第6話 飢餓

 

「うわああ!!」


 『べちょべちょ肉まん』を食べて突然視界を失った僕は、盛大に叫び声を上げていた。


 僕の叫び声に対して反応するものはどこにもいない。ある程度の気密性をもつ地下4階で、僕の叫び声は寂しく響く。


 しかし、思い切り叫んだことによって、僕はある程度の平静を取り戻すことができていた。これは喜ぶべき点のひとつだろう。


 不幸中の幸いは他にもある。まず、いくら叫んだところでそれが“行動”にカウントされないということだ。次に、確かに目は見えないけれど、不思議なことに、所持品などの把握はこれまでと変わらずできる。そして最後に、前回死んだ経験があるからか、僕はじきに落ち着いて考えられるようになっていた。


 試しに足踏みスイッチを1回押してみる。“行動”1回分の時間が経過するのが感覚的にわかった。どうやら前回の睡眠状態とは異なり、確かに視界は暗黒だけれど僕は動くことができるらしい。


 まだ諦めるのは早いということだ。


 『べちょべちょ肉まん』を食べたことで僕の“満腹度”は30%ほど回復していた。視野はゼロだが周りにモンスターはいない筈だ。この暗闇状態が一過性のものなのか否か、しばらく足踏みスイッチを押して様子を見てみることにした。


 目安としては5回か10回くらいだろうか。そう思って連打していると、6回押したところで僕の視界に光が戻った。そして僕は驚いた。まさに目の前にナリジンが立っていて、その柑橘系のフォルムを僕に向けていたからだ。


「うわああ!!」


 僕は思わず叫び声を上げた。2度目だ。気づくと反射的に右手を振っていた。


『ケイタの攻撃! ナリジンに16ポイントのダメージ!』

『ナリジンの攻撃! ケイタに6ポイントのダメージ!』

『ケイタの攻撃! ナリジンに16ポイントのダメージ! ナリジンをやっつけた!』


 そんな感じだ。


 それにしてもナリジンの攻撃は痛い。先ほど受けた『べちょべちょ肉まん』のダメージと合わせて15ポイント分の疼痛が残っている。基本的に“満腹度”と“体力”は等価交換であるため、このダメージを足踏みスイッチで癒すには15%の“満腹度”を捧げる必要がある。


 残り“体力”は27ポイントだ。このまま次の階に進むには不安の残る量である。


 どうすれば良いのだろう? その正解はわからない。


 一時的にとはいえ光を失って得た“満腹度”のおかげで僕のお腹には多少の余裕があった。その点現在最大の苦痛はこの15ポイント分のダメージである。結局、僕は足踏みスイッチに手を伸ばし、この痛みが薄れるまでスイッチを押し続けることにした。


 15ポイントを回復し、僕は疼痛のない爽やかさをしばらく静かに味わった。大きくひとつ息を吐く。視線の先では下り階段が僕が来るのを待っていた。


 地下5階。

 僕の右手には日本刀が握られている。


 下った先に敵がいた。


 これまでのぬいぐるみたちとは一線を画すような出で立ちで、確かに素材的にはぬいぐるみ製なのかもしれないが、そのデフォルメで取り繕えない怖さがあった。


 一言で表すなら黒人男性だ。でかい。180㎝ある僕より10㎝程度は背が高い。レゲエっぽい印象を受けるぐりぐりの長髪をゴムバンドのようなもので留めており、鋭い眼光が僕を睨みつけている。


 戦うしかないだろう。僕は右手に力を込める。


『ケイタの攻撃! ディディエに16ポイントのダメージ!』

『ディディエの攻撃! ケイタに13ポイントのダメージ!』


「いたた! ダメージの桁が違う!」


 激痛に耐えるための大声に反応するものは何もない。僕はジンジンと体の芯に響くような疼痛を何とかごまかし、戦闘を続ける。


『ケイタの攻撃! ディディエに16ポイントのダメージ!』

『ディディエの攻撃! ケイタに13ポイントのダメージ!』


 2回殴ってもやっつけられない!?


