第13話 無限等比級数の生活

  

 草原。

 僕の両手は空いている。


 いつもの一面に広がる草原だ。穏やかな風が吹いている。背の高い草がわずかに揺られ、かすかな音が耳に聞こえる。やがて女の子に出迎えられることだろう。


 しばらく待っていると、気づけば彼女はそこにいた。白河さんだ。ふわふわとした金髪と赤いワンピース。ノースリーブの腕には袋のようなものが握られている。


 白河さんは何も言わず、その手を僕にまっすぐ伸ばす。僕は軽く肩をすくめ、「少しお話したいんだけど」と言った。


「話? あたしと?」

「そうだよ。白河さんと」

「話すことはないと思うけど」

「確かに話さなければならないことはないんだけど、こっちの白河さんとも少し話したいなと思ったんだ」

「何かあたしに利益はあるの?」

「お土産を持ってきたよ」


 僕はそう言い、西片さんに包んでもらったアップルパイを彼女に見せた。開いてそれがアップルパイだと気づくと、白河さんの警戒心に包まれていた顔が華やいだ。


 それを僕に気取られたくなかったのかもしれない。バツが悪そうに僕を睨み、「少しだけよ」と彼女は言った。


 僕がそれに頷くと、白河さんは片手を高く挙げた。そして空気をかき混ぜるようにその白い腕を大きく回すと、気流が発生していくのがわかる。


 洗濯機の中の洗浄層のように、白河さんを中心に空間が渦を巻いてかき混ぜられる。景色の変化が落ち着くと、僕たちは石畳の一角に立っていた。小さなテーブルとふたつの椅子が並んでいる。白河さんは椅子に腰かけ、顎をしゃくって僕をもうひとつの椅子に座らせた。僕は白河さんがグラディエーターサンダルを履いていることを知った。


 テーブルの上にはティーポットとカップが置かれている。慣れた手つきで白河さんがポットを傾けると、良い匂いの紅茶がカップに注がれていく。


「どうぞ」と白河さんは紅茶の入ったカップをよこす。

「どうも」と僕はそれを受け取り、促されるままアップルパイを彼女に渡した。


 白河さんはいつの間にか握っていたナイフでホールのパイを四当分した。


「ふたつ食べる?」

「いや、ひとつでいいよ。あとでゆっくり楽しんで」


 白河さんは眉を上げて頷いた。


「ありがとう。でも、この状態のあたしに対して“ゆっくり楽しんで”ってのは、すごく皮肉に聞こえるわよ」

「そうだね、ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ」

「わかってるわよ」


 白河さんはそう言うと、フォークを使わず片手でパイを持ち上げ、齧りついた。すぐに輝く眼差しを僕に向けてくる。


「すごい! これどこのアップルパイ?」

「『マカロニ』のものだよ」

「どこよそれ。でもこれ、とっても美味しいわ」

「『マカロニ』は僕のバイト先で、内藤昂ないとう たかしのゲンかつぎの店だよ」

「昂の?」

「そう。君たちがあの日行くつもりだったお店だ」

「――そうなんだ」


 白河さんはしみじみとそう言った。僕はティーカップを手に取りちびりと飲んだ。とても香りの高いお茶だった。


 しばらく黙って僕たちはアップルパイと紅茶を楽しむ。白河さんは何かを言いたそうに視線を上げ、しかし僕と目が合うとそれを逸らして黙るということを何度か続けた。僕はあえて発言を急がせるようなことはせず、穏やかな気持ちで白河さんの様子を見守った。


 白河さんはやさぐれていたのだろう。それは『樹海』での待機時間の長さによるものなのかもしれないし、確実性の低い願い事によるものなのかもしれないし、もっとほかに、今の僕には想像もつかないような新たな苦痛があるのかもしれない。


 僕は白河さんを優しく見つめた。この人を解放してあげたいと思う。それによる何かを期待しているわけではなく、ただ単純にそうしたいと思うのだ。僕は自分の気持ちを確かめながら、父さんに聞いた“自分の目の前だけを見る”という考え方を反芻していた。悪くないものだと思う。きっとそうするべきなのだ。


「ありがとう」


 やがて白河さんはそう言った。まさかこのタイミングでお礼を言われるとは思わず、僕は少し驚いた。


「どういたしまして。でも何が?」

「アップルパイと、この間の新聞」

「あああれね。気に入ってもらえた?」

「とてもね。あんたはあたしの願い事とか知ってるの?」

「白河さんに聞いたよ」

「そう。それならわかってると思うけど、あたしの願い事とその後おそらく取る行動は、確実性の低いものなの。うまくいくとわかって嬉しかった」


 白河さんはそう言い、かつて僕が与えたスポーツ新聞をテーブルに置いた。デビュー戦でチームに勝利をもたらす得点を上げた昂が1面を飾っている。


「白河さんは、どのくらいここで待ってるの?」

「どのくらいかな。気の遠くなるくらい長いことだけど、カレンダーに印をつけたら意外と短いのかもしれない。でもとにかく、うんざりするくらいはここにいる」

「外のことはわからないの?」

「わからないわ。この世界はルール内であたしの思い通りになるかわり、あたしの思い通りにしかならないの」


 白河さんはそれが悪いことであるような口調でそう言った。僕は単純に不思議に思う。


「自分の思い通りになるって、理想の世界じゃないの?」

「ぜんぜんちがうわ」


 そう言い、白河さんは嘲笑を浮かべた。「あたしの思い通りにしかならないってことは、あたしの知らないことや思い描けないことはできないのよ。たとえば食事。食べなくても何も不都合はないけれど、気晴らしに好きだった料理でも食べようと思っても、それは毎回同じ形の同じ味のものしか出てこない。あたしの持つ、その料理に関するイメージに基づいたものしか食べられないの」


