第11話 図書館とマカロニ
当然のことだろう。僕は気にせず席に着く。次の授業で遅刻の処理をしてもらい、無難に授業をやり過ごし、昼休みにはご飯を食べて本を読む。いつもの変わらない日常だ。
結局、校内で昂と話す機会はなかった。元々毎日話していたわけでもないし、僕から試合の感想を聞く必要もないだろう。この活躍は彼のクラブ内での地位を上げ、さらに選手としての活動が忙しくなるに違いない。僕に構ってくる頻度は減る筈だ。
少し寂しいものである。半ば無意識の領域に押し殺されていた記憶を自覚した今、僕は昂に対して悪い感情を持っておらず、なんなら謝罪の一言でも述べたいほどだった。
タイミングとしては、昂が試合で活躍した途端に手の平を返して態度を改めたように見えることだろう。気にする必要はないかもしれないけれど、僕は人垣を押しのけて昂とコミュニケーションを取る気にならなかったし、これまで僕から送ったことのないメールやメッセージも送る気にもならなかった。
僕は自分のコンプレックスを把握し、それとうまく付き合っていくことにしたのだ。それをわざわざ誰かに知ってもらう必要はない。
○○○
1週間以上が過ぎ、僕は何度も『マカロニ』で勤務した。『樹海』行きのバスは不定期に停まっていたが、乗る必要性を感じない。あの場にいる白河さんがどのような目的でどのような理由によってそうなっているのかわからないし、また教えてもらえそうな気もしないからだ。
仮に白河さんが僕にそう望むなら、『樹海』に行ってあげてもいいだろう。僕は何度も『樹海』での死を体験し、そのうち1度は餓死だった。確かに痛いのや苦しいのは嫌だけれど、慣れたというわけではないが我慢できないほどではないし、翌朝には帰ってこれるのだ。
ある休日、僕は読み終えた本を図書館に返し、また新しい本を1冊借りようと思っていた。借りた本が傷まないように付けている自分のブックカバーを外し、返却コーナーで期限内であることを証明し、小説コーナーへと足を向ける。
この1週間ほどで急激に冬が深まり、さすがに日中であっても野外での読書が難しくなっていた。借りていく本に目星をつけ、ほかにも何か読んでいくことにする。解放された椅子の空き具合を確認していると、ふわふわした金髪の女の子が机に向かっているのに気がついた。
彼女は机に何かを広げ、筆記用具を握って書き込んでいる。その背もたれには鮮やかな色の赤いコートがかけられており、その色合いは髪の色によく映えることだろう。
白河さんだ。僕の心臓は鼓動を強めた。
適当な本を手に取り、白河さんの向かいの席に腰かけた。彼女が広げているのは数学の問題集のようで、ノートに書き込んでいるのは複雑な計算過程だ。彼女の集中力は素晴らしく、僕が向かいに座って様子を伺っているのに気づかない。
図書館の中で声をかけるのも躊躇われたため、僕は先ほど適当に選んだ1冊を机に開いた。大きくて取りやすいという理由で選んだのは画集のようで、開いた先には大きく絵が紹介されていた。
どうやら宗教画のようだった。中央にいるのはキリストだろう。赤い衣を身にまとい、彼を兵士や市民が囲んでいる。その足元には大きな材木に細工を施す男の姿があり、そのキリストの脇にいる兵士の表情や材木を扱う男の空気から、処刑前の1場面であることが察せられる。すると、この男の細工している木材は磔台となるのだろうか。
ひょっとしたらこの木工職人や兵士はキリスト教の信者なのかもしれない。いずれもやるせない雰囲気を出しており、葛藤の中で職務にあたっているのだろうか。しかしその処刑は誰かがやらなければならないことで、誰かがやるならむしろ自分がやるべきなのではないか、と考えているのかもしれない。
自分が何かの信仰者で、その崇める対象に手を下すというのは強烈な体験だろう。想像することもできないが、いったいどういう気持ちになるのだろう?