 僕は3分の1ほどに減った“体力”に唖然とした。残りは16ポイント、次の攻撃でこのディディエという名前の黒人ぬいぐるみを倒せなければ、僕はこいつに撲殺されるかもしれない。


 じとり、と日本刀を握る右手に焦りを感じた。生命の危機を感じた心臓が激しく脈打つ。こめかみの血流が自覚できるほどの循環をみせる。とにかく脳に栄養と酸素を送っているのだろうか。


 ここはひとつ心を落ち着け、冷静になろうと考えた。意識して深く呼吸する。これまでの経験上、僕があるモンスターに与えるダメージやそいつから受けるダメージにゆらぎのようなものはなく、おそらくレベルや装備によって決まる固定値なのだろう。つまり僕はもう1回のダメージを負うことができる。とても嫌だがこれは事実だ。


 大きくひとつ息を吐く。自分を奮い立たせるための叫び声を上げ、あらん限りの力を込めて、僕は黒人を模したぬいぐるみに右手の刀を打ちつけた。


『ケイタの攻撃! ディディエに16ポイントのダメージ! ディディエをやっつけた!』


 そんな感じだ。


「やった!」僕は思わず歓喜の声を上げた。


 しかし、どちらかというと死に近いほどのダメージを負いながら、僕にはそれを回復する手段がほとんど残されていなかった。


 これで先ほど足踏みをしていなかったらと思うとゾッとする。僕は確実に死んでいた。


 まずケアするべきは“体力”だ。そう思った僕は何も考えずに足踏みスイッチを使ってダメージを回復した。スイッチを押し続ける時間に応じて痛みが少しずつ引いていく。その形容し難い快感にしばらく浸る。やみつきになりそうだ。


 僕が我に返ったのは、空腹感を思い出したからだった。


 ダメージを回復するために僕はすっかり“満腹度”を消費していた。気づけば猛烈に腹が減っている。


 お前は馬鹿か、と僕は自分を罵った。まったく冷静になっていなかった。急いで自分の置かれた状況を再認識する。僕は教室大の部屋に立っていて、その部屋にはアイテムがひとつ落ちている。防具のようなものだ。食べることはできないだろう。そして僕は、自分が『チタンシールド』というタングステン製ではない防具を持っていることを思い出した。


 効果を調べようともせず、ただ防具を持っている。これまでに装備品の出てくるゲームを少しでもやったことのある者ならばこの愚かさがわかる筈だ。僕は説明文に目を通す。


『チタンは軽くて丈夫! 負担の少ない良い盾です』


 チタンは軽いときたものだ。おそらくこれを装備すれば“満腹度”の減りが遅くなるのだろう。まさに宝の持ち腐れ、僕は自分の逆境を跳ね返す手段を持ちながら、まったく気づいていなかった。


「マジか」


 小さく呟き、僕はチタンシールドを左手に持つ。


『ケイタはチタンシールドを装備した!』


 そんな感じだ。


 やはり装備品の重量の大小は僕にはイマイチわからない。検証する手間が切実に惜しいため、僕は探索をしながら“満腹度”の変化を観察することにした。


 部屋に落ちているのは『へっぽこシールド』だった。名前からして弱い防具だ。『ナマクラソード』と良い勝負だろう。しかし僕に『チタンシールド』の存在を気づかせてくれたのはファインプレイだ。その盾を拾う一連の行動の中で、僕はチタン製の盾にはやはり腹持ちを良くする効果があることを知った。


 もう少し早く知りたかったものだがしょうがない。僕の“満腹度”は既に10%を切っていて、とてもお腹が空いていた。所持品の再確認をする必要があるだろう。さらに言えば、僕はこれまでも小まめに所持品の確認をすべきだった。


 それが“行動”に含まれることはなく、いくらでも可能な筈だ。それをしないのは単純に面倒くさいからだろう。生死を分けるかもしれない地道なチェックを面倒くささが阻むというのは、自分のことながら何とも不思議なものだった。


 僕の所持品の中で腹の足しになりそうなものは『失明草』と『ハバネロ草』だ。『失明草』を食べたら目が見えなくなるのだろう。おそらくは一過性に、だ。その前提で考えるならば、僕は先ほど『べちょべちょ肉まん』を食べて視界を失ったときにこれを食べておくべきだった。