 その楽しみは想像を絶する速度で失われるのだと言う。このように僕らが与えない限り、彼女が新しい情報が手に入ることはないのだ。


「それもあってかな、この新しい味わいのアップルパイはとっても美味しかった。昂のその後の情報も、知ることができて嬉しかった。それだけ待ち遠しくなっちゃうけどね」


 何が、と訊く必要はない。白河さんはここから解放される日を心待ちにしているのだろう。


「啓太は何をお願いするの?」


 白河さんは僕にそう訊いた。不意に下の名前で呼ばれたため、僕は飛び上がりそうなほど驚いた。


「どうしたの?」

「いや、下の名前で呼ばれ慣れてなくてさ」

「でもほら、プレイ中の登録名は“ケイタ”だからね」

「なるほどね。白河さんの登録名は“ユキ”だったの?」

「そうよ。由紀って呼んでもいいわよ」


 白河さんはニヤニヤ笑ってそう言った。僕は彼女を照れずに由紀と呼ぼうと心に決めた。


「それで」と由紀は再び訊いた。「啓太は何をお願いするの?」

「実はまだ考えてないんだ」

「本当に?」


 信じられない、といった様子で由紀は僕にそう言った。確かに信じられないだろう。命がけで得ようとしている権利の使い道が決まっていないと言われたら、おそらく僕も信じられない筈だ。


「由紀は自分の願い事について後悔したことはない?」


 参考にしようと僕はそう訊いてみた。由紀は即答で「そんなのしょっちゅうよ」と堂々と答えた。


「たぶん何をお願いしても後悔はするんじゃない? 人って無い物ねだりをするじゃない。それでもあたしは精一杯色々考えて、これ以上良いものは思いつかなかったの」

「そんなもんかね」と僕は言った。

「そんなものよ」と由紀は頷く。「あんたも精一杯色々考えるといいんじゃない?」


 大きくひとつ息を吐き、僕は小さく頷いた。


 そして由紀をまっすぐ見ると、由紀も僕をまっすぐ見ていた。少し疲れたような表情に微笑を浮かべた彼女は吸い寄せられそうなほど魅力的で、テーブルの上に置かれたその手は白い。仮に自分の手を伸ばしてこの白い手に触れることが許されるなら、どのような犠牲を払っても惜しくないだろうと僕は思った。


 当然そんなことは僕にはできない。その欲望から逃げ出すように視線を由紀から小さくずらす。「ここにいるとね」と彼女はゆっくり口を開いた。


「ここにいると、無限等比級数を考えるわ」

「むげんとうひきゅうすう?」

「数学よ。あんた、数学は得意じゃない?」

「数学というか、勉強自体が得意じゃないね。数学で好きなのは確率の単元くらいだ」

「正直ね」


 由紀は笑ってそう言った。気づくとその右手にマジックペンのようなものが握られていて、彼女はそのペンでテーブルに大きく正方形を描いた。そしてその正方形を二等分するように、まっすぐ真ん中に直線を引く。


 由紀は二等分された四角の片方をペンで黒く塗りつぶした。


「これで半分」


 そう言い、彼女は白い方の長方形を半分に割るように直線を引いた。元の4分の1の大きさの正方形ふたつに分割される。そしてそのうちひとつを黒く塗る。


「これで、また半分。塗られていない四角形はどんどん小さくなっていく。これを何度も繰り返したとして、いつかなくなる日は来ると思う?」

「来ないだろうね。ペンの太さを考えなければの話だけど」

「そうでしょう? 限りなく真っ黒な正方形には近づくのにね。あたしはこの『樹海』での生活を長いこと繰り返し、これまでに3回ほど“そろそろ半分経ったかな”って思ってきたわ」

「そろそろ半分?」

「そうよ。あらゆる事柄に終わりがあるとして、そこから見て半分の地点があるわけじゃない? 1年の半分が経つのは6月の終わりで1日の半分が経つのは正午じゃない。そんな“残り半分くらい”の地点があるとして、そろそろそこは過ぎたんじゃないかと思ってきたの」

「違ったんだ?」

「違ったの。きっとあたしのここでの生活はこの正方形をひたすら半分ずつ塗り潰すように過ぎていき、終わることはないんだわ」


 いつの間にか由紀の右手からペンが消え、紅茶の入ったティーカップが握られていた。由紀は紅茶をちびりと飲み、遠い目をして何かを諦めたような笑顔を浮かべる。疲れた表情も悪くないが、アップルパイを前にしたような華やぐ笑顔をもっと見たいものだと僕は思った。


「なんとなくしか言ってることがわからないけど、この『樹海』での生活が終わらないことはないよ。僕は外の世界で願いを叶えた由紀に実際会ってるからね。由紀の願い事はうまくいって、昂が怪我することはなく、それは由紀の持ってる新聞を見たらわかる筈だ」

「そうだね」


 由紀はつぶやくようにして言った。由紀は昂の記事が載っている新聞をテーブルに広げ、自分を勇気づけるように何度も小さく頷いた。


「あたし、この試合観に行ったのかな?」

「行ったよ」

「じゃあ昂が無事デビューしたのも観たんだ。そんなのすぐに泣いちゃって、ろくに続きを観られなくなるんじゃないかな」


 僕はそう言う由紀をしばらく見つめ、紅茶のカップを飲み干した。そして「大丈夫だよ」と彼女に伝えた。


「得点するまでは我慢できるさ」

 

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