春だ! 新生活だ!

 そう、広告が謳うので、池脇いけわき徹也てつやはスマホを放り投げた。

 表面の革がひび割れ、ほとんどスプリングが効かなくなったソファに、池脇は仰向けていた。

 いったい何が終わって、何が始まるというのだろう。

 おそらく、何もかもがばからしい。シャツを着替えること、SNSに目を通すこと、おはようという言葉、白米とみそ汁のある暮らし————。

 当たり前に来ていた春が、ばからしい。

 池脇は弛んだソファに寝そべる自分をはた目で眺めた。自室のベッドにいるときも、貧相な庭の見える縁側にいるときも、状態は同じだった。上を向くか、下を向くか。右を向くか左を向くか。時々、起き上がって伸びをし、そしてまた伏せに入る。

 ゲームには飽きてしまった。落ちもの、シューティング、音ゲー。普段はやらない箱庭ゲームを、開始五分で削除した。いろいろなことを考える。パターンA、黙秘。パターンB、弁明。昔は、『明るく元気な子』と言われていたこと。本を読むのをやめたのはいつか。小学生の頃、偶然、一度だけ遊んだ他校の生徒の名前。だが、どれも動機に乏しい。様々な感情が、湧いては鎮む。不安、猜疑、虚無、光の差すような、高揚。どこにゆくこともない、感情が。もうずっと、この調子が続いていた。驚きはしない。自分が停滞していることには、早くから気がついていた。

 きっとこっちがばかなんだ。

 池脇は両の瞼を腕で覆った。今なら、すべてを軽蔑できそうだった。

 玄関のチャイムが鳴った。池脇の父、まもるは、居間の隅に一台だけあるラタンの椅子に大きな背中を小さく収め、ぴくりともせずに『オートマタはトルコ人の夢を見るか?』を読んでいた。

 池脇は腕をずり上げ、仰向けのまま父を見やった。守は、本のページを見つめていた。

 機械人形がトルコ人の夢を見ようと、サントメ・プリンシペ人の夢を見ようと、池脇にはそそらない話だった。また、チャイムが鳴った。守は、本のページをめくった。

 停滞していた体を起こし、池脇は廊下にどしどしと足音を響かせながら玄関へ向かった。池脇の曽祖父の代からあるこの家は、昭和ながらの木造住宅で、改装された水回り以外は、ほとんど昔のままだった。守の、古いものには巻かれていようという意向が腰を据えていた。池脇はガラガラと音の鳴る引き戸を開けた。そこには、男が一人立っていた。

 男はおもいきりの無表情で池脇を見た。肩幅が広く、凛々しい瞳をしているが、自分と同じ、高校生くらいのように、池脇には思えた。パステルピンクのスウェットシャツに藍色のパンツ。頭のてっぺんには、寝癖が、咲いた花のように立ち広がっていて、胸には、白い紙袋を抱えていた。その足に、ギター・ギャンの、今シーズンの新作、90sナインティーズバブルガムボーイシリーズ、シャンパン×ブルーベリーのスニーカーが光っているのを、池脇は見た。

 池脇は視線を上げた。

 男の、手にしていた紙袋がずれて、スウェットのフロントに、カタカナで書かれた『それ』が見えた。


 スプリングハズカム


「こんにちは。本村もとむらです。『ゆずるくん』で、約束してた————」

 一つ一つ、置いていくような、温和な口調で男は言った。

 少し考えて、池脇は思い出した。父さん、と池脇が呼びかけると、守は本を手にしたまま、のそのそと居間から歩み出てきた。池脇は言った。「人形の、人————」

 ああ、はいはい! と、守は居間に戻って本にしおりを挿み、本村と名乗るその男を改めて出迎えた。

 本村はゴールドとパープルのグリッタースニーカーを淡々と揃えて板間へ上がった。侵入者の動向を監視でもするかのように、池脇は暫しの間、腕組みをしてそのようすを眺めていたが、自分は用無しと気づき、居間に引っ込んだ。

