第6話
マリアの優しさ、純粋さによって、レイの心は変化していた。
人を思いやる気持ち、人を愛する気持ち、人生の楽しさ、それらを得て、戸惑いながらもそれを受け入れ、生きることに喜びを感じるようになっていた。
そして、きっとマリアも、レイによって心境に変化が出ていたのだと思う。
死を簡単に受け入れようとしていたマリア。今でもその片鱗が見える時はあるが、出会った頃よりも死に抗うようになったように思う。
それらはきっと、いいことなのだ。
死を恐れ、生を喜ぶ。人として、生き物として当然のことだ。
喜びのない生は、死んでいるのと何ら変わりない。だから、生きていく上でのリスクが高まろうと、これらの変化は受け入れてよかったのだ。
たとえ、それがどんな結末を迎えようとも。
*
レイとマリアは、順調に東に向かっていた。
途中、集落を見かけることもあったが、食料に困っているわけでもなかったので寄らなかった。それはおそらく正解で、集落から少し東に進んだところに、屍が積んであった。集落の者か、集落に寄った者のどちらかだろう。
あれ以降、人食いに出会うこともなかった。まあ、あんなのにはそう何度も会うことはないだろう。
旅人を見かけることはあったが、当然声はかけなかった。声をかけた相手が人食いや無法者である可能性は大いにある。ハイリスクローリターン。いや、同じ旅人だとしても、リターンはゼロに等しいだろう。
だから、この日見つけてしまったその子に声をかけるべきかどうかも、非常に悩んだ。
「レイ、助けてあげた方がいいんじゃない?」
そう言ったマリアの視線の先には、道端で倒れている少年がいた。
マリアよりも幼いかもしれない。
がりがりにやせ細った体をみて、レイは昔の自分を思い出した。
生きることだけに必死だったあの頃。死体を山積みにしていた少年時代。人が犯され殺されるのを、何も思わず見ていたあの日。
「囮かもしれない。あいつを助けたところで、他の仲間が来るかもしれない」
助けたところとは言ったが、あの少年の所持品を探りにくる連中を狙っていると言った方が正しいのだろう。この世で人を助けようとする者なんて、余程のお人よしだ。
そのお人よしが隣にいるのだが。
「でもまだ小さいし、もしも他に仲間がいても、あの子だけ連れて逃げることだって出来るんじゃない?」
「リスクが大きすぎる。第一優先は俺たちの命だ」
「じゃあまずは、この辺りを見回ろうよ。もしも仲間がいたら逃げればいい、いなかったら一緒に連れていく、それならいいでしょ?」
それでも十分にリスクは高いのだが。周辺に仲間がいるのならば、速やかにかつ冷静に逃げるのが一番だ。
だが、そうもいかないことはこの数カ月の付き合いで分かっていることだ。
そして何より、自分自身もあの少年ことが気になっている。過去の自分を思い出してしまうから。
もしもあの時、マリアと出会っていたら、もっと人生を謳歌出来ていたかもしれない。そんな考えが脳裏をよぎる。
あの少年も、そうだとしたら?
そこにしか生きられる場所がなく、そこにいるしかないとしたら?
