第20話 最後の敵
呪いの叫び声をあげた僕には巨大な敵との対決が待っていた。
しかも地下7階で戦っていればやつと1対1で戦えていたわけだが、階を上がってしまった今では地下6階の敵たちも同時に相手取らなければならない。
どうする? どうすることもできない。
しかし僕は自分の決断に伴う結果を甘んじて受け入れ対処すると決めたのだ。精一杯色々考え対応していくほかにない。
とりあえず敵の配置を把握しようと僕は思った。アイテムもできれば拾いたいところだが、贅沢を言ってはいられない。
階段の存在に気づいた。上り階段だ。さらに逃げることもできるらしい。
それは僕にとって好都合だ。より上の階に向かうことができれば、この龍との対決は避けられないにしても、ほかの敵たちが弱くなっていく筈である。相対的に難度が下がる。
そこに思考が至った自分を褒めてやりたい。僕は主との位置関係、階段の場所、ほかの敵の動向に注意を払い、十分階段に達することが可能であると判断すると、炎を浴びないよう注意深く“軸”をずらして階段を上っていった。
地下5階。
僕の右手にはバールのようなもの、左手にはステンレスシールドが握られている。
地下6階と同様だ。今のところ何の変哲もないように見えるが、おそらく樹海の主に追われることになるのだろう。僕の希望としてはなんとか地下4階まで上りたかった。それが許されれば配置される敵からディディエが排除され、対決がぐっと楽になる筈なのだ。
僕が注意深く歩みを進めると、思った通り壁面に亀裂が入っていき、間もなく壁が倒壊しだした。
大部屋となった地下5階にはやはり巨大な龍が待っている。僕は階段の存在に注意を払い、その位置情報を把握する。
わかった。上り階段は存在する。ただし、僕にとって不都合なことに、それは樹海の主の背後にだった。
ほかの敵ももちろんいる。全部で10体程度だろうか。大部屋になった地下5階にいる敵は全員一斉に僕に向かってくることだろう。
正念場だな、と僕は思った。相手の情報、僕の所持品、使えるものをすべて考え、僕はベストを尽くす必要がある。大きくひとつ息を吐き、「いくぞ」と自分に呟いた。
“行動”1回分の距離を進み、僕は龍のぬいぐるみに近づいた。あちらも同様に接近してくる。僕らの位置の“軸”が合い、遠距離攻撃が可能な形になった。
「くらえ!」
僕は袋の中から杖を取り出し、主に向かって投げつけた。使用回数がゼロになった『眠りの杖』である。杖の投擲を食らった巨大なぬいぐるみは動きが止まり、大部屋にいるほかの敵たちが“行動”1回分僕に近づく。遠くの方からニーニョが放った木の矢が僕の左腕に突き立った。
注意深く観察したが、杖は確かに効いたようだ。何らかの干渉を受けない限り、龍はこちらに向かって来ないことだろう。僕は安堵の息を吐く。ほかの敵の位置関係を考え、不要な攻撃を受けないように、注意深く階段へ向かって歩く。途中で拾える位置にあった『エヌセイド』を拾っておいた。
杖の魔力に凍りついた龍の脇をくぐるようにして抜けていく。ヒヤヒヤもののミッションだったが何とか切り抜けられたようである。そう思って何気なく階段に向かって進んでいると、ちょうど僕と主を結ぶ直線の延長上に移動してきたニーニョが僕に向かって木の矢を放ったのが僕にはわかった。
ぐさり、と矢の刺さる音。僕にではない。巨大な龍のぬいぐるみにだ。おそるおそる振り返って様子を見ると、どうやら彼は動作を再開したようだった。
「マジか」僕は呟いた。
彼の怒りが僕に向いていることがその体の向きから察せられる。
「一応言っておくけど、今君に危害を加えたのは僕ではなくて、君の背後の坊やだよ」
僕はそのように伝えてみたが、何も変わりはしなかった。
巨大な龍のぬいぐるみは依然として僕に視線を向けており、明らかな害意が見て取れる。判断に迷わず済むためありがたいといえばありがたいが、それを歓迎するのは難しい。
幸いなことに僕は階段側に通り抜けることに成功しており、注意深く進路を取れば上り階段に至れることだろうと思われた。実はひとつ懸念が残ってはいるのだが、生命の危機には晒されないだろうから試してみるよりほかにない。
