第10話 昔の夢
昔の夢を見た。
自分が小学生であることがすぐにわかった。ランドセルを背負って学校へ行こうとしている。
「いってらっしゃい」と声をかける母さんに「いってきます」と返し、靴に足を乱暴に突っ込む。どこのメーカー品でもないその靴は父さんの手作りだ。周りはNIKEやadidasのスニーカーを履いていることが多く、それが羨ましかったことを覚えている。
記憶の追体験をしているようで、僕は黒原啓太として動き考えているけれど、その言動に干渉はできない。何かこの日に印象的な出来事でもあっただろうかと考えていると、その疑問はすぐに氷解した。僕の通う小学校に転校性が来る日だったのだ。
このぶどうが丘から少し離れた都会の街から来た少年はとても洗練された格好をしていて、多大な衝撃をクラスに与えた。休み時間になると世話好きの女子や積極的な男子なんかがその子の机に群がっており、僕は遠巻きにそれを眺めていたものだった。
彼はクラスにサッカー文化をもたらした。
それまで長めの休み時間に行う球技はドッジボールが主流だったが、都会のサッカースクールに通っていたらしい流行最先端の好むスポーツはすぐに僕らの生活様式を変化させた。
クラスに置かれた共用のボールはドッジボール用のものであり、サッカーをするには彼の私物のサッカーボールを使っていた。当然その競技の主役は彼であり、そこに参加するには彼の許可を得なければならないという空気が漂う。
僕はそこに混ぜてもらうために声をかけることができなかった。最初に流行が発信された時点で流れに乗れていればよかったのだろうが、そこに乗り遅れた僕はいったいどのように参加すれば良いのかわからなかったのだ。
僕はサッカーに興じるクラスメイトを遠巻きに眺めるような生活をしばらく送った。しかしある日、その男の子は僕に気づき、声をかけてくれたのだ。
「そんなとこで見てないでさ、一緒にやろうよ」と彼は言った。
僕は何と返して良いのかわからず黙っていたが、かろうじてそのチャンスを逃さず歩み寄り、サッカーの輪に入ることができた。
その頃にはドッジボールを手で投げる者はおらず、「だから、ドッジボールを蹴るんじゃない!」と担任教師に怒られることが頻繁だった。それはクラス会でも問題となり、ある生徒の私物を皆で使い、しかもそれがクラスの備品の不適切な扱いに繋がっているという論調はサッカー禁止令の発足に繋がりそうなものだったが、担任は意外にも寛容な態度でクラスでサッカーボールをひとつ買うという方向に持っていった。
クラスには安堵の空気が漂い、それ以降のサッカーにはそのボールが使われるようになっていった。同時にその少年は自分のボールで彼のサッカークリニックのようなものをはじめ、僕は彼の生徒のひとりとなった。
彼は僕たちにボールの蹴り方から教えてくれた。それまで僕らは皆我流の適当な蹴り方をしており、正しいやり方なるものがこの世に存在することさえ知らなかったのだ。
「ゴルフのパターってわかる? あんなイメージだよ。足の内側を使って、ボールを横から真っ直ぐ蹴ると、真っ直ぐ飛んでいくというわけだ!」
足をひねって内側を無理やり正面に向けるような蹴り方だ。僕は股関節が硬いのか、なかなか上手にできなかった。ぎこちなく言われた通りに蹴ってみても、うまく力を伝えられないのかボールは力なく転がっていく。
「慣れだよ慣れ。練習しろよな」
彼は僕にそう言った。僕は言われた通りにできない自分にもどかしさを感じながら練習を重ねた。それでも僕には違和感ばかりが残り、なかなか上手にはならなかった。
自分のサッカーボールを持たない僕は、幼児だった頃オモチャに用意されたようなゴムボールを部屋や庭で蹴り続けた。足の内側の面を使ってボールを真っ直ぐ飛ばそうとする。やがて僕は正面に向かって蹴るより斜めに蹴る方が効率的に力を伝えられることに気がついた。
足の内側を使って正面にボールを届けるためには脚部を合計90度ほど歪ませる必要がある。それに比べて斜めに蹴る場合はほとんど自然な状態で蹴ることができるのだ。自分の体自体を斜めに置けば、ボールを意図した方向に真っ直ぐ押し出すことができる。
