第16話 理論と実践
『ぶどうが丘公園』でのサッカー遊びは楽しかった。てっきりサッカーボールという遊具で長時間3人で遊ぶのは難しいと思っていたのだが、結局僕らは夕方ごろまで遊び続けた。
陽がずいぶんと傾いていた。間もなく沈むことだろう。僕の体は疲労困憊しており、
「こんな時間まで取ってたんだ? よくサッカーでもつと思ったな」
帰る段になって時間をはじめて気にした僕は、帰り支度をしながらそう言った。昂は当然な顔で「サッカーは面白いからな」と僕に言う。
「まあでもよく遊んだものね。ヘトヘトなんじゃない?」
「死んじゃいそうだよ」と僕は言った。「明日は絶対筋肉痛だ」
「飯は食えるか? 疲れ果てて喉を通らないんでなければ『マカロニ』に寄って行こう」
「あいにく、僕にとって死にそうかどうかと空腹感は別問題なんだ。行こうじゃないか」
「いいわねえ」と由紀は言った。
そして僕たちは『マカロニ』に押しかけた。僕ら3人が揃って来店するのがはじめてだったからだろうか、店長の西片さんは少し驚いた顔をした。すぐにプロフェッショナルなポーカーフェイスに切り替え、「いらっしゃい」と僕らにテーブル席を与えてくれた。
カウンターには河相さんが座っていた。目が合い、僕はペコリと挨拶をする。昂が深々と礼をしているのに気がついた。
「どうしたんだよ」不思議に思った僕は訊く。
「この人は雑誌の記者さんだ。俺はお世話になったことがある」
「ふうん。カッコイイお姉さんね」
「だろ」
何故か誇らしげに胸を張る昂を由紀は鼻で笑い飛ばした。「それより、今日のオススメは何かしら」
「それはメニューを見るまでもないね」
僕は笑ってそう言った。店内にはカレーの匂いが漂っている。「今日はカレーだ。ほかのものを食べる必要はない」
「僕はまた、てっきりカレーを作る日を当てられる超能力でも獲得したのかと思ったよ」
西片さんは肩をすくめてそう言った。
○○○
草原。
僕の両手は空いている。
「――とまあ、そんな次第で、今日のお土産は『マカロニ』のカレーだ」
僕はそう言い、『樹海』の由紀にタッパーに入ったカレーを渡した。由紀はとても喜んだ。
このように、僕はちょくちょく外の世界からのお土産を由紀に持ってくるようになっていた。その都度世界を作り替えるのが面倒なのか、今ではこの草原に小さな小屋のようなものが建てられており、お土産を持ってきた僕はそこでしばらく彼女と時間を共にする。とても楽しいひと時だ。
小屋の中には簡単なキッチンのようなものと、机と椅子が設置されている。少し離れたところには暖炉とソファとロッキングチェア。ゆらゆらと揺れて過ごせる椅子の脇に置かれたサイドテーブルには新聞のようなものが置かれており、遠目からでも僕がかつて与えたものであることがわかる。
暖炉の暖かさを嬉しく思うためだろうか、小屋の室内は低めに設定されている。穏やかな風が吹く草原から室内に入ると軽く身震いが生じるほどだ。
ワンピース姿の由紀は寒くないのだろうかと思っていると、暖炉に火が灯っているのに気がついた。パチパチと薪が爆ぜる音と共に優しい暖かさが僕らに届く。
「暖炉の前に絨毯って、火事になったりしないの?」
「実際はどうなのかしら? この中ではあたしが意図しない火災は発生しないわ」
由紀はそう言いながらスープ皿にご飯をよそい、カレーを鍋に移して火を点けた。
西片さんのカレーの匂いが部屋に漂う。先ほど食べてきたにも関わらず、僕は期待に胸が高鳴る。高鳴りの原因はカレーの旨さと、その旨いカレーを食べた瞬間の由紀の表情の変化である。美味しいものを口に入れると、由紀はとても可愛く笑うのだ。
僕と河相さんの愛するカレーは当然由紀のお眼鏡にかなった。彼女はとても魅力的な表情でカレーを平らげ、それを眺める僕はとても満たされた気持ちになる。旨い食事のもたらす絶対的な幸福感に僕たちはふたりで浸っていた。
「その荷物は何?」
食後のお茶を飲みながら、由紀は僕にそう訊いた。視線の先にはスポーツバッグ。『ぶどうが丘公園』で着ていた運動着が入っている。
「これ? 着替えだよ。さっきまで遊んでたんだ。由紀と、それから昂とね」
「あら、あんたたち3人で遊んだりするの? 昂には一緒に遊ぶような友達っていなかったと思うけど」
「そういえばそうだな、昂の友達ってあんまり思い浮かばない。僕もあんなのはじめてだったし。昂は人気者なのに、不思議なことだね」
「人気者だからじゃない? あいつの立場って特殊だから、かえって友達って距離感の関係を作るのが難しくなるのかも」
「そうかもしれない」と僕は言った。
プロのサッカー選手である昂が高校に未だ通っているのが僕には少し不思議だったのだ。サッカー選手の人生に学校で習う知識や学歴が必要だとは思えない。しかし、とても特殊な人生を歩む彼からすると、むしろ学校生活は数少ない“普通”を味わえる貴重な時間なのかもしれない。
有名人のみが味わう孤独感。それはいったいどんな気持ちになるものだろう?