もしもそうではなくても、あんな小さな子がこの先一人で生きていけるわけもない。せめてどこか集落まで一緒に連れていくべきなのではないか。
「……分かった。とりあえずは見回ろう」
いずれにせよ、警戒しなければいけないことに変わりはないのだ。安全確保のためにも、周辺を探索しよう。
*
探索結果、異常なし。
人がいた跡が全くなかった。生活の跡が全くない。あったのは少年の足跡だけ。
完全に安心とはいかないが、少年は親とはぐれたか、またはマリアと同じ境遇なのか、一人で旅をしているのだろうという結論が出た。
少年に近づき様子を見ると、骨と皮で出来ているのかと思うほどにやせ細っていることが分かった。ただ、息はしており、レイたちが近づくと目を開いてレイを見た。
「大丈夫か?」
「……飯、くれ」
少年は、かすれた声でそう要求した。
レイは少年を起こすと、ひとまず水を提供した。少年はそれを、むせないようにゆっくりと飲んだ。そして、レイから渡された非常食を、こちらもゆっくりと噛んで食べた。このやせ方からいって、まともに食事を摂っていなかったのだろう。
「お前、名前は?」
「名前なんてない」
いつかのマリアとの会話を思い出す。数か月前まではレイという人間は存在していなかったことを、思い出す。
「そうか。ひとまずここを離れるぞ、立てるか?」
少年は無言で頷き、レイの後をついてきた。その足取りは重く、レイもそれに合わせゆっくりと歩いた。
三十分ほど歩き、比較的綺麗な民家の中に入り休憩することにした。
「お前、なんであんなところで倒れてたんだ?」
「レイ、その前に一つだけ」
「何だ?」
「この子の名前を決めよう」
少年の肩に手をのせ、マリアは楽しげに言った。
「そいつがいいなら、マリアの好きにしたらいい」
少年は、良いとも悪いとも言わない。常にむすっとしている。正直に言うと、可愛げは全くない。
「じゃあ君は、ムツ君でいいかな?」
「ムツ? どんな由来だ?」
「ムッツリっぽいから」
酷い理由だ。
よくよく考えてみると、レイの名前も幽霊みたいだからという理由でつけていたのだから、マリアのネーミングセンスはあまり良いとは言えないのだろう。
少年は、やはりそれにも返事はしない。
「無言は肯定って捉えられるんだからね。あなたはムツで決まり」
それに対し、マリアは強引に名前を決定した。拒否権はなさそうだ。
「――それで、ムツ。お前はなんであそこに倒れていたんだ?」
「腹が減ったから」
と、端的にムツは答える。
「俺が聞いているのはそういう事ではない。お前みたいなガキがあんな集落も周りにないようなところにいる理由が分からん」
「逃げてきたから」
「誰からだ?」
「無法者から」
「レイと一緒だね」
「一緒にするな」
こんな年齢で逃げようとは思わなかった。生きていけるとは思えなかったからだ。考えなしで逃げるのは、無謀でしかない。
「どっちの方から逃げて来たんだ?」
ムツが指さした方向は、西の方角。つまり、レイとマリアが歩いてきた方角だった。
「無法者なんていなかったと思うが……」
「少し離れてたんじゃない?」
「まあ、そうだろうな」
方角と一言で言っても、東西南北の他、南東や北西など、細かく分かれてくる。今までも気付かなかっただけで、1キロ先には無法者がいた可能性だってある。
会わなくてラッキーだったと思うべきか。
「レイ、どうするの? このまま連れて行くの?」
「うーん……」
三人行動。
それでなくとも、二人で行動するだけでも気を遣いながら進んでいるというのに、やせ細った子供を連れて旅なんて出来るだろうか?
無理だ。
無理だが、それはずっと連れて行くから無理なのであって、短期間ならなんとかならないでもない。
「次、集落を見つけるまでの間ならいい。集落を見つけたら、そこに置いていく。三人での旅は危険すぎる」
「うん、そうだよね」
マリアは嫌がるかと思ったが、素直に受け入れた。そういえば、以前三人で旅をすることに関する話をしたなと思い出す。マリアはマリアなりに、危機回避しているということか。
「ムツ、それでいいな? 嫌ならここで別れてもいい。お前の好きにしろ」
「ついてく。あっちの方に行くんだよな?」
そう言って、ムツは東の方角を指さした。
「そうだ。問題あるか?」
「ない」
相変わらず、表情は変わらない。むすっとしている。それ以外の表情を知らないのかと言いたくなる。
「休憩は終わりだ。進むぞ」
