第7話 イカリソウ

 梅雨の、しとしとと降っている雨の音を聞きながら、それでも、今晩は少し寒いと感じ、布団を首にまで引き上げた時だった。

 外の、羽目板に足を突っ込んで、そこら辺に置いている桶やら、たらいやら、何かやらを倒す派手な音がした。

「あぁ、長治の野郎、帰ってきやがったか」

 運び屋は体を起こし、外の騒動に耳を澄ませる。

 長治の嫁のおしなが近所に「あい、すみません」と言いながら、長治に肩を貸して家の中に入れているようだ。

 おしなは背が小さくて、痩せていて、まるで子供に見える。もちろんれっきとした大人なのだが、それでよく、その腹を抱えていられるものだと、みなが心配している。それを思い出し、運び屋はため息をついて立ち上がる。一緒に長治を中に運ぶためだ。

 だが、心配にはおよばないようだ、近所の女将さん連中が、長治を叱りつけながら中に運んでいるようだ。

 この長屋の連中は本当に面倒見がいい。独り者の運び屋に飯を用立ててくれるのだ。


 運び屋は堺の奉公していた店で火事に遭い、その時に顔に大きな火傷跡を残した。左半分の顔がずるりと定位置から少し下がって、ひどく醜い顔になった。

 訳あって運び屋は、その火事で死亡したことになっている。実は、その堺の店の番頭が店主の奥さんに横恋慕の末、火事を起こしたのだ。一緒になれないのならあの世で、という話しだったという。その火付けの現場を目撃し、番頭に買収されたのだ。罪を被る代わりに、火付けの犯人となり、その上で焼死したことになっている。運び屋は番頭が用立ててくれた金を持って大江戸に上京してきた。

 だから、運び屋にそもそもの素性はないのだ。死人なのだから。

 それが先だって思いもよらず、槌長屋に行き別れた年の離れた妹を見つけた。お互い素性が素性だからと、顔見知り程度の少しの縁のある他人として、お互い名乗らずにいる。いまさら運び屋が兄と名乗っても、死んでしまった兄が生き返ってきたところで、どうしようもないのだ。だが、それでも、

「あら、六薬堂の運び屋さん。ちょいと、これをどうぞ」

 と、妹のおみちがどこかで会うと必ず塩むすびをくれる。以前、死んだ兄の好物だといったものだ。

「それは受け取るわけには、」

 という運び屋に、おみちは笑顔で、

「墓参りでお供えしていたものなの。でも、あたしお腹いっぱいなの、家には夕餉の支度しているし、もらってくれない?」

 というのが、運び屋が、槌長屋辺りを巡回する日に合わせての日課になっていた。


 そういった経緯の、見た目の悪い男を大家以下、ここの長屋は受け入れ世話をしてくれるのだ。運び屋が六薬堂の従業員だということも利点だとは思うが、それを抜きにしても本当に面倒見のいい連中が集まっている。


 以前どこかの長屋では、共有の道であろう場所があまりにも汚くて、ひとたび近所の連中が顔を合わせると口汚く喧嘩するようなところがあった。そんなところはふた月とせず人が居なくなり、大家が長屋を取り壊し、別の大家がきれいな長屋を作った。


 運び屋は賑やかな声を聞き口の端を上げる。とはいっても、ケロイドの残るほうの口は上がることはない。運び屋が痕を撫でる。

「運び屋さん、起きてるかい?」

 隣のおたきという名の奥さんだ。亭主は大工で、子供はすでにみな結婚をして今は夫婦二人だ。

「おう、起きてるぜ、どうした?」

 と声を出すと、スーッと玄関戸を開け、おたきさんは眉をひそめて入ってきた。

「ねぇ、運び屋さん、あんたんところの女将さんにさぁ、あの長治の奴の酒を治してもらってやってくれないかね? おしなさんが不憫でねぇ」

 運び屋は腕組をして唸った。

 本当に不憫でならない。あそこの夫婦は今回で三度目の妊娠だが、前の二度とも子供を流している。そのどれもが、長治の酒癖の心労からだった。もう二度と子供は授かれないだろうと思われたのに、やっと授かった子供だ。長治はうれしさのあまり酒の量が増えた。増えると、ますます酒癖が悪くなり、抜けなくなった。

