Ⅱ この街を救う小娘①

 新聞記事をテーブルの上に投げ、ぐったりとソファに項垂れる。少女の名前は羽鳥 名草。齢8歳の彼女の左腕は包帯に巻かれ、医者からは「だいぶ良くなってるんじゃないかな」という言葉を半年以上何回も繰り返されている。幼いながらに、名草は察していた。自分の左手は、もう元には戻らないのだということを。1年前のあの日。忘れもしない出来事だ。


 あの日は妹の誕生日。2030年、6月5日。妹が父と遊んでいる間に母親と買い物に行き、予約していたケーキを受け取り、今日のごちそうである妹の大好きなカレーライスの材料を買って、さあ帰ろうかとしていた時だった。突然、大きな地響きが鳴り、辺りの人々は悲鳴を上げた。名草は母親に引っ張られ、走り出した。ふと、名草は後ろを振り返った。するとそこには、二つ結びの女が、慌てもせずに、凛として立っていた。その女の両手は、おぞましい凶器と化していた。凶器を“持っていた”のではない。“あの女の手が凶器”に変形していたのだ。左にはギラリと光る刃、右には大きな銃口の迫撃砲。幼い名草でも、『おおきなほうちょう』『とってもこわいぴすとる』と判断がついた。しかし、その日の記憶はここまでしかなく、その後何があって、左手に大怪我を負うことになったのかは全くわからない。目が覚めた時に、「わたしのひだりてどうしたの?」と母に尋ねると、「あなた走ってる途中にこけちゃったのよ」と答えてくれるが、「ふたつむすびのおんなのひとこわかったね」というと、途端に顔を青くした。その意味が、名草にはわからなかった。名草が目を覚ましたのは、事件から半年後の2031年の1月だった。


 父と妹の行方を尋ねたが、病院にいる間はずっと「お父さんはお仕事、ルリちゃんはおばちゃんの家に預けてるの」とだけ言って、「あいにきてくれないの?」と尋ねると、「お父さんは忙しいから」「ルリちゃんはまだ小さいから」とあれやこれやと言い訳をつけられ、名草はたださみしい思いを押さえつけて、母親に「しかたないねー」と笑うしかなかった。


 その次の月の2月10日。名草の誕生日会が開かれた。といっても、参加者は母と名草のみ。父は相変わらず仕事で、妹のルリは未だおばちゃんに預けられたままだった。しかも、名草の誕生日は10月10日。名草が眠っていて、祝い損ねていた誕生日の取返しであった。母が、「なにかお願い事をひとつ叶えてあげる!」と言った時に、「家族みんなでどこかに行きたい」と言った時の、母の表情は今でも忘れられない。母は今まで名草には笑顔と、時折見せる困り顔しかやってこなかったのに、この時の母の顔は人ひとり殺してしまいそうな顔をしていた。名草は怯えて、お願い事を「…やっぱりおうちにはやくかえりたいな」というものに変えた。すると母は顔色を変え、「…そうね、そろそろ退院できるわ」と優しい声で答えてくれた。それがより一層、名草に恐怖感を植え付けた。


 それから数週間後に退院したものの、外は半壊した建物ばかりが並び、もちろん、名草たちが住んでいた家はとっくに片づけられ、仮設住宅が建てられていた。元々の名草の家は、ぼろぼろのアパートの2階にあった。


 名草にとっては、あの日以来の外の世界であった。あの日から半年以上が経っていて、トリルノースの復興力のすばらしさを感じるほどに、人の住む場所などは整えられてきているが、第一地区の中心である、ストーンモール1番地は整ってきているが、その外れの町などの復興が遅れているという状況だった。市庁の機能が全壊したために、それ故の復興にも手間がかかるからなのだろうと、今の名草には考えられた。


 名草の新しい家は、ストーンモール1番地より少し離れた位置にある、『バーネス1番地』に建てられている30階建ての高層ビルの10階にあった。「あなたの誕生日に合わせたのよ」と母は笑っていた。母が言うには、バーネス1番地では、子供連れで、さらに片親家庭である家族が優先的に住むことができ、さらに住む階も決められるということで、母が応募し、10階の部屋をもらうことができたという。ここで、名草は母の説明に疑問を感じた。


「おとうさんは?」


「あ………話しても、いっかあ」


母はしまった、という表情から仕方がない、というあきらめの表情に切り替え、名草に真実を語った。新しく住む、高層ビルのエントランスの前で。


「お父さんはね…ううん、お父さんと、ルリちゃんはね…あなたがこけちゃった日に、いなくなっちゃったの」

「…しんじゃった?」


名草の問いかけに、母は顔色をさらに悪くすることなく、頷いた。名草は、泣きそうに…ならなかった。「そうなんだ、しかたないね」と無表情に答えた名草に、母は平手打ちを送った。