 『ハバネロ草』にしてもそうだ。これはおそらく攻撃手段となる食べ物であるため、お腹が空いていて敵が遠距離にいるうちにさっさと使ってみるのもありだった。威力がわからなければこの先どのような場面で使えたものかわからないし、数%の回復でも僕のお腹は大歓迎なのだ。


 “満腹度”は残り8%。僕は見えている通路に向かっていった。


○○○


 次の部屋にはディディエとニーニョがいるようだった。僕が入室した瞬間、ディディエの鋭い眼差しがこちらに向いた。ニーニョはその場から動かず、どうやら睡眠状態にあるようである。


 今の僕の状態で、ディディエから攻撃を受けることは何としても避けたかった。この盾でどこまでダメージが減るのかわかったものでないからだ。だから僕はディディエに積極的に近寄らない形で軸のようなものを合わせ、遠距離攻撃が届くように位置関係を調節した。


「いくぞ」僕は小さく呟く。


 『ハバネロ草』を口に含むと、そのあまりの辛さに僕の口から火が噴き出した。


『ケイタはハバネロ草を食べた! ディディエに25ポイントのダメージ!』


 そんな感じだ。


 僕が先ほど今の装備で殴った場合は確か16ポイントのダメージだった。レベルの上昇によって今ならもう少し多いかもしれない。いずれにせよ、どうやら直接攻撃するよりも、このアイテムによる攻撃は強そうだ。


 ディディエは負ったダメージを気にせず“行動”1回分の距離を詰めてきた。


 それは想定の範囲内だ。僕はほかにも遠距離攻撃の手段をもっている。1本の木の矢をしっかり右手に掴み、オーバースローでそれをディディエに投げつけた。


『ディディエに12ポイントのダメージ!』


 ディディエは同じだけの距離を近づいてくる。僕は次の矢に手を伸ばす。


『ディディエに12ポイントのダメージ! ディディエをやっつけた!』


 僕に隣接するには至らず、ディディエは光の粒子となって消えていった。正直とても怖かった。僕は大きくひとつ息を吐く。


 探索を進めなければならない。依然として激しくお腹が空いているのだ。眠っている様子のニーニョを軽くなで斬り、僕は次の部屋へと足を進めた。


 ある程度に過ぎないかもしれないが、多少はこの世界のデザインに詳しくなってきている。


 部屋に入るとモンスターとアイテムの有無がわかる。どうやらこの階で新しく遭遇するのはディディエのみであるらしく、僕が対峙するのは戦ったことのある敵だけである。1回の攻撃でやっつけられるものは注意深く隣接して殴り、そうでないものは矢でダメージを与えて最後の1撃を直接与える。ダメージを負うことなく“満腹度”をなるべく消費しない、もっとも効率的な探索を続けたつもりだ。チタン製の盾によってお腹の空く速度も減っている。


 しかし、それでも食べ物は見つからなかった。


 深刻さを増していく空腹を抱えながら、僕は次の階へ進むしかなかった。


 地下6階。

 僕の右手には日本刀が、左手にはチタンシールドが握られている。


 祈るような気持ちで部屋のアイテムを確認したが、何も落ちていなかった。僕の“満腹度”は1%だ。まさにギリギリの状況である。


 食べ物を探さなければならない。僕が通路に向かって最初の1歩を踏み出すと、“満腹度”がちょうど0%になったことがわかった。


『まずい! このままでは……飢え死にしてしまう!』


 そんな感じだ。


 どうやらこのままでは飢え死にしてしまうらしい。僕には確かにそれがわかった。手元にある食べられ得るものは『失明草』ひとつのみ。思えば階段を下る前にこれを食べておくべきだった。同じような反省を本日2度目に行う僕はヘコんだ。


 しかし、ヘコんでいてもしょうがない。ヘコんでいる時間は十分あるが、ヘコんだところでこの耐えがたい空腹感を癒すことはできないのだ。


 部屋には僕のほかに誰もいない。僕は袋のようなものから『失明草』を取り出し、眺めた。毒々しい見た目をしているわけではない。この草を食べれば多少なりとも空腹が癒える。たまらなく魅力的に僕には見えた。


