第7話 サッカースタジアム
月曜日の朝だった。
やはり僕は仰向けに寝転んだ状態で目が覚めた。枕元に転がるスマホでそれを確認したわけである。ベッドの上で身を起こし、右手の平をぼんやり眺める。僕の手だ。寒気はしない。その手で口からあふれる欠伸を握り潰すと、僕は立ち上がることにした。
とてもお腹が空いていたからだ。
僕の部屋は2階にあるため、1階の居間へ行くには階段を下る必要がある。この階段を下りるという動作は『樹海』での体験を連想させ、何とも言えない不快感を僕に与えた。
下りた先の廊下を渡ると僕はキッチンに到達できる。
「あら啓太」母さんに声をかけられた。「早いわね」
言われて時間を確認すると、確かに僕の起床は早かった。ゆっくり朝食を食べることができるだろう。
しかし、元々朝食を抜きがちだった僕の自宅での食生活は『マカロニ』で働きだしてからというもの加速度的に荒れてきており、今では週のうち1度として朝食をとらないこともしょっちゅうだった。どのように自分から朝食を希望すれば良いのかわからず、僕はしばらくキッチン前に立ちすくむ。
その状況から解放してくれたのは母さんだった。
「ご飯食べる?」と母さんは当たり前の口調で僕に訊いたのだ。
「食べるよ」
「あら珍しい」
気のせいだろうか、嬉しそうにそう言うと、母さんは食卓についた僕の前に茶碗に盛ったご飯とみそ汁とパックの納豆を並べてくれた。生卵が添えてある。普段食べない僕に与えられる内容としては豪勢なものだろう。
何よりも空腹が僕に味方していた。
お箸でご飯を成形し、作ったくぼみに卵を落とす。醤油をかけてかき混ぜれば卵かけご飯が出来上がる。混ぜた納豆をそこにかけると最強の組み合わせの完成だ。
前菜気分で軽くみそ汁をすすると、飢え死にを経験した舌に強烈な旨みが襲いかかった。食道から鼻腔にかけて出汁の風味が通り抜けると日本人でいることの幸せを否応なしに感じさせられる。ため息をついてその幸福感に浸っていると、食事の予感を受け取った胃袋がスタンバイ状態にあることを僕に知らせた。
納豆を乗せた卵かけご飯をお箸ですくい、ひとくち分を口に運んだ。噛めば噛むだけ快感が生まれる。たまらず茶碗に口をつけ、かきこむように口いっぱいに米を頬張る。油断してたら泣いてしまいそうだった。
咀嚼し、嚥下する。大きくひとつ息を吐く。みそ汁をすすって落ち着かせ、涙を流すことなく僕は平常心を得るに至った。
「おう、めずらしいな」
顔を上げると父さんがいた。泣かずにいられて良かったと心から思う。父さんは僕の向かいに座り、母さんが食事の用意を整える。当然のようにこなしているが、何と立派な人だろうと僕は思った。
父さんの前に運ばれるおかずの中に、ウィンナーと卵焼きの乗った皿が含まれていた。ずいぶんヤングなものを朝食にとるのだなと思っていると、母さんはその皿を僕の前に置いた。
「お腹空いてそうだったから。食べるでしょ?」
こいつは僕を感動させるつもりなのか?
