第9話 子猫

某日、とある某所。

ただっ広い部屋の中に積み重ねられた檻のある一室で、小さな子猫がかすかな鳴き声をあげた。


その子猫の毛並みは柔らかく、母親譲りの真っ白なお腹に、額と背中に出来た茶色い毛の部分には、徐々にうっすらとした縞模様が生まれはじめていた。


その縞模様は遠い先祖の血がいたずらをしたのか、それともまだ見ぬ父親の影響なのかは分からなかったが、その子猫は子猫ながらに自分のその縞模様がこの地域ではとても珍しいものであるという事をすでに認識していた。


自分の他にこの縞模様があるのは…


その瞬間に、緑の中を優しい風のように颯爽と現れた、あの一匹の猫の姿を思い出す。


その猫は子猫よりもさらにはっきりとした縞模様をその全身へと深く刻み込み、かなり老いてはいたようだったが、その老齢も相まってか全てを見透かしているかのような強く真っ直ぐなその瞳がとても印象的なメス猫だった。


その子猫ももちろん、まさか自分の足やしっぽ以外の場所にそんな模様があったなどという事は、到底知るよしもなかった。


だがあの雨上がりの穏やかなあの日。


空き地の草むらの中で、その縞模様の猫と遊びまわったあと、共に喉の乾きを潤そうと一緒に覗き込んだあの水溜まりの水面に映った自分の姿に、そのメス猫と同じような縞模様が浮かびあがっている事にはじめて気がついた。


『…こうして見ると、まるで親子みたいだな…』


その際にその猫がポツリと呟いたその言葉が自分の頭に今でもはっきりと残っている。


『…ママ…』


思わず零れたその言葉が、小さな子猫の鳴き声となって周囲に響く。


その瞬間に今まで必死に我慢していたはずの寂しさが途端に小さな身体中から溢れだしてしまって、子猫はたまらず再び声をあげた。


『…ママぁ~…』


その声は強く軋んで、今にも悲鳴に替わりそうな程に次第に大きくなっていった。


『やめろ、やめろ、あんまり騒ぐと別の部屋に移されるぞ。』


その声を制したのは子猫の目の前の檻に入れられていたオス猫の声だった。


薄暗い檻のせいで、その声の主の姿を捉える事は到底できなかったが、その声からして彼が若いオス猫だという事が伺えた。


『…だって、ママが…』


『なんだ、ママとはぐれたのか。』


自分の制止後もいまだ不安そうな声をあげ続けるその子猫の様子を見兼ねたオス猫は、徐々に子猫の前へとその姿を現していった。


子猫の檻から自分の姿が見えやすくなるようにと、薄暗い檻の奥から入り口の方までゆっくりと移動してきたそのオス猫は、全身から毛という毛が全て失われ、まるで皮膚が剥き出しになっているかのような姿をしていた。


『…ひっ!オジサン、その体どうしたの!?…何かその…病気…なの?』


初めて見る彼のそんな姿に、思わず驚いてしまった子猫はその場で大きな声をあげた。


『…しっ…失礼なガキだな!これは病気なんかじゃねぇ!ただの突然変異だっ!』


そんな子猫の反応に、つられてたじろいでしまうオス猫。毛がないぶん、その表情の変化は分かりやすい。


だがそのオス猫はすぐに我へと返ると、冷めた表情となってポツリと呟いた。


『…まぁ、もっともこの忌まわしい体のせいで、今までロクな人生じゃなかったがな。』


はじめは鋭く見えていたその眼差しも、そう彼が呟き始めたその瞬間から、彼の瞳は徐々に伏せ目がちとなり、そしてやや潤んでいるかのように見えた。


この世に生を受けたその瞬間から、全身の体に毛を有さない形で生まれ出てしまった彼は、一部のコアな趣味を持った人間達からは大層好まれてはいたようだったが、それでも大半の人間達からの評価は、ほぼ「気持ち悪い」の一言だけに尽きていた。


猫にはもちろん人間の言葉など分からない。


だが、出会った瞬間に眉を潜めるように露骨に顔を歪められたり、猫の集団に餌をやる際にわざと自分の元にだけ餌を投げようとしない人間達の姿を山ほど見せられ続けられたりしていたら、人間の言葉など全く分からない彼でも、さすがに自分がどんな扱いを受けているか容易に想像する事ができた。


そんな彼の哀しみを打ち消すかのように子猫は再び口を開いた。


『僕、早くママの所に帰りたい!オジサン、僕のママを知らない?』


『オジ…!お前なぁ〜…まぁいいか。知るわきゃね~だろ。見ろよ、ここから見える限りでもこれだけの檻があるんだ、この中に例えお前のママがいたとしても分かるわきゃね~だろ。』


