第15話 より良いフットボーラーになるために

 

 朝だ。僕は自分のベッドで目を覚ます。


 しばらくぼんやり呼吸した。仰向けの視界には白い天井が見えている。右手を動かす。僕の手だ。何も握られてはいない。文字通り死ぬほどの危害を加えられたにも関わらず、その名残はどこにもなかった。


 知識と経験が足りていないと考えた。『樹海』に関する知識と経験だ。『樹海』はゲームのような世界であるが、実際に体を動かさなければならないため、どのような行為がどういった行動と見なされるかをはじめ、あらゆるシステムやアイテム等の知識を把握し、ノウハウを蓄積する必要があるだろう。


 それまでも不真面目にプレイしていたつもりはないが、このときはじめて僕は本気で『樹海』の攻略を決意したのかもしれない。


○○○


 内藤昂ないとう たかしがプロのサッカー選手としてデビューして1ヶ月ほどが過ぎていた。デビュー戦で初ゴールを入れてしばらくの間はお祭り騒ぎのようになっていた彼の学校生活にも、ある程度の平穏が戻ってきていることだろう。どんなに凄いことを成し遂げているとしても、それが続けば他人にとっては当然の日常となっていくのだ。


 昂はその1ヶ月間で3回の試合に出場していた。デビュー戦でゴールを挙げた次の試合はスタメンで起用されていて、彼の周りのひとたちは大層騒いだことだろう。


 その試合で昂は60分ほどプレイし、それまでスタメンだった選手と試合時間を30分ほど残して交代した。ゴールはなかった。それで少し冷めたところに冷水をかけるように、次の試合ではベンチに座らされ、出場する機会は与えられなかった。こうして昂の日常に平穏が戻ってきたわけである。


 波が寄せては引いていくように、かつて昂の机の周りを囲っていた男女はそれぞれの日常に戻っていった。次の試合で30分ほど出場時間が与えられたとしても、それをことさら騒ぎ立てる者はどこにもいなくなっていた。


 僕の日常も相変わらずだ。受験勉強を熱心にしているという由紀を刺激に一瞬勉強に力を入れようと思ったこともあるけれど、そんなやる気はすぐにしぼんでどこかへ消えた。僕は勉強に向いていないのだろう。


 適当に授業中の時間を潰し、空いた時間に本を読む。シフトに応じて『マカロニ』で働く。そんな日常の中に最近組み込まれたのが、『樹海』に行くことである。


 『樹海』に行くためにはバスに乗る。朝イチで乗ろうが夜シフトで労働を終えた後乗ろうが、死んだ後は同様に翌朝意識を取り戻すため、僕は毎日のように『樹海』へ行った。そして毎日のように死んで帰った。もはや僕にとって死は日常に転がっているものであり、それに対する恐怖心はほとんどマヒしているような状態である。


 ある日『樹海』で由紀に訊いてみた。


「僕は何度やっても成功しないんだけど、由紀はいったいどうやって『樹海』をクリアしたんだ?」


 先輩に攻略法を教えてもらおうと思ったわけだ。とても自然なことだろう。由紀は『樹海』から解放されることを望んでおり、それには僕が『樹海』をクリアする必要がある。この知識の共有はwin-winをもたらすものだと僕は思った。


 しかし由紀は残念そうに目を伏せ、首を横に振って見せた。


「聞かない方がいいわよ」

「なんでさ。門番には守秘義務のようなものがあるのかい」

「そんなものはないけど、あたしの経験上、あたしのアドバイスは聞かない方がいい。正確に言うと、知らない方がいいわ。あんたはあんたの攻略法を見つけるべきよ」

「なんのために?」

「最後の敵に勝つためよ」


 最後の敵。そんなものがいるのだろうか。確かに僕は『樹海』のクリア条件を実は知らない。


「そういえば『樹海』ってどうやったらクリアになるの? それも知らない方がいい?」

「それは教えてあげてもいいわ。地下7階以降のフロアには、どこかに祭壇のようなものがあるの。そこにあんたのメダルを捧げれば、下り階段が上り階段になるってわけ。それを上り続けてここまで帰ってくれば、クリアになる。途中で最後の敵を倒す必要があるけどね」

