第8話 ファーストコンタクト

 

 自分の置かれている状況がうまく認識できなかった。


 僕の視線の先では金髪の女の子が指定席に座って僕を見ている。彼女は鮮やかな赤のコートに身を包み、その色合いはふわふわと揺れる髪の色に良く合っていた。口元には小さな微笑み。好奇心の混じった様子の表情は好意的なものに見え、僕の記憶にある赤いワンピースの女の子のものとは決して一致しないように思われた。


「こんにちは」と彼女は言った。

「こんにちは」と僕は返す。それが僕にできる精一杯のことだった。


 彼女が僕の知っている女の子だとしたら、白河由紀という名前の筈だ。しかし、僕のもつコミュニケーションスキルはきわめて脆弱なもので、特に女子と会話し名前を聞き出すというミッションはどう攻略すれば良いのか皆目検討のつかない難度である。


「ここの席のひとですか?」


 いつまでも突っ立っている僕に彼女はそう訊いた。僕は依然続く混乱をなるべく表に出さないように気をつけながら肯定し、言われるままに彼女の隣に腰掛けた。僕の持つチケットの指定する席で間違いない。ということは、この娘は内藤昂ないとう たかしの彼女なのだろうか。


 僕が果たしたいと思っていたミッションは、彼女によって簡単に達成された。


「はじめまして。あたしは白河由紀です」と名乗られたのだ。

「僕は黒原啓太です」

「知ってるわ。ねえ、あたしたち同級生らしいし、タメ口で話しましょ」


 白河さんはクスクス笑ってそう言った。どうやら僕のことを知っているらしい。だとすれば、情報源と考えられるのはただひとり、昂であるに違いない。


「もちろんいいよ。僕は白河さんのことを知らないけど、どんなことを知られてるんだろう?」

「大したことじゃないわよ。内藤昂のお気に入りで、それでもなかなかつれない態度を取られる。だからあたしはちょっぴりヤキモチを焼いたりして、会ってみたいと思っていたりする程度」

「そうなんだ?」と僕は言った。


 白河さんはそれに答えず、強めの視線で僕のことを睨みつけた。そういう表情も魅力的だと僕は思った。


「見て、昂が出てきた」


 白河さんは美しい芝生のフィールドに目を向けていた。僕たちの座る指定席はフィールドからそれほど遠くないところに設置されていて、試合前のウォーミングアップを行う選手の姿が肉眼でもよく見える。白河さんの指差す先には確かに昂の姿があった。


 昂は紫と白を基調としたユニフォームを身にまとい、長めの距離からゴールに向かって何度もボールを蹴り込んでいた。わざわざ彼の練習を手伝うために何人もの大人が用意されている。その顔つきもなんだか精悍なものに見えて、これが同じクラスの同級生であるとは到底思えなかった。


 しばらく昂が彼の仕事場で動いている様を眺めていると、スタジアム全体に響き渡るような音量で音楽が鳴りはじめ、設置されている巨大なスクリーンに動画が流れだした。それと同時にフィールドにいた選手たちが次々と引き上げていく。どうやら動画は出場選手の紹介のためのものらしい。ウォーミングアップを終えた選手たちが入場するまでの時間を潰すためにあるのだろう。


 ひとりひとりの顔と全身像、背番号がスクリーンに映される。選手の名前が呼ばれると、それに合わせるように観客席から怒号のような歓声が沸く。おそらく先発出場する選手を優先的に流すのだろう、昂の番が回ってきたのはしばらく経った後だった。


『背番号9! ないとう~!』

「たか~し!」


 放送の呼ぶ苗字に合わせて観客が選手の名前を叫ぶのだ。いったいこのスタンドに何人のファンがいるのか知らないが、密集した群集が合わせて発する呼びかけはどのように選手に届くのだろうか。他人である筈の僕にもなんだか心揺さぶられるものがあった。僕の隣でひときわ大きな声を上げた昂の恋人はなおさらだろう。