「どうしたもんかねぇ。ええ? 長治だって、悪い奴じゃないんだよ。酒に弱いだけなんだよ。おしなさんがね、あたしらがあんまり優しくしてくれるんで、本当に申し訳ないと泣くんだよ。

 ねぇ、運び屋さん、あんたんところの女将さん、どうにかできないかねぇ?」

「一応相談してるんですがね、酒ってのは、本人が覚悟決めなきゃ、周りに言われてやったってどうにも治るもんじゃないんですよ。困ったことにね。非常に質の悪い虫に巣食われちまってるんですよ」

「虫なら、退治しておくれよ。ってわけにもいかないんだね。あぁ、不憫だよ、まったく」

 おたきは何度もそういいながら出て行った。

 運び屋は体を起こしたついでに便所へ行き、その帰り、長治の家の前を通った。

 戸が開き、おしなが出てきて、前を通った運び屋に驚いたが、

「煩かったですね。あい、すみません」

 といった。

 本当に可憐で、こんなにかわいらしい女房を泣かせているとなぜに気づかないのかと不思議で仕方がなかった。

「本当に、申し訳ありません。あたしが不甲斐ないばかりに」

 というので、そのようなことはない。と言おうとした時、長屋の入り口の前を誰かが横切った。こんな夜更けに通りを歩く人などいない。ましてやちょうちんすらぶら下げていないのだ、おかしな奴だと、そちらに気を取られた。だが、それをすぐに忘れ去られるような視線を感じておしなのほうを見た。

 背の低いおしなの、上目遣いに見上げたいつもの目が、やけに怒っているようだった。

「……、いや、大事無いよ。お休みよ」

 運び屋はそういって家に入った。


 ぞっとした。あの目を一度、昔見たことがあった。どこでだっただろうか? 

 ひどく不快な目だ。人をねめつけ、怒気を含んだ憎ったらしい目だ。

「どこだった?」

 一向に思い出せなかった。


 翌朝、いつも通りの朝だった。

 女将さん連中は昨夜の騒動を詫びるおしなをなだめ、励ましている。

「おはよう、運び屋さん」

「おお、おはようさん」

「おはようございます。運び屋さんも、昨日はすみませんでした」

 いつものおしなだ。不愉快な目などなく、快活に笑っている。


 運び屋は仕事に出かけた。今日の周りは、南の河岸のほうへ行く予定だったが、昨夜のことで運び屋は仕事をする気が無くなり、大江戸門大通りの、南方町5番辺りの茶屋に座り込んでいた。


 どこで見たのかどうしても思い出せない。そして、あの、おしなの目がなんであるのかを思い出した時、長治の酒も治る気がしたのだ。それはただの感で、詩乃や薬師のような知識に基づくものではないのだ。

 だから、説明できないために六薬堂へ行くことも、薬師に相談することもできずにいた。

「どうした、珍しいな」

 と声をかけてくる人に顔を上げれば、岡 征十郎だった。岡っ引きの辰治を引き連れていた。

 岡 征十郎は運び屋の顔を見て、辰治に巡回を任せ、運び屋の隣に座った。

 仕事をしてください。と言ったが、岡 征十郎はそこに座り、茶を頼んだ。

「それで、どうした? いつもならば、無遠慮極まる男が、よくよく何かに捕らえられているようだな」

 岡 征十郎の言葉に、顔をそちらに向ける。

「顔に出てますか? あっしの顔に?」

「見慣れれば、お前の顔とていろいろと読めてくる」

 岡 征十郎は届いた茶を口に含む。

「そうですか、」

「詩乃には言えんことか?」

「言えないわけじゃないんですがね。どういうんですかね、よく言えないんでさぁ」

「よく言えないとは、お前は運び屋で、どこそこの誰が悪そうだとしか言わないじゃないか、」

「まぁ、仕事はね。そうじゃないんですよ……。旦那は町方だ、こういうことってあるんじゃないですかね?