僕は“軸”をずらして炎を吐かれないようにするためジグザグに階段に向かって歩いた。巨大な龍のぬいぐるみ、そして弓を持った子どものようなぬいぐるみの順で僕の後ろを付いてくる。事情を知らない者からしたら可愛らしく見えても不思議ではないが、僕は必死だ。
やがて階段の近くに達した。あと“行動”1回分まっすぐ進めば階段を上ることができる。
そう、“まっすぐ”進めばだ。つまり僕は最後の1歩を“軸”をずらさず進む必要がある。彼らの“行動”と階段の処理はどちらが優先されるのだろう? 場合によっては僕は炎を1回吐かれることを覚悟しなければならない。
僕は左手に握っているのが『ステンレスシールド』であることを確認し、覚悟を決めて足を進める。
その瞬間、背後に熱が迫るのを感じた。
『ジュカイノヌシは炎を吐いた! ケイタに10ポイントのダメージ!』
そんな感じだ。
続いて放たれた矢がどこかに突き刺さる音。僕はそれらに構わず階段を上った。
地下4階。僕の右手にはバールのようなもの、左手にはステンレスシールドが握られている。
炎を吐かれてしまったが、想定内の出来事だ。これで僕は合計2回の炎を吐かれ、ニーニョの放った木の矢を1度突き刺されている。条件によってはさらに上階を目指すが、僕の考えた戦略の十分条件は既に達成されており、どちらでも構わないと思っていた。
いずれにせよ、部屋の壁に守られた今のうちにこの残存ダメージを処理した方が良いだろう。僕は袋の中から『エヌセイド』を取り出し、飲んだ。“体力”がほぼ上限まで回復し、“満腹度”も5%ほど回復する。
今まで確認する余裕もなかったけれど、なかなかの空腹を感じてきていた。今いるのが地下4階であることを頭に浮かべ、最後の敵と思われる龍のぬいぐるみと今から戦うことをふまえると、『大きい肉まん』を食べておくべきだろうと考えた。
僕がこれから食べる肉まんは今回の挑戦時に由紀から貰った肉まんだ。同じアイテムの由来に貴賎はないかもしれないけれど、僕には心理的にプラスに働く。
よく噛み、嚥下する。僕の“満腹度”が上限まで回復した。
ピシリと壁に亀裂が入り、まもなく倒壊していくことを僕に知らせる。僕は大きくひとつ息を吐く。
ここであの龍と戦う。遠距離での攻防を行うつもりはないため、僕は左手に握る防具を『タングステンシールド』へ持ち替えた。接近戦なら単純な防御力の方が大切だろう。
良い気づきであるように思われた。気持ちを落ち着けられているように思いながらも実はプレッシャーに押しつぶされており、後になって気づく簡単な事実に気が回らない、という経験が僕には何度もあるけれど、今はそうではないのだろう。
僕は冷静だ。来るなら来い。倒壊していく壁を眺め、僕は龍と階段、ほかの敵の配置を吟味した。
上れる。先ほどのように炎を吐かれる位置でもない。僕はそう判断し、注意深く“軸”をずらしながら移動すると、階段をゆっくり上った。
地下3階。
僕の右手にはバールのようなもの、左手にはタングステンシールドが握られている。
上った先の部屋に階段があった。良い流れが来てるのだろうか。おまけに草のようなものが落ちていた。拾えば『オピオイド』というアイテムで、“体力”を全快してくれるものであることがわかる。
これで僕はふたつの『エヌセイド』に加えて『オピオイド』を持っているわけだ。回復手段は充実していると言えるだろう。その状況に満足しながら階段に進む。壁が倒壊する前にそれを上った。
地下2階。
僕の右手にはバールのようなもの、左手にはタングステンシールドが握られている。
さすがに幸運が2度は続かなかった。しかし十分な低層階だ。地下1階と地下2階で出てくる敵に違いはない。出てくるのはチーズのようなモッツァレラと棍棒を持ったコットンだ。
そして場違いな樹海の主。巨大な龍のぬいぐるみで、おそらくこれまで戦った中で最強の敵なのだろう。
ひょっとしたらテンチョウよりも強いのだろうか?