 ゆっくりと口に運び、慎重に咀嚼する。わずかに青臭い風味が食道から鼻腔に届き、それが食物の摂取を実感させる。かすかに感じる甘みは錯覚だろうか? 十分に奥歯ですりつぶされた繊維質が唾液と混ざり、嚥下される。食道を下っていく快感に僕はわずかに身震いをした。


『ケイタは失明草を食べた! ケイタの目が見えなくなった!』


 この感覚は知っている。本日2度目の失明に僕は大きく取り乱さず、“満腹度”が5%回復していることが僕にはわかった。


 この5%を大事に使わなくてはならない。しかし焦りは禁物で、世界に光が戻るまで、僕は足踏みスイッチを繰り返し押した。


 5回押したところで目が見えるようになった。先ほどは6回目でそうなった筈で、僕の数え間違いか、もしくは回復までにかかる時間にばらつきがあるのだろう。


 部屋には僕のほかに誰もいない。大きくひとつ息を吐き、僕は鋭い視線を作って通路の方を睨みつけてみた。


 何も変わりはしなかった。


○○○


 1歩、1歩と足を進め、僕は通路を進んでいった。途中でナリジンに遭遇する。なんだか懐かしい気持ちで柑橘系のぬいぐるみをぶん殴り、僕はさらに歩みを進める。空腹感は増すばかりだ。


 新しい部屋にたどり着くと、遠くにディディエの姿があった。またこいつか、と僕は苦笑いを口の端に貼りつける。


「いいだろう。来いよ」


 そんなことを頭のどこかに浮かべながら、しかし僕は木の矢を握りしめていた。投げる。ディディエの体に突き立つ。ディディエは僕に向かってくる。


 次の矢を投げようとして、木の矢が尽きていることに僕は気づいた。遠距離攻撃もここまでだ。


 僕は大きくひとつ息を吐き、先制攻撃を受けない形で慎重にディディエと隣接する。


『ケイタの攻撃! ディディエに16ポイントのダメージ!』

『ディディエの攻撃! ケイタに13ポイントのダメージ!』

『ケイタの攻撃! ディディエに16ポイントのダメージ! ディディエをやっつけた!』


 このダメージを足踏みで癒す余裕はない。


 僕はこの部屋にも食べ物が落ちていないことを確認すると、落ちている巻物のようなアイテムを無視して次の通路へ向かって行った。


 進む。会った敵と戦う。進む。“満腹度”が1%減る。それでも進むほかに僕に取り得る行動はない。


 やがて僕の空腹は再び限界へと到達した。


『まずい! このままでは……飢え死にしてしまう!』


 そんな感じだ。


「知ってるさ」と僕は呟く。


 1歩足を進めると、ズキリと腹部に痛みが走り、1ポイントのダメージを負ったことがわかった。どうやら飢え死にはじわじわと進んでいくらしい。


 僕の”体力”は残り30ポイントほどだ。それは残された“行動”の回数と一致するのだろう。


 ぶるりと体が激しく震え、冷たい汗が体を覆う。心拍数が上昇しているのがわかる。餓死の危険性を体が察知しているのだろう。


 僕にできることはほとんどゼロにしか思えない可能性を信じて先に進むことだけだ。蓄積されていくダメージを無理やり無視し、僕は痛む足を1歩ずつ前に向かってなんとか運ぶ。


 遠く前方にナリジンの姿が見えた。


 柑橘系の化け物だ。その果汁を味わいたい。


 僕は急いでそれに駆け寄り右手の日本刀を振りかざす。


『ケイタの攻撃! ナリジンに17ポイントのダメージ! ナリジンをやっつけた!』


 ナリジンのグレープフルーツに似た体が光の粒子となって消えていく。


「違う!」


 僕は消えゆくナリジンにすがるように、少しでも摂取しようと身を寄せる。しかし僕の手は空を切り、舌はどのような刺激も得られなかった。


 やがて僕の“体力”が残り1ポイントとなる。なんだか目もよく見えない。体に力が入らず悪寒と震えが絶え間なく発生している。


 どうすればいいのだろう?


 どうしようも僕にはなかった。悩むのに疲れた僕は最後の1歩を踏み出した。じわりと1ポイント分の痛みが腹部に伝わる。


 僕は死んだ。

 

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