第4話

 マリアは悪くない。

 あの時、この集落に入らなければ飢え死にすると判断したのは、他でもない自分自身だ。生存確率が高いのは、どう見たってこの集落に入る方だった。

 でも、一人だったら入ってはいなかった。

 マリアがいたから、入ることにした。

 いや、違う。マリアがいなくても入っていた。

 いいや、入らない。この世界の人間にまともなやつがいないのは、身をもって知っているはずだ。入るにしても、三日は外から様子を見るべきだった。

 そんな余裕はなかった。

 一人だったら、食料は十分間に合っていただろう。

 マリアは悪くない。

 マリアだって、本当に信用できるのか?

 マリアは信用できる。

 いったい何を根拠に?

 一緒に旅をした。

 まだ出会って一ヶ月程度だぞ?

 一ヶ月も一緒にいたら、どんな人間か分かる。

 この世界に信用できる人間はいないんだろう?

 マリアは違う。

 なんでマリアだけ特別なんだ? マリアは普通の女の子だろう。

 普通であることが、特別なんだ。

 認めろ。信用できる人間はいない。マリアも信用は出来ない。誰も、この世でお前の味方なんていない。お前が人を信用しないように、お前を信用する人間もいない。利用できるかできないか、邪魔か邪魔じゃないか、それだけの話し。

 人を信用するな、それがお前の信念だろう?



「黙れ! 黙れ黙れ黙れ!」

 目が開いた途端、レイはそう叫びながら起き上がった。


「レ、レイ? どうしたの?」

 それにつられ、マリアも驚き跳ね起きた。


 マリアがレイの顔を見て、不安げな顔を見せた。

 呼吸が乱れている。酷く汗をかいている。

 自問自答する夢をみた。もう詳しくは思い出せないが、この状況を見るに、酷い夢だったのは間違いない。


「……すまない、マリア」


 呼吸を整えてから、レイはまた横になった。

 そうすると、マリアが頭をなでてくれた。

 またこの感覚だ。乱れた心が落ち着いていく。平常心に戻っていき、すさんだ心が癒されていく。ただ頭をなでられているだけなのに。麻薬っていうのは、こんな感覚なのだろうか。

