋さんにならないもんね、と本村は言った。知るか、そんなの、と、座卓の端に置かれた平田高校からの書類を他人事のように読みながら、池脇は思った。

「例の長身トリオについて調べてみたよ」

 メイリスをショーケースの横に立たせてみせながら、本村は言った。

「長身トリオ? ああ、冨樫の父さんの部下って人たち?」

 一目見ただけで面倒くさいと分かる書類を封筒に戻しながら、池脇は言った。早く何か、胃に溜まるものが食べたいと思っていた。

「そう。冴木って人は一発だった。池脇君のあられもない姿を目撃した人。顔も、名前も、勤務先もSNSで公開してて、身バレも平気って感じ。毎週火曜に『お友だち作り』のためのパーティーを主催してて、事件の日の夜もお花見パーティーで盛り上がってた。公開してる生年月日からして今年で三十六だけど、池脇君の言うとおり、まだ落ち着けないチャラ男って感じだね。今年の初めにマクガーニっていう車を買ったって。嬉しさをひた隠して自慢してた」

「へーえ」

 座卓の上にあごを乗せ、池脇はわざと興味のなさそうにもらした。冴木の話は、あまり聞きたくはない。だが、マクガーニが人に自慢できるほどの高級車だということは知っている。冴木が、上司の死体を目撃したあとでパーティーに出かけるような切り替えの速い男だということも、なんとなく、想像がつく。

「で、冴木さんの繋がりをたどってったら江口さんっぽい人も見つかった。本名じゃなかったけど、ユーザー名がそれらしいし、ハウスメーカー勤務って書いてあったから、多分そう。後藤さんは見つかんなかった。二人の繋がりにも、それっぽいのはなかったし。でも、怪しいアカウントは見つけたよ」

 本村は人形遊びを止めずに、スマホを池脇に手渡した。その背面には、立体的なマグロの握りがのったカバーが装着されていた。池脇はかまわず画面の方を見た。表示されていたのは、『Hibiki Hosoda』という人物のSNSのアカウントだった。白い布地にフリルがあしらわれた、控えめなロリータファッションをした何体ものカレンドールの写真が載っている。古めかしい木の椅子に仲良く並び、出窓の上にしつらえられたミニチュアのテーブルでお茶をし、おほほ、うふふ、と笑う声が聞こえてくるようだ。プロフィール欄にはこうあった。『霧深い森の中。夜の来ないその場所にひっそりと佇むドールハウスで、自由気ままな姉妹たちと暮らしています』

「すごいよね、リアルドールハウス。この人、カレンドールのコレクターみたいで、事件のあとから投稿が途絶えてる。それに投稿があった日のほとんどは、三人が勤めてるモリサワハウスの定休日と同じ、火曜と水曜になってるんだよね」

 着せ替え人形に微塵も興味のない池脇は、画面をタップする作業を早々に放棄した。どれだけ遡っても、出てくるのは似たような顔の、似たような服装の、似たような構図で撮られた写真ばかりだった。夜が来ないというのは、あながち間違いではないのかもしれない。投稿日の日付が変わっても、自由気ままな姉妹たちは、代わり映えのしない昼間に閉じ込められている。

「それからもう一つ」

 池脇の反応にかまわず、本村はスマホを横からタップした。

「こっちもカレンドールのファンみたいなんだけど、ホソダヒビキとは反対に、事件が起きたあと、突然作成されたアカウントなんだ。こっちは『岩月市在住』って公開されてる」

『小和田にぶんのいち』というユーザー名が表示されたアカウントには、黒髪のカレンドールが三体並んだ写真が載っていた。『黒髪が自慢の三姉妹、ゆきの、ちさと、あんなと仲良く暮らしています。岩月在住の方、交流しませんか?』

「誰だよ。小和田にぶんのいちって」

「さあ。事件とは無関係かもしれない。でも、タイミングが良すぎると思わない? あと、綾子ちゃんに後藤って人の住所と名前、詳しく教えてもらった」

「綾子ちゃん?」

 池脇は顔をしかめた。冨樫綾子をあれほど激昂させておきながら、なおも連絡を取り、要求をしたであろう本村に呆れ果てていた。

「うん、盗撮画像もたくさんもらったし」

『KAREN』の文字板が掲げられたステージの上にメイリスを立たせながら、本村は言った。横にあるスイッチを押すと、壁の照明がきらきらと光り、アイドルソングのようなキャッチーなメロディーが流れた。邪魔だなあ、と、本村は文字板をつまみながらぼやいた。そして続けた。

「江口さんの家もほぼ特定できたよ」

「特定って、どうやって」

「江口さん自身は身バレ対策ばっちりだったから、そこからじゃ全然分からなかったけど、冴木さんのアカウントの方に江口さんちの窓から撮ったっぽい画像が上がってて。あれはよくなかったね。宮の城、砂生川すなおがわ沿い、ランプタワービルが正面に見えて、でっかい木とベンチがすぐ下に見えるマンション。そこから推測すれば、大体は」

「怖えよ、お前」

 池脇は頰をひきつらせた。

「僕、これから後藤さんのマンションに行くつもりだよ」

 本村は池脇から、マグロの握りをひょいと奪い取った。

「は? なんで?」

「綾子ちゃんはああ言ってたけどさ、あの画像だけじゃ、おばさんと後藤さんが不倫してるなんてほんとかどうか怪しいし。もし犯人が別にいるとしたら、綾子ちゃん、お母さんのこと、嫌いにならずに済むと思うんだよね」

「お前にそこまでする義理あんのかよ」

「ある。ていうかできた」

 本村は取り戻したばかりのスマホを池脇の眼前にさらした。トンプソン・ヒルズのゲーム画面。『コネクション』『rico』『コネレベル4』


『コネレベルのさらなる向上には信頼と実績が必要です』

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