ふとそんなことを考えてしまったが、もしそうであればとても勝てそうにないな、と同時に思った。首を振ってその考えを否定する。今臆病風に吹かれることに意味はない。
「目の前だけを見て考える。僕に勝てない強さなら、それはもうしょうがないことじゃないか」
自分に言い聞かせるようにそう呟きながら足踏みすると、部屋の壁に亀裂が走っていった。僕は背伸びで体をほぐしてそれを待つ。
地下2階が巨大なひとつの部屋となり、僕は目の前に階段が出現しているのに気づいた。どうやら上った隣の部屋にあったらしい。
「これは」と僕は考える。
この階段を上ったとしよう。もう1度だけ幸運が続くか、もしくは攻撃に耐えながら階段に強行すれば、最強の敵と戦わずにクリアができるのではないだろうか?
そんなに甘くはないだろう。そう思う気持ちはあるけれど、事実としてそこに階段があり、僕は『樹海』のルールの中であらゆる選択肢を選ぶ権利を有しているのだ。
少し考えたが、結局僕は階段を上ることにした。
「どうなるか見てみよう」
実際のところ、どうなるかに興味もあったのだった。
○○○
地下1階。
僕の右手にはバールのようなものが、左手にはタングステンシールドが握られている。
上った先にはコットンがいた。大部屋になるまでの暇つぶしに僕は近寄り、右手を振ってやっつける。僕のレベルも装備もこの階の敵にはオーバースペックだ。問題なくコットンは光の粒子となって消えていく。
そのまま何度か足踏みすると、やがて壁に亀裂が走っていった。大部屋化する前触れだ。
階段の位置はどうなっているだろう。仮に樹海の主の背後に現れたとしても、どちらかというと常識的な強さをしている攻撃を無視して突っ切ることは可能だろう。おそらく2度か3度の攻撃に耐えれば押し通ることができるのだ。
壁が音を立てて崩壊し、地下1階が大部屋となる。龍を模したような巨大なぬいぐるみと一緒に地下1階のモンスターたちがポヨポヨその場で動いている。合計10体に満たない程度だ。僕に危害を加えることはできないが、障害物として存在することはできるかもしれない。
階段が見当たらないことに僕は気づいた。
「まさか」自然と呟きが漏れる。
訓練された僕が動揺から無駄な“行動”をとることはなかったが、それでも静かに驚いた。何度確認しても階段はない。
炎を吐きかけられない位置関係であることを確認して“行動”1回分移動してみる。それに伴いすべての敵が僕に向かって移動したが、やはり階段はなさそうだ。モンスターと重なって認識できなかったわけではない。
つまり、僕はこのまま逃げることはできないわけである。
ひとつの可能性として想定はしていたが、僕の期待は実のところ裏切られた。勝手に期待をしていた僕が悪いと言われたら言い返しようがないのだが。
大きくひとつ息を吐く。しかたない。僕は自分の持っている道具を改めて確認し、右手と左手の装備を改めて確認した。白兵戦用に『タングステンシールド』に持ち替え済みだ。炎を吐かれないように振舞うとして、“軸”が合うまでに僕にはまだ“行動”1回分の時間の猶予が残されている。
計算通りだ。期待は裏切られてしまったが、想定の範囲内のことである。僕は冷静に袋のようなものから『爆発の巻物』を取り出すと、巻物を広げて天に掲げた。
巻物の類はアイテムとしてそれほど十分作りこまれておらず、魔法の詠唱じみた朗読は必要ない。広げればそれで効果が発現する。僕のもつ『爆発の巻物』の効果は部屋内すべての敵へのダメージ付加だ。10-15ポイントずつとやや幅があり、それほど強力ではないけれど、この階層の敵に使うには十分すぎる威力となる。
大部屋となっている地下1階に爆発音が鳴り響き、10体に満たない程度の頭数をしたモッツァレラやコットンが次々に光の粒子となって消えていく。樹海の主にも挨拶程度のダメージが与えられ、僕からの宣戦布告のメッセージと受け取ってもらえることだろう。
巨大な龍のぬいぐるみは僕に近寄り、やがて僕らは隣接し合った。1対1の状態だ。
「またせたな」
芝居がかった口調で僕は言う。落ち着きと平静さを保つためのものである。返答は必要ない。階段が見つからなかった当初は動揺もしたものだったが、僕は覚悟を決められていた。こいつに勝てるかどうかはわからないが、死ぬこと自体には慣れていてそれほどの恐怖を感じない。僕が恐怖するのはこいつに殺されてしまった場合、由紀のことを解放させられず、次の挑戦権が与えられないかもしれないことだけだ。
僕は僕なりに精一杯色々考え、決断してきた。今こそその結果を知るときだ。人事を尽くして天命を待つといった心境だろうか、僕は開き直りに近い状態になっていた。
「いくぞ!」
僕は自分とぬいぐるみに向かってそう叫び、『バールのようなもの』を握る右手を強く振った。
『ケイタの攻撃! ジュカイノヌシに23ポイントのダメージ!』
『ジュカイノヌシの攻撃! ケイタに18ポイントのダメージ!』
そんな感じだ。
樹海の主は当然反撃してきた。18ポイント分の苦痛が僕を蝕む。その攻撃はやはり強く、僕は白兵戦を見越して『タングステンシールド』に盾を持ち替えていた自分を褒めてやりたい気持ちになった。
しかし次の瞬間、僕は白兵戦を見越して『タングステンシールド』に盾を持ち替えていた自分を怒鳴りつけたい気持ちになった。なんとこの龍のぬいぐるみは、隣接しているにも関わらず遠距離攻撃の手段であるべき炎を僕に向かって吐いてきたのだ!
