第9話 ミルクティーは冷めやすい

 

 ミルクたっぷりのミルクティーをちびちびとすすりながら、僕はまったく試合に集中できていなかった。


 ぼんやり眺める長方形の芝生の上では合わせて22人の選手たちがボールを追って走っている。しかし前半の様子と比べると、どちらのチームの選手も運動量が減っているように僕には見えた。


「ちょっと膠着してきたね」


 僕の印象を肯定するように、背伸びをしながら白河さんがそう言った。ストローを口にくわえてオレンジジュースをすする。目線はフィールドに向けたまま、白河さんは質問してきた。


「ここ、来たことあるの?」

「あるよ、子どもの頃にね。なんで?」

「スタジアムの売店でミルクティーのミルクを増量するなんて、普通しないんじゃないかと思ったから。あら常連かしらと思ったの」

「常連ではないよ」僕は笑ってそう言った。「来たのも1度だけだ。子どもの頃に、父さんに連れられて、僕はサッカーを観に来たことがある」


 その日も寒かったのを覚えている。僕と父さんが買ったチケットは自由席のもので、僕たちの座る指定席からはちょうどフィールドを挟んで反対側の上段の方に位置している。


 はじめて見るスタジアムはとても巨大で、内部に響く肉声の応援歌に僕は圧倒されていた。父さんはそんな僕とはぐれないように、僕の手を引き、空いている席を探してくれた。結局試合開始間際に入場した僕たちのために空いている席はなく、踊り場のようなスペースで僕たちは立ち見をするしかなかった。


 遠くからでは細かな内容までは見られない。ユニフォームからチームを判別し、どこらへんのポジションの選手がボールを扱っているのかを把握する程度がせいぜいだった。それでも実際のサッカー選手が自分と同じ空間で動いているというのは何ともいえない感動を僕に与えた。


「父さんにはよくわからないなあ。啓太は面白いか?」


 転落防止の柵にもたれかかり、父さんは僕にそう訊いた。僕は「面白いよ」と短く答えた。


 試合内容はよく覚えていない。当然トラヴァンツとどこかの対戦だったのだろうが、対戦相手さえわからない。僕はサッカーに詳しいわけではなかったので、おそらくそんなことを重要とは思っていなかったのだろう。前半が終わると父さんは僕にトイレに行く必要がないことを確認し、そこにいるよう言い残してどこかへ消えた。


 そしてしばらくして戻った父さんは両手に飲み物のカップを持っていた。


 そのうちひとつを僕に差し出す。暖かいミルクティーだった。両手で包んだカップに口をつけ、ちびりとすする。寒空の下、その暖かさが何よりも嬉しかった。


 後半戦がはじまっても僕はミルクティーをちびちびとすすった。まるで無くなってしまうことを恐れるように、じわじわと少しずつ飲み進めていく。飲み物の温度はすぐに失われたが、それでも僕は飲む速度を速めなかった。


 結局、試合が終わっても僕の持つカップにはミルクティーが4分の1ほど残っていた。それを見た父さんは軽く屈んで目線の高さを合わせ、僕の頭を乱暴に撫でた。


「ごめんな、ジュースの方が良かったかな? 一応子ども用に砂糖を入れて、ミルクを多めにしてもらったんだけどな」


 飲みさしの入ったカップを奪おうとしてくるのを拒否し、僕は急いでミルクティーを飲み干した。既に冷たくなっていたが、父さんの買ってくれたミルクたっぷりのミルクティーはとても美味しく感じられた。


「だから僕は、このスタジアムでハーフタイムに飲むのはミルクたっぷりのミルクティーと決めているんだ。まだ2回目だけど」


 僕は白河さんにそう言った。白河さんはそれまでフィールドを眺めていた視線をこちらに向け、僕に向かってニッと笑った。


「良い話じゃない。そのミルクティーは美味しいの?」

「砂糖まで入れたのも良くなかったのかな。甘ったるくて美味しくないよ」


 僕はそう言い、カップに口をつけてちびりとすすった。冷めたミルクティーは決して美味しくはなかったが、僕はその甘ったるさを思い出すようにちびちびと飲み進めた。


○○○


 後半も20分ほどが過ぎ、膠着状態に陥っているフィールドにはあまりダイナミックな展開が生じなくなっている。それに伴いスタジアムの熱気もどこか停滞しているような印象を受けていたのだが、ついに転機が訪れた。