 守は客人を廊下をはさんで居間向かいにある部屋へ通した。縁側のある和室だが、座卓の上は雑誌や書類で雑然としており、床の間の前にはポップな色合いの玩具の箱が、大小様々、山のように置かれてあった。本村がふらりと縁側の方へ目をやると、お世辞にも広いとは言えない庭には数本の樹木と、枯れ木が埋まったままの鉢があり、縁側の周りには名も知れぬ雑草が、もう手が届きそうなほど、いきいきと伸びていた。

「座って座って」

 守は座布団を持ち出してきて言った。本村は、岩山のようにポケットがあちこちに縫いつけられた大きな黒のバックパックを傍らに置き、大人しくそこに正座した。

「僕、日にち間違えました?」

 野からぽうっと顔出すように、本村はたずねた。

「いいや————」

 いじいじとこめかみを掻きながら、守は答えた。「ちょっと、最近、ばたばたしてて————。ど忘れしてたんだよ。ごめんね」

「いいえ」

 本村はバックパックを開いた。取り出したのは、一体の小さな人形だった。

 艶やかな栗色のロングヘアに、長い睫毛が描かれたつぶらな瞳。桜柄のちりめん生地と、鮮やかなミントグリーンの生地が組み合わさったワンピースを着たそれは、高級感漂うビスクドールではなく、明らかな低年齢向けの、ソフトビニールの着せ替え人形だった。寝癖のままの本村は、その人形を自身の膝の上に乗せ、ロングヘアと、ワンピースの裾を整えると、言った。

「初めまして。本村もとむら莞治かんじです。この子の名前はメイリス。名字はありません。本日はよろしくお願いします」

「いえ、こちらこそ————」

 守は気後れしながら言った。

「これ」

 本村は持ってきた白い紙袋を差し出した。「うちの近所のです」

 守は袋を開けた。一つ一つ、透明な包みに入った、七福神をかたどった人形焼だった。

「おお。久々に食べるね」

 守は一つ取り出すと、すぐに包みを開いて食べだした。「君も、どうぞ」

 守は袋を本村の前に差し出した。

「あ、僕、毘沙門天で」

 本村は嬉しそうに手を伸ばした。

「何か飲むかい? お茶か、ジュースか————」

「牛乳、ありますか?」

 本村は言った。守は少し呆気にとられていた。

「あるある。ちょっと待ってて」

 守は居間を抜け、台所へ向かった。

「なんか、変わった子だね。素直で、いい子そうだけど」

 グラスに牛乳を注ぎながら、守は居間のソファで再び停滞を始めた息子に向けて投げかけた。池脇は返事をしなかった。

 小盆を手に守が和室へ戻ると、本村は首をまわして庭先を眺めていた。情景を、楽しむようすはない。ありのままを、視界に映し出しているだけのようだ。

「ごめんね、目に入れられるような庭じゃなくて」牛乳の入ったグラスと、熱い湯呑みを卓に置きながら、守は言った。「前はあの鉢に、椿や石楠花しゃくなげがあったんだけど。僕はどうにもセンスがないっていうか————。だめなんだね、こういうの」

「あの、松の木の横のは、なんですか?」木々の方を指し、本村はたずねた。

「ああ、あれは紅葉だよ」

「じゃあその下の、うねうねしてるやつは?」

「あれはねえ————藤の木。知らない間に生えてきたんだよ。咲くかどうかも分からない。処分に困ってるとこなんだよ」

「処分って、切ってしまうってことですか?」

「いいや、根絶やしにするんだよ」

 守は、腰をおろして茶を飲むと言った。「藤はね、綺麗だけど、切っても切ってもどんどん伸びてきて、周りに悪さするからね」

「そうなんですか」

 いただきます、と言って、本村はごくごくと牛乳を飲んだ。

 一目には、振り分けができない。身なりだけを見て取れば、〝おちゃらけている〟部類に入るのだろう。だが、物腰は至って礼儀正しく、そつがない。肩回りや目元を見やれば、そこに逞しさが控えていることに気づく。口を開けば、温和な響き————。