「ねえ」
不意にかけられた声に飛び上がるほど驚いた。顔を上げると、白河さんが不思議そうな顔でこちらを見ている。
「やっぱり黒原くんだ。何してるの?」
「何って、ええと、絵を見てる」
「なにこれ偶然? こんなことある?」
「ああいや、僕がこの席に座ったのは白河さんを見かけたからだよ。凄く集中してるみたいだったし、声をかけることができなくて、絵を見てたら見入ってた」
しどろもどろに僕は答えた。動揺を押し殺すことは不可能だった。「白河さんは何をしてるの?」
「あたし? あたしはお勉強」
「えらいね」
「まあね。もうすぐ受験生になるわけだしさ。黒原くんは大学行くの?」
「今のところはそうなるんじゃないかと思ってる」
「サッカーはしないの?」
「どうかな」と僕は言った。「しないかもしれない」
「えー! するべきだって。昂もそう言ってるよ」
「昂が?」
僕がそう訊いたところで、誰かが咳払いしたのが聞こえた。ここは図書館で、私語は慎むべきである。
「まずいまずい」と白河さんは勉強道具を片付けはじめた。「ちょっと出ない?」
僕はそれに同意し、上着を着て白河さんと一緒に図書館から出た。屋外での読書に適さない気温だ。時計を見ると、お昼前になっている。
「立ち話も何だしさ、どこか店にでも入ろうか?」
僕にしては気の利いたことが言えたと思う。ただしわざとらしい口調になってしまったかもしれない。白河さんは小さく笑って言った。
「なにそれ、ナンパしてんの?」
『樹海』の白河さんに名前を訊いたときのことがフラッシュバックして思い出される。僕はこの白河さんがあの白河さんと同一人物であることを確信した。
「命がけでね」と僕は言った。
「それならあたし、あそこに行きたい。昂のパワースポットの店。黒原くんのバイト先なんでしょ?」
「『マカロニ』?」
「そうそう、『マカロニ』。ここから遠い?」
「それなりに遠いけど、行けないほどじゃないかな。白河さんはここまで歩き?」
「ううん自転車」
「それなら大丈夫だよ。一緒に行こう」
僕は徒歩だ。ゆっくりめの自転車に合わせてジョギングすれば良い。荷物は腰にカラビナで固定したバッグだけなので、それを白河さんに持ってもらうことにする。
上着に隠れていたバッグが渡され、それが腰に固定されていたことに気づいた瞬間、白河さんの目に今まで見たことのない真剣みが宿ったような気がした。ある程度の距離を走らなければならない僕に雑談する余力はないため、僕はそのままジョギングを開始した。
○○○
「ここが『マカロニ』だよ」
僕は白河さんにそう言った。既に開店時刻を過ぎている店のドアを開くと、カランカランと鐘が鳴り、僕たちの入店を店長である西片さんへ告げる。
「いらっしゃい。今日はお客さんなのかな」
「そうですね、奥のテーブル席を少し借ります。水は自分で出しますよ」
「どうぞご自由に」と西片さんは言った。
僕は白河さんを席に導き、彼女の鮮やかな赤のコートとジョギングの中で脱いだ僕の上着を受け取り壁の洋服掛けへ片付けた。カウンターの隅に設置されているウォーターピッチャーから2杯の水を汲む。レモンやオレンジといった柑橘類の輪切りが漬けられ、わずかにそれらの風味を含んだ水はなかなかオシャレなものである。それを白河さんに提供しながら、本日のランチメニューが書かれている黒板を指差した。
「あそこに書かれてるメニューがだいたい今頼めるものだね。何か気になるものはある?」
「そうねえ。オススメって何かあるの?」
「『マカロニ』の料理は何でも旨いよ。自分の好物を食べるのがオススメかな。僕が好きなのはカレーだけど、今日はあいにくやってないらしい」
「それじゃ、あたしは生ウニのパスタ。これ食べたことある?」
「もちろん。絶品だと思ってて構わないよ」
僕はそう言い、自分の分のカツサンドと一緒に注文した。西片さんはニコリと笑って注文を受け、食器を入れたカトラリーケースを僕たちの席に運んでくる。サラダの盛られた皿を僕たちのテーブルの上に置いた。
「これははじめて女連れで来た黒原くんへのプレゼント。ゆっくりしていくといいよ」
「わあ、ありがとうございます」と白河さんは華やいだ笑みを浮かべて言った。「得しちゃったね」
その花が咲いたような笑顔は僕を楽しい気持ちにさせる。恋人か何かか、と訊かれたら否定しなければならないと思っていたが、西片さんはそんなことを訊いてきたりはしなかった。しかし白河さんの顔をじっと見つめ、記憶を探るような顔をする。
「間違ってたら申し訳ないんだけど、君はよくトラヴァンツのサッカー場にいる女の子じゃないかな」
「正解です。会ったことありますっけ?」
「こっちが勝手に見かけてただけだよ。綺麗な金髪の可愛い子だから、とても印象に残ってた。毎回最前列にいるしね」
「いつも騒がしかったらすみません」
「いやあ、とてもいいことだと思うよ。この店も気に入ってくれるとありがたいね」