 そんなことを想いながら、レイは再び眠りについた。



 悪夢を見ることもなく、レイは日が落ちるまでぐっすりと眠っていた。

 隣を見ると、マリアの顔があった。添い寝していたらしい。

 いったい子供はどっちの方だと、自嘲気味に笑うと、


「ん、レイ、起きたの?」

 と、マリアも目を覚ました。


「ああ、今日はずいぶんぐっすり眠ってしまったみたいだな」


「うん。そうだね……」

 伸びをしながらマリアは起き上がり、

「ねえ、レイ」

 と、再びレイに向かい合った。


「何か、隠してない?」


「何をだ?」

 さすがに、寝起きであんなことを叫んでいたら、何かあったと思ったのだろう。マリアは真剣なまなざしをこちらに向けていた。


「昔の事を思い出していただけだ」


 嘘をついた。マリアに、この集落の真実を教えたくはなかった。

 残酷すぎる。あまりにもむごい。

 ここから逃げ出すことが困難な事、もしも逃げ出そうとしたら、糞尿にまみれ死を待つしか出来ないこと。

 そんなこと、こんな少女に教えられるはずがなかった。


「どんなことを思い出したの?」

 マリアは、レイを疑うことなくそう聞いた。


「……無法者の中で過ごしていた時の事だ。大したことじゃない」


「そう……嫌な事があったら、教えてね? 話しを聞くだけなら、私にだって出来るんだから。私をもっと頼って」


「ああ、分かった」


 そうは言いつつ、やはりマリアに頼ることなどできない。頼れない。話すことが出来ない。

 話してどうにかなる問題ではない。


「マリア、飯は食べたのか?」


「ううん、私も寝てたから食べてないよ」


「そうか……じゃあ、ケイのところに行って食べてきていいぞ。俺はちょっと、酒場に行ってくる」


「酒場? お酒飲むの?」


「たまには一人で飲みたい気分なんだ、いいだろう?」


「まあ、いいけど……」


 不満気、というよりは、不安な様子のマリア。

 酒場になど行かない。普段はマリアが寝ている時にビッグママのところに行くが、今日はそれを早めるだけだ。

 今日は、さすがに飯を食べる気にはなれなかった。



「今日はずいぶん早いねえ」

 相変わらず下品な笑みを浮かべ、ビッグママは言った。


「そんなに早く私に会いたかったのかい?」


「嫌な事はさっさと終わらせるに限る」


「ほう、言うじゃないか」


 皮肉を言っても嫌な顔一つ見せない。


「あんたは私の好みをよく分かってるねえ。そうやって強がっているやつを犯すのが私は楽しくて仕方がないのさ」


「何とでも言ってろ。さっさと終わらせるぞ」


 そうしてレイは服を脱いだ。有言実行、嫌な事は早く終わらせる。


「今日は前戯を二時間にしようかね」


「……」


「当たり前だろう? そんな軽口叩いているやつに優しくしてやるとでも思っているのかい? それとも、あんた今から私を殺すかい? すぐに全員に知れ渡って、糞尿まみれの生活になるよ。あの娘も一緒にねえ」


 何も返す言葉がない。

 完全に相手にペースを握られている。


「あんたは一生私の玩具になるか、糞尿にまみれて死ぬか、そのどちらかの選択肢しかないのさ」


 高らかにビッグママは笑った。

 もう自分の悪行を隠す気がないらしい。むしろ、こうして有利であることを主張し、レイをどん底まで叩き落そうとしている。

 もう、どうなってもいい。そんな風に思ってしまった。



 真夜中、レイは憔悴しきった状態で小屋に戻ってきた。


「おかえり、レイ」


「ああ、ただいま」


 倒れるように布団に入った。

 レイの有言実行はならず、ビッグママの有言実行となった。

 二時間どころか、その倍は時間がかかった。いつも以上に念入りに水浴びをし、歯と舌を隅々まで磨いた。

 いっそのこと、糞尿まみれになって死んでしまったら楽なのではないか。

 死ぬことが悪い事なんて誰も決めていない。マリアだって、最初出会ったときは死を受け入れようとしていた。

 ここは女性にとっては好きに出来る環境だ。レイがいなくなっても、マリアだけで生きていけるだろう。

 マリアは賢い子だ。


「レイ」


 静かに呟き、マリアは布団から出て、レイの隣に座った。

 全裸だった。


「マリア、服はどうした?」


「レイ、私を抱いて」


「はあ? 何言ってるんだ?」


 疲れた体を起こし、マリアと向き合う。

 レイがビッグママに犯されている間に、住民に洗脳でもされたのだろうか。あり得る話だ。この集落の人間ならやりかねない。

 そんな風に考えたが、そんなことはなかった。

 マリアは泣いていた。


「レイ、ごめんね……私、全然気づかなくて……あんな、あんなことされてるなんて、私、知らなくて」


「マリア……お前、見てたのか?」


「レイが、毎晩どこかに行ってるのは知ってた。だから、何か隠してるんだって、朝なんて、いきなり叫んだから、きっと何か辛いことがあったんだって、心配だったの」


 マリアは、泣きながら、切れ切れに言葉を紡ぐ。


「だから、ケイのところには行かないで、レイの後をつけたの。そしたら、話が聞こえてきて、それから、レイが酷いことされるの、見ていられなくて、私、私は……」


 マリアは泣き崩れ、レイの背中に手を回し、その胸の中で声をあげた。


「マリア……」


 マリアは、ごめんね、と何度も謝った。

 謝る必要なんて、一つもないのに。

 嘘だ。

 心のどこかで、マリアが邪魔になっていると思っている自分がいた。謝ってほしいと、自分をもっと讃えてほしいと願う自分が、心のどこかにいた。

 なんて醜い心なのか。

 こんな健気な少女を泣かせてしまった。

 賢い子だということは、分かっていたはずだ。何かを隠していることくらい、マリアにはすぐ分かっただろう。

 それでも、追及したりしなかった。

 レイを、信用していたからだ。


「マリア、ありがとう。そして、すまなかった」


 レイの目からも、自然と涙がこぼれた。


「レイ……私を抱いて。そして、少しでもあの女の事を忘れて」


「マリア、そんな、マリアを抱くなんて俺には……」


 自分よりも年下の少女。年齢を数えたことはないが、少なくとも五歳は離れている。そんな少女を抱いていいのか?