今後の方針も決まったところで、三人は東に向かって歩き出した。
歩きながら、マリアはムツに何度も話しかけた。
「ムツは字は読めるの?」
「ムツのお母さんたちは?」
「ムツはどうして無法者から逃げてきたの?」
「私は元々集落に住んでたんだよ」
「レイと二人で寄った集落は酷かったんだよ」
と、懸命に話しかけていたが、対するムツはといえば、
「ん……」
としか言わない。
身の上を語りたくないのか、二人を警戒しているのか。
それでもマリアは、嫌な顔をせずに話しかけている。
弟が出来たような感覚なのだろうか。レイには、こんなむすっとした少年を弟と認識するのは難しい、というよりも出来ない。
出来ないししたくない。もう少し可愛げがあれば考えないでもない。
マリアはここ数カ月、年上のレイとずっと行動を共にしているから、年下がいるだけで満足なのかもしれない。
ここはひとつ、助け舟を出してやるところか。
「ムツ、少しはお前の事も話せ。何も話さないやつは信用できん」
ムツはむすっとした顔を崩すことなく舌打ちした。
可愛げがないどころか、ぶんなぐってやりたい衝動にかられたが、抑えた。
「親はとっくの昔に死んでる。顔も覚えてない。あそこから逃げたのは、飯もろくにもらえないからだ」
真っ当な理由だ。ムツは細すぎる。誰かに襲われでもしたら、すぐに骨を折られ殺される。その場面が容易に想像できる。
「そっか。大変だったんだね」
「慣れた。別に大変ではない」
「大変だったから、あそこで倒れてたんじゃないの?」
「あれは腹が減っただけだ」
「大変だったからお腹がすいたんでしょう?」
「……」
「無言は肯定の証」
勝ったとでも言わんばかりのどや顔でマリアは言った。
ムツは、ふんっと鼻を鳴らし、それ以上は何も言わなかった。どこまでも素直じゃない少年だ。
それからは、マリアの質問に少しだけだがムツは答えるようになった。その顔が別の顔を見せることは、結局なかった。
*
廃墟をまわりながら東へ進み、夜になった。田舎なのだろう、あまり民家はなく、今日は普段に比べるとだいぶ歩いたように思う。
三人で乾パンを食べる。食べ慣れたつまらない味がする。ムツは腹は減っているはずだが、特においしそうにするわけでもなく、胃に放り込むように食べている。多少は元気になったようだ。
「まだこんなに綺麗な家も残ってるんだね」
食べながら、マリアは家の中を見回して言った。
確かに、マリアの言う通りこの家は綺麗だ。日が暮れたあたりで、ちょうどいい位置にあったこの家屋。次の建物までどの程度の距離があるか分からなかったので、ここで一晩を過ごすことにしたが、運がよかった。
埃も少なく、かび臭いが布団もある。食料はさすがになかったが、屋根もあって雨風もしのげる。
最近まで誰か住んでいたのかもしれない。
最近まで――。
「嫌な予感がする」
「え?」
「もう少し進もう。ここで休むのはやめだ」
「どうしたの?」
「ここで、良い気がする」
ムツが珍しく自分から発言した。
そこで、もう確信できた。
これは罠だ。
「いいから、急いで出るぞ!」
マリアの分の鞄も担ぎ、無理矢理引っ張るような形で家を飛び出したが、もう遅かった。
外には、視界にいるだけでも五人の人間がこちらを見て笑っていた。その汚い笑顔は、どう見ても無法者のそれだった。
「女もいるとは、今日はついてるねえ」
無法者の一人が、舌なめずりしてマリアを見つめる。
「そんな……じゃあやっぱりムツは……」
マリアは後ろで、未だに表情を変えずにいるムツを見た。
ムツは何も言わない。
無言は、肯定の証だ。
*
違和感はあった。東に進むと言った時、ムツはわざわざ指さして方向を確認していた。
結果的に言えば、あの時間帯から歩いてちょうどいい場所に位置する、あの建物に誘導するために確認していたのだろう。
終わった。薄れる意識の中、そう思った。
*
男五人相手に、奇襲もなしに勝てるはずなどなく、マリアとレイは無法者に捕まった。
捕まる段階で、レイは気絶するまで殴り倒された。
そして今、目覚めた。
じめじめとした部屋。あたりを見回すが、マリアの姿は見当たらない。別々の部屋で監禁されているようだ。
レイは体ごと椅子に縛り付けられていた。
動くに動けない。
体を縛っていなかったとしても、体中の痛みが酷く、まともに動ける気がしない。あれだけ殴られたのだから、骨が折れていてもおかしくない。
「やっと目が覚めたか」
