第3話 梅とさくらと土左衛門

 梅が咲いていた―。という声を聞くと、岡 征十郎は詩乃と出会った時を思い出す。

 数年前だったような、何十年も前のような、去年のような、そもそも、詩乃と思い出があるわけではないので、いつとはっきり思い出せない。詩乃と関わるときはいつだって事件の時だ。あの事件はいつだったと言えば思い出されるが、そうでなければ思い出せない。

 だが、まだ若かったころだ。今もまだ若手と言われる部類にいるので、さほどの昔ではないようだ―。


 岡 征十郎の最初の勤めは関所近くの宿場町で同心をしていたのを、現在の南町奉行詰めの与力助川が引き抜いてくれたおかげで、同心職に就いて二年かそこらで南町奉行所同心として出世できたのだが、最初は町定の範囲の広さと、人の多さに目が回るようだった。

 たしかに、岡 征十郎の家は、この大江戸の中心地、同心屋敷の中にあって、生まれも育ちも生粋の大江戸っ子ではあるが、生まれ育ち住むのと、そこを巡回し、守りを仕事とするのとでは大きく違っていたのだ。


 その頃もやっと、巡回の道を覚え、「あすこはなに屋で」と、一つ一つを覚書していたころだった。


 梅雨明け間近のころだった。

「殺し、ですか?」

 シジミ河岸の岡場所そばの葦の原に打ち捨てられていた男の死体だった。着物は羽織っているだけで前ははだけ、いたるところをやぶ蚊がさした痕があった。

 岡 征十郎は死体の描写が苦手だ。というか、これが最初の殺しの死体なので、どこを見たらいいのか解らなかった。ただただ、気色の悪いものを見た気分で、胸が悪かった。

「蚊が、すごい」

 女の声だった。

 振り返ると、その頃からおかっぱで、紺地に真っ赤な牡丹柄の着物を着た詩乃が、嫌そうに顔の前で手を振りながらやってきた。

「ご苦労」

 助川に言われ、詩乃は首をすくめる。

「向こうに出していてほしかったよ……」

 そういいながらも、死体のそばにしゃがみ込み、

「溺死か?」

 と聞く助川に、首をひねり、遺体の頭を持ち上げ、

「そう、ねぇ……。たぶん、凶器はこれだね」

 そういって頭の下に遭った石を持ち上げる。それを助川が手にする。

「後頭部にそれでできた陥没がある。何らかのことでひっくり返り、それで頭を打って、気を失っているところに、ここは、あれだろ? 満潮時には水かさが増すんじゃないのかい? ほら、水の線が見える。くるぶしまで水が来るんじゃぁ、気を失っていたら溺死するかもね」

「気を失っていても、苦しければ目が覚めるだろう?」

 岡 征十郎の言葉に、詩乃が岡 征十郎を始めて認識する。

 黒目が真っ黒い女だと思った。唇は愛情を示すらしいがこの女のそれは厚くなく、でも、血色はいいほうで、珊瑚色をしている。

「打ち所が悪ければ、身動きが取れない場合もある」

「それはどうやってわかる?」

「頭をかち割ればいい」

「あ、頭をかち割るだと?」

「そう、小早川先生の所へ持って行けば解剖をしてくれるだろう。でも、いわゆる打ちどころが悪かったとしか言えないだろうね。

 ただ、ただ―。なぜすっころんだか? については、言いようによっちゃぁ殺しになっちまう」

 詩乃の言葉に岡 征十郎は喉を動かした。

「と、言うと?」

「酒を浴びるほど飲ませ、泥酔させ、こんな場所まで連れてきて、放っておけば、……勝手に転んで、俯いて倒れたらそのまま溺死。仮にここを抜けたとしても、酔って家までたどり着く前に、まだ夜は冷えるからね、どうなるか……。身ぐるみはがされる……程の持ち物はなさそうだけども、だけど、その後に何かあることを期待すれば、それは、だよ。

 だけど、こいつが勝手に酒を飲んで泥酔し、酒が回って熱くなって着物を脱ぎ、草履を脱ぎ、ふらりふらり、本人はまっすぐ歩いていただろうけど、道を逸れこちらに来て、草に足を取られてすっころべば、それは。本当に、不運な男だったね。と言える。

