第9話 悪魔の啼泣
岡 征十郎は桐箱の出所を上司である与力の助川には報告した。助川は眉をくいっと上げ、
「まったく、あの詩乃の人脈には驚かされる」
と苦々しく言った後で、詩乃の意見通り、今までとは違うやり方でハビエルを探すことに同意した。
「それでは、どうやって探すか?」
と大江戸一体の地図を広げてみたが、
「どこかの家に匿っていることは無かろう。では、山か?」
と言ったが、大江戸のあたりには大小の山がいくつもある。いくら小さい山と言えども、人一人探すとなれば一日、二日はかかるだろう。そんな猶予もなければ、時間も人もいない。効率などを考えれば早急である事柄であればあるほど身動きが取れなくなる。
「エスパニアの地図など、手に入りますか? ハビエルがどこの生まれだとか、」
岡 征十郎が口にしたが、ハビエルがエスパニアのどこの生まれかなど全く分からないうえに、エスパニアの地図など、
「あいつが、どこかで足を出すのを待つしかないのだろうが、その前に取り押さえればいいのだが」
助川が重く言った。
詩乃は額の玉のような汗を手で拭い、ため息をついた。
「あーつーいー」
店に入ってきた寛太がくすくす笑いながら番頭に挨拶をした。
「お前、こんな真昼間に歩いてきたのかい?」
「ええ、まぁ。というか、おっかさんに頼んでね、手習いを始めて、そのついでに来たんです」
「ついでか」
詩乃の言葉に首をすくめながら、番頭が差し出した水をくいっと飲み干した。
「実はね、おすえちゃんが最近見えなくなってさ」
「見えなくなって?」
「あ、あぁ。おすえちゃんも同じ手習いに通っていたんだ。とはいえ、あそこは父親が酒飲みだから、毎日はこなかったんだけども、それでも、お詩乃さんから駄賃をもらって通えるようになったと、あれから毎日通ってきていたんだ。
雨で草の乾燥がうまくいかなくて、家中に干しているのだけど、それでもすっきり乾かなくて困っているって言ってたんだ。
それがさ、十日ほど前からぱったり来なくて、おすえちゃんの家に寄って帰ると、帰りが遅くなるんで困っていたんだ。それでも、二、三日前にやってきて、そん時、ひどく
今から、行けないかい?」
寛太は詩乃をじっと見た。
「あのさぁ、寛太。そういうことは、三日前にまず言いに来な。もし、今日あたしが居なかったらどうする気だったのさ?」
「あ……うん。でも、お詩乃さんのことだからさぁ、おいらを待っててくれないで先に一人で行くんじゃないかと思って」
詩乃は呆れながらも首をすくめ、
「まぁ、様子を見に行ってみようか。殴られたという痣も気になるし、うちにまったく連絡を寄越さなくなったからね」
詩乃と寛太は街を外れ、関所へ向かう道から外れ、荒れ村の細い、人が踏みつけてできた道というにはただ踏み固められた、田んぼの畔を歩いた。
虫の声と、稲の青々とした熱気が辺りに立ち込めている。
それを通り過ぎると、今度は葦の、土地の悪そうなぬかるんだ平原に出た。人の背丈ほど伸びた青々とした葦を、踏み分けられている道を通ると、小さな小さな貧しい小屋が見えた。おすえの家だ。
寛太が駆け出すのをその肩を掴み、
「寛太、今すぐ町へ引き返し、岡 征十郎、覚えているかい? ゆりが連れていかれたとき助けてもらった町方だ。あの人を呼んでおいで。見つからなきゃ、番所へ駆け込み、あたしが用事があると叫べ。早く行け」
寛太を今来た道のほうへと背中を押した。その顔、声に寛太はたじろいだが、すぐに頷き走り出した。
寛太は自分がどれほど
町に入ってすぐ、見たことのある岡っ引きを見つけ、そいつの
「このガキが! 放しやがれ」
と拳を上げようとした途端、
「し、詩乃さんから、お、おか、の町方に、至急、来いって、助けておくれよ、おすえちゃんが」
と寛太はすがり膝から崩れた。走ってきて足に来たのだろう。辰治は眉をしかめ、寛太の前にしゃがむ。
「何がどうした?」
