第12話 願い事

 

「何から話せばいいかしら」


 白河さんは僕にそう言った。コーヒーカップを口に運び、僕からの質問を待っている。その視線は冷たく、僕は自分の取った行動を少しだけ後悔した。


「まずはそうだな、あそこはいったい何なんだ?」

「あれは『樹海』、あたしが作ったわけじゃないから実際何かは知らないわ」

「じゃあ、白河さんはあそこで何をしてるの?」

「あたしは門番のようなことをしているの。そしてその役目から解放される日を待っている」

「門番と解放ね。どうしてそんなことになったのかわかる?」

「もちろんわかるわ。あたしは『樹海』をクリアしたの」


 白河さんはしれっとそう言った。僕が何度も死んだ『樹海』を彼女はクリア済みだという。白河さんもかつて僕と同じ立場だったという驚きと、クリアした結果望ましくない役目を強いられるらしいという理不尽さに僕は言葉を失った。


 気を取り直して僕は訊く。「クリアしたのに、解放されたい役目を押し付けられるの?」


「そうよ。あなた、何も知らないのね」

「そりゃ知らないよ。誰から教えてもらうっていうのさ」

「“あたし”によ」


 『樹海』にいる白河さんに訊けば良いと彼女は言う。そんなことができるようには僕には到底思えなかった。


「でも、あそこの白河さんはとてもつれないよ。そんなコミュニケーションが可能だとは思えない」

「あはは。あたし、つれないんだ?」


 白河さんは笑ってそう言った。冷たかった視線がいくらか優しくなっている。久しぶりに笑顔が見られたのは嬉しいが、笑って済ませて欲しくないものである。


「とてもね。僕との会話時間は平均10秒くらいじゃないかな」

「やさぐれてるねえ」


 やさぐれている。ピンとくる表現だった。


 確かに『樹海』内外で会う白河さんの印象はとても異なるものだが、『樹海』内の白河さんの態度がやさぐれたものであると仮定するなら、そこに違和感は大きくない。言葉は少なく、態度はつれなく、すぐに姿を消すことだろう。


 白河さんは『樹海』に対して何か思うところがあるのだろう。それは思い出したくない経験なのかもしれない。それを不意に引き起こした僕に対して取っていた態度は、『樹海』内の白河さんとある程度一致しているように思われた。


「そうかもしれない。あの白河さんはやさぐれている。なんでやさぐれてるのか覚えてる?」

「覚えてはないね。あたしの持ってる記憶はクリアして、門番のような役目をはじめるまでのものなのよ。だから“この”あたしにとっては一瞬のことだけど、“あの”あたしにとっては永遠のように感じてるのかもしれない」

「そんなに長いことなんだ?」

「次に誰かがクリアするまでの間ね。やさぐれるほど長いこと待ってるのかもしれない」


 白河さんは窓から外の景色を眺め、やさぐれるほど長い時間を待っている自分に対して思いを馳せているのか、自嘲的な笑みを浮かべた。「まあでもそれもしょうがないわね。あたしには欲しいものがあって、あたしはそれを手に入れた」


「手に入れた。クリアしたら何かもらえるんだ?」

「ああ、あんたは何も教えてもらってないんだっけ。よくそれで何度も死のうと思うわね」


 調子を取り戻した白河さんは、おどけるようにそう言った。僕が返事に困って黙っていると、「あれ、何度も行ってるのよね? “いつも”って言ってたし」と追加した。


「確かに何度も行ってるよ。行っては死んで帰ってきている」

「もの好きねえ」

「僕の勝手だろ」


 ふてくされたように僕は言った。それが面白かったのか、白河さんはニヤニヤ笑って「確かにあんたの勝手だわ」と言った。


 僕は大きくひとつ息を吐き、コーヒーをぐいと飲み干した。白河さんのカップも空だったので、僕は2杯の空カップを持ってカウンターへ持っていき、西片さんにおかわりを煎れてもらった。