 ねぇ、旦那? あんた、何て名前?」

 詩乃は岡 征十郎のそばまで来て首を傾げた。

「お、岡 ……征十郎」

「じゃぁ、岡の旦那……、岡 征十郎、あんたならどっちがいい?」

「よ、呼び捨て、っというか、どっちとは何だ?」

「殺しか、事故か?」

「……そ、そんなこと、」

 岡 征十郎は助川を見れば、助川はにやにやと笑っていた。

「おい、詩乃、そいつはまだ新参者だ。そういたぶるな。それより、お前はどちらなんだ?」助川が助け船を出す。

「両方。ってところかしらね」

「お、おい、両方って」

 岡 征十郎が声を上げる。

「煩いなぁ……今から説明してあげるから、黙ってな」

 詩乃は本当にうるさそうに耳を抑え、現場後ろを通る道を指さす。

「向こうがシジミの岡場所だろ? あそこで遊んで、たらふく飲んだであろう。たぶん、女の連れが居たと思うよ。男はここで用を足そうとふらっと入り込む」

「女?」

「これはどう見ても女物の草履だろう? 片方が脱げて、捨てて帰れるということは、女のほうも相当酔っていた

 そういわれて詩乃の指さしたところを見れば、小ぶりの草履があった。男物の手ぬぐいを裂いて鼻緒にしているところを見ると、この男の女房なり、色だろうと思われる。

「男は、ここで用を足そうとしたのを、女がよろけて背中を押す。もしくは、故意に。これが問題だがね。女の泥酔具合では、故意と見たほうがいいと思う。

 だって、すッ転んだ男を放って、自分の草履すら捨てて帰るんだよ? さほど酔っていなければ、ね?」

 詩乃は後を語らず、手ぬぐいで足もとを叩きながら、

「もう帰るよ、蚊が多すぎる」

 そういって帰っていった。


「なんですか、あの女は?」

「六薬堂って薬屋の女将だ」

 助川の説明に、岡 征十郎は歩き去る詩乃を見送る。

「小早川先生が忙しい時には、あの女が検死に来るんだ。腕はいいし、頭もいい。顔もいいが、そのほかとなると、かなり問題のある女だ」

 助川はそういって立ち上がり、少し背の高い岡 征十郎を見上げた。

「ともかく、この草履の女を、岡場所へ行って聞いてくれ。仏さんの人相描きもできているようだからそれで、身元も調べてくれ」

 そういって、人相描き屋が書いた紙を手に方々に散らばった。

 男の身元は、大工の政五郎で、妻のおたきと一緒にシジミ河岸にある料理屋で酒を飲み、帰る最中、政五郎は用を足すために葦の原へ行く。泥酔していたおたきは、姿が見えなくなった政五郎を探さず、

「だって、先に帰るようなひどい男なんですよ。普段なら。あたし、その少し前に足が痛いって草履脱いだんですよ。とがった石がね、草履突き抜けて足に刺さってきて、それを抜いてたら居なくなったんで、もう、先に帰って。と思って。だって、呼んだって返事なんか返ってこなかったし、頭に来たんで草履投げつけたら、探せなくなって。……まさか、そこで死んでるなんて、思わないでしょ? だって、大工してるから、強いんですよ、腕っぷし。酒だって、五合飲んだって平気な男なんですよ。それが、転んで、頭、打って、……死んでるなんて思いますかね?」

 おたきはあの時もっとよく探せばよかったと泣き崩れた。

 夫婦仲はよく、お互いに何か不満があるわけではないし、おたきが突飛ばした証拠もないので、おたきの言うとおり、勝手に転んでしまったのだろう。ということで事故死扱いになった。

 詩乃とはそれきり町廻りでも会うことすらなかった。


 翌年の梅が咲き、吉原の女郎が梅見行列から帰ってきて死んでいるという報告があった。

 真夜中だというのに、そこは昼間かと思えるほど明るかった。

 岡 征十郎の仕事も、板につき、恰幅もよくなってきたころだった。男ぶりも上がってきていて、楼閣前を通れば、女郎たちに声を掛けられるようにもなっていた。

 ちょうど大通りの中程に店を構える松鶴という店の、真珠という名を持つ女郎が死んでいた。

 死んでいた場所は真珠の客を取る部屋で、けっこうな位の女郎だったようだ。上物とはいかないにしても、けっこうな広さの部屋をあてがわれていたので、三番手か、四番手の女郎だったのだろう。