あまりにもゆっくりしゃべる辰治にいらいらしながら、
「六薬堂の詩乃さんが、岡の旦那を寄越せって、すぐに来いって、」
「寄越せって、どこに?」
「おいらが案内する。葦の村なんだ。わかるかい?」
寛太の言葉に辰治は首を傾げ、
「まぁ、なんだぁ、いたずらはほどほどに、」
「い、いたずらなんかじゃないって、お詩乃さんが!」
辰治は適当に相槌をし、寛太の頭に手を置いて二度ほど軽く叩いて歩いていった。
「役立たず」
寛太は立ち上がり、番所へと向かった。
番所は、罪人だか、なんだかで人が大勢いて、寛太のことなど誰も見向きもしなかった。
寛太は六薬堂に向かった。番頭が打ち水を撒いているところだった。
「番、頭、さーん」
寛太の泣きそうな声に番頭は柄杓を桶に入れ首を傾げた。
「うちの詩乃さんは?」
「詩乃さんに、岡の旦那を呼んで来いと言われたんだが、岡っ引きも、番所も取り合ってくれなくて、」
「詩乃さんが、呼んで来いと言ったんだね?」
「ああ、おすえちゃんの家のそばまで行ったら、急に、おいらの肩を掴んで、背中を押して、とにかく早くって、」
「解った」
と言うなり、番頭は懐から笛を取り出して鳴らした。岡っ引きがよく鳴らす呼び笛だ。甲高い音がして、しばらくすると、岡っ引きやら、近くにいたらしい同心が走りこんで来た。
「岡様、」
その中に岡 征十郎の姿を見つけると、番頭は寛太を差し出し、
「詩乃さんが危ないようです。この寛太が案内します。大勢で行かれたほうがよろしいかと思います」
と言った。
岡 征十郎は寛太を見下ろし、頷くと、
「寛太と言ったな、案内しろ」
そういうと、側にいる同心や岡っ引きを引き連れて寛太の案内のもと葦の村へ向かった。
岡 征十郎たちがおすえの家のそばまで来ると、詩乃が家の外に立っていて、小さく首を振った。
岡 征十郎は寛太の肩に手を置き、
「お前は、ここにいるんだ。詳細が分かったら教える。それまで、待っているんだ」
と言った。それを聞いた寛太は不穏な空気を察し、近づこうとしたが、それを、家のそばに立っている詩乃の無言の顔が許さなかった。
「解った」
と言って、側に腰を下ろした。
同心たちがおすえの家に行く。
何とも言えない匂いが鼻を突く。
「死後、三日、と言ったところだろうかね」
詩乃は静かに言った。
父親は土間で首の骨を折られて死んでいた。土間は荒らされた様子はなく、父親は何かをしようとして台に上り、首から落ちたのかと思われた。
おすえのほうは、薄い、形だけは布団であろうと思われる布団に寝かされ、手を胸の位置で組んでいた。
「父親もおすえも首の骨を折られている。違うのは、おすえはちゃんと弔いの意志を感じるが、父親にはそれが見られない」
詩乃の言葉に全員が詩乃を見る。
「折られている?」
―つまり殺しだ。
「なんか、ありましたか?」
男だった。野暮ったい、クマの皮で作った毛皮をまとっている。一見すると木こりか猟師だが、
「おすえなら、死んでしまったよ」
詩乃の言葉に、男は舌打ちをし、
「そうですか、父親は? 父親も死んだ? まったく、だから、金を先渡しにしなくてよかったですよ」
と言った。
「
岡 征十郎の言葉に男は首を振り、
「人聞きが悪い、そこの父親に頼まれたんですよ、娘が勝手に体売って金を稼いでいるようだから、いっそうのこと、どこかいいところはないかって、」
と言った男の首に、白いシャツの腕が伸びて絡まり、まるで、木の枝か何かを折るかのような音をさせて首をへし折った。
崩れる
そこに立っていたのは、青い目から血の涙を流しているハビエルだった。
空気が張り詰め、誰も身動きできない。
岡 征十郎はとっさに手を置いた柄に汗が染みていくのを感じた。
目の前にいるのは、大麻を持ってきた男で、この男の所為で犠牲になった子供たちの姿を思い出すと、怒りに体が熱を帯びてくるが、それに比例して、背中を冷や水が駆け落ちて行くのを感じる。