さらに内側の面を使ってボールを切るように蹴り抜けば、わずかに真芯をずらしたキックはボールに回転を与えることができる。完全な内側の面ではなく足の内側と親指の付け根のあたりにで作った小さな面を使って蹴れば、さらに強いボールを蹴ることができる。僕は様々な発見が面白く、オモチャのボールで考えた蹴り方を学校のサッカーボールで実践する日々を送った。
少年のサッカークリニックのようなものにも通い続けてはいたが、彼の教える正しい蹴り方はどうにも僕に合わなかった。
「ちゃんと正面に蹴らないとだめだよ」
彼はそう言う。僕は言われた通りにできない。言われた通りにできないが、僕は彼の教えから得た知識を元に、誰よりも上手にボールを蹴られるようになっていった。
クラスにサッカー文化を根付かせ、僕たちにサッカーを普及した少年は面白くなかったことだろう。次第に彼は僕たち、特に僕に技術を教えることをやめていった。
その年の誕生日に父さんが作ってくれたのはサッカーシューズだった。あえて既存のデザインに似せて作ってくれたのであろうシューズはとても格好良く見え、さらにはサッカーボールも一緒にもらえた。皮製の立派なものではなくビニル製の安物だったが、僕は自分のボールにひどく興奮したことを覚えている。
父さんはサッカーボールを蹴るのが下手で、僕と一緒に蹴って遊んだりはできなかった。そのかわり、庭に頑丈な塀を1枚備え付けてくれたため、僕はそこに向かって壁蹴りのようなことができるようになったのだった。
思う存分練習できるようになった僕はメキメキ上達していった。土の地面を傷めないよう僕のシューズにはスパイクが施されていなかったが、僕には大きな問題とならなかった。やがて塀にはボールのぶつかった跡がシミのように残り、その小さな黒ずみを狙って僕は思った通りの軌道でボールを送り込むことができるようになった。
クラスでもサッカーの流行は衰えておらず、僕はすっかり上級者として名を馳せていた。僕は右サイドのプレイを好んでおり、そこでボールを触っていれば、フィールド上の状況をだいたい把握できていた。好きなプレイはその右サイドから大きくゴールに近づくロングボールだ。隙をみてゴール前に走り込んでさえくれれば、僕は思い通りの回転と速さでその足元へピタリと通るボールを送り込むことができるのだ。
しかし僕は足元の細かな技術が下手くそだった。大きく足を振ってボールを思い通りに蹴るのは得意なのだが、小さくボールを動かし相手をかわすことが上手にできない。性格的に、無理やり体をねじこむようにして抜くのも苦手で、つまり僕はドリブル突破ができなかった。
テクニックを見せつけたい者が好んでやるのは相手をドリブルで抜き去ることだ。もちろんそれが可能な少年は、やがてドリブルの重要性を強く説くようになっていた。
「パスを回すのもいいけど、結局最後の局面で必要となるのはドリブル突破なんだ。攻撃的な選手はドリブルができないといけない。黒原は、まあ下手ではないけどさ、ドリブルができないから駄目だよ。使えない」
彼はある日、僕もいるところで皆にそう言った。そしてドリブルテクニックの一部を見せびらかした。
駄目だ。使えない。そんな悪意の剥きだされた言葉を受けるのは僕にとってはじめてのことで、どう反応して良いのかわからなかった。
それが引き金となったのだろうか。彼はことさら僕にドリブルで挑んでくるようになり、チーム分けで味方になっても僕にドリブル突破を強要した。
僕はうまくドリブルができない。ただし誰よりも上手にボールが蹴れた。比べたことはないけれど、ひょっとしたらかつて蹴り方を僕に教えたその少年よりも上手だったかもしれない。しかしドリブルができない僕は、次第にサッカーをするのが好きでなくなっていった。
