第4話 寒の戻り

 それから―さくらまつりでの刀傷事件後―新茶の季節には新茶を頂くようになっていた。


「それで、今日は、用事もあるんだね?」

 詩乃の言葉に、岡 征十郎は唸り、

「これを何だと思う?」

 と懐から畳紙たとうしに包んでいたものを取り出し、広げた。

 それは丸い玉だった。全体的に黄土色だが、赤みの強い茶色が、見ようによっては蛇が這っているかのように筋を作っている。

「穴……数珠?」

「これは?」

 そういってもう一つのほうの手の平に木製の十字架を乗せた。

「……ロザリオかぁ……逃げているハビエルあいつの?」

「そうだと思うか?」

 詩乃は玉と十字架を手にして光に当てる。

「たぶんそうだろうと思うけども、どこで見つけた?」

「それが、長崎藩のあのお屋敷を取り壊すという話を聞いたことはあるか?」

「あぁ、長崎藩主が縁起が悪いからと、潰した跡地にまたお屋敷を建てるとか?」

 番頭の言葉に、詩乃から玉と十字架を受け取り、畳紙に包みながら

「その通りだ。それで、壊すときに、床下なんぞに嫌だとか、他に何かあっては困ると言われ、大工と一緒に我々も取り壊しに出向いたわけだ。

 これは、やつが入れられていたであろう牢屋の床下に在った。全部で十三個が輪になり、この一個と十字架はそばに落ちていた。

 十三粒のほうが、真っ黒い木で、これだけ色が違っていた。十字架も、これ(黄土色の一個)と同じ色だから、同じ木なのだと解る。そして、これが十三粒のほうだ」

 そういって畳紙を出し広げる。

 手首に巻けるほどの輪に、十三の玉が連なっている。

 詩乃は唸りながらそれを手にする。

「……黒檀?」

「だろうということだ」

 詩乃は押し黙り、先ほど返した玉をもう一度見せろと言った。そして、黒檀の十三の玉と、それに比べたら白い玉を見比べる。


「なんだと思う?」

 岡 征十郎は気が長い。と番頭はいつも思う。そして今日は特に長い。

 詩乃に十三玉の数珠と、黄土色の玉と十字架を渡してから半刻(一時間)は待った。詩乃は寝てしまったのではないかと思えるほど静かでも、岡 征十郎はあえて何も言わず、黙って待った。そして、詩乃が小さく動き、小さく唸ったので声をかけた。

「絶対的にロザリオだろうと思う。間違いなく、この、この辺りに何かしらをつけてこの玉と十字架をつけていたのだろう。でもそれは、建前で、本当は、この十三の数珠だけが重要なんだと思う」

「というと?」

「この十字架と一個は多分、安い材木で作ったものだろう。だけど、この十三の数珠は黒檀だよ? 高いはずだ」

 詩乃はそういって頷いた。岡 征十郎は首を傾げ、

「それが?」と聞いた。

「キリスト教において、13という数は不吉極まりない数なんだ。キリストを殺したのは13番目の席に座った弟子のユダだと言われている。

 そして、天使の順列において、13番目がサタン。つまり悪魔であるとされていることから、13という数字を嫌い、そこから、サタン教。つまり悪魔信仰。異教だよ。表向きにはキリスト教を布教している宣教師だけど、ハビエルは、悪魔信仰者だ。それは、辰兄ちゃんの手紙にあった、蛇。人を誘惑し、陥れる。

 イブに林檎を食べさせた蛇。それは、サタンの使いだとも言われている。

 やつは、何のためにやってきたのだろうかね?」

 詩乃がゆっくりと岡 征十郎を見上げた。

「何のため、とは?」

「大陸で今、大いに揉めているのが、アヘンでの国の崩壊と支配」

「アヘン?」

「そう、大陸の大国では、ある種いいように国を支配されているようだよ。でもね、大国が狙われるのは解るよ。大国がね。でもね、この日ノ本なんて、世界から見たらちっぽけな極東の国だよ? 