『ケイタの攻撃! ジュカイノヌシに23ポイントのダメージ!』
『ジュカイノヌシは炎を吐いた! ケイタに20ポイントのダメージ!』
そんな感じだ。
「あちちち! 殴られるよりもこっちの方が痛い!」
炎を浴びせられる中そう叫ぶ。僕の身を20ポイントのダメージで焦がした炎はじきに消えた。先ほど『ステンレスシールド』を装備していたときは10ポイントのダメージだった筈だから、効能によって炎のダメージは半減された計算になる。
『タングステンシールド』に持ち替えていることによってどれだけの近接攻撃のダメージが軽減されているのかわからないが、これまでの経験上10ポイント以上の効果があるかというと、かなり微妙なところである。記憶違いでなければその効果は8ポイントかそこらであったように覚えているのだ。
つまり、打撃と炎の2種類の攻撃手段を持つこの龍から受けるダメージは、期待値計算上『ステンレスシールド』を装備していた方が軽減されるのだ。
しかし隣接しているこの状態で、今更装備を変更するのは愚策だろう。確実に1回余分に攻撃を受けることになるからだ。
うろ覚えの仮説の検証を行う余裕はない。僕は再び覚悟を決めた。巨大な龍のぬいぐるみを殴り、殴り返され、時には炎を吐かれたりもする。
何度かそれを繰り返し、僕はすっかり“体力”が減ってきていた。
「これは、本当に勝てるんだろうか?」僕は小さく呟いた。
回復手段は持っている。『エヌセイド』と『オピオイド』がひとつずつだ。しかし『エヌセイド』の回復量は30ポイント分であるため、この敵の攻撃力と、使用したターンにも攻撃を食らうことを考えるとほとんど意味がないように思われた。
『オピオイド』は“体力”を完全に回復させてくれる。しかし単純にもう1セット殴り合いをやりつづけたとして、この巨大な龍に勝てるのだろうか? 僕の今持つ武器防具はかなりの強さであるが、保証してくれるものは何もない。
殴り合いをはじめることはいつでもできる。大きくひとつ息を吐き、僕は今一度自分の今の状況と、持ち物や装備を確認した。
そして思い出した。僕は『失明草』を持っている。何度か失明状態が原因となって死んだ経験を持つ僕にとってはトラウマ度の比較的高いアイテムだ。そのトラウマのようなものが僕にこのアイテムの存在を忘れさせていたのだろうか?