レイと年齢も体格も変わらないような男が、レイの前に立った。
「殺すならさっさと殺せ」
もう助かるはずもない。こんな状況、絶望的だ。喋るだけで腹が痛い。
油断した。油断のしすぎだ。
最初から、ムツは怪しいと思っていたはずだ。あんなところに倒れていて、答えろと言ってもほぼ何も答えない。
情報を漏らしたくないから、出来る限り喋らないようにしていたのだろう。
少し考えれば分かることだった。
そして、マリアもきっと分かっていた。だからあの時、『やっぱり』と言ったのだ。
分かっていても、助けたい。そう思ってしまった。きっと、レイもマリアも。
どれだけ人が好いのか。マリアにほだされ、自分まで甘い人間になってしまった。悪い気はしない、なんて思っていたが、いざこういう状況になってみれば、やはり甘い人間は死ぬ運命にあるのだと思い知らされる。
「お前を殺すのは後だ。お前の悲しむ顔が見たいからなあ」
「……マリアか」
当然、こんなところに放りこまれたのだから、マリアだって殺される。殺されるだけならまだいい。犯され、嬲られ、いいだけ玩具にされてから殺される。
それが無法者のやり方だ。
「マリアって言うんだな、あの娘は。今頃あいつらに犯されて、ひーひー言ってるところだろうなあ」
「そうか……」
この男は、レイの怒った顔を見たいのだろう。怒り、泣き叫ぶ姿を見て楽しみたいのだろう。
分かっている。だからあえて反応しない。そうするのが一番だ。
「殺す前に、お前の前であの娘を犯してやる。お前の目の前でな。散々泣いても、目の前にいるのにお前は助けられないのさ。悔しいだろうなあ。その時のお前の顔を見るのが楽しみだ」
「そうか。好きにしろ」
レイの反応が気に食わないようで、男は舌打ちして、レイの顔を一発殴った。
その拍子に、椅子ごとレイは後ろに倒れた。
激痛が身体を走り、思わずうめき声をあげた。
「なあ、あいつらが女を犯している時に、なんで俺がここにいるか分かるか?」
男は、また汚い笑顔に戻り、レイの顔に自分の顔を寄せた。
「知らん」
「俺は、男でもいけるんだよ」
そう言って、男はレイの顔面を嘗め回した。
荒く、臭い吐息がレイの鼻孔を突き抜ける。
「今からたっぷり可愛がってやる」
男は、レイの体を縛っていた縄を解いた。
レイの怪我を見て、まともに動けないと読んだのだろう。
実際、自分で立つのも一苦労だ。
だが、こんなチャンスを見逃すはずもなかった。
「ほら、こっちにケツを向けな」
男がレイを抱えた瞬間、レイは男の腰にかかっていたナイフを奪った。
男が気付いた時には、既にナイフは男の股に刺さっていた。
男が叫ぼうとするのを手で抑え、男と一緒に床に倒れこむ。そのままナイフを引き抜き、今度はそのナイフで男の首を切りつけた。
男の血がレイの顔に飛び散った。
絶命したのを確認してから、レイは椅子を支えに立ち上がった。
他に仲間は見当たらない。こいつが見張りだったのだろう。
レイはすぐに部屋から出て、外に出た。
少し離れた家から明かりが漏れている。他の家は暗いままだ。
レイは暗い家に入り、少しでも武器になりそうなものをかき集めた。木材は足や腕を支えるのに使い、ガラス片とナイフを片っ端から鞄に詰め込んだ。
レイは、すぐに助けに行きたい衝動を抑え、元々捕まっていた部屋に戻った。そして、灯りを消し、息を殺し静かに時が来るのを待った。
*
マリアがいるであろう家から、無法者がぞろぞろと出てきたのは、それから二時間が経った時だった。
男たちは満足げに出てきて、それぞれ空いている家に入っていく。
そして、そのうちの一人がレイのいる家に入ってきた。
「なんで灯りが消えてんだ? あいつ、またテキトーにやってんな」
体格のいい中年が、独り言をこぼしながらレイが捕まっていた部屋に入っていく。
そして、椅子に座っている人物の前に立った。
「いい加減目を覚ましたらどうだ?」
そう言うなり、男はその人物を殴り飛ばした。
暗いから、レイだと勘違いしたのだろう。
だが、それはレイではない。さっきレイが殺した、この男の仲間だ。
それに気付きもせず、死んだ仲間を蹴り続ける。
レイは、隙だらけの男の背後に回り、口を塞ぎ喉を掻っ切った。
悲鳴を上げることなく、男はその場に倒れた。
血の付いたナイフを捨て、男が持っていたナイフと取り換える。
それぞれが入っていった家屋は覚えている。全部で六人。きっとマリアの見張りを合わせて七人いるはずだ。
一人、二人、三人。