 乗っ取る価値なんぞないと思うがね……。

 となると、いったい何しに来たんだろうか? 異教を広めるため? あいにくだが、この国には仏教というものが一応ある。だけども、その仏教の教えとも違う、土着信仰も存在している。正月になれば神社へ行き、死んだら寺へ行く。いろんな神さんだって存在している。米や石や木だって。

 そんな雑多に宗教心を持った国に、一神教であるキリスト教の皮を被った、悪魔信仰を広めるなんてのは、なかなか難しいと思うんだよね。いや、そうでもないか。……後ろ暗い悪いものにかれる心は存在するからね、誰にだって。

 人の罪悪感。というのもつけ込まれ易いと言えば、易いか。弱っているときこそ、入り込むにはいいときだってね。

 でも、そうしたところで、一人や、二人。南蛮人が珍しくないわけじゃないだろうが、その大陸と違って、この国では、その見た目で警戒されるだろうに、しかも一人で来て、何をしようとしているのかしらね?」

「一人で、できると思ったんだろう?」

「できると思うかい? あんたがもし、そうさねぇ、九州が未開の地だとしよう。全く未知の国。そこへ行き、自分の文明や宗教を植え付けられると思うかい?」

「……私は思わぬ」

「あたしだって思わない。となると、仲間が必要になるよね? 多いほうがいいわけだから。でも、ハビエルは、一人だった。

 たった、一人で、持てるだけの大麻を持って、この国を支配できると思う?」

 詩乃の言葉に岡 征十郎が唸る。

「あ、あぁ、あぁ!」

 番頭は素っ頓狂な声を上げる。

「逃げて来たんじゃないですか? 国を。その異教徒は咎められ、だって、オランダ船内に潜伏していたんでしたよね? 逃げてきただけ。逃げて、どこかで暮らすために、物々交換か何かで大麻を使うだけ。だって、金というものはその国国で違うわけですから、……とか……、無いですね」

「いや、番頭、そうかもしれぬぞ。やつは、罪人であったと思う。と言っていたんだ。オランダ人が船内で隠れているとき、怪しいものを持っていないかと裸にしたとき、手枷、足枷の痕があったと言っていた。

 オランダ船では、布教家だと思って自由にしていたら、船員の一人を騙し、船を奪おうとしたので、牢屋に入れていたと言っていた。

 番頭の言うとおりだとすると、あいつはただ生きるために大麻を貨幣価値として使っているということか?」

「そうなるねぇ。……でも、不思議なのは、オランダ船内で、身ぐるみはがされ、身体検査されて、大麻を没収されていないってことだよね?」

「……そうだな、どこに隠していた?」

「……、このロザリオには、何か仕掛けがあったのかもしれないね。そこに隠していた」

「オランダ人はその細工を見抜けず、長崎藩に突き出した」

 三人は納得して頷きあう。

「それじゃぁ、今、やつはどこにいるんでしょうかね? 残りはあとどのくらいなんでしょう? その量によっては、やつはどのくらい生きられるんでしょうかね? 物々交換だとして、」

 番頭の言葉に、三人は黙った。

 見当がつかなかった。

 大麻の一呼吸でどれほどのものを交換しようと思うのかなど、当事者でなければ解らないモノだろう。岡 征十郎はそれを理解する気はなかった。いつでも、犠牲となった子供のあの無残な死に顔と、哀れに腑抜けになって、治療を受けている男たちの姿を見ていれば、いやでも、あんなものに手を出す気などなかった。

「なんだって、あんなものに手を出すのか?」

 岡 征十郎がつぶやく。

「なんでって、最初の言葉次第だね」

 詩乃は冷静に言った。冷たいわけじゃなく、医者が表情を変えず病状を説明するような、余計な感情のない声色だった。

「これを呑めば―多分、たばこの一種だとでもいうだろうね―仕事がはかどるだの、いやなことを忘れられるだの言うのさ。じっさい、集中力というものが増すらしいが、その反動は以前にも増して集中力は無くなり、気力、体力ともに低下する。だけど、最初の一回はじめのあの思いもよらぬ力を求めて常習してしまう。

 初めから悪いものだと認識があって呑むやつもいるだろうが、ほとんどが、その後の不快な症状を知らないものが多いだろうね」

 詩乃の言葉に岡 征十郎は苦々しい顔をする。

「そういう顔をする暇があったら、ハビエルを早く捕まえるんだね。

 あいつがやけを起こし、火事を起こすなんてことを考える前に」

「なんだって?」

「火事の中にあれを入れてごらんよ。大江戸の町は火事に焼かれ、煙には大麻を含み、大江戸じゅうが終わりだよ? 大江戸に足らず、近場の宿場町までも、あっという間だろうね。