 僕は白河さんがどのような顔をして昂の名前を呼んでいるのか、どうしても見ることができなかった。


 全員の選手紹介が終わった後、スタジアムは妙な穏やかさを漂わせていた。おそらく試合開始が近いのだろう、穏やかな中にも何か熱いものが揺らいでいるような、ある種の不穏な空気が感じられる。白河さんに何か話しかけようと思ってはみたものの、何を話せば良いのかわからず僕からコミュニケーションを取ることはできそうになかった。


 やがて選手が再入場してきた。それぞれが子どもの手を引き、ゆっくり並んで行進してくる。美しい緑の芝生に屈強な男たちが整列している様は壮観だ。彼らは試合前の儀式をこなし、やがてフィールドに散らばっていった。スタジアムのボルテージがじわじわと上昇してくるのがわかる。早くも応援歌が叫ばれる。


 鋭い笛の音が夜空に響き、キックオフの瞬間が訪れた。


○○○


 予想通り、昂は試合開始のフィールド上にはいなかった。僕たちの席は控え選手やスタッフの並んでいるであろうベンチの上部にあるため、中の様子を伺うことはできない。左右どちらのベンチが昂たちの座っているものなのかさえ僕の貧弱な知識ではわからなかった。


 僕が知っていることといえば、昂の所属するこの地元のチームがトラヴァンツという名前をしており昂のポジションがフォワードであるということくらいだ。


 相手のチーム名さえ知らなかった。黒地に黄色で構成されたユニフォームをしている。チーム名さえ知らないくらいなので、僕は当然選手の名前もわからない。唯一知ってる選手は内藤昂のみである。


 そんな僕とは対照的に、白河さんはサッカーに詳しいようだった。試合中に僕とコミュニケーションを取る気は一切ないらしく、前のめりでリアクションを交えながら楽しそうに観戦している。もちろんトラヴァンツを応援している様子だった。


 紫と白の縦じまがボールを相手ゴールに向けて運ぶと白河さんのテンションは上がり、その攻撃が上手くいかないと自分のことのように頭を抱える。「いけ!」とか「そこ!」とかの声をフィールドを指差しながら上げ、選手が倒れた際に審判が反則の笛を吹かなければ両手を挙げて抗議の姿勢を見せるのだ。


 確かにサッカーを見るのは面白い。ボールを蹴った音が聞こえるほどの近くで、今まさに1個のボールを用いた戦いが展開されているのである。


 トラヴァンツのある選手がボールを受ける。彼はそのボールを右足前方にコントロールし、1歩の距離を踏み込んで長い軌道をボールに描かせた。ボールにかけられた回転に従ってわずかにカーブして飛んでいく、その行き先にはほかの選手が当然のように走りこんでおり、彼はそのままの勢いでボールを中央に小さく蹴り返す。そこに顔を出すのは3人目の選手だった。このダイナミックな連動した動きで構成された攻撃は明らかに敵の守備を出し抜いており、奏功するかに思われた。


 しかし、最終的に放たれたシュートはゴールを大きく外れて飛んだ。上手く芯を食った蹴り方ができなかったのだろう。僕の隣では白河さんが天を仰ぐようにして攻撃の失敗を呪っていた。


「入れろよ~!」


 後ろの席からファンのそうした野次が飛ぶ。シュートを撃つ選手の仕事は上手くボールをゴールに蹴り込むことだろう。それに失敗した以上、心無い野次に責められるのは避けようのないことだ。それでも僕には彼を責める気にはならなかった。彼はおそらく最前線で戦うフォワードの選手ではなく、そのシュートを放つために長距離を全力疾走してきていた筈だからだ。


 その証拠に、彼はシュートに失敗した後一目散に守備に戻っており、その位置はほかの攻撃を主に担う選手たちよりも明らかに低い。規模の大きな運動の末に放ったシュートは当然精度が落ちる筈だ。その一瞬のインパクトでボールの行方は大きく変わる。