僕は小さく頷いて皿を引き寄せる。言われるままにご飯のおかわりをもらうと、言葉少なに朝食をとり終えた。
最後に自宅で食事したのが遠い過去のように思われる。習慣的に食べ終えた食器を流しに持っていくと、母さんは少し驚いた顔を僕に向けた。
「あら、ありがとう。そこに置いといてくれる? そうそう、それで水に漬けといて」
「ごちそうさま」
僕にはそう言うのが精いっぱいだった。お礼を言われる筋合いがない、とはこういうときに使うべきなのだろうか。
○○○
登校した僕はいつもの教室のいつもの席に腰かけ、いつもの授業を消化した。経験はひとを変えるのだろう。いつものつまらない授業なのだが、“死ぬ”という普通に生きていては決して得られない経験を積んだせいか、今の僕にはなんだか新鮮なものに思えた。
とはいえ勉強が好きになったわけではない。いつもは何らかの方法で時間を潰すだけだった授業内容をなんとなく聞いてみただけである。復習をするつもりも予習をはじめるつもりも僕にはなかった。
昼休みを共有するような友人はいない。売店で買ったパンとコーヒーを机に並べ、知らないうちに借りてきていた新しい本を広げる。読書タイムだ。僕の読書タイムは邪魔された。
「よう」と声をかけられ、前の席に誰かが座るのがわかったのだ。
本から目線を上げなくてもわかる。
僕はゆっくりと本を下ろして顔を上げ、「なに?」と昂に用件を訊いた。昂は悪びれた様子を見せずに笑顔を見せた。
「実はさ、今度の試合に出られそうなんだ。プロデビューだよ」
「今度の試合? お前、昨日か一昨日かの試合がそうだったんじゃないのか?」
「ああ、可能性としてはあったな。一応俺はベンチに座った。でも誰か怪我でもしない限り、まあないだろうなと思っていたよ」
「そうなんだ。『マカロニ』の店長は災難だったな」
「
「本当に行ったかどうかは知らないけど、可能性はあるみたいだった。お前のファンらしいぜ」
「それでスタジアムに来てくれるならありがたいことだな。それでまあ相談なんだが」
昂はそう言い、僕の机に1枚の紙を置いた。チケットだ。会話の流れから何のチケットなのか予測はついたが、僕は一応訊いてみることにした。
「これは何?」
「これはチケットだ、サッカーの試合の。次の、俺がはじめてプロとして出場するかもしれない試合のチケットで、よければ来てくれないかなと思ってる」
「なんでまた僕に?」
「なんでって。友達じゃないか」
昂はわざとらしい笑顔でそう言った。確かに昂はよく僕に構ってくるが、僕がその誘いなどにに応じたことはほとんどない。一般的にそのような間柄を友達とは呼ばないだろう。
だから僕は疑問をそのまま口にした。
「何か裏があるんじゃないの?」
「バレたか。実はこのチケットは俺たちベンチ入りした選手にとってボーナス的な存在であるらしく、換金するには買ってもらわないといけないんだ」
「なんだよそれ。もっと買いそうなやつに声をかければいいじゃないか。僕はサッカーが好きじゃない。僕より高値で買ってくれるやつはそこら中にいると思うぜ」
「まあまあ、そこをなんとか。俺にも一応プライドがあってさ、親からの小遣いなんかで買われるよりも、自分が働いた金で買ってくれるやつに売りたいわけだよ。お前バイトしてるだろ?」
「確かに僕はバイトをしている。それは認めてあげるよ」
僕は疑いの眼差しで昂を射抜きながらそう言った。何とも怪しい動機である。しかしこいつはゲンが良いと言ってはそんなに近いところにあるわけでもない飲食店に足を運ぶような人間だ。理解は確かにできないが、それと同程度の理解不能さであるようには思えた。
しかしサッカーの試合か。正直行きたくないなと僕は思った。邪険に扱ってはいるが昂のことを憎んでいるわけではないし、嫌うべき人間だとも思わない。だから金額によっては買ってやらないわけではないが、サッカーの試合だ。
「なにかもう一押し、僕の興味をそそるようなところはないのかね」
僕はそれほど期待せずにそう訊いてみた。昂の返答は早かった。
「ある。その席は指定席で、お前の隣にはとても可愛い女の子が座る」
「マジで?」
「マジまじ。年は俺たちと同学年。どう?」
「買うに決まってるだろ」
「毎度あり」と昂は言った。