庭でもボールを蹴らなくなり、彼の僕に対する態度を知っているクラスメイトたちは僕をサッカーに誘うことをしなくなった。僕は暇つぶしに本を読むようになり、その習慣は今でも続いているというわけだ。
ある日、クラスのひとりが声をかけてきた。
「今日、あいついないからさ。啓太も一緒にサッカーしようぜ」
僕は久しぶりにボールを蹴った。さすがに実戦勘のようなものが衰えているのかフィールドの状況を把握するのに難儀したが、それでも体に染みついたボールを蹴る技術自体はすぐに復元される。ボールを蹴るのは楽しかった。
サッカーボールを足元に受け、蹴りたい軌道をイメージしながら体全体を使って芯を蹴る。思い通りの回転をまとったボールは空気を切り裂くように弧を描き、ゴール前に走り込んだチームメイトの足元に送られていった。
その帰りがけに視線を感じた。誰のものかわからなかったが、翌日の下校時に僕のサッカーシューズは下駄箱の中でズタズタに引き裂かれていた。カッターか何かを使って子どもの力で切ったのだろう。皮を裂くのにとても苦労した様子が見て取れて、その者の執念のようなものをかえって強く感じさせた。
僕はその日上履きで家に帰り、かつてサッカーシューズだったものとビニル製のボールを押し入れの一番奥に片付けた。外を歩いた上履きを洗い、誕生日が来るまで履いていた靴を取り出し玄関に並べる。
僕はボールを蹴るのが上手だったが、サッカーがとても嫌いになった。
○○○
仰向けで目が覚めた。いつもの僕のベッドである。
ずいぶん長い夢を見たものだが、その情景は断片的なものの連続で、ひょっとしたら走馬灯のようなものなのかもしれなかった。身を起こしてベッドを出ると、なんだかひどく疲れている。
もはや名前も正確には思い出せない、僕にボールの蹴り方を教えてくれた少年との記憶は、押し入れの一番奥に封印されたようなものだったのだろう。この夢を見るまで存在さえ思い出さなくなっていた。
ある程度歳月を経た今では、ある程度客観的に見ることができる。僕はサッカーボールを蹴るのが好きで、サッカーをするのも好きだった。その少年にも感謝している。不幸にも関係はこじれてしまったが、仲間に入れてほしいと声をかけることができなかった僕を誘ってくれたのは彼で、彼は僕にボールの蹴り方を教えてくれた。
教えた通りにできなかった僕が悪かったのだろうか? そうは思わない。
では自分が教えた通りにできないくせに、それ以外のやり方で、許容できない上達をみせた僕に苛立つ彼が理不尽なのか? 僕はそうも思わない。
いずれも仕方のないことだろう。十分に理解できる。水が低いところへ流れるのを止められないように、僕たちにはどうしようもないことなのだ。彼を嫌う必要もないし、サッカーを嫌う必要もないし、
自覚できていなかったが、おそらく昂はこの一連の記憶に触れる存在だったのだろう。同級生で、僕に声をかけ、サッカーがとても上手い。かわいい彼女がいるのは気に食わないが、この背景をふまえて考えれば、昂に対してどのような悪い感情も持っていないことに僕は気づいた。
そんなことを考えながらぼんやり眺める先には押し入れがある。奥に押し込まれたサッカーシューズとボールは、探すと確かにそこにあった。
空気入れも一緒に入っている。僕はビニル製のボールと空気入れを押し入れから取り出し、ボールの弾力を確認すると、空気入れを使って蹴るのに適切な量の空気を入れた。
庭にはいまだに僕のための塀が建っていた。靴を履いて庭に下りると、塀のよくボールを当てていたあたりがぼんやりと黒ずんでいるのがわかる。今の僕からしたらよくこの庭でボール遊びをしたものだなと思えるほどの狭さだが、当時の僕には十分だった。
ビニル製のボールを地面に弾ませ、右足で小さく前に出す。塀を見つめる。真っ直ぐ塀に向かう速い球だ。僕は左手を高く上げるようにして全体のバランスを整えながら、全身を使ってボールを蹴った。
強いインパクト。親指の付け根のあたりが小さな面でボールの芯を蹴りぬける。定規で線を引いたように一直線に放たれたボールは塀の黒ずんだ部分に当たり、跳ね返って僕の足元へと転がってきた。