「いや」と僕は考えた。そうではない。これまでこのアイテムを飢え死にしかけた場合に自分で飲む以外の方法で使ったことがないからだ。
経験の浅さが僕の目を節穴にしていたわけだ。嘆かわしい限りであるが、このアイテムの存在に気づけたことで自分を許してあげようと思う。何故なら僕は同時に今持つ『ハバネロ草』などの使用経験から、この草も敵に投げつけた場合に何らかの効果を発現するであろうことが想像できるからである。
経験と知識は僕の節穴の目を開く。僕は袋のようなものから『失明草』を取り出し、龍のぬいぐるみに向かって投げつけた。
投げた草が確かに命中したのがわかる。これで僕の“行動”は終わり、あちらの“行動”を待つことになる。僕は祈るような気持ちで樹海の主を見守った。
その巨大な龍のぬいぐるみは、これまで僕を殴ってきたのと同じ動作で誰もいない空間に向かってその大きな首を空振りした。僕は自分の目論見が奏功した結果に口元が緩むのを実感した。
『ケイタの攻撃! ジュカイノヌシに23ポイントのダメージ!』
彼の攻撃は当たらない。
『ケイタの攻撃! ジュカイノヌシに23ポイントのダメージ!』
彼の炎は当たらない。
僕はそうして一方的に樹海の主を殴り続けた。いや、一方的ではなかった。視界を失った龍のぬいぐるみはランダムな方向に攻撃を行うようであり、たまたまその方向が僕のいる場所に一致した場合は僕はダメージを食らうのだった。
「いたた。ここから死んだらシャレにならないな」
自虐的にそう言い笑うと、僕は『オピオイド』を使って“体力”を満タンにした。そして樹海の主を殴る作業を再開する。
僕はこの『樹海』の挑戦の終わりのようなものを感じてきていた。決められた動作なのだろう、そんな方向に僕がいる筈がない真反対側に炎を吐く龍のぬいぐるみを眺めていると、自然とそう思われる。
僕が彼ならそうはしない。まず装備状況から炎を吐く方が与えるダメージが多い以上、回数制限でもあるのでなければ近接攻撃などしないし、アイテムによって視界を奪われたとしても、まずはそれまで僕がいた場所に向かって攻撃する。
それが外れて移動したことを悟った場合に、理論上あり得る角度に攻撃すれば良い。それが彼にとっての正しい振る舞いであり、それができない以上、彼に生きる資格はないのだ。
僕は何度目かの攻撃を加える。これまでと違った感触。樹海の主の一部が光の粒子となって崩れだしていることに気がついた。
『ケイタの攻撃! ジュカイノヌシに23ポイントのダメージ! ジュカイノヌシをやっつけた!』
遠くでファンファーレの鳴る音がする。どうやらレベルが上がったらしい。大きくひとつ息を吐き、僕はその音色を自分への祝福であると素直に解釈した。
かつて龍のぬいぐるみが立っていた場所に上り階段が出現している。僕はゆっくりとその階段に向かって歩き、1段1段を噛み締めるように上っていった。
○○○
はじめて『樹海』にやってきた時のことを僕は思い出していた。
バスに揺られてやってきた僕は気づけば草原の中にいた。360度、見渡す限りの草原だ。バスに乗っていた筈だがその車体はどこにもなかった。アスファルトの道路もなければ車を乗り入れたような痕跡もない。
こうして上り階段から戻った場合も同様だ。見渡す限りの草原の中、僕はひとり立っていた。
穏やかな風が吹いている。背の高い草がわずかに揺られ、かすかな音が耳に聞こえる。僕がそれまで上ってきた階段はどこにも見当たらない。
そして、門番のような役目をしているいつもの女の子が、気づけば目の前に立っていた。ふわふわとした金髪にノースリーブの赤いワンピース。グラディエーターサンダルに包まれた足元は草原の中でよく見えない。
白河由紀だ。彼女はとても優しい目で帰ってきた僕を見つめている。
「おかえりなさい」と由紀は言った。
「ただいま」と僕は返す。
これから由紀と僕との間で役目の引継ぎのようなことがあるのだろうか。できれば最後に少し由紀と話せる時間がもらえたらありがたい。
そんなことを僕が考えていると、「それじゃ、はじめましょうか」と由紀は呟くようにして言った。
僕がそれに頷くと、彼女は片手を高く挙げた。そして空気をかき混ぜるようにその白い腕を大きく回すと、気流が発生していくのがわかる。
洗濯機の中の洗浄層のように、由紀を中心に空間が渦を巻いてかき混ぜられる。景色の変化が落ち着くと、背の高い草が穏やかな風になびく草原の中、広場のように整備された一角に僕たちふたりは少し離れて立っていた。
「この距離は――」と僕は思う。
“行動”6回分の距離だ。
草原。
僕の右手にはバールのようなものが、左手にはタングステンシールドが握られている。
由紀の右手にはバールのようなものが、左手にはタングステンシールドが握られている。
「なんだこれ! どういうことだ!?」
僕が由紀に向かってそう叫ぶ。彼女は変わらず優しい眼差しを僕に向けていた。
「わからない? いいえ啓太は知ってる筈よ」と由紀は言う。「死ぬよりほかに、『樹海』から出る手段はないの」
あんたはあたしを解放してくれるのかしら。呟くような由紀の言葉が、僕の耳にはっきりと聞こえた。
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