 ほんの少しの間、目の前で牛乳を飲む少年を観察したあと、和やかな口調で、守は本題を切り出した。

「いやあ、最近は、こういうの、スマホの、アプリで、すぐなんだって? なんだっけ? たけしくん? ひろしくん?」

「ゆずるくんです」本村は答えた。

「今時、本もスマホで読むんだって? 僕はそういうの、まったくだめだから————。今度のことも、全部息子に任せたんだけど、まさか同じ岩月市いわつきしの子が来てくれるなんて、妹が、引き合わせてくれたのかもしれないね」

「大体みんなそうですよ」

 情を寄り添わすことなく、本村は言った。「近場の方が、取りに行くの、楽なので」

 ああ、そう————と、守は歓待の気持ちを持て余して茶をすすった。

「『フリマアプリ』って、言うの? そういうので売れば?って、息子には言われたんだけど……。何せ亡くなった妹の物だから、見ず知らずの人に送って、ポーンと、お金に換えるのも、なんだか忍びないっていうか」

「はい、分かります。なんとなく」

「だから君みたいに、ちゃんと、『好きだ』って言ってくれる人に直接会って渡せるなら、すごく嬉しいんだ」

 守は玩具の山に手を伸ばした。『カレンドール かみがた/ハニーブロンド・ウェーブ』『カレンドール かみがた/ショコラブルネット・ショート』————『カレンドール ギンガムチェックワンピース ピンク』『カレンドール プリンセスドレス パールホワイト』『カレンドール フラワリーワンピース ヒマワリ』————。箱の中の人形は、本村が抱いている『メイリス』とそっくりだ。

 本村は座布団からはみ出して、大きな箱の方を確かめた。

「わあ。『カレンのときめきパティスリー』、『カレンのきらめきヘアサロン』もある」

「状態はすごくいいと思うよ。子どもが遊んでいたわけじゃないから。妹は、部屋に飾っていただけみたいなんだ。いい歳して、少女趣味だよね————」

「そんなことないです」

 洋服の入った薄い箱を見比べながら、本村はきっぱりと言った。失敗したと、守は思った。

「そう、そうだよね。いくつになっても————男でも女でも————人形は、かわいいものだよね」取り繕うように守は続けた。「ちゃんと箱も取っておいてあるし————。こういうのって、箱があった方が価値が上がるんでしょ? 詳しくは知らないけど————。妹はなんでも取っておくタチでさ。うちのもそうなんだけど。ほら、紙袋とか。遺品整理のとき、手伝いに来てくれた妹の恋人も、一枚もらっていいかって。そんなの、形見だなんだって取っておけないから譲ったんだけど、あとで息子に聞いたらそのフリマアプリで高く売れるんだって。たかが紙袋だよ? 紙ぶ」

「あの、池脇さん」

 本村は言った。

「僕、コレクターではないんです。もちろん、頂いたものは、大事にしますけど、箱は、多分、取ってはおかないし、もしもメイリスに必要なくなったら、その時は、手放して、処分することになると思います」

「ああ。構わないよ」守は言った。小さな子どもの小さな願いを聞き入れるような、優しい目だった。「君に譲るんだから、あとは君の自由だよ」

「ありがとうございます。もう一個、頂いていいですか?」

 本村は人形焼の袋を指した。どうぞどうぞ、食べなさいと、守は勧めた。本村は包みを見比べ、目当ての形を見つけると、開いてぱくぱくと食べだした。守には、型焼きされたカステラの、どれが毘沙門天で、どれが何様かなど、さっぱりだった。

「不躾なことを聞くようだけど、君は、その、メイリスさんとは、いわゆる恋人同士ってことなのかな?」

 守は、本村の膝の上で行儀よく座っている人形を見て言った。玩具にしては、襟や袖までよく作り込まれたワンピース、小さな足に履かされた、ドロップのように艶やかな緑のパンプス。持ち主によって選び抜かれたものを与えられ、大切にされていることが、よく分かる。