 以前どこかで見た記憶があるけれど、どこでだったか思い出せないということ」

「そんなものは、町方でなくてもあるだろう?」

「それが、非常に悪いものだったときは?」

「悪いもの? 悪いものと解っているのか?」

「ええ、どうにも、好かねぇ目です」

「目?」

 運び屋は頷き、昨夜のおしなの話をした。

「お前が店に連れて行こうとした長治の女房が、印象の悪い目をしていた。というのか? だが、それは、夜中で、明かりも乏しく、お前との背の差でさらに影があったせいじゃないのか?」

「あっしもそう思いましたよ。でもね、そういうことでもなさそうなんですよ。何と言いますかね、責めるような、それに怒ってるような、どこで見たのか、思い出せねぇんでさぁ」

「しかし、そういう目をしたからと言って、それがどうだというんだ?」

「そこなんですよ。そこ。それが解らねぇんですが、あの目の正体が解らねぇと長治の酒を止めさせられない気がしたんですよ」

 岡 征十郎は腕組をし、

「上目遣いなのはその女が背が低い所為だとしても、女が上目遣いに、怒りを込め、責めているような眼をするときなど……、私も一度見たなぁ。ただし、お前の言うような眼かどうかはわからんが、

 密通された女房が、亭主と相手の女を刺してな、まぁ、両人のケガは大したことなかったが、その時の女の目が、確かにそういう感じに睨んでいたな」

「あぁ、……そう、いや、近いような、そういうのでもないような、」

「そういう痴情のもつれなどというようなものは、坊主の得意分野ではないのか? あれでも、一応は、坊主なのだろう?」

「なるほど。確かにそうだ。いっちょ行ってきます」


 そういって運び屋は走り出した。

 通いなれた道を走り抜け、人気の少ない竹林道を駆け上がり見えてくる極楽寺。何が極楽寺だと詩乃が言っていたが、

「この寺は無縁仏がたくさんいるんでな、極楽寺と言えば、皆が集まってくるんだよ」

 と坊主は言った。身寄りのないものが死んだ後の葬式を頼みに来て、その後の財産をすべて坊主にくれてやるという念書を書かせる。坊主はちゃんと、手厚く葬り、お経を読む。全財産を相続すると言えば聞こえがいいが、もらうものは、家で使っていた鍋だったり、大工道具だったりで、売っても、そこそこのものにしかならないものだが、独り者の後を託せる安心からその依頼はひっきりなしに来るようだった。


 門をくぐると、昼の読経が終わろうとしていた。

 ゴーン、ゴーンと寺用のリンが二度なった。

 障子が開け放たれ、焚かれていた香が外に流れ出てきた。

「なんだ、運び屋? 死人か?」

 本尊を背に言うな。と思いながら、

「いや、そうじゃないんだ。少し話を聞いてもらいたくてな、構わないか?」

 というので、普段ならそんなことがない運び屋からの申し出に、坊主は台所へと入るよう言った。

 昼のかゆを一緒に食べようというのだ。

「このところ、この雨で、食欲がな」

 そういって薬師がかゆにこれを混ぜて食べろと言われた生薬粥を出してくれた。

 二人はそれを流し込んだ。

 今日はまだ雨は降っていない。だが、風が冷たくなってきたので雨が来そうだった。だから、このほんのり暖かいかゆはちょうどよかった。


「それで?」

 食後の片づけを済ませ、坊主が聞いた。

 運び屋は昨夜のことを話し、先ほど岡 征十郎と話したところ、お前なら分かるのじゃないかというので来た旨を話した。

「なるほど、女が怒りを含み責めるような眼をしたと? そんな目は、嫉妬から起こることもあるな」

「嫉妬? あの女房があっしに?」

「……それはないな。だが、その女房が望むようなことをお前がしなかった。だからそういう目で見られたのだろう。その時、お前は何をしていた?」

「…何って、……、便所の帰りに、おしなさんに出会って、おしなさんが謝ってきたんで、気にしなくていいよ……て、言おうとしたら、通りを提灯をぶら下げずに行くやつがいた、怪しいと思って、そう、怪しいんで後を追うつもりだったが、おしなさんがあんな目で見てたんで、つい、忘れていたが、そう、怪しい奴がいた。もしかして、おしなさんの男だろうか?」