「レイ、私はね、レイだからいいんだよ。初めては、レイが良い。そこら辺の無法者に犯されるよりも、レイに初めてをあげたいの。きっと、この世が平和でも、私はレイにだったら抱かれていい」


 そう言って、マリアはレイの頬に手を当てた。


「ねえ、知ってる? レイって、格好いいんだよ?」


「マリア……」


「不器用だけど優しいところも、ようやく見せてくれた笑顔も、あなたのすべてが私は好きよ」

 だから、レイ。私を抱いて。耳元で、マリアは囁いた。


 耐えられなかった。

 その夜レイは、マリアを抱いた。



 行為が終わった。

マリアの体は、細くて、けれど柔らかみがあって、女の子らしい体だった。

当然だが、ビッグママと比べるまでもなかった。


「レイ、好きよ」


 そんなことを囁く。

 ああ、こういう時、素直になれたらいいのに。


「お、お、俺も、そう思う」


「んー? どう思うの?」


「……す」


「す?」


「……好きだ」


「ふふっ、素直でよろしい」

 そう言って、マリアはレイの額にキスをした。



「レイ、ここから逃げよう」

 マリアを抱いた夜が明け、起きるなりマリアはそう言った。


「いいのか? ここは、マリアにとっては平和と言ってもいいような場所だぞ?」


「レイが辛いのは、私にとっても辛いもの。リスクがあっても、外に出た方がいいと思う」


「そうか……」


 そこまで言ってくれるのなら、逃げる算段をたてなければならない。


「問題なのは、出口が分からないところだな」


 ビッグママが逃がす気がないと言っていたことを考えると、きっと夜に見回っている人間もいるはずだ。そうなると、壁を無理矢理よじ登るというのはあまりにリスクが高い。


「目隠しされていた時のこと、覚えてる?」


「ああ、覚えている。だから、少なくとも地下通路があるのは間違いない」

 しばらく歩いて、その後階段をおり、また上ったことを覚えている。ドアを開ける音も聞こえた。出入口なのか、地下通路内なのかは定かではないが、間違いなくドアは通るのだ。


「その地下通路に、どこから入れるのかな」


「……ビッグママは性格が悪い。とことんにな。絶対にないと思わせる場所にあるはずだ」


「絶対にないような場所……」


 レイは起き上がり、布団を避ける。ベッドの下も見たが、さすがにそこにはなかった。


「つまり、こういうような場所だ。ありそうな場所にはない。わざわざ見ないようなところにあると思う」


「私たちが見ない場所……でも、普通に考えたら、入っちゃいけないって言われてる住宅が怪しいように思うんだけど?」


「もちろん、その可能性もある。だが、基本的にこの集落は住人に対しては親切だ。出入口が分からないようにされているとはいえ、住宅に設置したら多少の危険はある。だから、住宅にはないと思う」


「そっか、なるほど。うーん、でも、そうだとするとどこにあるんだろう。調べることがなさそうな場所……」


「実は、見当はついている」


「え、どこ?」


「ケイの店だ」


「ええ? なんで?」


 驚いたように目を見開くマリア。


「そういう反応になるからだ」


「……信用できる人間だって思わせてるってこと?」


「そういうことだ。ここに来る旅人は、ほぼ必ず飯は食べるはずだ。そこに信頼できるような人間を置いておけば、そこを調べようとは思わない。ケイは、俺たちを信頼させるためにあそこに配置したんじゃないかと俺は思っている」


 住人全員が料理を出来るように教育していれば、その時来た旅人に合わせて料理人を変え、信頼させる。そうしたら、その店が疑われる可能性は低くなり、あわよくば弱みを握れる可能性まで出てくる。

 今回ケイを置いたのは、同じ年代のマリアが一緒にいたからと考えられる。


「この集落の人間は、この集落のルールを知っている。知った上でのうのうと生活している。それはケイだって例外じゃない。いい子に見えるが、裏で何をしているか分かったもんじゃない」


