淀みに鰐
灘乙子
第1話
あさ美の知っている中で一番背の高い女の人と言ったらそれはマコモさんで、漢字は「真菰」と書く。「まこもかる」の真菰だから、風雅な苗字だなあとあさ美は思った。マコモさんは鍼灸師だ。マコモさんの身長は百七十五センチというからあさ美の父親と同じのはずなんだけれど、マコモさんはほっそりしていて顔も小さいので、がっちり体型の父とは違って目の前に立たれても圧迫感がなかった。マコモさんの、奥二重の涼しげな顔立ちも一因だったかもしれない。
就職活動に挫折して、大学を出てぶらぶらしていたとき知り合いから話が来て、あさ美は朝八時から十三時までだけ鍼灸院の受付をすることになった。マコモさんと出会ったのはそこでだ。マンションの一階のテナント物件に入っている小さな鍼灸院だった。ベッドが四台、頚椎および腰椎の牽引機が一台、ヘルスなんとかと呼ばれる座るだけで全身の血流をよくするとかいう怪しいエレキのソファが二台、患部にペンのようなものを当てて低周波だか超音波だかを送り込むというこれまたよくわからない施術をするための小部屋が一つ、あとは受付、トイレ、従業員の休憩スペース、それらが十坪程度の空間に詰め込まれていた。患者は、ベッドでマッサージや鍼治療を受け、さらに本人の状態や希望によりヘルス何とかに座ったり、低周波治療を受けたりすることになっていたが、そうした一連の施術は別に順不同でやってよく、あさ美の主な仕事はカルテを出して、来た患者をなるべく待たせないようにベッドかソファか低周波の小部屋かに割り振っていくことだった。
マコモさんのほかに女の先生はもう一人いて、あとの四人の先生はみんな男性だった。うち一人が院長で、その人がマコモさんのお父さんだったが、姓は真菰ではなく上田といった。鍼灸院の名前も上田鍼灸治療院だった。マコモさんがもうよそへ嫁いで姓が違っていたとかではなく、院長とマコモさんのお母さんとの間に、正式な書類がないという事情からだということはしばらく経って、腰の治療に来ていた古株の患者から聞いた話である。
鍼灸師とは言ってもマコモさんは基本的に鍼も指圧もせず低周波の「小部屋」担当で、ずっと仕切りのカーテンの向こうにいるために、出勤および退出時にちょろっと挨拶をするほかは、勤めはじめてから数ヶ月の間ほとんど言葉を交わさなかった。マコモさんは他の先生たちともそんなにたくさん喋っている様子ではなかった。マコモさんは決して冷たい感じの人ではなかったし、カーテンの内側では患者さんと何やかや話をしていてよく笑い声も聞こえたが、院長以外の男の先生たちは院長の娘ということでマコモさんを敬して遠ざけているようだった。
もう一人の女の先生はマコモさんに限らず誰とも、患者とさえ、必要なこと以外口をきかなかった。肌は紙のように白くお稲荷さんの狐に似ていて、ものすごい妖気を漂わせていたが、東洋医学に頼ってくるような人たちの間ではそれらの要素も「後光」となりうるらしく、一定数の熱狂的な支持者を獲得しており、お稲荷は常に一番奥の四番ベッドを施術の場としていた。お稲荷は、長い長い三つ編みの髪の毛を頭のぐるりに巻きつけていた。それを留めているのは髪用のクリップとかではなく明らかに洗濯バサミで、しかも毎日その色を変えて来るのがあさ美にはあまりにも気になって、一度だけ訳を尋ねたことがある。お稲荷は質問が聞こえなかったかのようにすいと回れ右して四番ベッドに戻りカーテンを引いてしまったので、ああ、いらんこと聞いたかな、と軽く後悔していたら二日後突然、
「髪留めの色は、その日のモノソーサマとの距離で決めます」
と答えてくれた。けれど「モノソーサマ」が何なのかをさらに尋ねる根性はあさ美にはなかった。
あさ美が、四歳年上のマコモさんと一気にうちとけたのは夏も盛りになってからのことだ。
ある大雨の朝、電車と徒歩で通勤していたあさ美が濡れ鼠になって鍼灸院に着くと、マコモさんが珍しく休憩室でお茶を飲んでいた。
「これ靴に詰めといたら? 帰りしなにはマシになってるかもよ」
マコモさんは後ろを向いてしゃがみ込むと、白衣を吊るしたパイプラックの下から古新聞を一束出してくれた。あさ美はそれを受け取り、何度もお礼を言いながら靴下を脱いだ。
あさ美は身長が百五十しかないのが嫌で、大学の間はずっと九センチ以上のハイヒールを履いていたのだけれど、うおのめと巻き爪が看過できないほど悪化したため、巻き爪の方は卒論の口頭試問の直前に手術して、今では毎日スニーカーを履くことを余儀なくされ、特別な日であっても踵が五センチ以上ある靴はもう履くことができなかった。それでもうおのめはしつこく残り、この日もあさ美は前の晩からうおのめ用の絆創膏を足の裏に貼りっ放しにしていた。
そのとき、あさ美の足の裏を見たマコモさんが、
「わたしも貼ってるで」
とわざわざ自分も靴下を脱いで見せてくれた。あさ美は右足だけだったけれども、マコモさんは両足三箇所に絆創膏を貼っていて、しかもちゃんと剥がしきれていない痕跡がもう一箇所、左の足にあった。マコモさんの足は大きかった。マコモさんは自分から二十六、と教えてくれた。
「やばいやろ。ひとに言われへんわ」と言いながらあさ美にはそれをあっさり教えてくれたマコモさんは、ひひひと笑ってお茶を飲み干した。
「でもマコモさん、靴おしゃれですね」
あさ美はいつも下駄箱にある奇抜なハイヒールに注目していたのだった。お稲荷の靴でないというのは調べがついていた。レオパードとピンクのエナメルが半々とか、スタッド満載とか、一歩間違えば悪趣味ギリギリのところで、マコモさんの靴はかっこよかった。マコモさんがそれを履いているところは実際一度も見たことがなかったけれども、かっこいいに決まっていた。そう、あさ美はマコモさんのことをはじめて見たときから無条件にかっこいいと思っていた。
あさ美の言葉にマコモさんはぐんと前のめりになり、
「あれなあ、アマゾンで買うねん! わたしでもサイズあるんよ! ええやろ? 初めて褒めてもらった!」
ととても喜んだ。まあ、あの靴が合わへんでうおのめとかになるんやと思うけど、と首を振ってもいたけれど。あさ美は辛いですよねえ、と応じながら自分のうおのめが一番ひどかったときのことを思い起こし、二人してしばらく無言だった。
それで午前の診察が終わってから昼ごはん食べに行こうか、ということになって、駅ビルのサイゼリアでどうでもいい味のピザを食べながら『じゃりン子チエ』を実写化する場合のキャスティングについて一時間半意見を交わし、テツ役には中村獅童もいいかと思われるが関西弁ネイティブでないことがネックであるため、ここはひとつ山口智充にしておいたほうが無難であろうという結論に至ってあさ美は電車に乗って家に帰り、マコモさんは午後の診察のために鍼灸院へ戻った。
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