「どうしたの? しんみりしちゃって」
「昂のことを考えていた。もう少し優しく接してやるべきなのかもしれない。でも」
「でも?」
「でも、きっとできないだろうな、って考えてた」
「なにそれ」と由紀は笑った。
僕はそれに答えずスポーツバッグを小さく撫でた。昂はおそらくドリブルも得意なテクニックに優れたサッカー選手で、その未来も明るいことだろう。由紀という可愛い恋人もいる。
いずれも僕にはないものだ。そして僕自身もコンプレックスを自覚しながら接するうちに、おそらく昂のことを気に入り出している。彼を嫌う要素はどこにもないのだ。
僕は由紀をしばらく見つめた。いつも通りのふんわりとした金髪に赤いワンピース。白い腕がノースリーブの肩口から伸びている。向かって右側で燃えている暖炉が由紀の左半身をぼんやり照らす。白くすべらかなキャンバスにオレンジと黄色で描いたような色彩だ。
炎の揺らめきに従ってその色合いは絶えずわずかに変化するため、いつまで見ていても飽きることはないだろうと僕は思った。
この小屋のような空間にいるのは僕と由紀のふたりだけだ。そもそも『樹海』内での出来事であり、昂に知られることはない。
もし今僕がこの手を伸ばして由紀に触れようとしたとして、彼女はそれを拒むだろうか?
僕は自分の右手を見つめ、指先を何度か擦り合わせた。大きくひとつ息を吐く。そしてその手をわずかに伸ばし、由紀の煎れてくれたお茶のカップを持つと、それを静かに口に運んだ。
「そろそろ行くよ」僕は呟くように言う。
「いってらっしゃい」
由紀は微笑みを浮かべてそう言った。
○○○
地下1階。
僕の両手は空いている。
いったいこれが何回目の挑戦だろう。それなりに経験を積んだ僕にはそれなりのセオリーが蓄積されてきていた。
今回下りた先にはアイテムがひとつ、モンスターがふたり配置されている。モッツァレラとコットンがひとりずつだ。通路の位置を確認し、僕は彼らに囲まれないよう注意深く通路に向かう。
そのまま2対1で殴り合っても良いのだが、通路の狭さを利用することで1対1を2回続ける形にできるのだ。あちらから殴られる回数と、それに伴い受けるダメージを減らすことができる。
受けたダメージは“足踏み”で回復できる。この階の敵ならわざわざそうして“満腹度”と等価交換しなくても探索しているうちに自然と回復もするだろう。しかし、僕は自分で考えた正しい振る舞い、構築したセオリーを習慣づけるように心がけていた。
通路と部屋の接合部のようなところにうまく陣取った僕は、僕を追ってきたモッツアレラと対峙した。その後ろにコットンが付いてきてるが、彼はモッツァレラと部屋の壁によって僕と直接隣接することができない形だ。
モッツァレラと殴り合ってやっつける。障害物がなくなったコットンが隣接してくる。僕はコットンとも殴り合う。やっつけると、遠くのどこかでファンファーレが鳴りレベルアップを僕に知らせた。
僕の考えた立ち居振る舞いが正しいのだと誰かに認められたような気がした。
地下2階。
僕の両手は空いている。
単純に検証が足りないだけかもしれないが、『樹海』内で拾えるアイテムはランダムであるように思われる。
やたらと武器や防具が手に入ることもあるし、どれだけ探しても食料品が手に入らないこともある。ひょっとしたらそれを是正するためにお金とお店が用意されているのかもしれないが、それらの出現自体もまたランダムなものであり、さらにお店の品揃えも偏っているため機能しているとは言い難い。
恵まれない状況での創意工夫に有用な理論の糸口がある。そう自分に言い聞かせるように考えているのは、今回の挑戦が今のところ恵まれていないからだ。地下2階の探索を終えた時点で武器も防具も拾えなかった今回の挑戦には早くも暗雲が立ち込めている。
地下3階。
僕の両手は空いている。
まったくの不幸続きというわけではなく、僕は『タッパー(4)』を拾っていた。当然僕は『大きな肉まん』をそこに入れて大事に保管している。
それは僕にとって習慣となっている行動で、半ば無意識に行なっていることだった。そのため、道中スイッチのようなものを踏んで天井から降ってくる大量の水に晒されたとき、僕は一瞬絶望した。あの餓死体験を連想したのだ。しかし僕の『大きな肉まん』はタッパーに守られており、僕は自分の構築してきた習慣に感謝した。
そして良いことは重なるのだろうか、僕はその部屋で念願の防具を手に入れた。