 やむなくここのルールに従う人間も、中にはいるのかもしれない。ただ、それは部外者には分からない、他人には分からないことだ。

 ただ殺すだけじゃなく、人間の尊厳を奪い、死んだ方がマシと思える所業を平気で実行している集落。そのルールを作り上げたビッグママを、集落のボスと認めてしまっている住民たち。

 まともではない。


「俺は今日、別の飯屋に行ってみる。マリアはケイのところに行け。無理に情報を引き出すなよ。いつも通りでいい」


「うん、分かった」


 ビッグママがすべてをさらけ出した今、住民たちは二人をより一層警戒しているはずだ。いや、面白がってどうするのかを見ているはずだ。

 怪しい動きをしたら、すぐにでも糞尿まみれにするかもしれない。

 それとも、ビッグママ以外にもおもちゃにされるのか。

 はたまた、今度はマリアがおもちゃにされるか。

 考えられることは山ほどある。慎重に動かなければならない。そのためならば、もう何日かはビッグママとの行為を我慢する必要もあるだろう。


「今日中に出よう」

 と、レイの考えに反し、マリアは言った。


「無理だ。出口はあくまで俺の予想だ。全然違う場所にある可能性だってあるんだ。それに今は相手が警戒してる。もう少し日にちを置いて、油断している時にする」


「だめよ」


「なんでだ?」


 有無を言わさない様子のマリア。こんなマリアは初めて見る。


「レイをもうビッグママに抱かせはしない」


「それくらい、俺は我慢できる」


「私は我慢できない。レイが我慢していても、私は耐えられない」


「一度失敗したら、地獄のようなところに放り込まれるんだぞ? そうなってもいいのか?」


 若干脅すような口調になってしまったが、これも二人で生き残るためだ。そう自分に言い聞かせて言ったつもりだったのだが、


「そうはならない。もし捕まりそうになったら、その時はレイを殺して私も死ぬ」


「んな!」


 大胆すぎる。極端すぎる。

 人のためなら死んでもいいとか言ってたあの頃のマリアはどこへいった?


「レイのために殺し、レイのために死ぬ。人のために変わりはないわ」


「……」


 ぽかんとした顔でマリアを見つめるレイ。

 賢い子。そう思っていたし、実際そうなのだが、今回のマリアは少し違う。

 その目には、怒りが宿っている。恋人でも殺されたのかと思うような、憎悪に満ち溢れた目をしている。


「マリア、そんな目をするな」


 マリアは聖人君子なんかじゃない。

 ただ人より、我慢できるだけだ。人より少し優しいだけだ。

 普段ため込んでいたら、爆発した時の威力はすさまじい。

 ただいま爆発中というわけだ。

 これは、止められそうもない。



 日中、レイはマリアとは別の食事処に行った。レイの予想は合っていたようで、やはり若い女性が店番をしていた。もう一カ所も外から覗くと、若干年上ではあるものの、容姿が整っており、マリアと話しが合いそうな女性だった。

 この三カ所のどこかに出口があるかもしれない。ただ、昼間は調べようがない。料理は客の見える場所で作るからだ。いつまでも店にいるのも怪しまれる。

 結局調べるのは夜となった。

 夜の見張りがどこにいるのかは分かっている。基本的に外壁から外を見張っているだけで、中の住民はほぼ無警戒だ。ビッグママがレイにこの集落の秘密をばらしたことで、警戒が強まるのではないかと心配していたが、そんなことはなかった。