「そりゃ解らんが、そのおしなという女房は、お前がその怪しい奴に気を取られたことが気に入らなかったようだな」

「だが、怪しいだろうよ? 夜中に提灯を下げずに歩いているんだぜ?」

「ここには、酒を飲む連中もいるぞ」

 運び屋が墓のほうを見て身震いを起こし、

「馬鹿言うなよ」

 と苦笑いを浮かべた。

「まぁ、それは冗談だとして、女の様相は、女に聞くほうがいいんじゃないか? やはり」

「……詩乃さんが聞いてくれるかね?」

「言わねば、聞こえないさ」

「そりゃそうだ」


 ということで運び屋が六薬堂を訪ねたのは、おやつ時を過ぎたあたりだった。

 さすがに涼しい梅雨時期とはいえ、歩けば汗だくで、番頭に水を何度もお代わりをもらい、団扇で扇いで、一息つくまで時間がかかった。

「それで? 今日の御用聞きをせずに聞きたいこととは?」

「御用聞きは、明日ちゃんと行きますよ。どうにも気分がすっきりせずでね、仕事にならないんですよ」

 そういって、昨夜のこと、岡 征十郎と坊主の二人と話したことを掻い摘んで話しをした。

 詩乃は腕を組み、しばらく黙り込んでいた。

「聞いてますかい?」

 運び屋が不安になって聞く。

「聞いてるよ。……、嫉妬とも、恨みつらみでもなく、女がねめつける理由……。その、おしなさんと、長治ってのは、夫婦になってどのくらいだい?」

「さぁ……、あの長屋に来てから、すでに五年? 四年ですかね、前のところで二年いたそうだが、火事で追い出されたとか言っていた」

「長治の酒癖が始まったのは?」

「二人目、最初の子を以前のところで流して、その後の火事で、おしなさんがあの場所に居たくないって、越して来たらしく、越してきて、一年ぐらいしたころかな? 二人目を流してからひどくなりましたね。

 それまでも飲んでいたけれど、あそこまでじゃなかった。それでも、二人目が流れて一年ほどで、なんとか酒が治まってきたが、三人目ができたと判った去年末か、今年頭か、そこからものすごい量を飲むようになりましたかね? たぶん、そんなところでさぁ」

「あたしは男じゃない。もちろん、子供を授かったこともなければ、不幸に見舞われたこともないが、どうなんだろうね? 

 流産して心許無こころもとなくなり、亭主は、流産の責任を当たるに当たれず、やけ酒を飲むのは解らんでもない。それでも、再び奮起している。二度も。だが、今度のは何で飲み始めたんだろうかね? その、三人目が解る前は飲んでいなかったのかい?」

「なんでも、どこかの人に、酒を味見しただけで元の木阿弥だから気をつけろと言われているんだとかで、禁酒して、ひと月ですよ。なんて言っていたんですがね」

「女房はとてもよく看病するのかい?」

「そうなんですよ。甲斐甲斐しいったらありゃしない。小さい体であれやこれやと世話をするし、内職だってする。

 甲斐性なしの長治なんぞ捨てておけと言っても、好きになった人ですからと、けなげに笑うんですよ。長治の野郎、酒の勢いで、おしなさんが作った料理をぶちまけさせたことだって、一度や二度じゃないんですよ。そのあと、ふらふらと外に出ていくし、それを俺たちが捕まえて、長屋に戻すんです。

 もうね、かわいそうの一言ですよ」

「かわいそう、ねぇ」

「なんですか? かわいそうだと思わねぇですか?」

 運び屋が詰め寄るが詩乃はキセルを燻らせただけだった。


 それからしばらく詩乃はキセルをするだけで何も言わなかった。

 運び屋が諦めて帰ろうとしたころになって、

「その男にさ、女房のいないところで、本当に酒を止めたいかどうか聞けるかい?」

「そりゃわけねぇが、なんで、おしなさんの前で聞かないんですかい?」

「女房の手前というやつが出るからだよ」

「なるほど」

 運び屋は手を打ち、そういうことならばと帰っていった。


 六薬堂が忙しくなってきた。

 その頃には雨が降り出し、雨避けに庇を伸ばしていたおかげで、数名が雨宿りまでしている。

 この時期の客は、この寒暖の差と、微妙な暑さについて行けずに、何とも言えない倦怠感により体の不調を訴える客が多い。

 それが落ち着いたのは、閉店する日の入り間際だった。

「そういえば、」

 番頭が思い出したかのように、閉店作業をしながら言った。

「運び屋に命じてましたけど、女房の前で聞かないってやつ。別に聞いてもいいんじゃないんですか? 女房の手前だろうが、辞めたいんだよ。と言えば、連れて来られるでしょう? というか、その方がいいのじゃないですか? 