ハビエルと正面対峙している岡 征十郎だけではなく、一同が、ハビエルの青い目の奥の冷酷さに恐怖して身構えたまま動かなかった。
今、誰かが動けば、そいつの命はない。
ざざざざと音を立てて葦が揺れる。
岡 征十郎が視界の端に驚いている寛太の姿を見つける。「動くな」と念じたが、腰を抜かした寛太が恐怖のあまり腰を引きずりながら後ずさった。
「動くな」
岡 征十郎が叫ぶのとハビエルが寛太に飛びかかろうとするのが同時だった。
岡 征十郎は刀を真横に抜き、ハビエルの太腿を横に払った。
ハビエルが前傾姿勢のまま止まった。急に熱が太腿に走った。ジワリとにじみ出てくる血。焼け付く痛みに足を見る。
あの一瞬でざっくりと切った岡 征十郎の腕前は見事だった。ズボンはもとより、肉も切り開かれている。骨まで達していないが血がかなり湧き出てきた。
岡 征十郎が八相に構える。
ハビエルが岡 征十郎のほうに首を向けた。
草履の地面を踏みしめる音がした。
ハビエルが岡 征十郎に向かって飛びあがった。それを合図にしたかのように同心たちが剣を抜き、ハビエルに斬りかかる。
ハビエルの腹に突き刺さる刀、だが浅く、動きを完全に止めることはできない。
背中を袈裟に切りつける。白いシャツに血が走る。
左右から足を狙って突く。だが両刃ともかすり、血線だけが走る。
ハビエルは血を流しながら岡 征十郎の間合い目前に立った。岡 征十郎は八相の構えを崩していない。
ハビエルは瞬間的に岡 征十郎だけが敵だとみなした。他の同心の腕は大したことはない。だが、この岡 征十郎の刃だけは必ず心臓を狙ってくると悟った。だから、岡 征十郎の間合いのぎりぎりに立ち止まった。
意志の強そうな顔をしている―ハビエルはこの国に来てから何人もの日本人を見たが、どれもこれも紙の上に穴をあけたような薄っぺらい顔をしていた。どれもこれも見分けがつかず困った。
だが、この男は違う。はっきりとした意思のもと、
小屋の方で音がした。
「寛太、おすえちゃんにお別れを言いな」
詩乃の声だった。
寛太が慌てて立ち上がり詩乃のもとに走り寄る。
ハビエルが顔を上げて詩乃を見る。それを遮るように岡 征十郎が足を踏み込む。
「なんで、おすえちゃんまでも殺した?」
詩乃の怒りを含んだ声に寛太がハビエルを見る。
「死にたいと、言った」
詩乃が寛太の背中に手を添わせ、入り口から手を合わせるように仕向ける。
「ということは、先に父親を殺したんだね?」
「その男は、娘を売ろうとした。許せない。私を助けた天使を売ろうとした」
ハビエルからさきほどの殺気を感じなくなり、岡 征十郎は刀を下ろし、同心たちに合図を送り、ハビエルを跪かせ縄を打つ。
「つまり、あたしが、あたしが余計な金を渡さなきゃ、よかったのかい?」
岡 征十郎が振り返る。
詩乃は俯いて、右手で前髪をくしゃくしゃと握っている。
「金じゃなく、物々交換ならよかったんだね? いや、それよりも、薬師として育てるために引き取ればよかった」
詩乃の声が震えている。寛太が詩乃を見上げ不安そうに眉を顰める。
「おすえちゃんはいい薬師になれたんだ。だけど……」
「そうだ、父親から引き離していれば、売られずに済んだんだ」
ハビエルが声を荒げる。
「馬鹿をお言いでないよ! あの子の支えは、父親と暮らし、父親を支えることだったんだ。その支えを奪っちまったら、いくらあの子のためとはいえ、心の死んだ薬師にいい薬なんぞ作れるわけない。それ以前に、父親と離したことで、あの子は生きる意味を失いないかねない。
だからだろ? あんたが、父親を殺したのを見て、おすえちゃんはあんたを非難したんだろう? ろくでもない父親でも、あの子の父親だ。他人のあんたが始末していいもんじゃないんだよ。