「彼女、機嫌はよくなった?」面白そうに西片さんが訊いてくる。

「あの子は僕の彼女じゃありませんよ」

「口説き中?」

「いいえ、口説くことは禁じられています。あの子は内藤昂ないとう たかしの恋人です」

「マジで?」と驚く西片さんは、「なんだよ、やっぱり仲いいんじゃん」と安心したような顔で言った。


 どうやら気を遣わせていたらしい。確かに僕の昂に関する話題についてのこれまでの態度からすると当然だろう。僕は肯定も否定もせずにコーヒーを席まで運ぶと、自分の分にミルクを入れた。


 白河さんは礼を言ってコーヒーを受け取り、そのままブラックでちびりと飲んだ。思い出すようにまた窓の外を眺める。窓から入ってくる日差しが白河さんの横顔を照らし、どんな画家にも描けないような美しい曲線で輪郭を縁取る。薄い茶色の瞳が僕の方に向けられた。


「『樹海』をクリアすると、神様のようなものに会えて、願い事をひとつ叶えてもらえるの」


 白河さんはゆっくりそう言った。


○○○


 神様のようなものに会えて、願い事をひとつ叶えてもらえる。フィクションの世界ではひどくありきたりなイベントだが、それゆえとても非現実的なことに思えた。


「願い事って、その、何でも?」

「わからないけど、制限は特につけられなかったね」

「とても本当のことだとは思えない」

「そう? 『樹海』も実在するとは思えないけど」

「それはそうだね」


 意味のわからなさや非現実性からすると、確かにそのイベントも『樹海』の存在も、同じようなレベルのように思われた。そして『樹海』に僕は行っている。クリアしたら願い事が叶うというのも、本当のことかもしれなかった。


「実際あたしは叶えてもらったわけだしね。信じる信じないは自由だけどさ」


 僕の理解を得ようが得まいが白河さんには重要ではないのだろう。白河さんは少し突き放すような口調でそう言った。ひょっとしたら彼女がまだ僕の立場だった頃に誰かの理解を得ようとしたことがあるのかもしれない。そしてとても努力して、しかし信じてもらえなかったのだとしたら、そのような努力を再びする気にはならないだろう。


「白河さんの願い事は何だったの?」


 そう訊くと、いたずらっぽい目で「ききたい?」と白河さんは訊き返す。


「無理にとは言わないよ」

「別にいいわよ。あたしは過去を変えたいと思ったの。だから過去の世界に戻ってきたというわけよ」


 白河さんは軽い口調でそう言った。どうやら彼女はタイムトラベラーであるらしい。


「未来から来たんだ?」

「そうよ。そんなに遠くはないけどね」


 白河さんは大きくひとつ息を吐き、窓から外をしばらく眺めた。そういえば、この窓からは『樹海』行きのバス停が見える。今はバスが停まっていない。


「白河さんにはあそこにバス停が見える?」

「どこ?」

「ほら、あそこだよ。道路沿い」

「見えないわ。おそらくだけど、『樹海』はクリア後二度と行けないの。願い事は一度だけ、ってのが相場じゃない? あんたのバス停はここなのね」

「白河さんのは違ったの?」

「あたしのバス停は、あの図書館の近くだった。クリアしたらなくなったけどね。ひょっとしたら、それぞれの思い入れの強い場所の近くにあるのかも」

「僕はバイト先か。まあ確かにこの店は好きだからね。白河さんはあの図書館が好きなの? 受験勉強を熱心にしていたけど、難関校でも狙ってるのかな」


 たとえば東大とか京大とかだ。その発想の貧困さに僕は自分のことながら驚いた。これは口に出さない方が良いだろう。


「学校っていうか、学部ね。あたしは医学部に進んで医者になろうと思っているの。家がお金持ちでもないから国立か、特殊な私立にいかないと」

「すごいね、想像もつかない世界だ」

「あたしもそうだった、だから必死よ。でも死ぬ気になるのは得意だからね。あんたもそうでしょ?」

「確かに僕も、今なら死ぬ気になるのは得意かもしれない。ひょっとして、白川さんも何度も死んだの?」

「数え切れないくらい死んだわ。なんせ、あたしには欲しいものがあったからね」


 白河さんはあらゆる検証を行うために、時には自殺に近い形でひたすら死亡経験を積み重ねたのだそうだ。それは筆舌に尽くしがたい苦しみの日々だったことだろう。


 彼女がそこまでして変えたかった過去とはいったい何なのだろうか? 訊けば教えてくれるかもしれないけれど、僕が訊いても良いものなのかどうかの判断がつかなかった。


 そんな様子を察したのか、白河さんは小さく笑って僕の目を見た。「知りたいなら教えてあげてもいいわ。そのかわり何かご馳走してよ。この店ってデザートは何か出してるの?」