 それとも、やっぱりやめたくねぇと聞くためですか?」

「どちらの返事だとしても、女房が邪魔だと思ったんだよ」

「女房が邪魔って、話しを聞く限りですけど、いい女房じゃないですか?」

「……、いい女房ねぇ」

 詩乃はそれ以上は何も言わなかった。


 運び屋が長治に話が聞けたのは、それから二日後だった。長治の側に甲斐甲斐しくおしながいる所為で話しが聞けず、世話をしているから、運び屋もそう急ぐこともないだろうと思っていたのだ。

 それが運び屋が、夕餉の支度とかで女将さんたちが忙しくしていたころ、おしなは内職の仕上げを持って出ていると言っていた。

 長治は頭を押さえながら布団に座っていた。

「みっともねぇなぁ。おい、」

 運び屋に言われ、長治は「まったくです」と肩を落とす。

「おらぁ、聞きたいことがあったんだが、おめぇ、酒を止める気はないのかい?」

 運び屋の問いに、長治ははっと運び屋のほうを見てから、それから視線を動かし、

「辞めたいです。辞めたいですけどね、どうやったものかと」

 と言った。

 運び屋は首をすくめ、「よし分かった」とひざを打った。

 何ということはないじゃないか、長治は酒を止めたかがっている。女房の手前で嘘を言うようなことはなかった。あれならば、おしなの前で聞いてもよかったように思う。

 運び屋は気持ちよく長治の家を出ると、そこへおしなが帰ってきて、眉をしかめ、怪しい目で運び屋を見た。

「ちゃんと叱っといたぞ」

 運び屋の言葉に、

「あい、すみません」

 とおしなが言ったが、いつも聞く、申し訳なさそうな、か細い感じではなく、少しとげを感じた。

「おしなさん?」

 と言って、運び屋の視界にあの夜の怪しい男の着物が、長屋前の通りを過ぎていく。今度こそはあいつを捕まえねばと、運び屋は走り出した。

 着物の柄など、そんなに種類はない。だが、たまに、見たことのないようなものを着ている奴がいる。歌舞伎役者が着たものだと言ってその後流行るものもあれば、忘れられて行く模様もある。あの着物はそのどちらでもない。奇抜な柄ではないが、あんな模様、二度と見間違うことはない。

