第5話 洞の薬庫
おすえは、大江戸の大治水工事時に川の行方を変えるために出た土砂がたまり、小山(標高5Mほど)を作っている土手へと向かった。
川沿いの比較的家が集まっている場所には、きれいな土手が作られているのだが、おすえの家は、葦の原で土地が悪く、きちんとした土手が盛られずに、ただ土の山を作ったその側にあった。
山と言ってもそれほど高くはないが、穴を掘れば人一人、二人は入れる
以前、近所の子供が何を隠しているのかと、無遠慮に覗きに来たが、その時中には臭いのキツイ
村自体が裕福ではないので、謝礼は多少というほどだった。だが、おすえに謝礼を渡しても、父親が酒に換えるので、皆、物々交換で品を持ってくるようになった。それがあまりにも不釣り合いでもおすえは嫌な顔をせずに交換した。
その時、大人たちが、大人が二人ぐらい入れるほどの
父親は、金もないのに食料が絶えないことを不思議と思わなかった。あの男の体にはもう酒以外は入っていないのだ。理性や、理解力はすでに崩壊しているようだった。父親はすべてにおいて放棄してしまっていた。
いつからだろう? と考えるまでもなく、おすえの母親が死んだあの冬の翌日から、父親は酒を飲み続け、おすえや、上の兄弟たちを見向きもしなくなった。一番上の兄はそのまま家を出てどこかで働いている。一度も帰ってこない。おすえのすぐ上の姉も仕事に出ていき、たまに、父親の目を盗み、おすえを食事に連れて行ってくれる。その時、酒と、おしろいの匂いのする姉に申し訳ないと感じる。
「お前はまだ、十にもいかないから、あたしたちが引き取ってやることもできなくて、申し訳ないねぇ」
と姉は言うが、おすえはあんな父親でもいてくれるだけでありがたいと思っていた。母が死に、兄や姉が相次いで居なくなった寂しさを、酒癖の悪い父親の存在が救ってくれるとはなんという不幸。と姉は泣くが、おすえは微笑んでみる。
「粟のにぎりめし。食べれるかしら?」
おすえはそういって笹に包んでいた握り飯を差し出した。それを受け取る手は、おすえや、詩乃の色白の手とは違う、根本的に白い肌だった。
「あなたの目は本当にきれいね」
おすえはそういって微笑むと、彼が居て一杯の
「あなたはいい人だ」
おすえは彼のほうを見た。
「異人さん、言葉しゃべれるのね?」
おすえは微笑み、ざるに、薬草を並べる。
「それをどうする?」
「これを風に当てて乾かすのよ。そしたら終わり」
「終わったら、どうする?」
「終わったら、そうだ、今日ね、寛太さんが六薬堂の女将さんを連れてきてくれたの。私そこに薬草をおろすことになったのよ。女将さんはね、私の薬草の仕上がりをとてもいいとほめてくれたのよ」
おすえはそういって彼を見た。
彼は―ハビエルは逃げてきた当初の宣教服ではなく、白いシャツに、白いズボンを履いていた。宣教服姿では目立つと思い、逃げ入った山中のどこかに脱ぎ捨てたのだ。
まっすぐ、南に逃げたと思った。港に行けば、どこかの船に潜り込むつもりだった。だが、ハビエルの土地勘のなさと、疲労と、空腹で正確な判断ができなかったのか、海からはひどく遠いこの場所に着いた。
この丘のそばに行き倒れたときには、今度目を覚ますのは、絞首台の上だろうと、つぶった瞼を上げた先にあったのは、荷車にござがかぶせてある空間だった。
ハビエルはいくら考えても解らなかった。荷車と言っても、大八車のような立派なものではない。長い棒は二つばかり折れて途中までしかなく、車軸もずれている。そもそも、車輪の
―死体だと思われているのだろうか? 警察に届けだされているのだろうか? 誰か来るのだろうか?―
ハビエルは身動きできずにじっとしていた。それは、まだ明るい日中だったからと、この状況が解らなかったからだ。
すぐにそれが一人の少女の機転だと知る。少女の足が見え、側で少し待ってから、少しだけござをはぐる。ハビエルと目が合うと微笑み、
「私一人じゃあなたを動かせなかったの。でもよかった。ねぇ、この
と言い、あの
「
そうだ、これ、食べられるかしら? おかゆを作ったのだけど。あなた、あまり食べていないようだから、」
と、木の椀を差し出した。ドロッとした薄い黄色い液体だった。見るからにうまそうではないが、食べ物だということは解ったので、ハビエルはそれを口にした。草のような、木のような、変な味がして吐き出そうとするのを、
