第3話 死んだ翌日


 天井が見えていた。


 どうやら仰向けに寝ているらしい。いつもの習慣で枕元に手をやると、いつもの場所にスマホがあった。


 日付と時刻を確認する。日曜日の朝だった。


 夢だったのだろうか?  僕は睡眠トラップとでも言うべきもののおかげで、ぬいぐるみのようなモンスターたちに殺された筈だ。あれは土曜日昼前の出来事で、夢でなかったとすれば、あれから半日以上が経過していることになる。


 服装を確認する。昨日『マカロニ』に向けて出発したままの格好だ。靴は履いておらず、立ち上がった僕は自分の家の自分の部屋の自分のベッドにそれまで横たわっていたことを知った。


 腰に手をやる。アイテムを入れていた袋の代わりにカラビナで僕のバッグが固定されている。中には本が入っていた。取り出して見てみると、僕が昨日読み終えた本ではなかった。好きな作家の未読の文庫が僕のブックカバーに覆われている。


 まったく覚えていないが、どうやら僕は昨日図書館に行って予定通り読み終わった本を返却し、新しく1冊を借りてきたらしい。恐ろしいことである。


 窓から身を乗り出し見てみると、僕の自転車は所定の位置に停まっていた。


 一応検索してみたが、『樹海』に関するどのような有益な情報も得られなかった。確かめる方法はある。あの『樹海』行きのバスが出るバス停が存在するかを見に行けば良い。ネット上の情報ではやはりあの場所にバス停など実在しない筈なのだ。


 はっきり言って気が乗らなかった。あの不思議な空間の存在を肯定しても否定しても僕に利益があるようには思えない。しかし死に繋がるあの激痛と、それを重ねられる恐怖感は二度と体験したくないものである。


 モチベーションとなり得るのはあの女の子くらいのものだろう。金髪と赤いワンピースと白い腕。足元はどのような靴を履いていたのか覚えていない。背の高い草原だったのでよく見えなかったのだ。


 ろくなやりとりがなかったけれど、それでも十分彼女は魅力的だった。「いってらっしゃい」と送り出されるのは悪くない。


 それでもまたあの理解不能な事態に巻き込まれるのは歓迎したくないことである。しかし僕にはあのバス停に近づく予定があった。


 『マカロニ』はアルバイトで働く僕の職場で、本日昼のシフトに入っているのだ。


○○○


「じゃあよろしくね」


 西片にしかたさんは引き継ぎを手早く終えると僕を残して店を出た。カランカランとドアについた鐘が鳴り、小さめのボリュームで流れるBGMが僕がこの店内にひとりでいることを実感させる。


 窓から外を眺めると、例のバス停が目に入る。現在バスは停まっていない。どうやら夢ではなかったらしい。


 凝視していても仕方ないので僕は西片さんから引き継いだ内容を確認し、本日のランチメニューを把握する。カレーが残っているのでメインはこれだ。


 軽く火を通したトンカツがあるため2度揚げすればカツカレーを作れる。オムレツを僕が焼けばオムカレーができる。他にもいくつかある僕にもできる簡単な料理と、飲み物だけが僕の武器だ。『マカロニ』の常連たちは寛容で、ズブの素人である僕がひとり店番をしていたところで怒ったりはしない。


 むしろひとり残され働く高校生に大人たちの視線は優しい。


「お、今日はひとりか。頑張れよ」

「何なら店乗っ取っちゃえよ」


 そんな声さえかけてもらえる。しかし、非常に混み合うわけではないが『マカロニ』はそれなりの集客力を持っており、大したことをしない僕でもひとりで店を回すとなると大忙しだ。開店後の来客が落ち着いた頃には気づけば数時間が経っていた。


 第1波終了。僕は大きくひとつ息を吐く。


 グラスにオレンジジュースを注いで一気に飲んだ。柑橘系の欲望が即座に満たされ僕は現状を把握する。第2波が訪れるまでのこの隙に、溜まりに溜まった洗い物を処理しなければならない。不思議なことに来客には流れのようなものがあり、ずっとだらだら続くというより何回かに分けて混む時間帯が発生することの方が多いのだ。