 見た限りでは大福をのどに詰まらせて死んだように見える。じっさい、手には食べかけの大福、口にも大福があり、のどに引っかき傷が見えるのだ。

「毒だね」

 岡 征十郎の体に熱が込み上げてくる。

 あの声は詩乃だ。振り返ると、去年と同じく、おかっぱの、紺地に真っ赤な牡丹の柄の着物を着ていた。

「おや、岡 征十郎。久しぶりだね」

 そういって岡 征十郎のそばにしゃがみ、

「いいかい? 変な臭いがしないかい?」

 呼び捨て。と怒りたいのを我慢し、鼻をひくひくと鳴らした。

「変な匂い?」

「そう、表現的にはアーモンド臭というのだけど、甘酸っぱいようなにおいがしないかい? そんな匂い、大福からしてりゃ、腐ってると思うだろ?」

 岡 征十郎も匂いを確認し、確かに、こんな匂いがして居たら食べる気はしない。といった。

「だけどね、そもそもは無臭なんだな。ただし、味は非常にまずい。まず呑み込めない。それをどうやって相手に食べさすか? 無理やりだろうね。

 ただね、これに関しては不幸だったとしか言えないだろうね」

「不幸?」

「ああ、今日、梅見に行くということを知らない客が置いていったものを、風邪気味で行かなかったこの人がくすねたようだね」

「どういうことだ?」

「さっき、この店の坊八ぼうやが言う話では、染菊という女郎に会いに来たと。以前のなじみだったけど、金が底をつき、出禁にした。そうでしたね?」

 詩乃がそこまで言うと、入り口に立っている店主が大きく頷き、

「そうです。漁師の親方をしている総次郎という男ですけどね、以前はきっぷうのいい、腕のいい、そして、金回りのいい男だったんですよ。漁師町をまとめ、一同に魚を売る。そういう商売っ気もあって、その漁村は結構裕福だったんですがね、うちの染菊に入れ込み、金をつぎ込み、村を追い出され、村は以前の貧しい村に、総次郎は裏切り者として追われる身で、そういうのがうちに来られても困りますからね。

 そしたら、いつぶりぐらいか、今日やってきましてね。でも、今日は梅見見物に出ているし、もう来てくれるなって、私は追い出しましたよ。

 そしたら、うちの坊八の一人が、手土産を預かったらしくって、染菊の部屋に持って行こうとしたところを、その真珠が見つけ、「風邪ひいて行けなかったんだから、これをもらっておきましょう」と、そして中の大福を食べた途端、吐きだしたものもあったようですが、どうしたわけか呼吸できず、暴れまわり、坊八の奴は驚いて、見ていたそうですがね、

 喉をひっかき、足をばたつかせて、そして動かなくなったそうで」

 といった。

「たぶん、吐きだしたのだろうけど、いくつかは喉の奥に張り付いちまったんだろうかね? それが気道を塞いで、呼吸ができない。それが死因だと思うね」

「……、では、事故?」

「真珠はね。だけど、染菊に対しては、殺人未遂。計画したってことだろう?」

 岡 征十郎は腕を組み、すぐに、元漁師の総次郎の行方を追った。


 桜が咲き、風にひらひらと舞い始めたころ、岡 征十郎は初めて六薬堂を訪ねた。以前助川に聞いていたのだが、用もないのに暖簾をくぐれなかったのだ。

「邪魔するぞ」

「邪魔するなら帰っておくれ」

 岡 征十郎が正面を見る。

 店の正面にある小上がりに、火鉢にもたれかかり、キセルを燻らせている詩乃がいる。

「ご苦労様でございます。いかがの御用で?」

 入り口側に半畳の小上がりがあり、そこが番頭の台のようで、そこから男が下りてきた。

「……いや、あの、」

「捕まったのかい?」

「あ? いや……身を投げて死んでいた」

 詩乃が眉間にしわを寄せる。

「遺書があって、これであの世で染菊と一緒になれると書いてあった」

「……そう、あ、番頭、このお上が岡 征十郎だよ」

 詩乃の紹介に、番頭は頭を下げ、

「これはこれは、お初にお目にかかります。この六薬堂で番頭をしています」

「……名前は?」

「必要かい?」

 答えたのは詩乃だった。詩乃のほうを見れば、煙を高く吹き上げている。

「番頭、と呼んで仕事を言うだけだ。それ以外の名前が、必要かい?」

 詩乃の言葉に返事を困っていると、

「相手にしますとね、疲れますよ。そうだ、そうだと受け流しておいた方が身のためです。

 ただ、私どもも、長年、番頭だとか、運び屋だとかで呼ばれあっているうちに、その方が楽になっていますもので、できれば、岡様もそうお呼びいただけると、いまさら名前を呼ばれても、振り返れる自信はございませんで」

