第8話 梅雨明け間近

 おしなと長治は詩乃の説得によって別々に治療をすることになった。

 運び屋の話では長治はなかなか苦戦しているようだが、おしなのほうは順調に治療回復しているという。


 梅雨もそろそろ明けるのかもしれない。雨や湿気よりも暑さのほうが体感をしめてきている。

 番頭は、それでも名残惜しそうに降る雨空を見上げる。

「そういえば、」

 番頭はほうきを片付けながら、

「おすえさん、来なくなりましたね? 来なくなって、十日ですかね、以前なら二日おきには来ていたのに、雨だから来ないのかとか思っていましたけどね、」

 詩乃も、さすがに気になっていると言った風に外に目を向けた。

「でも、この雨じゃぁ、草も乾かないのかもしれませんがね」

「そうであることを願うよ」

「と、言いますと?」

「気になってしようがなかったんだがね、……、うちでの駄賃を、父親は、あの子の稼ぎだと、薬草で得た駄賃だと思うだろうかね?」

「……と、言いますと?」

「いや、酔っ払いに、正しいことを言ったところで、ちゃんと伝わるのか? と思っていてね。変に勘ぐって、盗んだと思えばまだいいが、体を勝手に売ってとか言う話にならなきゃいいがと思ってね」

「なるほど……、盗人ならっておしまいでしょうが……寒村の娘はその都度売られていくのは、もう見慣れた光景ですからね。……でも、あの子が薬草を作っていることは知っているでしょう、一緒に暮らしているんですから」

「たぶんね。父親に会っていないから、わかりゃしないけども。まぁ、気にしすぎだと思う」

 詩乃は言い聞かせるように言った。


 梅雨が明けた途端、降ってわいた蝉の声に朝早くから起こされ、暑さでうんざりする、夏本番がやってきた。

 見えるものすべてを恨めしそうに詩乃は睨み、団扇で扇ぎ、着物の裾を膝までまくってタライの水に足を浸けている。

「お下品な」

 と番頭がいくら叱っても、それを止めることはない。

 この時代、女がくるぶしより上に裾を上げるなど、あってはならない格好なのだが、詩乃に限ってはそんなことどうでもよかった。

「邪魔、」

 岡 征十郎は詩乃の格好に眉を顰め言葉を切った。

「何という格好を、」

「暑い」

 詩乃の言葉に岡 征十郎は嫌そうな顔をし、番頭に、懐から紙を出して手渡し、詩乃には包みを差し出した。

「ちょうど、すいさん―岡 征十郎の従兄、橘 恭之介の新妻―に会って、ここへ来るというが、あの腹を抱え、この暑さの中歩くのは如何なものかと言い、手紙を預かってきた。処方すれば届ける」

「そりゃ構わないよ。だけど、あんたがうちの薬を運ぶなんて、驚きだね」

 詩乃の嫌味に岡 征十郎は嫌そうな顔をする。

「私だっていやさ。怪しい薬などと言ったが、翠さんがどうしてもという言うから仕方ないじゃないか、あの人は見かけによらず頑固で困る」

 以前、翠に何か面倒を言われたことでもあるのだろう、それを思い出したような顔をした。

「それで、これは?」

「二日前に運ばれてきた遺体の解剖なんだが、死因は窒息となっているが、首に絞められた跡はない。だが、小早川先生は窒息だという。忙しそうでな、理由はお前に聞けというので持ってきた」

 詩乃は片方の眉を上げて風呂敷を解いた。

 最近は幕府も蘭学かぶれが多くなってきているようで、解剖図解というものを欲しがっているらしく、解剖図解を特に専門としている重垣えがき 小斎しょうさいの絵があった。

「この人の絵は詳細で好きだ」

 詩乃の言葉に、岡 征十郎は詳しすぎて気持ちが悪いと顔をゆがめる。

「なるほど、これはね、」

 詩乃が図の一枚を床に置いて説明をしようとした時、上等な駕籠のりものが一丁停まった。そして、屋根と戸が開き、中からこれまた上等な着物を着た女が下りてきた。

 詩乃がそれを一瞥し、図のほうに視線を戻した。

 岡 征十郎はその人が駿河藩主 大徳川おおとくかわ 則常のりつね様の娘で奥入りされている真珠まじゅ様だと判ると、深く頭を下げ道を開ける。

「よいのですよ、町方殿。あなたはお仕事をなさっておいでなのでしょう?」

 涼しげな声だった。同じ女でも詩乃の声とは比べ物にもならないと、番頭台から降りられず、そこにひれ伏している番頭は思った。

「番頭殿も仕事をなさい。ね? 詩乃?」

「……あんたが来なけりゃみんな仕事をしているわよ」

 詩乃の言葉に、岡 征十郎がキっと睨みつけたが、真珠はころころと笑い、

「ごもっとも」

 と言って薬棚のほうに向かう。

「番頭殿? 詩乃が町方の方と仕事が終わるまでの間、わたくしに教えてほしいのですが?」

 そういって薬棚の一つを指さす。

「放っておけ、説明するよ?」

 詩乃が岡 征十郎を見上げる。岡 征十郎は臆しながら何度も頷き、短く強く息を吐きだして詩乃のほうに向きなおった。詩乃は、岡 征十郎のこういう態度が好きだった。たとえ、相手が大徳川うえさまだとしても同じように短く強く息を吐き仕事をするような男だった。だからこそ、普通の役人には説明しないようなことも説明するのだ。