父親を殺したあんたを、おすえちゃんは、……今までの態度を一変させたんだろ? だから、殺したんだろ? だけど、優しかったおすえちゃんを、むげにしたくないから、形だけでも弔っているようだが、そんなもの、そんなもの」
詩乃は唇をかみしめた。
ハビエルの傷は岡 征十郎が太腿に与えた傷以外はどれも浅かった。詩乃は手当てを拒み、同心たちが手ぬぐいで止血するにとどまった。
どのくらいの時間が過ぎたのか解らないが、おすえの姉と兄が知らせを受けてやってきた。二人ともがおすえによく似ていた。
「あたしが、駄賃を支払ったばかりに、こんなことになっちまって」
と言った詩乃に、姉はつらそうな顔をしながらも、
「六薬堂のお詩乃さんですか? おすえは、本当に喜んでいたんですよ。あの子、あの子だけは母親の言いつけを守って薬草作りを続けていて、それを褒めてくれたって。すごくいいものだからって駄賃をはずんでくれて、もう少し大きくなったら六薬堂に奉公に行かせてもらえないかって話してみるって。だから、女将さんが、思いつめなくていいですよ」
姉はそういって、縄を打たれ、罪人かごに入っているハビエルをねめつけた。
「おすえはね、傷ついている動物とかよく助けたんですよ。でもね、相手は獣で、人間の心なんてものはこれっぽっちも持ってやしないんだから、助けたって、こちらが怪我するだけだからおやめって言ったんですよ。ほら、その通りになっちまったじゃない」
姉が声を出して崩れるように泣く。
久しぶりに帰ってきたと言った兄は寡黙に立ちすくんでいた。
詩乃は固く固く唇を結んだまま頭を下げて町へ戻った。
寛太は岡っ引きの一人が家まで送り届けると言ってくれて、路地で別れた。
角を曲がると、六薬堂の看板が見えた。看板が揺れているのを見て、詩乃は角に体を戻し、壁にもたれた。
「ちょっと、歩くか?」
詩乃のあとから岡 征十郎が付いてきていたようだった。岡 征十郎の申し出に詩乃は頷き、店とは別の道へと向かった。
岡 征十郎の歩みはゆっくりで、その後ろを詩乃は黙って歩く。
なじみの茶屋の縁台に岡 征十郎が座ったので、詩乃も横に座った。
「あたしはね、人の生き死をどうこう悲観することはないんだ。どうせ人は死ぬんだし、それに逆らえるほどの力なんてものはないからね。
だけど、それは寿命を全うしての話だ。あれは違う。しかも、あれは、あたしの所為でもあるんだ。
駄賃を渡していいものかどうかと思ったんだよ。なのに、金で片付けた。だからいけなかったんだねぇ」
詩乃が弱弱しくつぶやく。
岡 征十郎が茶屋にお茶と団子を注文する。
「まったく、何やってんだか。
だから言われるんだよ。何でも解った風に行動しているけれど、お前はなにも解っちゃいないんだってね。ちょいと考えれば解ったはずなのに、解っていたくせに……あの子を、死なしちまった」
岡 征十郎は黙って聞いていた。
団子が運ばれてきた。詩乃の好物のくしに刺さった草団子だ。
詩乃はそれを一つとると、大口を開けて口に入れた。
「お前が、以前、亭主を亡くした女に言っていたことを思い出すよ。
こっちは生きてるんだから、食べて、吐いてでも食べて、いやってほど生き続けてそれから死ね。そこまでしたら、相手もいやになって成仏していくよ。
それを聞いた時にはひでぇことを言うと思ったが、女房は食べ始め、今では裁縫職で身を立てている。だから、お前の言ったことはまんざらひでぇことじゃないんだと思うよ」
「忘れていたねぇ。そんなこと。でも、今は、身に染みるよ」
詩乃はそういって団子をもう一本食べ始めた。
「お前、さらに、もう一本喰う気ではないだろうな?」
「あら、旦那のおごりでしょ?」
そういって両手に団子をもって立ち上がると、六薬堂のほうに歩きだした。
「座って食え、女がみっともない。あ、オヤジ、団子代ここに置くぞ。おい、詩乃、団子返せ」
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