「へえ。肝試しみたいなものだね。その祭壇にメダルを捧げなければどうなるの?」


 そんなことをするやつはいないだろうけど、というニュアンスを含めて僕が訊くと、由紀は得意げな笑顔を見せた。


「当然、あたしはそれも確かめてる。メダルを捧げない限りどこまでも下りていけるわ。地下50階までは行ってみたことがある。それ以上どこまで深く進めるのかはさすがに試したことないけどね」

「地下50階? よくそんなことができたものだね」

「最後の敵を倒さなければならないからね。そのために必要なアイテムを手に入れるため、メダルを捧げるタイミングを計るというのも大事なことよ」

「なるほどね」と僕は言った。「ところで今のは攻略のアドバイスにはならないの?」

「ああもう、そうよ! だからあたしは挑戦者とはあまり話さず、さっさと送り出すようにしているの!」


 由紀は耳を赤く染めてそう言った。僕はニヤニヤとそれを見る。


 最近の由紀からはやさぐれた空気がだいぶ解消されていて、下り階段を進む前に草原でしばらく雑談していくのが僕の楽しみとなっていた。勘違いでなければ由紀もそれを楽しんでくれている。


「それじゃ、そろそろ行きましょうかね」


 僕がそう言い雑談の終わりを告げると、「いってらっしゃい」と由紀は袋のようなものを渡してくれる。そこには『大きな肉まん』と足踏みスイッチ、僕の名前の刻まれたメダルが入っている。


 当然この日も僕は死んだ。


○○○


 休み時間にいつも通り本を読んでいると、昂に声をかけられた。僕の前の席に座り、背もたれ越しに僕を見る。


「おひさ」と昂は言った。

「久しぶり。プロ・フットボーラー人生はどう?」

「ちょっとゴールしないとすぐ飽きられるのがフォワードのつらいところだな」


 肩をすくめて昂は言った。「週末暇か?」


 僕はスマホで『マカロニ』のシフトを確認する。


「日によるね。またチケットの販売かい」

「ああ、あれね。チケットの話、あれは実は嘘なんだ。まあスタッフに言ってタダで確保してもらった席を売りつけたわけだから完全に嘘でもないんだけどさ、騙したようですまなかったな」

「そうなんだ? 僕は別に構わないけど、なんでまたそんな嘘をついて僕にサッカーを見せたんだ?」

「由紀がお前に会ってみたがっててさ。由紀っていうは俺の彼女で、あの日お前の隣に座った子だよ」

「知ってるよ。それで?」

「今度は一緒にサッカーしないかと言っていた。お前サッカーは嫌だよなあ?」

「いいよ」

「だよなあ。なんて言って誤魔化そうかな」


 当然嫌だと返されると思っていたのだろう。昂は僕の返事を聞き間違えているようで、僕はそれをかえって微笑ましく思った。


 昂はサッカーを避けていた僕しか知らない。あの体育の授業で思い通りのボールを届けた後も、しつこく付きまとわれては僕は彼を拒絶してきたものだった。


 かなりひどい態度だったことだろう。以前僕はサッカーが嫌いだ、2度とサッカーに誘うな、と明確に答えたことがあり、それ以降昂は直接ボールを蹴る誘いをかけてくることはなくなっていた。


 それでも昂は僕を無視するようなことはせず、あれこれ話しかけてきたり、自分のデビュー戦のチケットをわざわざ用意したりして僕に関わり続けようとしてきたのである。女の子だったら惚れてしまっても無理ないだろう。由紀も気に入る筈である。


 今回のお誘いも、昂は反対したものの、由紀がとりあえず誘ってみろと言い張ったため、半ば形式上誘ってきたものらしい。僕はだらだらと続く昂の発言を遮り、今度は聞き間違えないようゆっくりと言った。