 と番頭は言った。そういうことならば。と承諾したが、―変な店だ―という思いは捨てなかった。

「それにしても、詳しく調べるでもなくよく毒だと判ったな? たしかに変な臭いはしたが、ああいう場所だ、変な臭いなんぞいくらでもするであろうに?」

 岡 征十郎の言葉に詩乃は高く煙を燻らせ、

「あたしはね、薬屋の看板を下げているんですよ? 新薬や、大陸のほうの古い毒ならいざ知らず、手に入る可能性のあるものは一応熟知しているつもりです。

 あの大福に含まれていたものはね、先月だったかしら? その前だったかしら? 南蛮船。下関に来ていた船の中で同じような症状で死んでいるものがありましてね。それは、船員たちが無理やり口に突っ込んだ挙句、死亡した。つまり殺人ですが、南蛮船内で起きたものですから、奉行所が手を出せるわけないでしょ? 知らない事件だとしても、恥ずかしくはないですよ。

 ただ、そういう不思議な死体が出た場合、解剖許可っていうのを申請してましてね、たまたまその船の船長とは小早川先生の知り合いで、解剖が認められ、それに立ち会ってあの薬のこと初めて知ったんですよ。

 あちらさんでは有名な毒物らしくてね、いろいろな事件の影に存在しているらしいですよ。でも、あんなまずいものを食べさせるなんて至難の業。すぐに新しい毒を探し出して、今度はそちらが主流だと、向こうの船医が言っていましたがね」

 詩乃はそういって煙を天井高くに吐き出した。

「ごめんください、あら、町方?」

 女の客がいぶかしがるように岡 征十郎を見上げる。

「先日の事件の始末を教えに来てくれているんですよ。

 ところで今日はどうしました?」

「お父ちゃんの胃の薬とね、あと、これを見てちょうだいな」

 女はそういって、岡 征十郎の横を過ぎて小上がりに近づき、袖をまくった。腕に巻いていた手ぬぐいを外しながら、

「昨日、桜祭りの初日だったでしょ? あたしも行ってきたんだけどね、人が多くて、あっちにぶつかり、こっちにぶつかったりしたけど、そしたら急に、焼けるような痛みを感じて、そしたら、これよ」

 そういって見せた左外前腕には、肘から手首にかけて斬られた跡があった。

「どうしたのさ?」

「それが解んないんだよ、あ。って言ったら熱が走ったみたいでね」

「着物は?」

「着物も斬れちゃってたの」

「それは、どの辺りで斬られた?」

 番頭が切り傷薬を用意しながら岡 征十郎を見上げる。

「桜祭りのどの辺だったか覚えているか?」

「覚えてますけどね……、あたしはね、さっき、番所のほうにも行ったんですよ。でも、人が多くて子供のかんざしにでも引っかかれたんだろうって言われたんですから」

 女は膨れて岡 征十郎から顔を背ける。

「でもね、お清さん、これはあんた、刀傷ですよ。ただ、深くはないから傷は残らないでしょうけど……。想像してくださいな。

 もし、もしね、刀を懐に隠して歩いている奴がいるとする。

 そいつの狙いは、誰かの命を狙うのではなくて、お清さんのように多少傷つけて、人が騒ぐのを見るのを楽しんでいたりするやつかもしれない」

 お清の顔から血の気が無くなり、番頭に支えられて小上がりに腰かけた。

「この旦那に話しちまってさぁ、捕まえてもらいましょうよ」

 お清は頷き、岡 征十郎を見上げた。


 とはいえ、今月、岡 征十郎のいる南町奉行所は非番で、当番は北町だ。北町の林田という同心ならば、お清が言ったようなことを言いそうだった。

「私が歩けば抑止力にはなるだろう。それで、どのあたりだった?」

 岡 征十郎は非番であることを説明したが、一応、祭りの開催中には出掛けると約束した。

 お清はどのあたりで痛みを感じたか詳細に話し、

「桜門。って言われているほど、立派な桜の木が二本、門のようにあるけど、その辺りよ。あの辺りから川沿いからと、町からと、いろんな方向から人が合流するところでもあるから。すごく覚えているのよ」

 そういって、詩乃から手当の方法を教わり、薬を買って帰った。


「お前が言っていたようなことをするやつがいると思うか?」

「いるから、お清さんの腕は斬られたんでしょう」

「誰かを狙う前にお清が現れた。とは言えないか?」

「……傷がねぇ……。ねぇ、旦那? 旦那の腰に下げているようなもので人を斬ろうとしますよ? どうします? 袈裟に斬りますでしょ?