 最初は何が起こったのかわからなかった。フィールド上のボールの蹴り合いはこれまでと変わらないテンションであるにも関わらず、不意にスタンドから声援が飛びはじめたのだ。


 『内藤』と、その声援はたかしの名前を呼んでいた。


 反射的に隣の様子を伺うと、白河さんは長方形の芝生の隅の方を注視している様子だった。その視線を追うように僕も身を乗り出すと、そこにはウォーミングアップを施す何人かの選手たちの姿があった。


 そこで動いているのは途中出場するかもしれない選手たちなのだろう。その中に昂がいる。前半にも何人かが同じような動作を行っていた記憶があるが、これまでにこのような声援を受けられる者はいなかった。


「昂、出るの?」と僕は白河さんに訊いてみた。

「そうかもしれない」と白河さんは言った。


 それから5分ほどが経ち、やがてその時がやってきた。内藤昂が長方形の芝生の長辺側のラインに立ち、交代する選手が駆け足で昂に寄っていく。何か言葉を交わした昂はその選手と軽く抱き合い、ダッシュでフィールドに入っていく。


 周りを見渡すように頭を振りながら所定の位置に収まった昂はピンと背が伸び堂々としているように見えた。さすがに表情までは伺えないが、このような舞台に立つ17歳はいったいどんな気持ちでいるのだろうか?


 選手交代が終了し、試合が再び動き出した。トラヴァンツというよりは昂個人の応援をするような合唱が流れる。その声援に後押しを受けるように、昂はフィールド中を駆け回る。素人目で見ても動きの速さと量が違うのがすぐにわかる。背が低いのでそれがいっそう目立つのだ。


 その昂の運動量に引っ張られたのか、再びトラヴァンツの選手たちが前線からボールを追いかけだした。スタジアムの声援を受けて迫るディフェンダーはボールの保持者にプレッシャーを与えることだろう。たまらずボールを後方に戻して攻撃を組み立てようとするが、おそらくそれこそがトラヴァンツの狙い所だ。


 中途半端なバックパスが伸ばした昂の足に引っかかる。自分で取りに行くには弾かれたボールは遠くに弾んでしまったが、昂の代わりにそれを拾う者がいた。


 前半戦で良い動きからシュートを放った選手だ。彼は敵よりも早くボールに触れると、次の動作で少し遠めにボールを置いた。ちょうどそのボールと彼の間をディフェンダーが体ごと滑り込むように通り抜け、その作った距離が意図的なものであることに僕は驚く。


 難なくスライディングをやり過ごした彼は、大きな動作で振りかぶるようにフォームを作り、蹴る寸前でわずかに足の軌道を変えてボールを蹴った。


 足の外側の側面を使ったのだろうか? 最初の大きなフォームからの予想とは違った方向に実際のボールは飛んでいく。


 そしてその先には走り込んだ昂がいるのだ。自分でパスカットした直後であるにも関わらず、昂は長い距離を当然のように走り抜けていた。


 美しい芝生を切り裂くように、低く速いボールが地を這うように飛んでいく。そして、それまでのスピードをまったく感じさせない柔らかな動作で昂がボールを受けると、ボールはその足元に静かに転がる。


 このスピードで飛んできたボールを意図的にその場所に置けるというのか。周りの時間が止まっているかのようだった。すべてがあらかじめ決められていることのように、誰にも邪魔されることなく、なめらかな動きで昂はボールまでちょうど1歩のステップを踏んだ。


