「もうすぐ、咲きそうだねえ」

 本村は間延びしたようすで言った。「うちの近所のは、もう咲き始めてるんだよ。あ、僕の家は、五月町さつきちょうなんだけどね」

 本村と池脇は桜の並木通りを歩いていた。このままゆけば、冨樫邸にたどり着く。桜のつぼみはすっかり色づいて、本当に、まもなく開花というところだった。だが、どんなにきれいに咲いたところで、それをまた、〝ばからしい〟と受け流す、情緒のない瞬間を、池脇はすでに感じ取っていた。

「池脇君の叔母さんは派手めの服が好きだったみたいだね。特にピンクとか。あの、チェックのワンピースなんかは、メイリスにすごく似合うと思ったよ」

 池脇は通りの先を見ていた。

「それ、ジャンパースだよね?」池脇の、開けっ放しのスタジャンから覗くシャツを見て、本村は言った。髪を逆立て、タイトなセーターを身につけた、細身の四人組の写真がプリントされている。「ヘビメタ、好きなんだ? 僕はあんまり詳しくはないけど————ジャンパースは、分かるよ」

 池脇は通りの反対側を見ていた。

「どうして冨樫綾子に会いに行ったの?」

 池脇は歩道に敷かれたタイルを見た。

「痴情のもつれ?」

「なわけねーだろ」

 二人は、短い橋を渡った。

「今年の、冬休み明けくらいに、クラスのやつのハサミがなくなった」

 池脇は前を向きながら、滔々と話し始めた。本村は黙って話を聞いた。

「自分の名前が入った、ブランド物の結構いいやつだって。そんなもん、学校に持ってくる方もあれだけど。結局ハサミは見つからなくて、どっかに置き忘れてきたんだろうってことになったんだけど、そのあと、近所のコンビニで、冨樫がハサミを万引きしてるのを見かけた」

「万引き?」

「そう。その次は宮の城みやのしろの雑貨屋。そこでも冨樫はハサミを万引きしてた。俺は冨樫と目が合ったけど、冨樫は、なんにも言わずに逃げてった」

「ふうん。でも僕には、池脇君が家に押しかけてまで他人を説き伏せようとする人には見えないんだけど」

「まあ、普通はな。でもハサミだぜ? 服とか化粧品ならともかく————いや、それもだめなんだけど————ハサミばっか盗むなんて、メンタルどうかしてるだろ」池脇は露骨に顔をしかめた。

「うん」

「そのあと、冨樫の父さんがうちにおもちゃを取りに来た」

「例のドールハウス」

「そう、それ。俺はさ、やめとけって言ったんだよ」

「何を?」

「ネットで知り合っただけのやつなんか、怖えから家に入れるなって。まあ、そもそもアプリを勧めたのは俺なんだけど、まさか父さんが取引相手を家に呼ぶとは思わなくて。新しいものがだめなくせに、変に怖いもの知らずっていうか、なんなんだろうな、あれ。で、いざ会ってみたら十年来の友だちみたいにすぐ打ち解けててさ。なんだ。出会って三秒で親友かって。心配して聞き耳立てててあほらしくなったよ、俺は」

 池脇はだるそうに口を開けて空を仰いだ。

「その時に、その人が冨樫綾子の父親だって分かったの?」

「そ。娘にプレゼントするんですよ、娘さんおいくつですか、春から高校生で、へえ、うちもなんですよ————まあ、全部聞いてたわけじゃないけど、流れでいったら大体想像つくだろ?」

「まあね」

「冨樫の父さん、冨樫の話ばっかしてた。そのドールハウスを欲しがってたこととか、冨樫がよく行く店のこととか、四月から三条さんじょう高校こうこうに通うんだとか————。このおっさん、冨樫のこと、知った気でいてなんにも知らないんだなって。万引きのこと、告げ口してやろうかと思ったけど、言えなかった。なんか、冨樫の父さんが気の毒でさ。卒業して、どうせもう会うこともないだろうし、冨樫に言っておこうと思ったんだ。俺は誰にも言うつもりはないって。お前の父さんは、お前のこと、すごく考えてるから、お前もよく考えろって。連絡先も知らないし、学校も終わってたから、会いに行くしかなかったんだよ」

