プレーティング

 バラバラのマナの肉を、三家族近くは囲めるであろう大きな食卓の上に野菜と一緒に順番に飾り付けていく。レタス、ブロッコリー、トマト、きのこ、そして右脚。左の脚はかかとに鉄棒を通して直立させて自家製ケバブに見立て、左手は手首の先から誕生日カードを支えるグローリーハンド、右手の指はソーセージ用に切り取って、ボウルの中で腸詰めと一緒にタレに漬け込まれている。右の太ももや腕の残りは既にオーブンの中だ。本当は焼く前に全ての部位を食卓に並べて飾りたいのだが、焼き上がりに時間がかかるメニューも組んでいるのでやむを得ない。見栄えと味の両天秤で見栄えを選ぶほど食を冒涜するものもないだろう。扱っているのが人の肉なら、なおさらだ。

 カチッ、カーンと時計が鳴った。

 時刻は今6時と4秒。早ければパーティの主役がクラブから帰ってくる頃だ。バースデイカードに書かれた名前はマルク。今日でちょうど10歳となる、健康で遊び盛りの男の子バースデイ・ボーイ

 だから、食卓に並べるマナの死者としての肉も、10歳前後のもの。

 そういう決まりルールだ。

 時計からマナの胴体に視線を戻し、切り開かれたお腹にガーリックライスを詰め込む作業に戻る。マナのお腹は空洞で、腹筋の厚みというか、膨らみを維持するためのものが何も入っていない。それを生きている人間のように見せるのには集中力が必要だった。電気を灯していない以上、屋内はすでに作業に支障をきたすほどに暗く沈んでいたが、肉を飾る手を止めてまで電気を点ける気は毛頭なかった。バレてはいけないのも勿論だが、一度没頭し始めた作業には決して中断を挟まないというのが私の主義、あるいは方法論だった。そうしなければ、完璧は成しえない。私がこの14年の”仕事”の中で学んだ美学である。

 目と指圧で何度も出来栄えを確かめてから、正中線に引き裂かれていたお腹を専用の糸で丁寧に縫い合わせる。胴体は重要な部位だ。腹や尻、乳房の脂肪など、可食部分の多くは胴体に由来する。食べるだけならば、胴体と少々の太ももだけで充分なのだ。

 しかし……。

 それでもなお、祝餐の席に座る子どもたちの目を最も引くのは人の頭だった。

 食卓の上座、ターミナル・エッグという名で知られる開閉式の玉座のような七輪の上にマナの首を据えつける。変な話だが、人の肉の中で最も扱うのが簡単なのは人の頭だ。ただ飾る以上に装飾を付け加える必要がない。意味がない。

 顔は顔であるというだけで、十分すぎるほどに人だからだ。

 やや時間をおいて私は、椅子に座り、肌に生きているかのようなふくよかさを蘇らせたマナをじっと見つめている自分に気がついた。予定していた準備が完全に一段落したらしい。「終わった」という事実を忘れるほどに、集中力が研ぎ澄まされていた証拠だ。そして力が抜けると、急に世界が暗くなったように感じる。

 肉の焼けるたまらない匂いが、パチパチと家中をくすぶっている。

 流石に、疲れた。

 だが休憩の時間はあまりないようだ。

 家の前にバスが停まる音と、子どもの笑い声。

 そこから恐らくは十秒も待たないうちに、慌ただしい音を立て、家のドアが押し開けられた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る