「いいよ、行こう。サッカー教えてくれよ」

「いいのか?」昂は目を輝かせる。

「いいって言ってるだろ。さっきからそう言ってるぞ」

「マジか!」


 テンションの上がった有名人ににクラスがざわめきだしている。僕は昂を黙らせた。


○○○


 行き先は『ぶどうが丘公園』だった。『マカロニ』から少し離れたところにある緑豊かなこの公園には、有料の予約式で利用できるスポーツ区間が設置されているらしい。1年以上『マカロニ』で働いてきたにもかかわらず、僕はそれをまったく知らなかった。


 昂はその公園の中でもっとも状態の良いフットサルコートを1面予約しているとのことだった。


 指定された時刻に指定された場所にいくと、昂と由紀が待っていた。僕たちの吐く息は白い。


「ああ寒い」と僕はわざとらしく言ってみた。「体育館でもよかったんじゃない? フットサルって屋内でもやったりするんだろ?」


 昂は僕にニッと笑った。「サッカーは野外だろ。俺は覚えてる、啓太はサッカーを教えろと言っていた」


「よく覚えてるね」僕は目を合わせずにそう言った。

「まあでも来てくれてよかったわ。ダメ元だったから」

「え、そうなの? 俺には絶対大丈夫って言ってたじゃん」

「絶対大丈夫とは思ってたけど、ダメで元々とも思っていたのよ。とりあえず体を温めましょ」


 由紀は笑ってそう言った。僕たちは少し距離を置いて準備運動を開始する。せっかくなので昂のやり方を教えてもらった。


「俺はたぶん念入りにする方だと思うけど」


 そう言いながら入念なストレッチを施す昂のメニューは準備運動で軽く息が上がるほどの強度だった。体が熱を帯びてきており、まさに準備運動といったところだ。


「それじゃあボールを蹴りましょうかね」


 平気な顔でそう言う昂の指示で僕らは大きな三角形に広がった。


 整然と並んだ芝を踏んで歩く柔かな感触が心地よい。有料とはいえ一般人に使わせる芝生が天然芝とは思えなかったが、見た目も踏み心地もとても良い。ぐいぐいと、わざと強めに踏んで歩いても優れたクッション性でそれを受け入れてくれるのだ。


「いくぞー」


 そんな間の抜けた声とは裏腹に、昂から鋭いボールが送られてきた。動作は小さく、強く蹴ったようには見えなかったが、僕が出した足を弾いたボールは2メートルほど遠くまで転がっていく。僕は急いでボールを追った。


 ボールを追う途中で由紀の立つ方にチラリと目をやった。距離、角度、彼女の体勢。すべてを把握した僕は今から蹴るボールを注視する。じっと見ると、ボールの中心に芯のような部分があるのがわかるのだ。どのような軌道に乗せてボールを送るかイメージする。あとはこの体に任せ、僕はただ自然に蹴れば良い。


 由紀に向かってまっすぐ転がるボールだ。僕は自分から見て少し斜めの方向に、足の内側に作った面で押し出すようにボールを蹴った。芯のやや下を蹴ってしまったのがわかる。ボールは無駄に跳ねながら由紀に向かって飛んでいく。


 由紀が僕からのボールを受ける。由紀は昂にボールを送る。僕は自分のイメージした軌道にボールを乗せられなかったのが不思議だった。


 昂から送られてきたボールを受ける。今度はいくらか上手にできた。そして僕は気がついた。土のグラウンドや家の庭ではなく、芝生の上でやっているからだ。芝の強さはボールの重力に負けないが、僕たちの体重は支えきれずに踏まれれば倒れる。そのため、ボールは芝生によって、わずかに浮いた状態になっているのだ。


 それをいつも通りのフォームで蹴れば、なるほど芯より下を蹴ってしまうというものである。僕はその発見が面白かった。上機嫌でボールを見つめる。これから蹴るボールの芯をイメージする。


 僕の足はゴルフのパターだ。しかし正面に向けて蹴るのは窮屈なため、僕は体の向き自体を調節して斜めにボールを蹴り抜ける。浮いた状態のボールを蹴る感覚を掴まなければならないため、僕は意識して小さな動作でボールを蹴った。


 この感触だ。右足の内側で作った面がボールの芯を食う。ほとんど抵抗を感じることなく押し出されたボールはまっすぐ由紀に向かって地を這うように飛んでいく。ボールの重力に負けない芝生の表面を滑るように進むため、予想以上の速度でボールは由紀まで届いていく。