「どうかな。何かはあると思うけど」


 カウンターの西片さんに声をかけると、いくつか候補が挙げられた。白河さんはその中からアップルパイを選択し、僕はふたり分を注文した。


「あたしアップルパイにはうるさいよ」と言いながらパイにかじりついた白河さんは「やられた!」とすぐに白旗を振った。こぼれる笑みをこらえられない様子でニヨニヨしながらアップルパイとコーヒーを幸せそうに平らげていく。


 僕も自分の分に口をつけた。サクサクとしたパイの中にざくざくの林檎が詰まっていて、絶妙な火の通され方をした林檎は特有の食感を残しながらもトロトロと濃厚な味わいで舌を包む。それでいて強烈な甘さではなく、スポンジやクリームの添加されていないシンプルな旨さはいくらでも食べ進めらるような気さえした。


 これは危険な食べ物だ。限界を超えて食べてしまう。特別アップルパイが好物ではない僕がこうなのだから、白河さんがどのような感想を抱いたのかは推して知るべしといったところだろう。


「気に入った。何でも話してあげようじゃない」


 恍惚のため息を吐いて白河さんはそう言った。僕が訊きやすいように大げさに振舞ってもいるのかもしれず、僕はお言葉に甘えることにした。


「白河さんが変えたかった過去って何なの? もちろん僕に話せる範囲で構わないけど、知ってもいいなら教えて欲しいな」

「教えてあげる。この間、サッカーの試合を一緒に見たでしょ?」

「内藤昂のデビュー戦?」

「そうよ。その1週間前くらいかな、はじめてベンチに入った日。その前日に、昂は事故で大怪我したの」


 昂は事故で大怪我したの。白河さんは何でもないことのようにそう言った。僕はしばらくその文言を処理できず、言葉の意味はわかっている筈なのに何を言っているのかわからない、というきわめて稀な感覚を味わった。


「昂、怪我したんだ?」

「“今”は結局してないけどね。今でもはっきり覚えてる。その日あたしは昂と電話してたの。お昼前の時間帯で、一緒にご飯食べない? なんて誘われてさ。大事な試合の前に行きたい縁起の良い店があるんだって言ってた。そのときあたしは街に買い物に行ってたから、じゃあ街で合流して、夕食をそこにしようかなんて話してたら、街に来る途中で信号無視した車に撥ねられたってわけ」


 白河さんはまったく深刻な様子を帯びることなく、淡々とした口調で僕にあり得た過去の話をしてくれた。僕はそれまで楽しく食べていたアップルパイに手を伸ばすことができなくなり、急激に水分を失っていく喉を水で何度か湿らせるのができる精一杯のことだった。


 そのあり得た過去で、昂は事故で右足を失ったとのことだった。靭帯や骨の損傷では済まず、感染症か何かから、切断しなければ命に関わるという状態になっていたらしい。


「気丈に振る舞ってはいたけれど、片足を失ったサッカー選手は実際どんなことを思うのかしら? それも、高校生にしてプロになるような才能と環境に恵まれ、努力を重ねた人がだよ」

「想像もつかないな」

「それであたしは勉強をはじめた。医者になろうと思ったの。そしてこの図書館に通っているうち、『樹海』に行くバスを見たってわけ」


 白河さんはそこまで話してコーヒーを飲み、大きくひとつ息を吐いた。僕は窓から見えるバス停を眺める。そこにバスは停まっていない。


「そして“過去”に帰ったわけだ。もっと単純に、たとえばその事故の怪我を治してもらおう、なんて思わなかったの?」

「もちろんそれも考えた。でもいきなり怪我が治ってどう思うかもわからなかったし、どういう治り方をするかもわからなかった。ブランクの期間のほかの能力の衰えであるとか、クラブや世間の受け取り方とか、なんだか面倒くさいじゃない? そのへんも調整してくれたのかもしれないけど、あんまり信用できなかったのよ」

