第2話 気づき


 昼下がりの、暖かな木陰で僕は待っていた。

 どこかで小鳥がえさを求めて飛んでいき、カラスはどこかのごみ箱を荒らす。桜は散り、若葉が芽を出していた。僕はどちら側だろうか、そんなことを考えながら時間を過ごして待っていた。

 ここは普段、誰も来ない。だから、僕はこの場所が好きだ。騒がしいキャンパスの裏側、それは月の裏側のように、誰も気づかない場所。

 約束の時間から五分が過ぎた。基本的に僕は時間にルーズだ。だから、大体約束の時間の最低五分は遅れる。それは子供のころから染みついた習慣で、もはやイスラム教徒がメッカに向かって礼拝する感覚に似ていた。そして、今日は僕が待つ側だ。話をつなげるなら僕がメッカ。

 足音が聞こえた。それはハイヒールによる、足音だということがすぐ分かった。僕はその音の鳴るほうへ向く。彼女だった。名前の知らない。


「ごめんね、待たせた」

「気にしてないよ」


 彼女は一つ頭を下げた。なんとなく、僕もつられて頭を下げてしまう。

 沈黙が続く。誰もいない空間でただ二人。僕は世界の裏側にいるような気がした。

 けど、世界は変わる。


「えっと、歩きながら話してもいいかな?」


 彼女は笑顔で言う。僕はまたつられて笑ってしまう。


「そうだね。歩きながら話そう」


 僕らは歩き出した。もちろん到達点などはない。

  

やはり表側のキャンパスは騒がしかった。誰もが始まりの季節を謳歌するように、その場で生まれた特殊な空気を吸っていた。また、どこからか畑を焼いた匂いが鼻を刺激し、この世界とはこのような匂いなのだと勝手に脳が解釈をし始める。けど、僕は彼女のことを考えていて、いつのまにか無意識にそうなっていることには気づかなかった。


「そういえば、講義はないのかな?」

「えぇ、午前で終わり」

「僕もだ。今日はこれで終わり」

「だったら、時間は気にしなくていいかな?」

「そうだね。今日はバイトも入れてないし、君が大丈夫なら」

「よかった」


 僕はこの言葉を聞いたとき、一体何が良かったのだろうかと思った。まず、僕は彼女と会って、これで三度目だ。まず、一度目はタナカの墓。二度目はお経を聞いているかのようなつまらない講義で再開した時。そして、三度目が今だ。しかし、僕と彼女との間には何度考えても、やはり接点などは見当たらなかった。それは水星と金星のような、たがいが太陽の周りをまわっているという共通点しかないように感じられる。いくら探しても、タナカの知り合いか何かということだけだ。


「いきなりで悪いんだけど、君はタナカの友達、それともガールフレンド?」


 彼女は少し、下を向く。


「わからない。多分、ガールフレンドだった。あの人のことはほんの少ししか覚えていないの。私ね、記憶がどこかで飛んでしまっているの。だから、全く何もかも覚えていないの。覚えているのは役に立たないような数学の公式とか、化学式とかだけなの。あくまで、表向きを生きることができる記憶しかないの」


僕は驚いていた。そうか、彼女はタナカの記憶を思い返そうとしていたのだ。

 あたりの騒がしさは徐々に増していく。それは夏の日にケヤキの木に近づくようなものだった。僕は一体どこを歩いているかがわからなくなってくる。ここは普段見慣れたキャンパスのはずなのに、それなのにどうしてかここが本当によく知る場所なのかと疑心暗鬼になる。けど、騒がしい声と人々を見れば自分が今どこにいるのかが痛感できた。

 僕は何となくか、声が出なくなる。僕は普段、そこらの人間と会話をするとなればセンスのない話ばっかりだった。例えば、ベルヌイの定理がどうこうとか、仮定法過去はこの場面で使うのだなど、本当にそこらの人に君はつまらない人だと言われるようなそんな話ばかりだった。だから、僕はタナカと会話をするのはずっと好きだった。彼は高校の時にしか話していないのだけど、それでもそんな短期間で僕は彼以上の人間と心から楽しんで会話をしたことはなかった。彼は少し下品な話が得意で、それでいて、ユーモアがあった。常に話には二面性を持っており、動と静のような二つの状況を使い分けるのが天才的だった。けど、彼は多くの人から嫌われていた。あいつは品がないだの、世間体がないだの、社会を知らないなど。そんな最も根拠性のない戯言ばかり言われていた。だが、タナカはそんなことを一度も気にした素振りなど見せたことがなかった。彼はいつもそのような話を聞いては、「世間には健常な奴と、通常な奴がいる。大体、何かに縛られて生きてるやつが健常で、自分をしっかり持って、自分は何かと理解している奴は通常だ。そして、大体世間は身もふたもない恐ろしいたれ口だけ述べたり、書き込んだり、自分を理解していない奴が多い。俺は少なくとも、そちら側ではなく、通常であるから全く気にしていない」。一言一句、今でも覚えている。僕は今もあの時も、彼の言葉を理解して努めようとは思わなかった。それは多分、彼の側へ行けないような気がしたからだろう。

 僕は今、あいつがうらやましかった。いつも、うらやましかったが、今日ほどあいつをうらやましがったことはない。

 僕はゆっくりとした歩調の中、空を見上げた。それは現実逃避の場所のように感じられ、まだまだその場所には空きが多くありそうに感じた。もし、今あいつとバトンタッチでが出来るのなら、どれだけいいことか。

 流れる雲と、アスファルトの間で、僕は息をのんだ。薄れていく歓喜の空気、騒々しさの尻尾。でも、僕にはやっぱり何も言えなかった。これ以上、僕が話しても彼女にしてやれることもないような気がしたからだ。けど、今思い返せば、確かにタナカには特別なガールフレンド、もしくは女友達がいるんだという事を聞いた覚えがあった。でも、それは本の表紙のような、中を見なければうまく言えないもどかしさあって、記憶がそれ以上はロックされたかのように思い返すことを拒否した。

 そして、気づいた。僕自身も、タナカとの記憶の一部が消えていたという事に。

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2019年の令和 人新 @denpa322

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