 サッカーボールの芯を屈強な足が蹴り上げる音が僕たちの席まで届く。その音を認識する頃には、蹴られたボールは定規で引いたようにまっすぐゴールに向かって飛んでいた。キーパーが必死に伸ばす手は届かない。ボールはクロスバーに当たって真下に落ちた。


 そして、地面に向かって打ち下されたボールは激しくバウンドし、ゴールネット上部を下から上に突き上げるようにしてゴール内部に収まった。


 強烈なシュートだった。ボールは転々とゴールの中に転がっている。


 スタジアムにはわずかな沈黙。そしてその現象が現実に起こったことだと認めるように、少し遅れて大歓声が沸き起こる。「すごい!」「信じられない!」そんな言葉が飛び交っている。外国人なら「オーマイグッドネス!」とでも頭を抱えて叫んでいることだろう。


 昂は両手を広げてフィールドを走り、自分のゴールを祝福している。僕は反射的に立ち上がっていた。一緒に立ち上がった筈の白河さんの気配がない。どうやら彼女は立ち上がったのではなく、身を乗り出して腰を浮かせた後再び着席していたらしい。


 隣の席に目を向けると、白河さんは口に手をあて、その大きな目から流れる涙をぬぐいもせずに泣いていた。


 涙で視界がぼやけていることだろう。しかし瞬きをすることをもったいないと思っているのか、白河さんは強く目を瞑ることはせず、雨の日のフロントガラスをワイパーが素早く撫でるように、小さな速い瞬きを繰り返している。その視線の先にいるのは内藤昂で、集中して狭くなった視野の中に僕は指先さえも入っていないかもしれない。


 自分の興奮が冷めていくのがわかる。僕はカップに残ったミルクティーを飲み干し、指定席に腰を下ろした。スタンドの観衆は、ついにもたらされた先制点と、その先制点を入れた本日がデビュー戦となる高校2年生に熱狂している。


 試合の残りはどうでもよかった。少し昔話などをして、仲良くなった気になったのが間違いだったのだろう。僕がどれだけ勘違いをして、馴れ馴れしく振る舞ってみたところで、彼女の涙が僕のために流されることはあり得ないのだ。


 内藤昂が芝生の上を走っている。僕は観客としてそれを眺める。試合はそのまま昂の入れた点によってトラヴァンツの勝利に終わった。


○○○


 草原。

 僕の両手は空いている。


 昂のデビュー戦を観戦した翌日、僕は『マカロニ』で昼のシフトに入っていた。その日は西片さんと同時の勤務で、いつもは負担が少なくなるため歓迎している形なのだが、この日ばかりは勘弁してほしいところだった。


 特別伝えていなかったため、西片さんは僕がスタジアムに行ったことを知らない。クラスメイトで先日接触もあった昂の話題、しかもプロの試合でデビューしてゴールまで上げたフォワードの話題を完全に避けることはできなかったが、話をまったく広げない僕の態度によって、すぐに世間話の話題はほかのことに移された。西片さんが空気の読める大人であったことに感謝である。


 地元のスター候補生の衝撃デビュー戦、ということでニュースになっているのだろう。客のひとりがスポーツ新聞を置いていった。昂が1面トップとなっていて、その小柄な体と両手を広げて走り回るゴールパフォーマンスから『小型飛行機』という愛称が早くもつけられていることを僕は知った。


「記念にあげる、ってよ。僕は自分で買ったから、よかったら黒原くんが持って帰ったら?」


 西片さんはそう言った。その客はおそらく雑談の中でこの店に昂が訪れることでも知ったのだろう。ひょっとしたら僕が同級生であることも知ったのかもしれない。もしくは、お前もこいつみたいに頑張れよ、と大人特有の押しつけがましい応援のメッセージでもあるのかもしれない。


 いずれにせよ、僕はそれを受け取った。そして捨てるのも気が引けたので、それを持って『樹海』行きのバスに乗ったというわけである。


 草原にはいつも通りの女の子がいた。穏やかな風にふわふわとした金髪が揺れ、その色合いは赤いワンピースに良く似合っている。ノースリーブの白い腕の先には袋のようなものと、足踏みスイッチとメダルが握られている。