 もし、無事に回収できても、焼却処分だけはいけないよ。土に埋めるのも。もし、種が生きていたら、大麻が生えてきちまう」

「では、どうすれば?」

「……、西洋では、あれを医術に使うという」

「医術に? お前たちが広めるのか?」

「広めやしないし、広めれるような患者には使わない」

「どういうことだ?」

「……末期の患者に、その痛みを和らげる、いっとき、家族と最期の別れをさせるための薬。そんなところだね」

 岡 征十郎は絶句して、詩乃を見下ろした。

 キセルの先で火鉢の灰を掻き、無表情の顔を見ると、大麻を寄越したハビエルに対してかなり怒っている様子がわかる。

「まずは、あの派手な身なりを隠す手段を探さねばなるまいな」

 岡 征十郎はやっと言い出し、しらみつぶしに調べるしかないな。と出て行った。

 岡 征十郎が出ていくと、外気がふと入り込み、

「さむっ」

「寒の戻りらしいです。だからって、片付けた綿入れなどは出しませんよ」

 番頭はそういって舌を出したが、今年の寒の戻りは例年になく寒く、さすがの番頭も襟巻ぐらいはと二階に上がると、結局綿入れを持って降りることになった。

 寒の戻りは、二、三日で緩むはずなのに、今年の春はまだ来ようともせず、何かに邪魔されているのか、それから十日ほどは冬に戻ったような寒さが続いた。


 その寒さも、何とか緩み―それでも詩乃は綿入れを手放すことはしなかったが―日中の日も長くなってきたころ、寛太が六薬堂を訪ねてきた。

 寛太は店に入って、詩乃の綿入れ姿に眉をひそめ番頭のほうを見て、

「こんにちは」

 といった。

「やぁ、寛太。今日はゆっくりだから、おっかさんや、ゆりちゃんに何かあったわけじゃないんだね?」

 番頭の言葉に首をすくめ、

「えっとさぁ、えっと……。

 オオレンは腹痛と下痢によく効くかい?」

 番頭が目を丸くし、詩乃のほうを見た。

「えっと、えっと、吐き気も止めるんだ。……間違っているかい?」

「いや、合ってるよ。どこで聞いた?」

「えっと、その、知り、あい」

「……、その人に会わせておくれよ」

 詩乃の言葉に寛太が驚き、番頭を見る。なぜ、番頭に助けを求める? と思ったが、少し詩乃と付き合えば、自分に利がないと行動をとらない人だと解っているので、なぜ、詩乃が寛太に薬草の知識を教えた人が気になるのか不思議だったのだ。

 もしかすると―お詩乃さん、怒るかもしれない。余計なことを教えるな、とか―というようなことを考えているのだろうなぁと、詩乃には解ったので、

「そういう薬草の知識がある人が、薬草を摘んで持ってきてくれると助かるんだよ。以前、そうやって手伝ってくれていた、音無川上流域に住むておばあさんが居たんだが、体壊しちまってね。あの人の薬草の知識はすごくて、こっちで再度選別する必要がないくらい正確で、助かっていたんだよ。

 で、おきちさんが辞めちまったんで、今は後三人が薬草を探してきてくれているが、うち、二人は、どうにもこうにも……。

 それこそ、お前がさっき言った、オウレン。あれと同種の中には毒草があって、危険な奴まである。それを持ってくるような奴らだから、まだまだなんだよ。

 だけども、その人は、しっかり、オウレンは、とお前に教えたんだろう? キンポウゲ。じゃなく? しっかりと薬草を知っている人だと思うんだ。

 紹介してくれたら、駄賃をやる」

「……その人を、怒らない?」

 やっぱり、そう思っていたか。詩乃は口の端を微かにほころばせ、

「怒ったりするもんかね、逆に褒めてやるよ」

 詩乃の言葉に寛太は笑顔を見せ、今から連れて行くといった。


 寛太に連れられて歩くこと小一時間。寛太の家の方角とはだいぶ違うが、子供は遊びに夢中になるとここまででも来そうだと思いながら、子供が好きそうな河原の土手を横目に寛太のあとをついていく。