「うーん。それは分かったけど、ハサミを拾ったのは?」

 歩き続けながら、本村は難しい顔を作った。

「は?」

「死体のそばに落ちてたハサミ、拾ったんでしょ? 刑事ドラマとか見てたら分かるよね? 『現場保存』。そういうこと、しちゃいけないって。あ、それともドラマとか見ない派?」

 淡々と咎めるように、本村は言った。人を釣り上げては溺れさす、悪趣味な男だと、池脇は思った。

「クラスのやつが失くしたハサミかどうか、確かめようと思ったんだよ。そいつのなら、名前が入ってるし、もしそうなら、ハサミを盗んだのは冨樫で、殺したのも冨樫ってことになる」

「で、名前は入ってたの?」

「分かんなかった。さすがに俺も血を拭くのは気が引けたし。そのうち冴木がやって来て————」

 二人は冨樫邸の前に到着していた。

「なんか、おしゃれな家だね」門の前に立ち尽くし、本村は言った。

「冨樫の父さん、ハウスメーカーに勤めてたんだって。知ってるだろ? 『モリサワハウス』。だからこだわりがあるんじゃねえの? 玄関なんてさ」

 池脇は木製のドアを指差した。「うちと同じ引き戸なのに、勝手にすーって閉まるんだよ。すーって」

「ふうん」

 すーっと閉まるドアには興味を示さずに、本村はインターフォンを鳴らした。おっとりとした、品のある声が出た。

「こんにちは。綾子ちゃんの友だちの佐藤です」

 本村は言った。池脇は顔を背けた。

「ごめんなさいね。綾子は今いないのよ」

 応答者は言った。おそらく、冨樫綾子の母親なのだろうと、二人は思った。

「そうですか……」

 一瞬、潤沢を被せた瞳になって、本村は停止した。そして続けた。

「あの、ご迷惑でなければ、おじさんにお線香あげさせてもらえませんか?」

「ええ、どうぞ」

 突然の弔問客に、綾子の母は戸惑いももらさず、たおやかな応対をした。

「じゃあな」

 インターフォンが切れると、池脇は言って道を引き返そうとした。

「え、帰るの?」とっさに、本村は言った。

「おめーがドールハウス見たいもう死ぬまで一生現物見られないかもしれないって言うからわざわざ連れてきたんだろ。俺は別に見たくもねえ」

「それは困るよ。僕、冨樫綾子のこと何も知らないのに。面識のある『鈴木君』がいてくれないと、もしものときに怪しまれるよ」

 困っているようすは少しも見受けられなかった。

 池脇は冷めきった表情を浮かべた。悪趣味な男が、殺人事件の被害者宅へ、身分を偽り赴いて、人形の家を内見したところで、何事もなく終わるはずもないのだろう。

『佐藤』はアプローチを進んだ。

『鈴木』は、ヤケクソのような力強い足取りでそのあとに続いた。


「初めまして、佐藤です。この度はお悔やみ申し上げます」

 ドアが開かれると、本村は言った。池脇は、後ろに立って会釈した。

「ご丁寧に」

 本村の寝癖頭と、腕の中の人形を一瞥してから、綾子の母は慎ましく微笑んで言った。黒髪を後ろでゆるりと纏め上げ、紺色のブラウスにスカートという、控えめな装いだった。小さな顔が、愛らしく整っている。綾子のクラスメイトであり、事件の関係者である池脇の顔を、知るようすはないようだ。

 冨樫邸の外観はモダンな造りだが、室内は清楚な雰囲気に包まれていた。白い陶器の花瓶やシャボン玉を描いたような水彩画が飾られ、線香の匂いもほとんど感じられなかった。

 池脇は奇妙な感覚に陥っていた。凄惨な事件の跡が、少しも見受けられない。住人たちは幸せだと、清楚に華やぐ住まいが明言している。まるでドールハウスの、見本のような————。

 本村たちはリビング続きの和室へ通された。押入れの代わりにクローゼットが設置され、ビニールのような畳が敷かれたその部屋は、池脇からしてみれば、『和室』と呼ぶには趣を削がれすぎていた。二人は後飾りの前に座ると、順に線香を焚いて手を合わせた。池脇の焼香が終わるのを見届けると、本村は体を返し、後ろで待つ綾子の母に深々と頭を下げた。