僕はその場で昂に3000円を支払い、それと引き換えに得たチケットを大事に財布に保管した。ひと仕事終えた、といった様子で昂が立ち上がる。飯でも食べに行くのだろう。
「あ、そうそう」と昂は立ち去り際に追加した。「啓太の隣に座る女の子は俺の彼女だから、口説いたりはしないように」
「なに!」
詐欺だ! と非難の言葉を投げつける間もなく昂はそそくさと立ち去った。ほとんど読めていない本とパンとコーヒーだけが机に残る。
僕は財布に入れた試合のチケットを取り出し、その場で破り捨てようとして思いとどまった。あの時給の低いバイトで稼いだ貴重な3000円をこれに払ったのだ。捨てるというのも行かないというのも受け入れがたいことだった。
○○○
日程は次の土曜日の夜だった。僕はバイトのシフトが入っていないことを確認した。僕が働かないということは、西片さんがひとりで店を切り盛りするということである。スタジアムで鉢合わせになる心配はない。
「ねえ黒原くん」と甘えるように声をかけ、「次の土曜の夜、ひとりで店を回してくれない?」と依頼してきた西方さんには悪いことをしたものだと思う。しかし現実的に考えて、稼ぎ時である週末の夜をバイトひとりに任せるべきではないだろう。僕は西片さんを正しい道に導いたとすら考えることも可能だった。
スタジアムは駅の裏手にあることを知っている。僕は常識どおりのバスに乗り、駅前で降りてスタジアムへ歩いた。スタジアムに近づくにつれて同じ目的で歩いているのだろうと思われる人の割合が増えていく。
あのカップルもそうなのかもしれない。あの家族はそうなのだろうか? 子どもにサッカーのレプリカユニフォームを着せている子連れは間違いないだろう。僕は昔の思い出をぼんやり頭に浮かべながら、スタジアムへと足を運ぶ。
途中、ふわふわとした金髪の女の子がいた。チラッとしか見えなかったが、『樹海』で会うあの子に似ているように僕には見えた。着ているコートが鮮やかな赤だったことも、いつも赤いワンピースを着ている彼女を連想させたのだろう。
見間違いだろうか? 目を凝らして重ねて確認しようとしたが、どこをどう探しても見つからない。いつまでも周囲をぐるぐる見回していても不審者として通報されるのがせいぜいなので、僕は動揺を足取りに出さないように意識しながらスタジアムへと歩みを進めた。
スタジアムは少し小高いところに建っている。海の一部を埋め立てて整地でもしたのだろうか、スタジアムの背後は暗黒の海が広がっているため、光源はスタジアムの照明のみとなる。スポーツ・エンターテイメントを目的として作られたスタジアムの照明はとても明るく、それまでの道のりに申し訳程度に設置されている街灯の明かりをはるかにしのぐ。
その結果、僕たち観客がスタジアムに向かうと、近づくにつれて地平線からおぼろげな光が見えてきて、やがて彼らが合唱する応援歌が耳に届くようになってくる。それに耳を傾けていると、暗闇から突如出現したような巨大な建造物が眼前に広がっていて、既に中に入っているのであろうサポーターたちの熱気がこちらまで伝わってくるのだった。
僕は座席を確認するとゲートを潜り、スタジアムの中へと進んでいった。応援グッズが売られているが、そんなものに用はない。ビールもいらない。席へ繋がる最終ゲートを潜ると体に振動を感じるような音量の合唱が鳴り響いており、僕にぶるりと身震いをさせた。
遠くに見える自由席の区域をぼんやり眺める。立ち止まっているのは明らかに邪魔だ。大きくひとつ息を吐き、僕は指定の席へ向かうことにした。
そこには息が止まりそうな衝撃が待っていた。
先ほど見かけた金髪に赤コートの女の子が僕の指定席の隣に腰掛けている。
遠目で気づいた僕は心臓の急激な高鳴りを自覚しながら、まるで自分が何か“行動”をしなければこの世の時間が進まないと思っているかのように、止まることなくゆっくりと彼女に近づいていった。
やがて座席にたどり着く。喉は既にカラカラだ。どのような顔をしていればいいのかわからず、座りあぐねていると、ふわふわとした金髪が揺れ、女の子の顔が僕の方に向いた。
白河さんだ。僕は彼女の目を見た瞬間そう思う。
「こんにちは」と小さく笑った彼女は言った。
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