 僕は自分の振った右足がサッカーボールの芯に当たり、思い通りの軌道のボールが蹴られる眺めを頭に浮かべた。余分な力がまったく入らない理想的な蹴り方ができたボールは手ごたえを感じることなく飛んでいき、その飛んでいくボールを眺める時間は至福のものとなることだろう。


 サッカーを見るのは楽しいが、同時に羨ましさのようなものを感じることだった。ボールを追って両チームの選手が走る。彼らはいずれも譲らず、体をぶつけ合って自分の権利を主張する。やがてその競り合いに勝利した方がボールを得られ、彼は攻撃を開始する。気づくと前半が終わりかけていた。


 トラヴァンツの選手たちの方がよく走っているように僕には見えた。彼らが攻撃する際、敵のチームの選手たちはどちらかというとある程度の距離まで撤退して守ろうとするのに対して、トラヴァンツの選手たちは守備の時間帯に積極的にボールを追いかけまわし、何とか奪取しようと試みているようだ。


 それが良いことなのかどうかは僕にはわからない。少なくともその試みが成功して点を取ることも、その動きを逆手に取られて失点に結びつくこともなかったからだ。しかし、相手より走り回る分、特に前線の選手たちの損耗は大きいことだろう。これが今回出番がありそうだと昂が言っていた根拠なのかもしれない。


 そんなことを考えている間に大きな事件が起こることはなく、主審はちらりと腕時計に目をやると、笛を口に咥えて前半終了の音を鳴らした。


○○○


 思いのほか集中していたらしい。笛の音でサッカーから解放された僕は大きくひとつ息を吐き、隣に座る白河さんに目を向けた。白河さんもちょうど僕の方を見ていた。


 金髪の美少女と目が合う。白河さんの瞳は薄い茶色で、好きなのであろうサッカーの試合を観戦している興奮のためか、わずかに潤んでいるように見える。見つめていると息をできなくなりそうなので、僕は視線をそらして口を動かすことにした。


「なんだか疲れたね」

「そうね」と白河さんは言った。

「ハーフタイムって30分くらいあるんだっけ? 何か飲み物でも買ってこようか」

「そうね。あたしも行くわ」

「混むかもよ? 白河さんはここで待っててもいいけど」

「混むからよ。待ってる間お話しましょ」


 ある意味白河さんといる緊張から逃がれることも考えての発言だったのだが、そんな僕の目論見を知ってか知らずか却下された。僕たちは席を立ち、通路を通って売店へと向かう。「混むかも」どころではなく、見ただけでうんざりする長さの行列ができていた。


 しかし今回は可愛い女の子と一緒だ。ひとりの時間帯をもって色々な感情を整理したい気持ちはあったが、決して歓迎しない事態ではなかった。


「黒原くんって、昂といつから友達なの?」


 人通りから予想される長さの列の最後尾につくなり白河さんはそう訊いてきた。僕は記憶を辿るように思い出し、「はじめて絡んだのは、確か中学2年くらいかな」と答えた。


 日付は曖昧だが、その日にあったことは忘れもしない。それは雪の降りそうな体育の授業中だった。


 真冬の特別寒い日で、そんな日に限ってサッカーをやるというものだから、大多数の生徒は不平不満を心に抱いて授業に参加していた。僕もそのうちのひとりだった。寒い中校庭でボールを蹴りたがるのは、どこかで見ているかもしれない女子に良いところを見せたいサッカー自慢の、それも一部だけだろう。彼らは競ってボールをドリブルしたがり、シュートを放ってはゴールしたりボール拾いに走ったりした。


 僕はそんな授業に積極的に参加するつもりは毛頭なかったが、寒い中じっと時間が過ぎるのを待って体を冷やすのもごめんだったので、適当に右サイドをジョギングしていた。目立たないことを念頭に、たまにボールが転がってきたらすぐに誰かに蹴って渡す。誰かがドリブルで僕を突破しようとしても無理に止めようとしたりはしない。


