先週。火曜。午後二時。

 池脇は久留美の住宅街を歩いていた。

 冨樫邸を訪問したことはなかった。だが、この辺の道は知りつくしており、冨樫邸は、この区画ではモダンで、洗練された外観で、とても目立っていた。そして何より、そこは、同じ久留美北中学のクラスメイト、冨樫とがし綾子りょうこの家だった。

 冨樫邸の門から、何者かが飛び出してきた。

 すぐにくるりと背を向けていったので顔は判然としないが、池脇と同じくらいの長身で、ダボついたパーカーを着込んでいても、すらりとした細身の体型が明らかだった。

 門の前に立ち、少し考えてから、池脇はインターフォンを押した。返事はなかった。

 今しがた出ていった男は、明らかに冨樫綾子の父親ではない。冨樫には、兄弟の一人でもいるのだろうか? そんなことは知らない。どちらにせよ————。

 ふと目を落とすと、門柱の側面の一部分が、何かで汚れているのが分かった。家屋の木材と同じ、茶色い木目模様の上に、赤いペンキが塗られたような跡がついている。

 池脇はかがんで、汚れの跡をじっと見た。まだ乾き切っていない。たった今つけられたもののようだ。

 体を起こし、横を向いた。男の姿はもうない。

 門の中を覗き込む。ひび割れも、土埃もない、美しい白のアプローチ。

 その側端に点々と、小さな赤いシミがついているのが見えた。門柱のそれよりもはっきりとした、鮮やかな赤————。

 池脇はパンツのポケットに手を突っ込んだまま、倒れ込むように、ゆらりと門の中に片足を侵入させた。そしてまたゆらり、ゆらりと、風に吹かれたようにアプローチを進みながら、赤いシミを間近に見取り、通り過ぎた。思案顔だが、頭には何もない。あっという間に、ドアの前までたどり着いてしまった。池脇は体を左右に揺らしたり、背中を丸めたりしながら、呼びかけた。「すいませーん」

 高く、鳴くような声がした。

 よく見れば玄関ドアは、池脇の家と同じ、木製の引き戸になっていた。だが、池脇の家とちがい、金属製の立派なドアハンドルがついていて、そこには鍵穴すら見当たらない。こういうものは、きっと、『アブストラクトスマートスライドドア』などと呼ぶのだろう。

 池脇はドアハンドルに手をかけた。鍵はかかっていなかった。

「すいませーん」

 ゆっくりとドアを開けた。ガラガラと粗雑な音さえしなかった。

 床の上で、男がうつ伏せで倒れていた。背中に滲む血を、池脇は見た。

 池脇は振り返った。先に見た男を追いかけようか、迷った。

 錯考しながら、倒れている男のもとへ近寄った。その男は間違いなく、冨樫綾子の父だった。息があるかは、分からなかった。

 スマホを取り出し、電話をかけた。インターフォンが鳴っていた。誰かの呼ぶ声がした。

 池脇は視線を下ろした。

 身をかがめ、血にまみれたそれを拾い上げた。

「ハサミ?」

「そう。凶器はハサミだったんだよ」

 本村と池脇は座卓をはさんで向かい合っていた。

 守は、審判のように二人の横に据えられていた。家主だというのに身を縮こまらせ、もう底の見える湯呑みを握りしめながら、あまり平和的とは呼べない二人のやり取りを注視していた。

 池脇は畳の上に胡座をかき、ふてくされたように座卓に頰杖を突いていた。本村はメイリスを抱きながら、真正面にいる池脇など存在しないかのように、ぼうっと、その後ろの白い砂壁を見つめた。

「そもそもさ」

 本村は言った。

「なんでその冨樫さんっていう人の家に行ったの?」

「ああ、それはね」

 守が答えた。「その、冨樫幸雄さんが、君と一緒だからだよ」

「一緒?」

「『ゆずるくん』で申請してきて、人形の家をやった」ぶっきらぼうに、池脇は言った。

「ここにあった中でも一番大きい、三階建てのドールハウスだったよ。ピンク色の屋根の」守は説明した。「事件が起こる、少し前のことだよ。娘さんにプレゼントするんだって、すごく喜んでた」