 出口が見つからないという自信があるのだろう。


「普段は、一時間後くらいにビッグママのところに行っている。だから、それまでに出口が見つからなかったら、俺はビッグママのところへ行く」


「それは……」


「そのくらいは許せ。一時間以内に見つけることが出来れば問題ない」


「じゃあ、二手に分かれた方がいい?」


「危険だからダメだ。マリアがとかじゃなく、お互いにだ。必ず二人で行動する、いいな?」


 本当は、マリアが危ないからという理由ではあるが、そう言ってしまうとマリアは大丈夫だと言うだろう。

 それは困る。

 マリアはおそらく、隠れたり逃げたりすることに慣れてはいない。たとえ足が速いとしても、逃げ慣れていなければすぐに捕まってしまう。

 隠れることだって得意ではないはずだ。だから出会ったとき、ああして無法者に捕まっていたのだろう。


「分かった。離れないようにするね」


 マリアはレイの言葉を疑うことなく受け入れた。少しは冷静になってくれたようだ。


「まずはケイの店だ」


 この時間帯、酒場以外の店は全て閉まっている。昨日まで街灯はほぼついていなかったが、今日は所々ついているところもある。多少警戒はしているということか。

 だが、その程度ではあまり意味がない。結局暗いことに変わりはなく、店も閉まりその灯りすらないのは、忍ぶのにはもってこいの環境だ。

 ケイの店のドアは閉まっていた。それは当然想定済みであり、マリアにトイレの窓の鍵を開けてもらっている。そして、その鍵はそのままだったようで、二人は簡単に中に入ることが出来た。

 普段ケイが料理をしている足元や、その奥の部屋、食材の入った箱の下など、隅から隅まで探したが、ケイの店には出口らしきものは見当たらなかった。

 そのことにほっとした様子のマリアだったが、レイはそうはならなかった。

 出口を探している間に、別の物を発見してしまった。

 それは、明らかに調理道具ではなかった。禍々しい見た目をしているそれ、いや、それらは、人を痛めつけるためだけにあるようにしか思えないような物だった。

 何故そんなものがあったのかは分からない。それをケイが使っていたのか、他の誰かが使っていたのかなんて分からないし、分かりたくもない。

 マリアには言わなかった。言っても傷つけるだけだ。

 次の店へと向かった。次の店はレイが日中に行っていた場所だ。こちらも例によって窓を開けていたため、簡単に入ることが出来た。

 もしもここで出口が見つからなければ、調査は明日以降となる。もう一つの店は鍵を開けたりはしていない。入るとしたら鍵を無理矢理こじ開けないと入ることは出来ない。そんな危険を冒すわけにはいかない。


「……あった」

 と、マリアが小さくつぶやいた。


 マリアの視線の先には、避けられたマットと、マットの下に隠れていたであろう、下に通じる扉があった。

 ようやく運が回ってきたらしい。



 扉には鍵がかかっていたが、木製だったため、あまり時間もかからず壊すことが出来た。扉の向こうは真っ暗で何も見えなかったため、レイは滅多に使わない懐中電灯を使った。マリアもそれにならい、懐中電灯を鞄から出した。

 地下空間は想像以上に広かった。目隠しした人間を二人連れて歩けるのだから、それなりの広さではあると思っていたが、これなら五人横一列に並んでも余裕がある。

 そして、所々に扉がある。その扉がどこに続いているのかは分からない。倉庫にでもなっているのかもしれない。

 ただ、少なくとも出口はまだ先のはずだ。こんなに短い距離ではなかった。

 所々に電球はあるものの、灯りがついているものは全くない。出入りの時にしか使わないのだから、集落内以上に明かりが必要ないのだろう。


「何か、来た時よりじめじめしているように感じるのは気のせい?」


「気のせいだ」


 見た目がじめじめしているから、そう感じるのかもしれない。はっきり言って、この空間に清潔さは感じられない。物が壁側に寄せられ、乱雑に積まれている。地面は舗装されているわけではなく土のまま。