『アルミシールド』は軽い代わりに防御力は期待できず、炎にも弱いことが説明文から読み取れた。以前手に入れたことのある『チタンシールド』の下位互換にあたるものかもしれない。しかし、防御力に期待できないといっても、ないよりははるかにマシだ。“軽い”というところも非常に嬉しい。さらに、そうした特色があるということは、お店が出現した際高価で売れるということである。
地下3階から出るようになるナリジンの攻撃を受け止めるには心許ない気もするが、“満腹度”が減りづらいということは足踏みによる“体力”の回復を躊躇せず行えることを意味する。
単純に守備力が高いほかの盾や、守備力は抜群に高い代わりに“満腹度”の下がりやすい『タングステンシールド』と比べてどちらが有能であるかは評価が分かれるところだろう。
守備力と特質による防御効率の違いについて計算してみるのも面白いかもしれないが、あいにく今の僕には紙もペンもないのであった。確かに確率の分野は数少ない僕が積極的に勉強するところではあるのだが、死んで帰った現実世界で『樹海』における期待値計算を行う気にはどうしてもならない。
地下3階の探索を終える。結局ほかの武器防具は拾えていない。攻撃に使える道具は『ハバネロ草』と『爆発の巻物』、そして『10本の木の矢』くらいのものである。『木の矢』は本数分使うことができるけれど、ほかの草と巻物は1度の使用で失われる。とても不安な内容だ。
地下4階。
僕の左手にはアルミシールドが握られている。
『眠りの杖(3)』を拾った僕はホクホクしていた。
杖は複数回使える上、“軸”を合わせた遠距離の敵に様々な効果を与えることができる優れものだ。振れば敵を眠らせることのできるこの杖はかなり使い勝手が良い。一度殴れば起きてしまうというのが玉に瑕だが、これで不意の強敵に遭遇した際の緊急回避が可能となる。
しかし武器や防具が見つからない。『アルミシールド』の軽さに任せて僕は出てくる敵を殴り倒しては足踏みスイッチで回復するということを繰り返す。矢による遠距離攻撃は可能だが、それも回数に制限があるのだ。僕はアイテムを大事に抱え込み、祈るような気持ちで探索を続ける。
結局武器や防具は見つからなかったが『肉まん』を手に入れることはできた。“満腹度”が50%回復する食料品だ。僕はその場で『肉まん』を平らげ、『タッパー』に依然として『大きな肉まん』が入っていることを確認する。これでおそらく空腹を気にする必要はなくなった。
しかし僕の右手は空であり、左手には薄っぺらな盾が握られているだけである。
この装備で階段を下り、あの黒人男性を模したような屈強な敵と戦うというのだろうか?
「冗談じゃない」
呟くようにそう言ってみたが、もちろん冗談などではなかった。
地下5階。
僕の左手にはアルミシールドが握られている。
ディディエがいきなり目の前にいたらどうしようかと恐れながら階段を下りたものだが、どうやら杞憂に終わってくれたようだった。
階段を下った僕はいつも通りの部屋にひとりで立っており、敵の姿は見当たらない。そして祈りが通じたのだろうか、なんとその部屋には武器が落ちていた。
思いがけない幸運に僕は飛び上がらんばかりに喜んだが、なんとか自分を落ち着かせることに成功した。経験上、失敗というのは「上手くいった」「幸運だった」と安心した瞬間に発生することが多いのだ。
1歩ずつ慎重に足を進め、僕は武器まで辿りつく。『日本刀』だ。なかなか強力な武器である。忘れず装備し、僕は大きくひとつ息を吐く。次の部屋に移動するため適当な通路に向かって歩き出すと、反対側からディディエが入ってきたのに気がついた。
屈強で巨大なモンスターだ。ぬいぐるみのような素材であるにもかかわらずプレッシャーを僕に与えてくるのは、その見た目だけではなく何度も撲殺された記憶によるものに違いない。
僕は今しがた手に入れた『日本刀』を握る右手に力を込めた。振り返ってディディエと正面から対峙する。
「来いよ」
返事をしない敵に呟くのは自分に聞かせるためである。幸い武器も手に入ったのだ。最大の懸念点は解消された。
僕が“行動”を取らない限り、彼との殴り合いははじまらない。大きくひとつ息を吐き、僕は草原にひとりで待つ由紀を思った。彼女は解放されるのを待っている。それには誰かが『樹海』をクリアしなければならない。この階からはこれまでと比べて明らかに強い敵が出てくるため、ひとつの判断ミスが容易に死へと繋がっていく。
僕は努めて冷静に右手を振った。
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