 名草は、「こう答えれば、母は顔色を悪くしない」と思っていた。誕生日会の時に「家族みんなで」と言ってしまったとき、もうこの話題に関しては、何も聞かないでおこう、むしろ、「明るく振舞おう」と名草は決めていた。一番苦しいのは、半年間、父も、妹も、自分もいない生活を強いられてきた母なのだと確信していた。だからこそ、導き出した名草の返答は、逆に母の顔色を豹変させてしまった。名草は母親に叩かれた悲しさ、何が正しかったのかわからないというパニックで、その場から駆け出し、道路に出てしまった時にスピードを出していたトラックにはねられてしまった。これは、名草はよく覚えている。母が駆け寄ってきて、「ごめんね、ごめんね」と優しい声で呟きながら、抱きしめてくれた。母の胸の中で目を閉じるまで、名草は母の声を聴いていた。


 目を覚ましたのは、また同じ病院のベッドの上だった。次は母も看護師も居らず、部屋の中は名草だけだった。怪我は変わらず、左手の包帯のみの様子。名草はここで、包帯を外してみたくなった。そして、外してしまったのだ。名草は、その時に見た左手を今じゃよく覚えていない。でも、自然に忘れてしまったのではない。“わざと”忘れたのだ。見た後は、母や看護師にばれないように、また綺麗に包帯を巻きなおした。


 それからまた数週間して退院し、今度こそ新しい家に足を踏み入れた。広いリビングに、2つの広い洋室。そのうちの一つは、名草の部屋だと母に言われた。部屋はパステルピンクが基調の、色以外はシンプルな部屋(まあお気に入りのおもちゃやぬいぐるみは前の家で埋もれてしまったのだろう)で、目立つのは一人で寝るにはまだ大きなベッドと、まだ高い所に手が届かない大きな本棚と、もう一人で見るには大きすぎるテレビだった。名草はそれから小学校に復帰するまで、一人部屋にこもり、本棚の下の段にある本から読んでいった。復帰はそれから1か月後だった。本を読むのと同時に、遅れた分の勉強を一人で行っていた。その努力が幸いしてか、復帰後、勉強面で困ることはなく、逆に他の生徒よりも良い成績を取っていった。しかし、それが仇となり、名草はいじめられるようになった。


 名草は小学校に復帰してからも、母や看護師の言いつけ通り、包帯を外さないようにしていた。そのことも原因の一つに加わり、いじめは日に日に加速していった。それでも名草は毎日学校に通い、悪口陰口、持ち物を盗まれても教科書に落書きされても、すべてを無視して学校に通った。しかしある日、そのいじめがぱたりと止む日が訪れた。しかし、それは名草にとってまた、思い出せない記憶となってしまった。そして、今に至る。


 名草のいた小学校は、名草へのいじめの件で大々的にニュースに取られ、いじめを行った奴らもまた、散々たる目に遭っているらしい。名草は、母の意向により、しばらくまた家の中で過ごすことになった。名草があの時覚えているのは、左手の包帯をいじめっ子たちに取られてしまった所まで。その後いじめっ子たちに何があったのかは、名草は全く知らなかった。


 家にいる時間が長いせいで、いつの間にか選択畳みはお手の物、今の身長では、まだ読んでいない本がある本棚に手が届かないので、毎日家に配達される新聞や雑誌を読み漁っている。そのおかげで、8歳ながら、トリルノースの実態、世界情勢を知ることができたのだった。


ある日、母親が珍しく家を出る前に「絶対にお家から出ちゃだめだよ」と言ってきた。いつもなら「じゃあ、待っててね」とにこにこしながら頭をなでてくれる。しかし、この日はその一言のみで、頭をなでるどころか、名草を見向きもしなかった。しかし、名草は疑問に思うことなく、母親を見送った。


 夕方になり、名草はうたた寝から目を覚ました。そろそろ母親が帰ってくる時間だった。今日は10日。毎月10日はカレーライスの日になっている。名草の誕生日が10月10日で、大好物がカレーライスだということから由来であるこの日は、名草にとって誕生日とクリスマスに次ぐ大イベントであった。この日は、母親が帰ってくる前に、名草があらかじめ下準備をしておく。そのおかげで、カレーの具材を切っておくくらいなら簡単にできるようになっていた。しかし、今日は少し寝すぎてしまった。今からでも用意しようと、慌てて名草が冷蔵庫を開け、野菜を取ろうとする。しかし、冷蔵庫の中は空っぽだった。母はいつも、下準備をする名草のために、前日にしっかりと材料はすべて揃えてくれていた。今の冷蔵庫には、材料はもとより、お茶や調味料までもが消えている。これはおかしい。お母さんが帰ってきたら聞いてみよう。名草は食事用の椅子に座り、母親の帰りを待つことにした。


 どれだけ待っても、母親は帰ってこない。何回か、朝焼けと夕焼けを見た。ベッドに戻り、密かな物音に反応しつつの眠りに就いていたせいか、名草の目の下にはくっきりとした隈がついていた。名草はただひたすら待った。腹が減れば水を飲んだ。しかし、数日すれば名草とて幼き少女。我慢ができなくなる。そして名草は、ぱたんとリビングで倒れてしまった。意識はまだ、辛うじてある。しかし、自力で起き上がることができない。お母さん、まだかな。名草の瞼が少しずつ下ろされてゆく。名草の瞼が完全に閉じたとき、玄関から物音がした。名草の意識は、それを耳にした後、途切れた。

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