「なんで?」

「だって、アイテムの説明文とか、すごい文言が適当じゃない?」


 その判断の根拠に僕は思わず吹き出して笑ってしまった。「言えてる」


「でしょ? それよりは過去に戻って事故を回避しようと思ったの」

「なるほどね。それで、どうやって回避したんだ?」

「簡単よ。お昼は街に来ず、せっかく思いついたんだからひとりでその店に行ってらっしゃいって伝えたの。夜は混んでるかもしれないし、ってさ」

「ああそうか」と僕は呟いた。


 思い出した。僕はその日の昂に会っている。それは僕がはじめて『樹海』行きのバスを見た日のことで、僕は『マカロニ』の裏庭で本を読んでいたところを昂に発見されたのだ。


 しかし、その回避の仕方は不確実なように思われた。違和感が残った表情をしていたのだろうか、白河さんは自嘲気味に小さく笑って言葉を続ける。


「昂もそうだろうけど、あたしもサッカーが好きなの。フットボールを愛してるのよ」


 突然のサッカーへの愛の告白に、僕は何と返せば良いのかわからず黙った。白河さんは構わず言葉を続ける。


「卑怯というか、ズルいことをサッカーに対してやりたくないの。怪我で選手生命を絶たれる選手やキャリアが狂う選手はいくらでもいるし、有名なところでは“ミュンヘンの悲劇”なんていって、飛行機事故で何名もの選手が一度に亡くなった事例もあるわ。権利を得たからといって、それをあたしたちだけ回避してもいいものか、あたしは結構悩んだの」

「納得のいく落としどころを探したわけだ?」

「そうね。納得は必要だから。だからあたしは昂に言って、街に来ることだけをやめさせたの。それでも何かが起きるのなら、それはそういう運命なんだと思って受け入れようと考えたのよ」

「わかるような気がするよ」と僕は言った。


 それで僕たちはお互い話に一区切りがついたような気持ちになっていたのだろう。窓の外では穏やかな風が吹いているようで、揺られた木の葉がわずかに影の形を変えながら木漏れ日を作っている。コーヒーをゆっくりと飲み、アップルパイの残りをかじり、何を話すでもなく僕たちはしばらく穏やかな時間を共有した。


 僕の視線の先にはバス停があった。僕にしか見えないバス停だ。いつの間にか、そこにはバスが停まっていた。


「バス停の場所は変わらないよね」と僕は言った。「何かそこにバスが来る条件って存在するの?」

「プレイヤーが何人いるのかは知らないけど、たぶんひとりではなくて、『樹海』に挑めるのはひとりずつなんだと思う。誰も『樹海』に入っていない場合にバスが見え、誰かがバスに乗って『樹海』に行ってる間、ほかの誰にも権利は与えられない、って感じじゃないかな。時間の進みは同じじゃないと思うけど」

「なるほどね」

「だからあんたがわざわざ死ななくても、きっとそのうち誰かがクリアするわよ」

「なるほどね」


 僕は西片さんにお願いしてアップルパイをホールでひとつ包んでもらった。「食べさせたい人がいるんです」と言ったら詳しくは聞かずに包んでくれた。


「行くの?」と白河さんが訊いてくる。僕は小さく頷いた。

「誰かがあの白河さんを解放しなければならないのだとしたら、僕がやるべきだと思うんだ」


 そして僕たちは『マカロニ』を出た。並んで歩いてバス停へ向かう。バス停には『樹海』行きのバスが停まっている。


「いってらっしゃい」


 バスに乗ろうとする僕に白河さんはそう言った。僕は笑顔を作って「いってきます」と彼女に伝える。


 こちらの世界でそう言われるのも悪くないものだと僕は思った。

 

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