「いいえ」

 本村はあっけらかんと答えた。「でも、好きです」

「そ、そっか……」

 なぜかほっとして、守は湯呑みを手に取った。

 守がそれに口をつけるより早く、本村がグラスをつかんで牛乳を飲み干した。そしてたずねた。「さっきの人が、息子さんですか?」

「あ、ああ」湯呑みを宙に浮かせたまま、守は答えた。「ちょっと老け顔だけど、多分君と同い年くらいだよ」

平田ひらた高校こうこうなんですか?」

「え?」

 守は聞き返した。本村は、座卓の端に積み重なった書類の山に視線を流した。下からはみ出た封筒に、『平田高等学校』と書かれている。

「すみません。目に入ってしまって。何年生ですか?」

「一年だよ。四月から」

「へえ。僕も四月から平田なんです。入学式で、また会えますね」

「ああ————」

 守は少し、表情を曇らせた。「そうだねえ」

「そういえば最近、この近所で殺人事件があったって、知ってます?」

 いかにも恐々とした風に、本村は話し出した。「犯人は、久留美くるみ北中きたちゅうを卒業したばかりの生徒だって。怖いですよね。同じ市内でっていうのも、そうですけど、自分と同い年の人が、〝そう〟っていうのが————」

「ああ、そうだねえ」

 刺激の強い話題にろくな言葉も返すことなく、守は伏し目がちに茶をすすった。そして、おもむろに立ち上がった。「じゃあ、僕は居間にいるから、ゆっくり見ていってね」

「はい。どうも」本村は寝癖頭を下げた。

 守は襖を開けた。そこには、背が高く、険しい目つきをした、老け顔の息子が立っていた。

「デマばっか拡散してんじゃねえよ」

 池脇は言った。「やったの、俺じゃねえよ。見つけたってだけ。犯人が久留美北中の卒業生っていうのもデマ。全部デマ。分かったかこのスプリング野郎」

 徹也、やめなさいと、まったく効力のないささやき声で守は制した。

 本村は正座のまま、ぼんやりと池脇を見上げていた。そして唐突に、見通しの悪そうに目を細めた。

「スプリング野郎ってどういう意————」

「知るか」

 すり潰すような語勢で、池脇は言い切った。それから、あっという間に消沈した。人形を膝に置き、そこに正座している男に、口を開くことこそばからしいと気がついた。

「そいつらまとめて、さっさと帰れよ」

 まるで、戦の一つでも終えた気分で、池脇はしおたれた。ありきたりの感情を表に出す作業に、こんなにも体力を要するとは。今すぐにでも、ボロボロのソファに沈みなおしたい。

「それは無理」

 擦り切れた歩兵に淡々と槍突くように、本村は言った。「君のお父さんにはもう話したけど、僕はコレクターじゃないし、自分の部屋も手狭だし。全部は持って帰れないから、じっくり見て選びたい」

 尻込みするようすはなかった。

 武器を持て。立ち上がれ。まだやれるだろうと、思ってか、思わでか。本村はその落ち着いた口調と、態度とで、戦をけしかけようとさえしていた。守は、初めから、ずっと、置き去りにしていたことと、改めて向き合うこととなった。——変わった子だな————。

「久留美で殺人事件があったっていうのは、本当なんですね」

 本村は守に問いかけた。息子と、客人との間で板挟みの守は、まごついて口をつぐんだ。

「不躾なお願いですが」

 本村は言った。

「事件の話、聞かせてもらえませんか?」

 池脇は、強面をさらにしかめっ面にした。隣で守も、面食らっていた。

 本村は人形の頭を撫でると、顔を上げ、澄んだ瞳で、微笑んで、言った。

「まさか同じ平田の僕がここへやって来るなんて、妹さんが、引き合わせてくれたのかもしれません」

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