西方さんはそう言い、ちらりと僕の方を睨んできたため、僕は反射的に「頑張ります」と答えた。何を頑張るというのだろうか。
「まずは食べよう」
僕は白河さんにサラダを取り分け、自分の分も確保した。雑談の話題は僕の知らない西片さんの生態についてだ。どうやら『トラヴァンツのサッカー場』とはこれまで昂が鍛えられていた2軍のようなカテゴリーの試合が行われる場所であるらしい。
「入場料は微々たるもので、誰でも入れるんだけど、あまりお客はいないわね。いるのはマニアレベルのトラヴァンツファンか、選手の身内や関係者がほとんどよ」
「白河さんは昂の身内枠?」
「そうね。店長さんはマニアレベルのトラヴァンツファンなのかしら?」
「僕はこの間まで知らなかったんだけど、“にわか”ながらもなかなかのサッカーファンらしいよ。筋金入りになったのかもしれない」
僕らが勝手に西片さんのことを想像していると、本人が料理を運んでやってきた。「あまり勝手なこと言うんじゃないよ」
「いやあ、僕には勝手なことを言う権利があると思いますね。去年、僕がはじめてワンオペで働いた日のこと覚えてますか?」
「なにそれ、いつだっけ?」
「西片さんはその日、おそらく突発的に僕をひとりにした筈です。サッカー観に行ってたらしいじゃないですか」
「ああ、あの日か。思い出したよ。僕がはじめてちゃんとサッカーを観た日だね」
「あれはひどかったと思います」
「ごめんごめん。でも、なんでそれを知ってるの?」
「情報ソースは明かせません」
「まあ想像はつくけどね。冷めないうちに食べなさいよ」
「はあい」
僕は『マカロニ』製カツサンドの味を知っている。揚げたてのトンカツと共に挟まれたキャベツが食感をわずかに残してソースをまとい、軽く焼かれた食パンに挟まれている。それらが生み出す噛み心地は素晴らしく、舌に伝わる美味と同時に僕の食欲を刺激する。食べながらなお、もっとこれを食べたいと思わされるのだ。
カツサンドの一切れを素早く平らげ、区切りを得てやや冷静になった僕は白河さんの様子を伺った。白河さんはゆっくりとスパゲティをフォークに巻きつけソースが飛ばないように食べている。上品な振る舞いだが、その手の動きは速かった。
僕の視線に気づいたのか、白河さんはバツが悪そうに少し笑った。
「これ、とっても美味しいね。急いで食べちゃう」
「生ウニは僕も好きだよ。ソースが旨いわけだけど、底の方に溜まっているから、麺全体を一度ひっくり返すと良い感じになる。見た目は良くないかもしれないけどね」
「なるほど」
白河さんは小さく頷き、両手に持ったフォークとスプーンで挟み込むようにして麺全体をひっくり返した。ウニのソースが黄金のような輝きを放って麺に芳醇に絡んでいるのがわかる。白河さんはニヤリと笑い、これまで使っていなかったスプーンも利用してソースたっぷりのスパゲティを食べはじめる。
「イタリアではスプーンは子どもしか使わないって言うじゃない?」
「そう言われているね」
「あたし、大人ぶるのはやめにする。だってスプーンを使った方がソースをよく絡ませて食べられるもの」
「いいと思うよ。より旨く食べられる作法の方が正しいとされるべきだ」
僕は笑ってそう言った。
僕たちは舌鼓を打ちながらそれぞれの料理を胃袋に納め、その中でカツサンドの一切れといくらかのウニパスタを交換したりした。白河さんはとても満足してくれたようで、口元を紙ナプキンで拭って大きくひとつ息を吐く。
「とても良いお店ね」
「そうだね」と僕は言った。
料理に夢中になるあまり、ろくに話をできていなかった。僕はコーヒーを2杯注文し、ぐぐっと力を込めて白河さんを見る。白河さんはその視線を受け止め、言葉を促すように両手を広げて僕に示す。
「何か話したいことがあるんじゃない?」
「色々あるけど、『樹海』について訊いてもいいかな」
僕の口からその単語が発せられた瞬間、白河さんの好意的な笑みが消失し、あの草原で何度も見てきた無表情な顔が表に出てきた。まるで白河さんの顔を模した仮面を被ったようだ。綺麗な顔立ちをしているだけに、より冷え冷えとした空気が伝わってくる。
そのまま白河さんは黙っていたため、僕もしばらく口をつぐんだ。やがて西片さんがコーヒーを運び、それまでと違った空気が僕たちの間に漂っていることを気にしながらもカウンターの奥に戻っていった。
コーヒーをひとくち口に含み、ゆっくりとそれを飲み込んだ。意を決して口を開く。
「僕が『樹海』に行くと、いつも白河さんがそこにいるんだ。僕が何を言っているのかわからない?」
白河さんはしばらく僕を見つめ、視線を外して大きくひとつ息を吐く。再び僕をまっすぐ見ると、「わかるわ」と絞り出すようにして言った。
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