スピリット

 始まりは、純粋な食糧難だったと聞く。

 貧困も環境問題すら根こそぎ解決できるほどのクリーンなエネルギーの発見を機に三度目の世界大戦を引き起こした人類という種は、皮肉にも対立し合った国家の共倒れ的滅亡によって新生を迎えた。国や社会が滅ぼうとも、新たに発見されたエネルギーは、生き残った人々を養うためには充分なものだったのである。

 終戦と荒廃の中をわずかに生き延びた人類は、その苦くあまりにも馬鹿馬鹿しい茶番から多くを学んだ。旧き時代のあらゆる政治思想・国家意識は誤ったものだった。アメリカは世界の覇者でも代表でもなく、ただただ有頂天に幅を効かせた”ヤンキー”だった。国境なんて誰がどう考えても不必要なものだった。それを知った。

 世界は、哲学から生まれ変わった。

 革命は穏やかに、それでいて迅速に行われた。ものごとを正と邪に分け、不浄を払い、自らを神聖・正義であると定めて邁進する開拓者的、あるいはキリスト教的な思想……それらですら頭ごなし一掃・弾圧することなく、一つ一つ丁寧に再検討するという仕組みが新しい哲学の基盤だった。道徳、商業、経済……批判と調整・反映は粛々と執り行われた。特に、性を穢らわしいものと扱いながら親子愛を謳う滑稽さなどは特に厳しく批判され、現代の解放教育へと繋がっていったりしたわけだが……。

 混乱から驚くべき速さで”社会”を作り直した当時の人類の前に立ち塞がった最初の問題は、絶対的な食料の不足であった。戦争が大地に残した爪痕は深く、核汚染によって耕作地はほとんどが死に絶えてしまっていたのだ。僅かに残された健康な大地を人類のためだけに削るという発想は既にない。

 灰色の雲が空を覆う長く暗い冬の前に、ただ、夥しい量の死体だけが目の前にあった。

 ……だから、人類はそれを集めた。集め尽くした。瓦礫を掘り進め、泥に潜り、枯れ木をかき分け、死に物狂いで死者たちを探し求めた。戦争に殺された人々も飢餓に倒れた人の体も、善人でも悪人でも、明日を生きるためにないがしろにできる体などあるわけがなかった。

 そうして集められた体の多くはやはり大地と同じように汚染されてしまったものがほとんどであり、これを除染できるかどうかが次なる人類の眼目となったわけだが、そこで着目されたのが旧世界において美容目的で進められていた「肉体の若返り手術」であった。

 若返りを謳いながらも実際は生きた人間に施すのは不可能と結論付けられ、半ば研究が捨てられたも同然の過去の技術……それを応用すれば、汚染された人体は除染は可能である。その事実が発表された時に、人類の進むべき方向性は完全に決定づけられたのだろう。見栄と建前だけの道徳はいらない。本来の用途である若返りも、つまりは食肉としての人体の質の向上に他ならない。

 人が人を食べる時代が始まった。

 こうして人類は発見できた戦争の犠牲者たちの体を一人余すことなく除染し、可能な限り身元を符合し、冷凍庫の中に大切に保管して明日へと食いつないだ。当然、戦後の死者たちの肉体もこれに加わった。かつてない深刻な食糧危機の時代に、無駄にできたタンパク質など1gたりともありえなかったからだ。

 人々は自らが食べる肉に感謝を捧げ、一個の命から得られる全て、その血の一滴まで無駄にしないよう、切につとめた。

 図らずもそれは、原初の牧畜の中にこそ存在していたスピリットだった。


 やがて研究は進み、効率化され、人肉の風味すら調整が可能な時代がやってきた。若返りと同時に簡素な整形を施すこともまた、一種の弔い・死化粧として受け入れられた。たとえ戦争被害者の体の”ストック”がなくなっても、人類社会の中だけで肉が循環するよう、様々な取り決めと法律が生まれた。

 人類は人類という種の中だけで、永久の牧場を作り上げたのだ。

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