「それが、クラスメイトの冨樫の父親だって分かって、なんとなく気になって見に行った」池脇は言った。「別に深い意味はねえよ。ああ、この家かって。叔母さんの遺品が今はここにあるんだなって。ただそれだけ」

「ふうん」感情が溶けおちたような顔で、本村は言った。

「それで、その、譲ったドールハウスっていうのがね、あったらしいんだ」なおも積極的に、守は話した。

「あった?」

「そう。冨樫さんちの居間に。まあ、冨樫さんにあげたんだから、あるのは当たり前なんだけど————。冨樫さんの奥さんも、娘さんも、出かける前は居間にそんなものなかったって。それどころか、二人共、ドールハウスの存在すら知らなかったらしい」

「ほう」本村の、凛々しく縁取られた瞳が揺れた。

「俺が冨樫の父さんの死体を見つけたあと、すぐに別の男がやって来て。そいつがぎゃあぎゃあ騒いだせいで、真っ先に俺が疑われた」池脇はうんざりしたようすで言った。

「でも、無理もないだろう? 死体のそばで血まみれのハサミを手にして立っていて、意味深に置かれたドールハウスの取引相手で、娘さんとも繋がりがある————。それだけ聞いたら、誰だって、徹也が一番怪しいって、思うだろう? でも、そのすぐあとにね————」

 守は話しづらそうに唇をゆがませた。

「なんですか?」本村は聞いた。

 守は答えた。

「娘の、綾子ちゃんの部屋から出てきたんだ。大量の、ハサミが」

「大量のって、どういうことですか?」

「うん、詳しくは分からないけど————。とにかくたくさんハサミを持っていたそうなんだ」

「それで、俺が冨樫を————冨樫綾子を庇ってるんじゃないかってことになって————」沸々とした怒りを滲ませながら、池脇は言った。「俺は警察に言ったよ。犯人は俺と入れ違いに出てったやつだって」

「さっき言ってた、池脇君の〝あとに〟やって来た男っていうのは?」

「冨樫の父さんの部下の、冴木って人。冨樫の父さんと会う約束をしてたんだと。警察が話してんのにずっとスマホいじってて、なんかチャラついたやつだった」

「その人が犯人で、池脇君を犯人に仕立て上げるために舞い戻ってきた可能性は?」

「それは俺も考えた。服装はちがうけど、俺が見た男と背格好は似てたし。でも、あいつはないな」

 腕を組み、池脇は断言した。

「なんで?」

「手土産持ってたんだよ。お前みたいに」

 池脇は人形焼の袋を指した。

「俺と入れ違いに出てった男は、紙袋なんて持ってなかったよ。そいつが鉢合わせたふりするために戻ってきたとしても、わざわざ手土産なんて用意するか? いくら用意周到なやつでも、俺が冨樫の家に行くなんて知らなかったことだろ」

「うーん」本村は手放しで、頰の肉を器用につり上げた。

「冴木の他に、俺が見たやつと背格好が似てるっていう男を二人、確認させられた。けど、どっちにしろ俺は顔は見てないから、分からなかった」

「奥さんと娘さんは、どこにいたの?」

「さあ。でも朝から出かけてたって」

「冨樫綾子さんとは、連絡は取れる?」

「いや。連絡先知ってたら、わざわざ会いに行くかよ」

「会いに行ったんだ? 彼女に」

 池脇の目を見て、本村ははっきりと言った。

 守も、目を丸くして息子の方を見た。失敗したと、池脇は思った。

「池脇さん、申し訳ないですが、日を改めさせていただけますか?」

 本村は黒岩のバックパックを背負い、メイリスを抱いて立ち上がった。ああ——と、守はあやふやな返事をした。

 本村は言った。

「僕たちこれから、住宅見学会に行くので」

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