「ここを見てごらんよ。ここは、咽喉ね、」

 そう言って自分の喉の中央、男ならば喉仏があるであろう部分の辺りを擦り、

「普通の喉というのは、呼吸と、食事が通れるように管のようになっている。だけどもこれば咽喉が腫れているだろう?」

 重垣の描いたものとはいえ、ちゃんと咽喉の管の辺りが赤く腫れただれているのが解る。

「これは多分、何かに過剰に反応して起こった結果、のどの粘膜を腫らして呼吸できなくしてしまったんだろうね」

「何かとは?」

「この人が何かに反応していたかは、本人か、家族かに聞くしかないよ」

「妻が居たな……だが、そんなに反応を示すものなどあるか?」

 岡 征十郎は懐に入れていた帳面に、「過剰反応を起こすもの」と書いた。

「よく聞くのは漆なんかがそうだね、木の下に居るだけでかゆくなる。あれも過剰反応の一種だよ。

 だけど、この人の場合、咽喉に出ているところ見ると、何かを食べたんだろう。胃の内容物は、空? 空っぽということは、困ったねぇ……。無いよ」

「何が?」

「口の中の絵だよ。飲み物で反応したんだか、咀嚼途中で反応したか、口の絵がありゃ解ったんだがね。胃が空だということは、すべて吐き出しているんだろう」

「死体を発見した時に、白濁の泡を口から吐いていたと言っていた。私が駆け付けたときには、仰向けになって、すっかりきれいにされていたんで、そこまでは気付かなかったが、」

「白濁の液? 何を飲んでいたかは聞いてないかい?」

「近くに、どぶろくの瓶があった」

「酒呑みかい?」

「ああ、けっこうなようだ」

「じゃぁ、それに混ぜて飲ませた。のかもしれないし、間違って飲んだかもしれない。とにかく、家族に聞くことだね。あぁ、一度、蜂に刺されたことはないか? も聞くことだね。蜂に刺され、いっときでも生死の境を何ていう話があったら、」

「解った」

 岡 征十郎は懐に帳面を片付け、肩で息を整え、真珠のほうを見て深々と頭を下げたのち、

「お先に失礼いたしまする」

 と言って駆け出て行った。


 詩乃は鼻で笑いながら、番頭は、真珠から解放されると少し安堵して真珠を詩乃のいる小上がりまで誘導する。

 ふかふかの座布団を用意しようとする前に、真珠は薄い来客用の座布団に座り、店内を見間渡した。

「小さい店だが、行き届いているようだ」

「このくらいがちょうどですよ。それで? どういった御用向きで?」

 腰元お付きの者が険しい顔をするのを真珠が左手で制し続けている。

「番頭殿の説明も大変よく解りやすかったですよ」

「あ、ありがとうございます」

 番頭は地べたにひれ伏さんばかりの頭を下げる。

「あいつは勉強家だからね。それで、そうやって褒めちぎるだけじゃないだろうに? 何しに来たのさ」

 詩乃の言葉に真珠はくすりと笑い、

「ねぇ、詩乃さん、ご存じ?」

 と言って腰元のほうに手を差し出した。小さな蓋付きの桐箱を取ると、その蓋を取って詩乃に差し出す。

 詩乃がそれをちらっと見た後で、桐箱をつかみ取る。

「番頭、岡 征十郎を呼び戻せ。真珠、これをどこで見つけた?」

 詩乃の声色と顔色を見ればそれが冗談か、緊張しているか番頭は解る。すぐに外に出ると、傀儡が向こうの角に見えたので、大声で、

「岡の旦那―」

 と叫ぶ。傀儡は人形をあっという間に箱に片付けるとそのまま走って行った。

 番頭は手を二度ほど揉み、はっと自分よりも身分の上の駕籠かきに頭を下げて店の中に入る。

「奥で最近出回っているものです」

 と真珠は静かに言った。

「ただ、使い方が分からず、でも、なんでもよい心地がするもの。だとかいうので、茶として煮出すものかとしていたのを見つけ、それは、苦い苦い草ではないかとごまかしかき集めてきた。もしかするともっとあるかもしれぬが。

 わたくしは世間のことに興味があるものですからね、先の事件のことも聞き及んでいます」

 真珠はそれ以上言わなかった。詩乃のその顔の緊張からそれが大麻であることが分かったのだ。

 岡 征十郎は走りこんで来たのはそれからすぐのことだった。

 遺体となった男の妻に話を聞いた後のようで、傀儡に呼ばれ―普段傀儡は声を掛けないので、声をかけてきたときには驚いたが、それだけ切迫しているのだと悟って、六薬堂に走りこんできたのだ。