眠りに入っている無法者たちを順に殺していく。
息を殺して、殺していく。
一人殺すたびに、傷の痛みが増していく。それでも体は止まらない。マリアを助けたい一心で、いくら体が悲鳴を上げても動くのをやめない。やめられない。
また一人、二人、三人。
寝ている相手を殺すのは簡単だった。過去にしたことを繰り返しているだけだ。
これで残るはマリアの見張りだけ。
不思議と、体はふらつかない。まっすぐにマリアのいる家に足が進む。
残りは一人。
レイは様子をうかがう事もせず、勢いよくドアを開けてそこに入った。
まず感じたのは、雄の臭い。汗と精液の臭いが混ざり合い、異臭を放っていた。
そして、驚いた様子でレイを見るムツ。
その目の前にいたのは、マリアだった。
手足を縛られ、全裸にされ、体中あざだらけになって、犯された状態のまま放置されていた、マリア。
うつろな瞳が、レイの姿を捉えると、その目から雫が零れ落ちた。
「お前は、絶対に許さない」
ナイフをムツに向ける。ムツは後ろに倒れ、そのまま怯えたように後退した。
「お前が、お前さえいなけりゃ、こんなことにはならなかった!」
憎しみがこみあげる。
マリアにしたことを想像し、ムツが黙って見ていたその光景が頭の中にはっきりと見え、悲哀と憎悪で心が満たされる。
「し、仕方がねえだろ。そうしなきゃ、俺は生きていけねえんだ」
日中とは打って変わって、その表情を変化させるムツ。
「俺たちが、次の集落まで運んでやると言った。食料も与えた。なのにお前は……」
「どこに行ったって変わりやしねえ。恵んだのはお前らの勝手だろう?」
「黙れ!」
叫ぶと同時に、ナイフがムツの右目を裂いた。
ムツの叫び声が、狭い室内に響き渡る。
「ただ眺めているだけの目なんていらないだろ」
「うう、ああああああ!」
もだえ苦しんでいるムツを見ても、全く満足しない。
もっと、もっと苦しめばいい。
マリアは、それ以上の苦しみを味わった。
「レイ」
ムツの叫び声の中に、小さなノイズが混ざった。
そのノイズが、レイの行動を止めた。
「いいの、レイ。もういいよ」
ノイズの正体は、マリアだった。
「それ以上苦しめたって、何の意味もない。ただ虚しくなるだけよ」
「……ああ、そうだな」
そうだ、苦しめたって意味なんてない。人殺しを楽しむのは、ただの狂人のすることだ。
煮え切らない思いはある。当然だ。むしろ納得する部分なんて一切ない。
「だが、すまないマリア。マリアみたいに、俺は優しくなんてなれないんだ」
そして、レイはムツの首を切り裂いた。
鮮血がレイを染め上げる。
マリアの目には、どんなふうに映ったのだろう。あの時の、人食いのように見えるだろうか。化け物のように、怪物のように見えただろうか。
どんなふうに見えてもいい。怪物になって、マリアを守れるのならそれでもいい。
マリアに嫌われたって、かまわない。
そんな風に、思っていたのに。
マリアは、ボロボロの体を引きずって、レイを優しく抱き寄せた。
「ありがとう、レイ」
*
マリアの体を拭いてやった。
側にあった、ところどころ破けてしまった服を着せ、マリアを背負ってその場から離れた。手当をしたかったが、万が一他に仲間がいたら、もう抵抗する余力はなかった。だから、まずは離れることにした。
レイ自身、もう体の限界は近かった。限界の体でマリアを背負うのは、尚更きつかった。
道中、マリアがせき込む度に吐血していたのが、さらにレイを焦らせ、疲労感が増した。
それもあって、結局1キロにも満たないところでばててしまった。
レイもマリアも、打撲ばかり。傷薬はあっても冷やす物はない。
「マリア……痛いの、我慢出来るか?」
「うん……」
マリアにいつもの余裕はなく、額から汗が出て、見ているレイまで辛くなる。
気付くとレイも、自分の口から血が出ていることに気付いた。口内出血かと思ったが、腹の痛みからして臓器がやられたことはすぐに判断できた。
マリアも同じだ。口内は切れているが、それだけでこんな出血はしない。
治す手立てがない。
「ねえ、レイ」
「喋らない方がいい」
「今、言っておきたいの」
マリアは、お腹を押さえながら、言葉を続けた。
「私、レイと出会ったときはね、死んじゃってもいいやって、思ってたんだ……お母さんたち、死んじゃったし。だから、あの男の人たちに犯されて、殺されて、それであの人たちのためになるなら、いいやって思ったんだ」
喋るのが辛いのだろう。マリアの口からさらに血があふれる。