「だめよ、薬だから。滋養強壮にもなるし、栄養があるの。食べて」
と言われ、嫌そうな顔をしたが、おすえは微笑むだけだった。ハビエルは黙って、何とか食べた。食べ終わると、体の奥の方がほんのりと温かくなった気がした。
「もう少し体力が付いたら、ここから出ていくといいわ。それまでは、隠れていてね。あなたのような人は目立つから」
おすえはそういって、入り口に板を立てかけて帰っていった。
翌日、おすえはやってきて同じようにおかゆを作ってきた。ハビエルはやはり苦手だという顔をしながらそれを食べた。
荷車を見ると、おすえは笑い、
「ここに私の薬棚があるのはみんな知っているわ。おとッつぁんは知らないのかな、興味がないだけかもしれないけども……。だから、荷車を置いていても、それは草を乗せてきたものだろうし、別に怪しまれないのよ。だけど、あのままあなたを寝かせていたら、どうなっていたか……。だからね、申し訳なかったけれど、隠しちゃったの」
と笑った。
あれから十日経った。ハビエルの体調もだいぶ良くなっていた。夜になれば闇にすっかり包まれるので、外に出て体を動かした。大分、体は動く。走れる。おすえのおかゆの効果はすごいと思った。
おすえの家は、丘から見える唯一の明かりの小屋だった。
父親と暮らしているが、父親は働かず、酒を飲んでは、おすえに当たり散らしている。ただ、暴言を吐いているだけで、しかも、酒のせいでろれつが回っていないので、暴言とすら思わないほどだ。
おすえが用意した食事に目をくれず、どこで調達してくるのか酒だけを飲んでいる。
おすえがその酒に水を増しているが、すっかりおかしくなっている父親にはそれが水なのか、酒なのか解らなくなっているようだった。
おすえの家の中には、いくつもの薬草が壁にぶら下がっていた。囲炉裏のうえにもぶら下がっていた。家の中にあるものと言えば、それら乾燥した草と、薄い布のような布団が二組だけだった。茶碗が二個あって、それでコメも、汁も食べていた。
「hija irremediablemente infeliz(なんという不幸な)」
おすえはざるに薬草を並べ終えると、
「にぎりめしも食べれるようになったのね、よかった」
といった。
「あなたは不幸です。これをあげましょう。これを売れば、あなたは金持ちになります」
ハビエルが、おすえに手に大麻を乗せる。とたん、おすえがそれをはじくようにふるい落とした。
「ごめんなさい。でも、……それは、私は嫌いです。手が、痛い」
おすえの言葉にハビエルは眉をひそめた。
「あなたの草、同じでしょ?」
ハビエルの言葉におすえは少し考え、
「いいえ、違う。と思う。私、はじめてよ。手が痛くなる草って。確かに、猛毒の草はよくあるわよ。でも、それも使い方次第ではちゃんと薬になるけれど……、あなたのそれは、……それからは、悪意しか感じないわ。ごめんなさい」
おすえは家のほうに走って行った。
ざるがその場にひっくり返って落ち、せっかく乗せた薬草も地面に落ちてしまった。その横に、乾燥した大麻が転がっている。
「悪意の……種」
ハビエルの忘れていた、はるか彼方に感じた痛みが胸の奥底をかき回したようだった。
エスパニアの詩人ヨハネ・サンチョスのような愛を述べるつもりはないが、
―あぁ、私は忘れていた。あなたを見るまでは。世界に色があり、花は赤く、黄色く、優しい光は暖かく、甘いミルクと、触れられる柔らかい肌。
あぁ、私は忘れていた。あなたを愛するまでは。この世にあるのは善なるすべて。悪なる種は闇に葬り、私はあなたの従順なる僕となろう―
ハビエルはすぐにそれを思い、夜を待って、ざるに薬草だけを乗せ、家の前に置いた。
近くを流れている河原へ行き、大麻をそこに流そうと、捨て去ろうと思った。おすえのそばにいて、おすえの、できるならば、その体に触れたいと思ったから―。だが、それを引き留めたものが、「カン」なのか、なんなのか解らないが、ハビエルは、大麻を川に捨てず、ポケットに戻した。
―何となく、なんとなく、まだ、これが必要だと思う―
ハビエルは洞穴に隠れた―
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