 運び屋が通りに出て、男の後を付ける。そして、追いつき肩を掴んで振り返らせると、

「く、傀儡?」

 肩を掴んだ男は傀儡師で、ニヤリと笑うと、後方を指さした。

 運び屋が今さっき出てきた、運び屋の住まいのある長屋の入り口に詩乃が立っていた。

 詩乃は長屋のほうをじっと見つめたままでいて、ふと、運び屋と傀儡師のほうを見た。

 運び屋が走って近づく。

「姐さんどうしたんで?」

「患者を見に来た」

 と言った。

 夏至前で日が伸びているとはいえ、もう夜になっているころに、詩乃が外にいる。ましてや、ここまでかなり遠いのにやってきていることに驚き、運び屋が首を傾げた。

 詩乃が長屋の中に入ると、運び屋の雇い主としても、変わり者の店主としても有名な詩乃は注目を集めた。

「いやぁ、姐さんが来るなんて、で、長治に会いますか?」

 詩乃は何も言わずに奥に入る。

 女将さん連中が、長治のあとで少し診てもらいたいとか言ってくるのを、運び屋が適当に流して、長治の家の前に立つ。

「おい、長治、入るぜ」

 運び屋が戸を開ける。

 夕食のかゆをおしなが食べさせているところだった。

「すまねぇ、食事中か、また後で、」

 と言いかける運び屋を避けて、

「あんた、それを食べたいかい?」

 と詩乃が聞いた。

「何言ってるんですか?」

 運び屋が驚いて詩乃の腕を掴む。

「いくら貧乏だからって、かゆぐらい、」

「食べたいか、どうか聞いてる」

「食べ、……たくない」

 長治は口いっぱいに入れていたかゆを吹き飛ばした。それはおしなの着物にすべて飛び散り、それを機に傀儡が運び屋を押して中に入り、おしなを抑えた。

「お、おい、違うだろ、押さえるのは長治の方で、」

「この家自体が酒臭いから、解らないんだろうが、あれはかゆじゃない。酒麹だ」

「酒、麹?」

「立派な酒だよ」

 運び屋が驚いておしなと詩乃を交互に見る。

「運び屋、お前が見た目はあれかい?」

 運び屋が再びおしなのほうを見る。驚いて、傀儡に取り押さえられているおしなの姿しか見えていなかったが、顔を見れば、まさにあの夜の目だ。

 上目遣い、怒気を含んだ責めるような目。

「お前はあれを覚えていないと言ったけど、こういえば思い出すかい? 火事に遭ったお前の奉公先での、女将さんの目」

 運び屋はそういわれて身震いを起こした。

「あれはね、失望の目だよ」

 詩乃に言われ、ぞっとした目の正体を思い出した。


 そうだ、番頭に火を付けさせるほどの横恋慕をされた女将さんは、火事で焼けている店を見ながら、激しく泣いていたのに、夫である店主も、そして番頭さえも無事だったのを見てあの目をしたのだ。


 運び屋が膝をついてその場に崩れ、入り口には近所の人が集まってきていた。

「確かに、長治さんあんたはすでに酒がないと生きていけないようになっているようだ。だけど、それじゃぁ、だめだと吹っ切れる力も存在している。だから、今ならまだ、辞められるとだけ言っておく。治療は、その意思が必要だからね。

 さて問題は、おしなさん、あんたの方だよ。いや、問題だとはあんたですら思っていないだろうし、ご近所さんもそう思っているだろうけどね、でも、大問題だよ」

 詩乃がそういって頷くと、傀儡は頷き、おしなの帯を解いた。

「なんてことをするんだ」

 という悲鳴が上がったが、帯が解かれ、前がはだけた着物から、丸めた座布団が出てきた。

「え?」

 運び屋以下近所の人の声が揃った。特に長治が驚いた声を出した。

「子供は居ないよ。たぶん、一度目は本当に居たんだろう。そして、流れてしまったのだろう。それは間違いないと思う。

 ただ、二人目、そして三人目は嘘だろうと思う。根拠? 根拠は、腹が大きいのに、亭主を肩に担ごうとしたり、あちこち動いて、まるで流産しようとしているかのような行動。ただ、二人目は腹が大きくなる前に流産したとでも言ったのかな? んで、腹が大きくなって、亭主の所為で流産しようと思った」

「な、なんで?」

「同情を得ようとしたのさ」

「同、同情?」

「あなたは小さい体でよく働いて偉いね。亭主はろくでもないのに偉いね。流産してかわいそうに。あんな亭主が居てかわいそうに。などなど。それが心地よく感じてきてしまうんだ。

 それとともに、酒癖の悪い亭主にうんざりしながらも、もし、酒癖の悪い亭主が酒を飲まなくなったら? 褒めてもらえなくなる。同情してもらえなくなる。

 だから、酒を飲まれては困るけれど、辞められても困る。だから、飲ませる」

「い、い、いや、それは、」

「これは、立派な病気なんだよ。心の病気。本来、相手を思いやるというのは、悪いものから身を挺して守るものだ。もちろん最初はそうだったのだろう。だけどある日それが変わってしまったんだろうね、

 井戸端会議をしている人の会話の中に、おしなさんが流産したのは亭主のせいかもしれない。そんなことだったら、余計にかわいそうだ。優しくしてあげなきゃいけない。とかなんとか。それは解らないが、たぶんそれに近いはず。

 そんなこと言われたら、舞い上がってしまう。私はかわいそうで、皆が私を気にしてくれている。それは、私は特別なんだと思ってしまっても無理ないのかもしれない。

 ただし、普通の人はそんなこと思わない。病気であるからこそ思ってしまうものだから、理解しようとしても無理だよ」

「そんな、こと、」

 長治が漏らす。

「でも、最初の流産のきっかけが、本当にあなただったかもしれない。どうしてもあなたを許せないが、まだ好きで夫婦でいたいという相反する思いがおかしくさせたのかもしれない」

「そ、それで、おしな、さんは?」

「一番いいのは、二人を引き離し、別々に治療することだよ」

 おしなが聞いたことのないような声で「いやー」と叫んだ。









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