 2面使える流しの片方が洗い物で満たされていた。僕はもう片方に水を張り、洗剤を適量投与する。ゴム手袋をはめた手でぐるりとかき混ぜ、洗浄槽を完成させると、ざばざばと流水でゴミや汚れを取り除きながら洗い物をそこに沈めていった。


 そうした第1の処理をすべての洗い物に施した僕は、軽く水を切るように振って古いものから順に食器洗浄機に並べていく。コツは第1の処理で縦方向に過剰に積み重ねてしまわないことだ。そして水を切る動きでつけ洗いによって浮いた汚れを取り除くのだ。


 あとは食器洗浄機という文明の力に任せれば良い。すべてを平らげた機械の電源を入れ、適切なコースでスタートすると、そのうち洗い物が終わるというわけだ。


 2面の流しに残った雑多なゴミや汚れを処理し、生ゴミをまとめて生ゴミ処理機に放り込む。彼らは庭の植物の肥料となる運命だ。


 幸いなことに、ここまでの作業を誰にも邪魔されずに済ますことができた。僕はゴム手袋を廃棄し手を洗い、大きくひとつ息を吐く。わずかに周囲に散った水気を拭き取ると、文句のつけようのない綺麗なキッチンが復元される。


 まるでそれを待っていたように、カランカランとドアが鳴り、来客を僕に知らせてくれた。


 河相さんだ。常連のひとりでスラリとした美人だ。『マカロニ』で働いていて良かったと思う原因のひとつで、僕と共に西片さんのカレーを愛する同志である。


 河相さんが来店した場合、僕は彼女が座る位置に注目する。カウンター席に座る場合は僕や西片さんと話しながら食事を取るための来店で、テーブル席に座る場合は持ち込んだ仕事を処理するための来店だからだ。河相さんはテーブル席に腰かけた。


 お仕事モードだ。僕は許されるコミュニケーションが限定されることを受け入れる。お冷やを提供しながら、確実にお届けした方が良いと思われる情報だけを口にするのだ。


「今日はカレーがありますよ」

「ほう」と河相さんは顔を上げた。


 河相さんの鋭い眼差しが僕を射抜く。僕が現在用意できるカレーの種類を紹介すると、背もたれに体重を預けて天を仰ぎ、何やら悩んでいる様子である。


 河相さんの細く長い首が露わになっている。良い眺めだと僕は思った。河相さんはのけぞったまま僕の目をまっすぐ睨んだ。


「実は、今日はあまりお腹が空いてないんだ。だから、ここは、オムカレー」

「カツカレーではなく?」

「仕事もしないといけないんだよ」


 河相さんは搾り出すようにそう言った。「オムカレーにする」


「実は僕、ご飯まだなんですよね。よかったらカツを半分こしません?」

「本当に?」いつもポーカーフェイスな河相さんが相好を崩す。「君はひょっとしていい奴なのか? ん? 天才か?」

「オムの上に乗せていいですか?」

「お願いします」と河相さんは言った。


 河相さんに喜んでもらえて僕もことさらハッピーだった。上機嫌になった河相さんは食事が済むまで雑談モードでいようと思っているのか、仕事の準備をせず僕との話を続行した。


「西片さんは?」

「店長はお出掛けにいっちゃいました。何か急いでる感じでしたよ」

「デートかな?」

「店長って彼女いるんですか? 未婚ですよね」

「いるよ。わたしがくっつけたんだ。ああでもそうか、今日はあれだ」


 河相さんは思い出したように「サッカーだ」と言った。


「へええ。店長、サッカー好きでしたっけ?」

「“にわか”だけどね。去年の冬から好きな筈だよ」

「全然知りませんでした。その頃って僕もう働いてますよね」

「余裕でね」と河相さんは言った。「だってほら、君がはじめてひとりで働いた日のこと覚えてない?」

「忘れられもしませんよ。いきなり言われたんですから」

「あれ、サッカー見に行ったんだからね」

「はあ?」


 僕は素っ頓狂な声を上げた。


「当時、黒原くんはまだわたしに会ったことなかったんじゃないかな。確かその日にわたしはバイトの存在を知ったんだった」

「そうですか」


 よくわからない衝撃の事実に僕は軽く混乱していた。当時僕はまだ高校1年生で、『マカロニ』でバイトをはじめて半年程度のものだった。


 それまで家事を手伝うような習慣もなく、イチからすべてを教わった。今ではそれなりに業務をこなせるようになっているが、その日の孤軍奮闘は明らかに予定通りのものではなく、それを想定した一応西片さんのフォローがあるテスト労働などを事前にすることなく行われたのだ。


 その理由がサッカーとは知らなかった。何か西片さんの情熱をくすぐる事件が当時にあったというのだろうか?