 当時読んでいた本の内容なんかを頭に遊ばせながら、僕はそうして時間を潰していた。内藤昂が自分のチームにいることは知っていた。有名人だったからだ。おそらくサッカーの腕前も僕らが束になってかかっても敵わないものだっただろう。しかし昂はそれをむやみに授業中に披露することはせず、サッカー上級者としてクラスメイトたちを楽しませながらも、美味しいところを自分で食べたりはしないといった具合に振舞っていた。


 昂はそのとき左サイドの方にいた。僕とは反対側だ。それまで積極的なプレイを見せてこなかった彼だが、中央で生じた競り合いの連続からたまたま僕の方にボールが流れてきた瞬間、彼が爆発的な勢いで走り出したのが僕には見えた。


 確かに面白い状況だった。ボールは僕の方に転々と転がってきており、僕がボールを蹴るのを邪魔する者はいない。しばらく中央の方でボールが行き交いしていたため敵味方が全体的に収縮しており、僕が上手なボールを蹴って送れば昂は理想的な状況でボールを得ることができるだろう。


 転がってきたボールを受ける。下手だ。思ったよりずいぶんずれた位置にボールが動いた。幸い周りに誰もいなかったため、僕はそのボールに向かって何歩かを踏み、右足の内側の部分を使ってボールの芯を蹴り上げた。


 僕に蹴られたボールはわずかな回転を伴って飛んでいき、うまいこと昂の左足に収まった。どちらかというと昂の動きを褒めるべきだろう。僕がボールを受けるのに失敗した段階で進路を微調整しなければ、おそらく昂はオフサイドというルールに得点を阻まれていた筈だ。


 そうでなくても長い距離を飛んできたボールを見事に止め、流れるような動きでゴールに蹴り込む一連の洗練された技術に僕は驚嘆するしかなかった。僕には絶対できないことだ。


「その後昂は僕に駆け寄ってきて、暑苦しくパスを褒めてくれたんだ。それがたぶんはじめてだ」


 僕は白河さんにそう言った。白河さんは面白そうに僕の話を聞いてくれ、僕はいつになく饒舌だった。


 僕が話している間に売店の列はずいぶん進んだ。僕らは同じ歩幅で同じだけの歩数を進む。白河さんは僕の方に目を向けず、列の進む先を見つめたまま言葉を続けた。


「あいつもあたしにその話をしたことがある。きっと黒原くんだけじゃなく、昂にとっても印象的な出来事だったのね」

「そうなんだ? 年がら年中サッカーをしてるだろうに、よくあんな取るに足らないプレイを覚えていたね」

「昂は取るに足らないプレイと思っていなかったみたい。あのパスが出せるのは素晴らしいことだと言ってたわ」

「そうかな? 確かに良いボールがたまたま蹴られたものだったけど、あれはそのとき昂にも言った通り、ただのマグレだよ」

「昂は特にあなたの目の良さ、具体的には視野の深さについて褒めてたわ。パススキルもそうだけど、あの位置からあのタイミングで自分の動きを把握できていること自体が素晴らしい、って」

「そんなこと、僕には言ってこなかった」

「そうなんだ?」


 そうなんだよ。不意の情報に食いついた僕を尻目にオーダーの順番が回ってきた。白河さんはオレンジジュースを頼み、僕はミルクを増量したミルクティーを注文した。砂糖も一緒に入れてもらう。


 商品はすぐに作られ、僕らは足早に指定の席へと帰らなければならなかった。後半戦がはじまるからだ。


 僕らは黙って足を動かし、なんとか後半戦がはじまる前にそれぞれの席に辿りつくことができた。大きくひとつ息を吐く。


 内藤昂が僕のサッカー技術を、ボールを蹴る能力以外のところでも褒めていたらしい。後半開始の笛がスタジアムに鳴り響いてもなお、その整理することが難しい情報が僕の頭に漂いつづけて消えなかった。

 

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