 由紀がボールを右足で受けたのを確認する。僕は昂の視線を感じていた。


 どうだ、と僕は胸を張る。僕はボールを蹴るのが上手いのだ。


 由紀から昂にボールが渡る。昂はそのボールをすぐにこちらに蹴ることをせず、その場でぽよんぽよんと遊びはじめた。


 リフティングというやつだ。ジャグリングをする大道芸人のように、昂は足だけではなく、体の様々な部分を使ってボールに様々な挙動をさせた。思わず見入ってしまうテクニックである。


 しばらくテクニックを見せびらかした昂はボールを由紀に転がした。昂と比べると拙いながらも、由紀は由紀なりのテクニックを見せた。


 そして僕の足元にボールが転がってくる。これをどうしたものだろうか。


 彼らに見せられるようなテクニックは僕にはなかった。しかし、流れ的に何かを見せなければならないだろう。“何もできない”という失敗例を見せてもよかったが、僕にはほかに見せられるものがある。彼らの望むテクニックとは少し違うかもしれないけれど。


 ジェスチャーで昂に伝え、両手を胸のあたりに用意させた。距離、角度、目標の高さ。僕は一見でそれらを掴む。


 ボールとは1歩踏み込む距離だけ離れている。ボールは芝に浮いている。芯の位置を見つめ、僕はボールに描かせる軌道をイメージする。そしてその1歩を踏み込んだ。


 バランスを取るため左手を上げ、全身を使ってボールを鋭く蹴り上げた。回転のかかったボールは僕の思い描いた軌道を通って昂の胸に飛び込んでいく。1歩も動かず昂はそのボールを両手で受け取り、驚いたような顔で僕を見る。


「マグレじゃないぞ」


 この距離で聞こえるかどうか知らないが、僕は呟くようにそう言った。


○○○


 僕らはその後もボールを使ってしばらく遊んだ。


 単純にその場でパスを出し合って遊んだり、走りながらのパス交換や由紀をディフェンダーに見立てての昂へのパス出しや、ゴールに向かって走り込む昂に長い距離のボールをピタリと合わせる遊びなどを言われるままに入り混ぜた。


「芝生っていいねえ」


 ひとしきり遊んだ後の休憩で、僕はしみじみとそう言った。クッション性をもつ芝生の大地は走るにも疲れづらいし、何より浮いたボールはとても蹴りやすい。昂はそれに頷いた。


「天然芝だともっといいぜ」

「あ、やっぱりこれって人工芝なの? イメージしてたのと違うんだけど」

「科学の進歩に感謝だな。遊ぶには十分だ」

「蹴りやすいし、ゴロも速く転がるし。気に入ったよ」

「転がすボールは、サッカーではグラウンダーって呼ばれるのよ」


 由紀は給水しながらそう言った。「それよりあんた、やっぱり経験者じゃないの? 素人にあんな精度のボールが蹴られるなんて信じられない」


「ボールを蹴った経験があるという意味では経験者だけど、部活に所属していたという意味なら未経験者だよ」

「なにそれ」

「ボールを蹴るのは好きだったんだ。昔ね」


 僕はそう言ってボールを掴み、リフティングするのを試みた。すぐに僕の足からボールはこぼれ、テクニックのなさが露呈する。「僕の技術はこんなもんだよ」


 そして昂に向かって訊いてみた。「今から努力してみたとして、テクニックが向上することはある?」


「ないな」昂はハッキリと言う。「もちろん上達はするだろうが、プロレベルで、という意味なら無理だろう」

「足元の技術は幼少期が大切って言うもんね」


 由紀も昂の意見を支持して言った。僕も概ね同意見だ。これまでも、これからも、僕がそこに注力することはないだろう。少し寂しい気もするが、それが現実というものである。


「むしろあんたがすべきは単純な体力づくりと戦術理解、オフザボールの動きじゃない?」

「そうだな」

「そうだな、って、それ何のためにだよ?」

「何のために?」昂は意外そうな顔で訊いてきた。「もちろん、より良いフットボーラーになるためにだよ」

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る