「僕は知りませんでしたけど、前からサッカー好きなんですか?」

「いや、その試合はわたしも一緒に観たんだけど、はじめて観るって言ってたよ。わたしの仕事は知ってただろうし興味はあったのかもしれないけどね」

「へええ。世の中は知らないことだらけですね。何かきっかけがあったんですか?」

「きっかけはあれだよ。内藤昂」


 ないとうたかし? 不意打ちを食らった僕はリアクションが取れなかった。


「知らない? 内藤昂。サッカー選手で、確か黒原くんと同じ年だよ。高校生プロ! しかもまだ2年生! みたいな感じでニュースになったこともあると思うんだけど」

「同級生です」

「あら本当? そういえば同じ学校か。仲良いの?」

「どうですかね。あまり良くないかもしれません」


 僕の声色が如実に変わっていたのかもしれない。河相さんはその後話題を変え、僕としばらく談話した。僕は河相さんの話を聞きながらカツを半人前乗せたオムカレーを用意し、提供する。残りの半分は僕のカレーの上だ。僕のカレーは昨日に引き続きまかないである。


 ほかの客が来る前に手早く食べなければならない。河相さんとの会話は自然と減っていき、新しい来客によってなくなった。


 河相さんは仕事モードに頭を切り替えたらしい。ブラックのコーヒーを何杯かおかわりしながらテーブル席でパソコンに向かって何か作業を続けている。僕は食器を片付け来客の相手をし、空いた時間に西片さんのことをぼんやりと考えた。


 西片さんがサッカー好きになったとは知らなかった。それも、昂が原因で魅了されたとは。


 内藤昂は高校2年生の、プロとしてはまだ公式戦に出場もしていないサッカー選手だ。しかし、既に彼は魅力にあふれており、それはサッカーに特別な興味がなかったであろう飲食店の店長をも引き込むことができるほどであるらしい。


 そういえば昨日『マカロニ』の裏庭で彼らは昂のデビュー戦が決まりそうだ何だと話していた。それを見に行ったのかもしれない。この通り、僕はその間店でバイトだ。僕がはじめてひとりで働いたあの日もどうやらそうであったらしい。


 バス停にバスが停車しているのに気がついた。


「おかわりくれない? ミルク入りで」


 河相さんがリラックスした様子で声をかけてきた。僕は慌ててそれに対応する。


 河相さんは明らかに気の抜けていた僕を咎めるでもなく、ミルクをたっぷり入れたコーヒーを美味しそうにちびちびとすすった。


「終了ですか?」

「一応ね。わたしはサッカーが専門ということでやってるんだけど、最近はほかの仕事も入ってきてね、これはたいへん疲れるものだよ」

「嬉しい悲鳴ですね」

「そうだね。ねえ少年、何か悩みでもあるならお姉さんに話してごらんよ」

「別にそんなものありませんよ」

「あら、そうなの」


 まあいいや、と河相さんは呟くように言ってコーヒーカップを口に運んだ。


 しばらくそれを眺めていたい気持ちもあったが、店内にはほかに客がいる。その相手をする前に、ひとつだけ訊いてみることにした。


「河相さんってこのへんのバスを使うことありますか?」

「そうだね、時々はね。でもこの店はバス停から遠いから、想定外の事態でなければ交通手段を用意するね。黒原くんもそうなんでしょ?」

「確かに僕もチャリ通ですね」


 そう答える僕の視線の先には『樹海』行きのバスが停車している。


 今夜はシフトに入っていない。僕は店内業務をこなしながら、もう一度バスに乗ってみるのも良いかもしれないと考えていた。

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