「すみません。突然お伺いして」

「いいのよ、気にしなくて」至って恙なさそうに、綾子の母は言った。「こちらの方こそ、綾子と約束してたんでしょう? あの子、今朝早くから出かけていって————。本当にごめんなさいね」

「ああ、えっと————。約束は、してなくて————」

 本村はバックパックの上に寝かせていたメイリスを手に取った。

「正直に言います。僕ら、綾子ちゃんから、例のドールハウスのこと、聞いたんです。僕、カレンドールが大好きで。こんな時に失礼なのは承知ですが、でも、どうしても見たくって。それで、今日はお伺いしたんです」

 綾子の母は、本村の膝の上に座る人形を不思議そうに見つめた。メイリス人形は相手に劣らない愛らしさを誇示することもなく、咲き零れた桜とミントに包まれながら、まどろむように本村の手の中にもたれている。

「それは、構わないけど……」メイリスを見つめたまま、綾子の母は言った。「あのおもちゃ、上に置いてあるのよ」

 綾子の母は本村たちを二階の一室へと案内した。暗く陰った部屋だが、閉め切られていたブラインドが開けられると、重厚な書棚と机のある、落ち着いた雰囲気の書斎だと分かった。部屋の隅に、その場の装いに似つかわしくない、『カレンのゆめみるおうち』と書かれたピンク色の箱が現れた。箱の上には、黄色いリボンがひとロール載っていた。

「これって、リビングに置いてあったんですよね?」

 ドールハウスの箱を指し、本村はたずねた。

「え? ええ……」本村たちが冨樫邸を訪問してから初めて、綾子の母は戸惑いの表情を見せた。

「綾子ちゃんから聞きました。自分も、お母さんも、見たことないのにって。綾子ちゃんって、カレンドールが好きでしたっけ?」

「さあ、どうかしら……。ゲームに夢中なのは、知ってるんだけど————。このお人形さん、今、流行ってるの?」

「僕は好きですけど、でも、流行ってるかと言われると————。このリボンはなんですか?」

「分からないけど、そのおもちゃと一緒に置いてあったらしいわ」

「これ、警察の人がここに運んだんですか?」

「いいえ、主人の部下の方が。大きすぎて、私じゃ大変だろうからって」

「ああ、冴木さんって方ですね? 背が高くてかっこいいって、綾子ちゃんから聞いてます」

「いいえ、江口えぐちさんって方よ。とても気のつく人でね。彼もスタイルのいい人だけど————」

「おじさんの周りって、長身の人が多いんですね。みんなモデルみたいでかっこいいって、いつも綾子ちゃんが話してます。綾子ちゃんから聞いたことがあるのは、冴木さんと、江口さんと、あと————」

 本村は斜め上を見上げ、思い起こす表情を作った。綾子の母は言った。「後藤ごとうさんのことかしら? でも————」

 綾子の母は俯き加減で考えた。

「なんですか?」本村は演技を中断してたずねた。

「いいえ、なんとなく————綾子は後藤さんのこと、苦手なような気がしたから。私の思い違いかしらね」綾子の母はまた、小さく笑った。

「そうなんですか。僕らは、そんな風には見えなかったですけど。あの、箱から出して見てもいいですか?」

「ええ。でも、丁重に扱ってちょうだいね。よく分からないものといえど、一応、主人の遺品だから————」

「もちろんです」

 下でお茶でも淹れるわねと言って、綾子の母は部屋を出ていった。

「お人形みたいな人だね」

 メイリスを机の上に預け、ドールハウスの箱を開けながら、本村は言った。「気丈に振る舞ってるけど、内心は夫を亡くした悲しみに暮れているか、僕らの訪問を不審がっているか、夫がいなくなってせいせいしたわほほほって思ってるかだね」

「お前、適当なこと言いやがって。今おばさんが冨樫に連絡したら終わりだぞ」床に座り込み、池脇は言った。

「だいじょぶだいじょぶ。いざとなったら靴持ってダッシュで逃げれば」

 箱の中から、派手なピンクの三角屋根の、三階建ての邸宅が出てきた。本村はそれを慎重に持ち上げ、ラグが敷かれた方へ置くと、正面のアーチ扉がついている方を、真ん中から両開きにした。ドールハウスの中はいくつもの部屋に分かれており、照明付きのドレッサーや化粧品、ボタン留めがされたソファ、猫脚のハンガーラックなどのミニチュア家具が散らばっていた。