 にぎやかな長屋群を過ぎ、旅支度する連中向けの道具やなんかが軒をそろえる宿場も超え、街道から外れた荒れ地まできた。

 農民の類も存在しないが、以前は誰かが田んぼとして耕していたであろうあぜ道の名残は見えた。

 ひどい土地だ。詩乃は眉をひそめたが、その中に建っている掘立小屋に寛太は向かう。

 詩乃がふと足を止めた。「ひどい土地は、訂正しよう」。見ればそこにはちゃんとヨモギが植えてあった。

「かなり管理が行き届いてる」

 詩乃が満足そうに寛太のほうを見れば、寛太と年のころは変わらない少女が立っていた。

 土汚れているがかなりいい顔立ちをしている。年頃になればずいぶんモテるだろうと思われる顔立ちだ。

「おすえです」

 詩乃は片方の眉を上げた。番頭が居れば言ったであろう「その声は、ヒバリの声に似て軽やかなる乙女の声」と言いたくなるような声だった。詩乃は自分の声が低い大人の声なのが少々憎らしく思えた。―まぁ、どうしようもないのだけども―

「六薬堂の女将の詩乃です。……まさか、このヨモギはおすえさんが手入れを?」

「はい。以前はおっかぁがやっていたのですが、流行病で死にましてからは」

「そう……いや、見事だね。それに、家の中にあるのは、あれは、」

「あれは、葛です」

「いい乾燥のさせ方だ。他にもあるのかい?」

「ええ、……どうぞ」

 詩乃は口の端を上げるだけにした。―人の家を見てその人を判断なんかしない。と言ってやりたかったが、それでおすえの羞恥心が取り除けるわけではなかったからだ。

 おすえの家は、家というにはやっと建っているような小屋だった。隙間の空いた壁板や、雨漏りしているらしい屋根など、よくここで住めるものだと思われたが、おすえが小作の娘で、母親が居なくて、父親と二人だけで、外の荒れ地を見れば、この家の現状も頷けた。

 そんなバラック小屋の壁に、乾姜、甘草、生姜、牡丹皮がちゃんと分類され、乾燥されていた。                              「よく乾燥されている。うまいものだ」

「おっかぁがこういうの得意で、私も手伝っていたので。でも、今は、見よう見まねで、お恥ずかしいです」

「……そうさね、これは?」

 詩乃はそういって袂から葉っぱを出した。

「これは、トリカブトですね。ヨモギに似てるので間違えやすいですけど」

「正解。じゃぁ、これは?」

「これは、スイセンですね、ニラやノビルと間違えやすいです」        「その通り。じゃぁ、川芎センキュウの処理の方法は?」

「ひげ根を除いた根っこを、湯通しした後乾燥させます」

「じゃぁ、茴香ウイキョウは?」

「う、ウイキョウ? ……すみません、解らないです」

 詩乃は口の端を上げて、そして声を出して笑い、

「いや、いいのさ。解らなくても。ちょいと意地悪をしただけだよ。あんまりちゃんと答えるからね。ちなみに茴香は西洋のものだから、ここいらでは見られないものだよ。

 さぁて、そこで相談だけども、今、うちの店では、薬草の知識を持って、薬師の手伝いをしてもらえる人を探している。

 ただね、うちの薬師というのはどうにもこうにも変な男でね、側にいて手伝わせると、あいつの阿呆があんたに移っちまう。だから、あんたはここで今まで通り薬草を作り、乾燥まで出来上がったら、うちの店まで持ってくるというのはどうだろう? 時期の流行もあるから、一律の賃金を決められないけども」

「なんでさ?」

 寛太が口を割って入ってきた。

「今は春先だね? そろそろ水も緩んでくるだろうよ。そんな時に風邪薬の生薬なんぞ持って来たって、患者が居なけりゃこっちだって損だ。逆に、夏を前に、暑気払いの飴の原料となるニッケイなんぞを持ってきたらば、そうそうに飴の製造に取り掛かれて、夏前に売り始めることができる。そうなると、その分儲かる。

 これから暑くなるってときにだよ? 温石なんぞ誰が買おうと思うかね? そういうことだよ。ただ、年中必要なものもあるから、それは定価で引き受けるとして、とりあえず、今日は乾燥が進んでいる乾姜と生姜を、もらって行こうか、手持ちがこれっぽっちしかなくて申し訳ないのだけど」

 そういって手に提げていた巾着から有り金をすべて出す。

「こ、こんなに?」

「それでも足りないくらいの上物だよ。五日、十日はよくないかな? これ、甘草が渇いて店に持ってきてくれた時に、今日の残りを払うよ。

 それでどうだろうか? これからもうちの店におろしてくれないかね?」

「よ、喜んで。でも、私でいいんですか? 小作の娘で、」

「あたしは薬学の知識はある。そこいらの医者よりも。だけど、薬草を作るとなるとどうにもマズイ。何日も何日も乾燥に気を配るなんてことできなくて、……いやなこと思い出しちまった。