「ああ、ああ、そうか。それが言いたかったのか? もう、無理はしなくていいから」
「ううん、違うの……レイと会ってからね、私、すごく死ぬのが怖くなっちゃったの。レイと、離れたくないって。だからね、さっきね、男の人たちに、犯されて、殴られて、その時、私すごく怖くて、痛くて……」
マリアの頬を、涙がつたう。
「レイ、助けてって、何度も心の中で叫んでたら、レイが、来てくれた……本当に、涙がでるくらい、嬉しかったよ」
「遅かったよな、ごめんな……ごめん……マリア、本当に、もう喋らなくていいから」
「好きよ、レイ」
マリアは、レイの頬にそっと手を当てた。
レイはその手を握り、マリアの感触を確かめる。生きていることを、確かめる。
マリアは、死なせない。
「俺もだ、マリア。マリアが好きだ。だから、マリアの事は、絶対に守る」
休んでいる暇などない。
レイは、マリアを背負い、縄で自身の体と固定した。
「東、東だ。東に行けば、俺たちの目指す世界がある。そこに行こう。きっとそこなら、マリアの怪我だって治せる」
そしてレイは、限界の体を引きずって歩き出した。
*
夜が明け、日が出てきた。
いつ動かなくなってもおかしくないはずなのに、レイの体は休むことなく東に向かって動いていた。
レイ自身は、もう体のことなど気にすることはなくなっていた。今は一秒でも早く、マリアを治せる場所へと連れていきたかった。
「マリア、大丈夫か?」
背中に乗っているマリアに問いかける。
だが、戻ってくるのはマリアの吐息だけだった。
今は寝ていた方がいい。起きても苦しいだけだ。
レイはまた、無言で前へと歩を進めた。
*
歩いている途中で、突然つま先に激痛が走った。
一度止まり、靴を脱いでみると、親指の爪がはがれていた。出血は酷くないが、見た目以上の痛みがあった。
傷薬を塗り、手持ちのガーゼで巻いた。
そしてまた歩き出す。
痛みは、引くことはなかった。
*
こうして歩き出して、二日ほど経っただろうか。
いつの間にか、肩にかかっていた息の感触が無くなった。
静かに寝ている。
そうだ、静かに寝ているだけだ。痛みを忘れるために、寝ているだけ。
だから、起こさないように静かにしなければ。
構わず、歩く。
*
嗅ぎなれた臭いがする。
それが何の臭いなのか、分かってはいる。
だが、それを認めたくなくて、ひたすらに歩いた。
*
耳元で、妙な音がした。
振り向くと、マリアの顔の周りをハエが飛び回っていた。
手で追い払うが、いつまでも追ってくる。
構わず、歩くことにした。
*
首元に嫌な感触がした。
手でそれを取り除くと、それは蛆虫だった。
レイは嫌な予感がし、マリアと自分を固定していた縄を解いた。
マリアの口から、蛆虫が湧いて出ていた。
「出てけ! お前ら、マリアを汚すな!」
マリアの口から蛆虫を掻き出す。
出しても出しても出てきたが、なんとかすべてを取り除いた。
取り除いたころには、マリアの口内は傷だらけになっていた。
「……」
マリアを見つめる。
マリアが見ているのは虚空。自分を見てくれない。
早く、東に行かなければ。
レイは、縄を縛り直し、歩き出した。
*
「あああああああああああ!」
頭がおかしくなりそうだった。
何をしている?
いったい何のためにこんなことをしている?
マリアは、マリアは――。
マリアはもう、死んでいるんだぞ?
*
自分が生きるために、生きていた。
自分が死なない為に、生きていた。
自分以外の人間なんて、どうなってもいいと思っていた。
誰かを守ろうなんて、考えたこともなかった。
そんなお前が、なぜ死体を大事そうに背負っているんだ?
「俺の勝手だ」
腹も減って、体中痛くて、もう止まってしまえば死にそうなのに。今それをここにおろして、そいつを食べてしまえば、まだ生き残れる可能性はあるはずだ。
「うるさい」
生きるために生きていた。そうだろう?
そんなお前が今やっていることは、死に急ぐ行動だ。そんなことをして、何の意味がある? なんの意味もないだろう? 食ってしまえ。そうしたら、楽になる。
「黙れ!」
どうしてそこまでそれにこだわる? ただの死体。もうお前の事を抱いてくれることもないというのに。
「些細な事だ」
会話をすることも、字を教えてくれることもない。ただ腐敗臭を漂わせ、蛆を湧かせるだけのものとなっているのに。
「……それでも、俺は、マリアが目指した場所に、マリアと一緒に行かなきゃいけない」
それは、なぜ?