 でもそんなもの、町人が持ち歩くわけにはいかない。ましてや祭りのさなか、刀振り回している人のそばに誰が近づきますかね?

 そうなると、匕首か、かみそりか、小刀。そういったものでしょ? 

 そしたら、匕首でもって人に怪我させようとする場合、どうしますよ? 袈裟に斬りに行きますか? 匕首で?」

「……突く。だろうな」

「ええ、あたしだってそう思いますよ。

 人込みでね、匕首振り上げている人がいたら、みんな逃げますよね? 

 そうすると袂に隠して」

 と、詩乃は冷めた火箸を袂に隠し、それで着物をなぞった。

「そうして歩くんですよ。殺そうという意思よりも、これによって誰かが痛がり、騒ぎになる。

 なんだってそんなことをするか? 弱い者いじめの心理でしょうね。普段何かしら虐げられている人ほど、誰かを傷つけたくなる衝動。全くの他人を傷つけ、弱って騒いでいる姿を見て、自分は強いと思っていないと生きていけないほど弱っている人。だと思いますよ」

「……誰だ、そんな奴いるのか?」

「いるんでしょうねぇ。

 ねぇ旦那、今日は、桜祭りでも、神輿が出る日です。子供神輿が。お清さんが腕を曲げて付けられた辺りと言えば、子供で言えば目のあたりですよ。

 ねぇ、旦那? 解ってますでしょ?」

 詩乃の言葉に岡 征十郎は店を飛び出る。

「私が番所に行きます」

 番頭の言葉に「すまない」と言って岡 征十郎は桜祭りがおこなわれる桜の土手に走った。

 番頭が詩乃に会釈をして番所のほうへと走る。

「さぁて、薬を持って行こうか」

 詩乃は立ち上がると、木箱に薬などを詰め始めた。


 桜祭りがおこなわれるのは、桜をご神木としている桜神社の横、土手の道沿いに桜並木があり、土手を降りれば広場になっていて、そこに桜の木を植えた、春にしか人が来ないような場所で行われる。