 そして、なんとなくだが、臭う。


「レイ、今声が聞こえなかった?」


「声?」


 マリアに言われ耳を澄ます。

 追手が来たのかと思ったが、よくよく聞いてみると、何かがうめくような声が聞こえる。


「もしかして、誰か他にも捕まっている人がいるんじゃない?」


「……そうだろうな」


 マリアには、この集落の一通りの事を話してある。この集落のルールに逆らった人間がどうなるのかも教えてある。

 ここでうめき声が聞こえたという事は、恐らく逆らった人間だ。


「今なら助けられるんじゃない? 追手もいないよ?」


「ダメだ」

 レイは即答した。


 追手は来ていないように見えるが、いつ来るのかなんて分かったものではない。

 そして何より、捕まった人間がどうなっているのか、どう変わり果てているのかが、レイには想像がついていた。


「きっと通り道、この扉のどこかにいるはずだもん。片っ端で開けながら進む、いいでしょう?」


「……ダメだ」


 変わり果てた人間を見た時のマリアの反応も想像できる。だから、尚更ダメだ。

 レイは無言で前に進んだ。マリアは納得いかない様子のまま、レイの後についていく。


「ねえ、レイ。声がだんだん近くなっているように思うわ。やっぱり、ここら辺から調べて行かない?」


「ダメだ。絶対にな」


「どうして? なんでダメなの? ただ扉を開けていくだけだよ?」


「ダメなんだ。どうしてもな」


「じゃあ、私が勝手にやる!」


 そういうや否や、マリアは走り出し、前にあった扉を開けようとした。

 だが、鍵がかかっていた。

 鍵がかかっていると分かると、また次の扉を開けようとする。そこもまた鍵がかかっている。


「マリア、やめるんだ」


 大声を出せばばれる可能性がある。レイは静かに呼び止めたが、当然マリアが止まる気配はなかった。


 そして、だんだんと奥に進み、また別の扉を開けようとした時、

「うぅ……」

 と、中から声が聞こえた。


「誰か、そこにいるの?」

 マリアは扉に向かって声をかける。


「待ってて、今開けるから」

 そう言って、マリアは扉に体当たりした。


 レイは無言でそれを止めた。


「離して、レイ」


 暴れるが、さすがにレイの方が力が強い。


「こんな扉すぐ壊せるでしょう? この人だけでも、助けて――」


 と、そこまで言ったところで、扉の奥から、

「あああああああ! 食わせろ! なんでもいい、クソじゃなけりゃあなんでもいい、ゲロでいい! この前くれただろう! 食わせろ! ゲロを出せ! そうじゃねえなら早く殺せ! 殺せ! 殺してくれえええええ!」


 絶叫と、鎖の音が混じり合い、不快な音を生じさせる。


「い、今助けてあげるから、待ってて」


「殺せ! 殺せ! 殺せ!」


 マリアの声など聞こえていないかのように、男は同じ単語を叫び続ける。

 マリアは震えた手を宙にさまよわせ、さっきまでの威勢はどこかに消えてしまったかのようにそこで立ちすくんでしまっている。

 レイは、有無を言わさずマリアを抱き上げ、前に進んだ。

 マリアの抵抗はなかった。震える体から、マリアの恐怖だけが感じられた。

 あれが果ての人間の姿。形は見えずとも、その先にある者が見えた。

 限界を超えた人間は、もう人間ではない。



 出口はあっけなく見つかった。ただ前に進んでいたら階段が見え、その先にまた木製の扉があった。例によって鍵がかかっていたので、壊してやった。

 鍵どころか、扉もボロボロにして開けっ放しの状態で出て行ってやった。

 もちろん、あの男があれだけ叫んでいたのだから、追手が来るのは間違いなかったので、扉を破壊した後はすぐにそこから離れた。

 マリアは、外に出た後は自分で歩いていた。

 追手が来ない場所までくると、二人は適当な民家に入り休んでいた。


「マリア、大丈夫か?」


「……分かっていたはずだったんだけどなあ」


「マリアの集落は、ああいうことはなかったんだな」


「私のところも、誰かを追放したり、殺さなきゃいけない時はあったよ。ただ、あんな風に、自分を殺せって言ってるような人っていうか、本当に狂っちゃった人を見たのは、初めてだったかもしれない」


 ただ真っすぐに人を殺してくる人間。

 自分の喜びのために人を殺す人間。

 人を性奴隷にして弄ぶ人間。

 色々な人間がいるが、自分に害はないというのに、ああやって人間の尊厳が奪われた者が、見ていて一番気持ちが悪い。


「マリア、この世界で人を救うことは考えるな。また同じ目に合うだけだ」


「でも、レイは私を救ってくれたわ」


「それは……」


 あの時は、救おうとして救ったわけではない。自分の私利私欲のための行動が、たまたまマリアを無法者から助けることだった。


「あの時だけじゃない。レイはそれからだって、私にご飯を食べさせてくれた。私を気遣って集落の事を隠していてくれていた。レイは十分すぎるくらいに、私の事を救ってくれている」


 救っているつもりなんてない。

 とは、もう言えない。

 この子を守りたいと、今はそう思っている。

 変わってしまった自分を受け入れるべきなのか。

 それとも、前の方が生存確率は高いと現実を見るべきなのか。レイはまだ迷っていた。

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