 真珠がまだいることに驚きながらも、詩乃が差し出す桐箱を見て眉をしかめる。

「それは、」

「奥で流行りそうなので、回収してきました。役に立ちますか?」

 岡 征十郎はぎょっとして真珠を見た後で詩乃を見た。

 詩乃は頷き、

「この前のヤツと同じだと思うね」

 と短く言った。

「奥なんぞで流行った日にゃぁ、町方が手を出せるわけにはいかないし、もちろんあたしだってやすやすと出向けない。真珠が……真珠様が集めてくれたものですべてであることを願うばかりだが、」

「以前、アヘンが流行った時に、あれは、梅の宴の時だったか? 詩乃が、わたくしの腰元の一人からアヘンの匂いをかぎ取り、それがよかったのでしょう、アヘンはすぐに元を断てたのですよ。ですからね、わたくしは今回も詩乃のもとにやってきたのです。

 岡 征十郎殿と言いましたか? あなたは大変優秀な町方のようですから、どうか、どうか、このようなものが、この大江戸に蔓延することのないよう、しっかりと働いてくださいませね」

 真珠はそういって優雅に立ち去った。

 岡 征十郎は深々と頭を下げた。


「真珠は……真珠様は、面倒な呼び方だ。とにかく、あの人は、奥にいるには頭が良すぎる。好奇心が旺盛だし、勉強をいとわない。それを面白くないと嫌う蘭学者がいるが、花を愛で美しいと思うのと同じく、勉強を面白いと思うのは人間として当たり前だ。と言い切った。それが気に入られて、今の大徳川将軍様に学問を許された唯一の人なんだが、それが裏目に出て困る人は多い。

 真珠に跡取りを産ませ、家を守ろうとしている実家はまぁ、毎日のように勉学に励まず子作りをと手紙を寄越しているようだが、あれが大人しく聞くような奴ではないとみて判るだろう?

 おとなしく聞くような奴が、駕籠でわざわざこんなところまで来やしないからね。

 とはいえ、ああいう人が居るから、あたしはいろいろと助かっているところがあるのだけども。将軍献上の舶来の本を横流ししてもらっているしね」

 詩乃はそういって床積みしている本を指さした。番頭は「あれ、そんな高価な本なんですか? 邪魔で、足で寄せていたのに?」という顔をしたが、知らぬふりをして白湯を入れに行った。

「岡 征十郎、これはいよいよ、急がないとまずいよ?」

「解っている」

 岡 征十郎の顔が険しく、ひどくゆがんでいる。

「岡 征十郎……いい顔をしている。そう言う顔、好きだよ」

 詩乃の言葉に、岡 征十郎はばっと顔を赤らめ、顔の緊張を解いた。

「そのくらいの力の抜き加減で居な、じゃないと、見落とすよ。力を入れ過ぎると、視界が狭まってしまう。とにかく、相手は外国の人間なんだ、あたしたちが想像できる行動はとれないかもしれない」

「だが、同じ人間だ」

「お前さんはさぁ、瀬戸内のほうへ行ったことはあるかい?」

 詩乃の言葉に首を傾げる。

「お天道様というのは、東から西へ沈む。知ってるよね? ここいらじゃぁ、海に向かって左から、右へ沈む。間違いないね? 瀬戸内に行くとさぁ、海に向いてみたら、右から左へと日が動く」

「いや、瀬戸内へ行けば、山のほうを見て、」

「それは、瀬戸内だと知っているからだろ? 土地勘がない場所へ行き、東西が解らず、目標とするものが無い場合、今が梅雨で夜の星で方角が解らないからね。その場合、日の沈むほうは西だとして、大江戸ではほとんどが東に海がある。だけど、ハビエルがいた場所では、西に海があれば西へと進むだろう? 海に行けば船に乗って逃げれると考えたらさ? 

 だから、今まで考えていたことを改めたほうがいいのじゃないかね? 方向を定めれるものがなく、山を超えれば海が広がっていると思って山へ入った、だけど、その先は平原かもしれない。

 あ……いやだねぇ……一瞬、底なし沼なんぞにって考えちまったよ。いけないねぇ、そういうこと考えるのは」

 詩乃は首を振った。

 岡 征十郎も、「そうなれば捜索は打ちきりだが、底なし沼にはまったと証明できなければ、一向に安心はできまい? そりゃだって、底なし沼にそれ事沈んでくれりゃと思うがね」と言った。

 詩乃は岡 征十郎のそういうざっくばらんな言い方も好きだった。

「だが、考えを改めねばいくまいな」

 岡 征十郎は唸り、桐の箱を持って出て行った。


「何か言いたげだね?」

 詩乃が番頭のほうを見る。番頭は何も言わずに伝票を書いていただけだが、それをたたむと、座を正し、

「あのですね、詩乃さん。あなたが適当にもらってくるいろんなものの出所をはっきりさせておいてくださいな、今日、あたしは、もう、心の臓が、」

「つぶれるようなやわなもん下げちゃいないだろ? それに、出所が分かったところで、物は所詮モノで、それに偉いも偉くないもありゃしないだろ?」

「そうでしょうけど、」

「借りる、返すときに頭の下げ方を変えればいいだけだから、気にするこたないよ」

 詩乃の言葉に番頭は深いため息を落とした。





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