 すでに人が集まっていた。祭りの始まりはまだまだ後なのに、屋台の仕込みの商売人、一番いい場所を取って居る場所取りの連中もいる。

 子供神輿の集団が固まっていた。おそろいの法被を着て、鉢巻きを巻いている。

 岡 征十郎が走りこんできたので、人々が岡 征十郎を注視する。

 岡 征十郎は辺りをきょろきょろと見渡すが何を探せばいいのかさっぱりだった。

 太鼓の音がする。子供たちの最後の練習らしい。歌を歌い、笛が鳴り、踊りが躍られる。それを遠巻きに見ている人。まだ子供たちから距離がある。

「一体、どうやって見つければいいんだ?」


 岡 征十郎が広場に来て一刻(二時間)が過ぎたが、皆目見当がつかない。その間にも人が集まり、祭りの開催を待っている。

 花見客はゴザを敷き、食事をしたり、酒を飲み始めている。

 祭りの屋台の開始は、おやつどきと決まっていた。

 以前は朝から屋台が出ていたが、人が町の飯屋で昼をしなくなるとの申し出で、昼を済ませてからとなったのだ。

 まだ春浅いころだというのに岡 征十郎の額には汗がにじみ、気がせき立っているせいで動機も、呼吸も早い。


 寺の鐘はおやつ刻を知らせる。一斉に呼び込みの声が上がり、それと同時に人がどっと押し寄せてきた。

 カラン、と、チャンチキが鳴ったがすぐに止まった。そちらを見れば、上司である助川が責任者と何かを話していた。

「むやみに探したっていけないよ」

 岡 征十郎は背後から真横に移動した声に見下ろせば、詩乃が木箱を持って立った。

「ねぇ旦那? 男がさぁ、普段虐げられて一番腹が立つ相手は誰だと思う?」

「はぁ? お、お前となぞなぞしている場合じゃないぞ」

「なぞなぞなら、もっと面白いことを言いますよ。

 これは遊びじゃないんですよ。

 さぁ考えて、男が自分の上に立って一番嫌な相手は?」

「女、女房、子供。

 だが、犯人は女かもしれない?」

「女はそんなことしませんし、お清さんの腕の傷見たでしょ? 匕首を持ってあそこまでの力はありませんよ」

 詩乃の言うとおりだ。岡 征十郎は、詩乃が見ているほうを見た。子供たちがまだかまだかとそわそわしている中、のらりくらりと助川が何かを話しかけて、

「おい、子供神輿まだかよ」

 という声すら上がっている。

「ねぇ、あの集まっている人をよぉく見ておくんですよ、おかしな行動をするやつが出てくるから」

 詩乃が言い終るか終わらないかぐらいで、「え? 子供神輿中止だって? なんでだよ? え? 番所に神輿を登録してないから? いつから登録制になったんだよ」という怒声が響いた。

 周りが様子を見るように助川のほうを見る。みんなが、皆。せっかく祭りで、子供たちの晴れの日だというのに、大人の、しかも、役人の勝手な言いがかりに、不平不満が集まってくる。

「今までなかったじゃないか?」

「まったく、役所てのは、俺らにはひでぇところだ。役に立たねぇ」

「居ても、居なくてもかわりゃしないのに、本当にどうしようもないねぇ」

 という声に、岡 征十郎が説明しようと一歩足を出したのを、詩乃が腕を掴んで止める。

「ほら、あいつ、あいつだけおかしいと思わないかい?」

 それは、群衆から逃げるように前屈みになって遠ざかっている男だった。

 青白い顔をして、口をとがらせ、ときどき体をぎゅっとこわばらせながら通り過ぎようとする。

「役立たずの唐変木。偉そうにしたけりゃもっと稼いできなっ」

 詩乃の声はよく通った。怒声であふれかえっていた場所が一瞬静まるほどの声だ。

 先ほど詩乃が怪しんだ、あの一人だけそこを出ていこうとしている男の足を止め、こちらを向かせるのには十分だった。

 男は、詩乃と、岡 征十郎が見ていることに気づくと、慌てて走り出した。が、岡 征十郎の足のほうが早く、男はその場で捕まえられた。その時、多少腹を自らの匕首で切ったようだが、匕首も取り上げたし、縄もすぐに打つことができた。

 人がその騒動を見ようと移動するのを止めるかのように、助川が祭りの開始を許可した。


 チャンチキが鳴り、笛が鳴り、太鼓が鳴り、歌や、踊りや、神輿の掛け声が上がると人々はそちらへと興味を持って行かれた。


 男は、荘内屋という米問屋の婿養子で、嫁や、姑、舅に至っては居ないものとして扱われ、それに習い子供たちもバカにし、従業員からもバカにされる日々で、そんな時、妻の使いで直したばかりのかんざしを袂に入れていたところ、それがどうした拍子か先が出ていて、通りすがりに人を傷つけた。その時の相手が、大いに痛がり、急に襲われた恐怖で震えている姿を見て、日ごろの鬱積したものが少し軽くなったという。


 岡 征十郎は協力してくれた義理だと報告しに来た。

 小上がりに腰かけるよう番頭に勧められ、そこにお茶と桜餅を用意してくれた。

「遠江の新茶だよ」

「……、なんで、こんな高級な、」

「うちは薬屋だよ。お茶は消毒、解毒効果があるんだよ」

 岡 征十郎がいぶかしがる。

「体にはいいが、いかんせん高いから店にあまり置かないけども、ごひいき筋がいてね、毎度注文が入る。仕入れたうちの一つを分けてくれるんだ。だから、桜餅を買ってこさせたのさ。

 だから、岡 征十郎。あんたはいい時に来たんだよ。得したねぇ。こんな上物のおやつなかなかないでしょ?」

 そういって詩乃はお茶を口に含む。

「はぁ、おいしい。要らないなら、あたしが食べるよ」

「要らぬとは言っていない」

 そういってお茶を口に含む。白湯が常識の飲み物の時代、お茶とは何ともうまいものだろうか。それが、桜餅によくあって、餡もしっとりした、岡 征十郎好みだった。

 詩乃、番頭、そして岡 征十郎はそろってため息をついた。


 





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