「俺が、そうしたいからだ」
理解できない。
「俺にだって分からない。理解できない。でも、それでいいんだ。理解できないことは、悪い事じゃない」
何を言っても、もう戻ることはないのか。
ならば、きっとそれが正解なのだろう。
何を犠牲にしてでも、自分を犠牲にしてでも得たい何かがそこにある。
きっとそれは、命よりも、大きなものなのだろうな。
*
蛆が湧いては止まり、掻き出しては歩き、汚れれば水で洗い。
それでも、腐るものは腐っていく。
徐々に腐るその肉体を、それでも放したくはなかった。
「ごめんな……もっと、綺麗なままで、運んでやりたかったのに」
本当は、生きて、一緒に行きたかったのに。
死んでほしくなかった。
いっそのこと、今ここで死んでしまいたい。
でも、そこに着くまでは、死にたくても死ねない。
だから進む、ただ前に、進む。
*
出発の時点で限界だった。だから、ここまで歩けただけでも奇跡だった。
もう、目も霞んで景色なんてほとんど見えない。
止まってしまった。
ああ、結局たどり着けなかったのか。
落胆と共に、安堵の息が漏れる。
ようやく、楽になれる。
十分頑張った。自分の足が腐っても、歩き続けた。飲み食いもせず、歩き続けた。それでも着かなかった。見つけられなかった。
頑張った。
だから、もういい。
これ以上頑張る必要なんてない。
もう楽になろう。
もういい。
もう、いい。
もういい?
本当に?
それで、納得するのか?
まだ、そこには着いていないのに。
自分の命を投げ捨てでも、行かなければいけないのではなかったのか?
十分頑張った?
誰が認めてくれた?
誰も認めていない。
自分で、諦めただけだ。
認めろ、自分自身で。
頑張ったと、認めろ。
成し遂げたと、認めろ。そのために、動け。
*
立つ気力はなかった。
だから、這って進んだ。
胸がすれ、進んだ後に血が残る。
まだだ、まだ動く。
動くうちは、進み続ける。自分自身で決めたことだ。
だから、まだいける。
*
「じいちゃん! じいちゃん、こっち来て!」
見えなくなった世界から、そんな声が聞こえた。
子供の声だった。
誰かが駆け寄ってくる音がする。
「こ、これは……」
別の声。男の声だ。だいぶ歳がいってそうな声。
「そこに、いるのは?」
自分の声が、自分のものではないように聞こえた。かすれきって、自分でも聞き取れるか分からない。
だが、そんな声に、
「ここに住んでいる者だ。君は……その背中の彼女は?」
と、老人はレイの手を握り、返事をする。
ああ、久しぶりの、人のぬくもりだ。
「ここは、平和か? どんなところだ? 教えてくれ」
薄れる意識を、言葉を紡いでなんとか引き留める。
「目が見えていないのか? ここは、緑であふれている。何とか私たちの手で育ててきた。争うことなく、みんなで協力して町を作っている。そういう場所だ。君も、すぐ医者に診てもらおう。」
そうして、レイの手を放そうとした老人だったが、レイはそれを放さなかった。
「行かないでくれ……頼みを、聞いてほしい」
「わ、分かった。おい、医者を呼んできてくれ。私はこっちをみているから」
「分かった!」
誰かが駆け去っていく音が聞こえた。きっと、見つけてくれた少年だろう。
「ここには、水の湧き出る場所は、あるか?」
「ああ、あるぞ。公園の中にな。それがどうしたんだ?」
「……そうか、じゃあ、きっとここが、ゴールだったんだな」
「ゴール? 何のことだ?」
「この娘、マリアって言うんだ。マリアを、弔ってやってくれないか? 火葬、がいいな。火で、死体を燃やすんだ。そして、その骨を、この町の一番景色のいいところに、埋めてくれ。それだけでいい」
「火葬……分かった。そのようにしよう」
「俺は、別にどうしたっていいから……マリアだけは、頼んだぞ。マリアは、いい娘だから。誰よりも、優しくて、愛しくて、大切なんだ。ずっと、ここに来たがってたんだ。平和を、誰よりも望んでいた。だから、頼んだ」
「分かった。もう喋らなくていい。じっとしていろ」
「頼んだ……」
最期の言葉に、願いを込めて。
レイの心に、幕が下りた。
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