それを右足で受ける。少し乱れた。今度は体の角度を調節し、右足内側の面を使ってパターで斜めに殴り抜けるようにボールを転がした。
いずれも僕の思ったところに思った軌道でボールは進む。僕はボールを蹴るのが上手なのだ。
「まぐれじゃねーし」
聞く者もなしに僕は呟く。かつて昂に送ったボールも、僕には思い通りのものだった。
「珍しいな」
声をかけられたのでそちらを向く。父さんからのものだった。「珍しいと言うか、懐かしいと言うか」
「おはよう」と僕は言った。
「はい、おはよう。一体どうしたんだ?」
「別に。かつてボールを蹴ってた日々を、ちょっと思い出してさ。この塀って壊しちゃわないの?」
「壊してもいいけどな。思い出に残しても面白いかなあと思ってるんだ」
「面白いかな?」
「面白いさ。お前がいずれ嫁さんなんかを連れてきてさ、なんですかこれ? なんて言って。お前の恥ずかしい幼少期の思い出話をあることないこと話すわけだよ」
「今すぐ壊した方がいいんじゃないかな」
僕はしばらくボールを蹴り、塀から返ったボールを丁寧に受けた。丁寧に受けているつもりだったが、ボールの勢いはなかなか殺せず、その度僕は何歩か歩いて次のキックの位置を調整する必要があった。
父さんはそんな僕の様子を何を言うでもなく眺めていた。僕はひときわ強くボールを蹴ると、跳ね返ったボールを踏むようにして制止した。そして父さんの方に向く。
「ねえ、靴屋って楽しい?」
「なんだよいきなり」
「最近色んなことを考えてさ」
「青春の悩みか? 相談じゃなくて質問なら答えてやるけど、そうだな、おれは楽しい、ってのが正直なところかな。ひとから見てどうかは知らん」
「何が楽しいのか言葉にできる?」
「何が楽しいか? それはなかなか正確に答えるのが難しい質問だな」
父さんは言葉を止め、「そうだなあ」と面白そうに考え込んだ。僕はサッカーボールを手に取り、庭で蹴って付着した汚れを簡単に拭き取った。
「おれは職人だけども自分で店も持っているから、自分が好きなように商売できるってのが一番楽しいところかな。誰かの下で働くとなると、言うこと聞かないといけないし、最初は“あなたの好きにしていただいていいですよ”って態度でも、結果が悪けりゃ口出しされるようになるわけだろ? お前が家族であることを無視して言うと、おれのやりかたが間違ってて店が潰れちゃったとしても、ただおれが終わるだけで済むからな。迷惑はかからない」
「職人のやり方に口出しする経営者なんているの?」
「そりゃあいるさ。流行のデザインとか、制作コストの削減とかさ。おれはそんなものクソ食らえで、おれが作りたい靴を作りたいんだ」
「そこは客第一、って言っとかないの」
「客ねえ。“客の満足”がおれの満足項目の中にあるからもちろん重要視するけど、おれは何も客のために靴を作ってるわけじゃないんだ。いや、客のために作るんだけどさ。このニュアンスわかるかな?」
「なんとなくわかる気がするよ」
僕がそう言うと、父さんはほっとしたように小さく笑った。
「おれは目の前だけを見て仕事をしたいんだ。ひとりひとりの客に、その足にもっとも適した靴を作る。当然客を満足させる。それだけが大事なんであって、そうじゃない仕事なんてしたくないんだよ。今のところはうまくいってる」
「そうだね」と僕は言った。
僕の履く靴は父さんの手作りだ。誕生日プレゼントが靴であることに不服を唱えたことはあるけれど、靴の出来自体にはどのような不満を抱いたこともない。
「だから、おれの店はおれで終わりにするつもりだ。お前が継ぐ必要はないし、何かやりたいことがあるならやればいいさ。靴職人になるというなら厳しく接してやってもいいぞ」
「それはごめんこうむるよ」
今日は平日で、気づけばとっくに登校時間を過ぎていた。僕は大慌てで学校に向かう。完全に遅刻だが、なんだか悪い気はしなかった。
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