「こんにちは」と彼女は言った。

「こんにちは、白河さん」と僕は言った。


 白河さんは怪訝そうな視線で僕を見た。「なに?」


「これをあげようと思ってね」


 僕はそう言い、内藤昂が1面記事となっているスポーツ新聞を白河さんに手渡した。白河さんは無言で受け取り、代わりに袋のようなものと足踏みスイッチとメダルを僕に渡す。


「ありがとう。それじゃ、いってらっしゃい」


 制止する間もなく白河さんは姿を消した。僕に残されたのは地下へと続く階段だけだ。


 僕はしばらくその下り階段を眺め、様々な思いを頭に遊ばせた。話したいことはいくらでもあった。この『樹海』の白河さんと僕と一緒にサッカーを観戦した白河さんは同一人物なのか、どうしてこのような状況になっているのか、何か問題があるのだとしたら、僕にできることがあるのかどうか。


 しばらく考えてみたが、僕にできる唯一のことは、「いってらっしゃい」と彼女に言われた通り、この階段から下りる先へ行ってくることだけだった。


 地下1階。

 僕の両手は空いている。


 心がささくれだっていた。


 下りた先を探索する。アイテムは何もない。コットンが立っていた。殴る。殴られ、殴る。やっつける。近寄ってきたモッツァレラに施すのも同様の処理だ。殴る。殴られ、殴る。やっつける。遠くの方でファンファーレが鳴る。


 その美しい旋律に耳を傾けることはない。通路に向かって歩み、道なりに進む。モッツァレラがいる。殴る。そんなことの繰り返しだ。


 機械的に単調な作業を行い、下り階段を目にした僕はまっすぐそこに向かって下りた。


 地下2階。

 僕の両手は空いている。


 敵から受けたダメージとして残る痛みも、どことなく他人事のように感じられた。まっすぐ先に進み、落ちていたアイテムを拾う。敵が出たら殴り、殴られる。そいつか僕かが死ぬまでだ。


 死ぬつもりはないが、別に死んでも構わなかった。経験があるからだろうか? 不思議なことに、あまりそれが怖くないのだ。僕にとってそれより重要なのは、敵と殴り殴られしている間や確固たるダメージが残っている間は内藤昂や白河由紀のことを考える余裕がないことだ。


 地下3階。

 僕の両手は空いている。


 この階からから出現する敵がいた。確かナリジンという名前だ。センスはともかく名前の由来に少しは見当がつくモンスターたちの中、こいつのネーミングは意味がわからない。


 距離と歩数の計算をせず不用意に近づいた僕に、ナリジンは柑橘系の苦味で殴りかかってきた。


『ナリジンの攻撃! ケイタに11ポイントのダメージ!』


 そんな感じだ。


 非常に痛い。まさに“死ぬほど”痛いと言えるだろう。その疼痛は強烈で、僕はかえって冷静になれた。


 そして冷静になった僕は現状を確認することにした。僕の“体力”はナリジンに殴られだいぶ心許なくなっている。回復のアイテムはなく、運良く拾えた装備品はそのまま装備されずに袋に入っている。僕の両手は空いているのだ。


 新しく装備をするのに1ターン消費することがわかっている。それを受け入れる余裕はなさそうだ。僕にできるのはこの部屋を数歩後ずさる間に数ポイントの“体力”を回復し、このまま素手で殴り合うくらいのものである。


 どうする? どうしようもない。


 僕は思考を放棄した。そのまま素手でナリジンを殴る。当然ナリジンから殴られる。奇跡が起こって次の攻撃でナリジンをやっつけられれば何か新しい展開が開けるかもしれない。


 期待をしていたわけではないが、横着な考えではあっただろう。奇跡はそんなところには生じない。


 ナリジンを殴り、ナリジンから殴られ、僕は死んだ。

 

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