 医術堂で勉強していた時、あまりにもその乾燥に嫌気がさして、いっそのこと燃やしちまえと火を付けたら、お堂を一つ焼いちまってね、火事だよ、火事。まぁ、先生や、火消しの頭に存分に怒られ、兄弟子たちには馬鹿にされ……だんだん腹立ってきた、あの時、一番バカにしていた邦念ほうねん。寺から勉強しに来ていたんだが、頭つるっつるの癖に人を馬鹿にして、いっつも足を引っかけてこけさせて、あんまり頭に来たんで、解剖用に捕まえたカエルを寝床に忍ばせてやったら、驚いて粗相したっけ。あぁ、あれはすっきりしたが、その後、一日断食のうえ、正座させられたっけなぁ」

 詩乃の思い出話に寛太とおすえは顔を見合わせる。

「とにかくだよ、あたしはそういうのが苦手なんだ。だから、うちの店にもちゃんとあたしの苦手を克服する為に人がいるだろう?」

「あ、あぁ。番頭さんとか?」

「そう。あたしはね、苦手を克服しようとか、努力して成功しようなんて向上心を持ち合わせていないんだ。人には向き不向きってもんがあるんだから、得意なことを持ち寄って補って、生きていけりゃいいじゃないか? そう思わないかい? 

 あたしは薬学の知恵があり、店を持っている。おすえさんは、薬草を作ることができる。それをあたしに売る。あたしはそれを買い、薬に煎じて売る。

 金額に不満があるのなら、」

「いいえ、十分です。ただ、」

「じゃぁ、決まり。えっと、」

 詩乃は巾着の中に入れていた小さな筆入れと、小さく折り畳んでいた紙を広げ、

―六薬堂はおすえさんと、業務取引を行うにあたり、

 おすえさん持参の薬草、最低____銭一匁保証及び、相場、季節優遇、

 要望至急の有無などにより、そのつど取引金を公平保証する。

 六薬堂 女将 詩乃―

 と書いておすえに渡した。

「これで納得してくれるなら、最低一もんめ(約4グラム弱)の金額を書いて、ここに名前を書いてくれるかい?」

「……、いくらが相場なんでしょうか? 私には分かりません」

「まぁ、飲み薬一包八文というところだね、」

「じゃぁ、一匁八文と書きなよ」

 寛太が口を出す。

 おすえは首を振り、

「そうしてしまったら、お薬代が高くなるでしょ、そうなれば、うちの様な貧乏人はますますお薬が買えなくなるわ。だから、一文でいいです」

 おすえは紙に横一書いて、おすえと書いて詩乃に渡した。

 詩乃はそれを受け取り、口の端を上げ、筆を片付けながら、

「いい心がけだ」

 といった。


 帰り道、乾姜と生姜を両手に下げた寛太が不服そうに文句を言い続けている。

「おすえちゃんはいい人すぎるんだよ、」

「寛太、おすえさんの言い分は正しいよ。生薬が高ければ、最終、一包八文なんかじゃ買えなくなる。そうなれば、おすえさんの母親の様に命を落とす人が増える」

「だからって、あの家見ただろ? あの家の手入れもおすえちゃんがやってるんだ。おすえちゃんはオレより一つ上だけど、女だぜ? 屋根まで直すんだ」

「父親は?」

「飲んだくれてる。昔はいい大工だったらしいけど、おすえちゃんの母親が死んでから、酒ばっかしだってさ。たぶん、今日の稼ぎも、あのおとっつぁんに見つかって酒代になるんだろうなぁ」

「しがないね」

 詩乃はため息交じりに呟いた。

 おすえの薬草の知識は立派なものだった。できるならばそのまま六薬堂に引き抜き、手元に置いて薬師の知識さえ学ばしたいと思ったが、あの家の中を見る限りでは、酒のみの父親のために、酒に飲まれないような薬膳や、生薬が多かった。すべては父親の健康のためだった。ただ、それを父親が解っているかと言えば、あの量の乾燥生薬を見る限りでは飲んではいないのだろう。

 生薬は酒の味を不味くさせる。だから、飲んでいないのだろう。寛太の言うとおり、多く金をやっても、父親の酒代になるだけだし、少なければ、生活は楽にはならないだろう。

「しがないねぇ」

 詩乃はもう一度言った。

 どんな親でも、親は、親だ。子供が親を慕う気持ちを、さすがの詩乃も立ち切れなかった。                                                                                          



















 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る