「お前ってさ」

 床に座り込んだまま、池脇は言った。「なんでその人形のこと、『メイリス』って呼んでんの? ほんとは『カレン』って言うんだろ?」

「ああ、『カレンドール』はね、平成初期に発売された、今はもう生産終了になった着せ替え人形なんだけど————」

 本村はばらばらになった家具を並べたり、窓を開けたり、照明が点くことに驚いたりしながら、話し始めた。

「昔、ばあちゃんの家に行ったとき、偶然見つけたんだ。母さんの妹が、子どもの頃に遊んでたみたい。その時は『カレン』って名前だなんて知らなくて。僕が勝手に『メイリス』って名前をつけたんだ」

「なんで『メイリス』?」少しも手を貸さないまま、池脇は聞いた。

 本村はドールハウスをいじりながら答えた。「なんでかな。覚えてないよ。そんなの」

 池脇は白い目で本村を見た。たった数時間の間柄ではあるが、池脇からして本村は、どう見ても理屈をこねくり回したがる性質の男だった。

「このドールハウス、元は池脇君の叔母さんの家に、箱から出した状態で飾ってあったんだよね?」

 ミニチュアサイズのドライヤーのコードを伸ばしながら、本村は聞いた。

「あ? ああ」不規則な世界からはたと帰り、池脇は答えた。

「それで、叔母さんが亡くなって、誰かに譲ることになったから、箱に戻したんだよね?」

「そう。クソ面倒だった」

「池脇君が、やったの?」

「いや、正確に言うと、最初に箱に戻したのは父さんたち。俺は遺品整理には行かなかったから。俺、父さんがそいつらを誰かにやるつもりだって、知らなかったんだよ。あの大量のおもちゃの山、家に運んできたあとで、ああだこうだ言い出して————俺が手伝うから、アプリ使えば?ってことで結論が出て————。そいつら、服だけじゃなく、家具とかちっこいのとか、いろいろあるからさ。アプリで掲載するのに、一旦箱から出して、中身が間違ってないかとか、傷とか汚れがついてないかとか確認して、写真撮って、また箱に戻して————。俺、細かい作業とかだめだから、ほんと面倒で。誰かに譲るって分かってたら、最初っから遺品整理について行って、箱にしまう前に全部確認できたし、あんな二度手間なことしなくて済————」

 池脇ははたと腰を上げ、ドールハウスと、その箱の中を覗き込んだ。それから、眉根の寄った顔を上げ、一呼吸、考えると言った。「人形、一個ぶちこんだ。この、ドールハウスと一緒に」

「これとおんなじやつだよね」

 箱のおもて面を指し、本村は言った。ブロンドのポニーテールに、ドールハウスの屋根の色と同じ、派手なピンクのセットアップを着た、カレンドールが写っていた。

「そう、そうだよ! 箱にも『付属品』って書いてあったから————」池脇は少し興奮立てて言った。

「なくなってるんだよねえ。それが」

 本村は机に置いたメイリスを抱き上げ、ちんまりと正座をして言った。

「なんで? 俺、入れたよ、絶対。そうだ。冨樫の父さんがうちで箱の中身を確認したときも見た。絶対に持ってった」

「ほーう。それは不思議だね」本村はてんで呑気な素振りで答えた。

「————不思議で言えばさ」

 再び床に落ち着き、くうを見て思い起こしながら、池脇は言った。

「俺が確認作業したとき、箱が一個余ったんだよ」

「カレンドールの、箱?」

「そう。なんちゃらブラックって書いてあったから、黒髪の人形探したんだけど、見当たらなくて。叔母さんが売ったか捨てたかしたのかなって。しょうがないから父さんに聞いて、箱はもう捨てた。まずかった?」

「ううん」本村はすんなりと言った。

「でもおかしいだろ。冨樫の父さん、付属の人形、どこやったんだよ?」池脇は言った。

「それか」

 本村は、メイリスのしなやかな脚を覆う、桜とミントグリーンの布地をさすりながら、書棚の向こうの、見えない遠くを、ぼんやりと見つめた。

「誰かに盗まれた————とか?」

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