そう言ってその若いオス猫は溜め息まじりに呆れた声をあげると、その場にごろりと横たわった。


確かにその若いオス猫のいう通りこの部屋の中には自分が今入れられているような無数の檻が所狭しと並べられている。


『…ママ…』


その檻の数の多さに絶望を覚えながら、たまらず子猫はまた一つポツリと言葉を漏らした。


『待ってろよ。どうせここの人間達は街中の猫を拐って集めてるんだ。だからお前のママもそのうちここに連れてこられて…』


彼がそこまで言った瞬間、突然この部屋の入り口の扉が開かれ、そして大きな麻袋を抱えた二人の男が入ってきた。


一人の男は大柄で筋骨隆々。対するもう一人の男は細身でまるで蛇を思わせるかのような狡猾な眼差しをしていた。


どちらの男も、その風貌と仕草から見てかなりのガラの悪さだ。


そんな彼らの姿を見て、その二人組の男達が自分を拐ってここまで連れてきた張本人である事を理解した子猫は、そっと檻の中で身を隠した。


男達が抱えてきた麻袋の中身が激しく蠢く。


「…コイツ…大人しくしろ!」


男達が必死に押さえつけているその麻袋の中身が、時折奇声のような悲鳴をあげながら袋の中で暴れ続けていた。


その必死に逃れようとする者の声と動きに、その袋の中身が実は猫であり、そしてその者自身もこの二人組の男達に拐われ、無理矢理ここまで連れて来られたのだということが伺える。


「ここに入って大人しくしてるんだなっ!子猫ちゃん!」


男達は麻袋を抱えたまま子猫の檻の前を通りすぎると、子猫の隣の檻の中に麻袋の中身を投げ入れた。


乱暴に閉められた冷たく重い檻の扉の音が周囲に激しく響き渡る。


二人組の男は、すっかり空になったその麻袋を乱雑に肩にかけると、決してこちらの事を振り向く事すらせずにその部屋を後にして行った。


男達が部屋を後にした事を確認すると、子猫はオス猫に向かって叫んだ。


『ママ!!ママなの!?ねぇ!オジサン!今隣の檻に入れられた猫は、どんな猫なの!?』


『…おぉぉお…おぉ…』


子猫がそう言いながらそのオス猫の方に目を向けると、彼はその場で固まり、瞳孔をみるみる内に拡げながら子猫の檻の隣に入れられたであろうその猫の姿を凝視していた。


『…これは美しい…』


『…え?』


まるで感嘆の溜息を洩らしたかのようなオス猫のその変わりように、思わず子猫も聞き返した。


『これは美しい…黒猫だ。』


『…黒猫?』


そのオス猫の口から飛び出した思いがけない猫の種類に、子猫はキョトンとした表情を浮かべる。


『…残念ね。私はあなたのママなんかじゃあないわよ、坊や。』


見ると自分の檻と隣の檻との境目に空けられた小さな隙間から、隣の檻へと入れられた例の猫が、こちらを覗き込みながらそう答えた。


その黒猫は濡れたように輝く長い漆黒の毛に身を包んでおり、まるでガラス玉かのように澄んだ大きな瞳でこちらを見つめていた。


『おぉぉぉ…こんな綺麗な黒猫を、俺は今まで見たことがないゼ…!お嬢ちゃん、お名前は?』


『私の名前はアレクシアよ。そういう毛並みがさっぱりしたそちらのハンサムさんのお名前は?』


そう言ってアレクシアは艶かしい動きで尻尾を揺らした。


『俺の名前はランディーだ!うぉぉぉ~!!声までたまんねぇ~!!』


そう言ってランディーは、何やらとろけたような表情を浮かべてはやたら甲高い声をあげながら、檻の床に自分の体をこすりつけはじめた。


その姿は先程自分に対して「声をあげるな」と言った猫と同じ猫だとはとても思えぬ姿だった。


『…で?そちらのおチビちゃんのお名前は…?』


そう言ってアレクシアは檻の境目の隙間から再び子猫の事を覗き込んだ。


檻の隙間越しに、アレクシアの美しい瞳が妖しく光る。


まだ子猫にはランディーのようにアレクシアの魅力というものが分かりはしなかったが、それでもこのアレクシアという猫が他の猫とは数段も違って、類いまれなる美貌の持ち主だという事だけは理解ができた。


『…僕は、まだ名前がなくて…ママにはいつもチビって呼ばれてたけど、もう少し大きくなったらママを飼っている人間と一緒に暮らすから、その時にその人に名前をつけてもらおうって話になってて…』


すると、子猫のそんな言葉を聞いたランディーは、まるで子猫の言葉を遮るかのようにこう言った。


『…坊主、人間と暮らすなんて辞めた方がいい。アイツらは、都合のいい時にだけ俺らを可愛がって飽きた途端に速攻でポイだ。俺はそんな仲間達を山ほど見てきたし、俺なんて生まれしばらくして毛が生えないという事が分かった瞬間に、山に捨てられちまったからな。所詮人間共なんて表のツラばかりを着飾った、残酷な奴らばかりにすぎないんよ。』


そう言って額のシワを深く刻ませながら、その瞳を鈍く光らせた。


『私もよ。ただ黒猫だからっていう理由だけで、不吉だの、呪われるだのっていつも避けられて生きてきたの。…そんなの、ただの人間の決めつけなのに。私は誰の事も呪ったりしないし、誰も不幸になんてしない。…それでもそのくだらない偏見だけで今までずっとしいたげられて生きてきたのよ。』


そう言って今度はアレクシアが憂いに満ちた瞳でそう語った。


この街に住む猫達は、みんな大切に育てられてきたと子猫はいつも聞かされていた。だが彼らは人間達の勝手な偏見で、ひどく辛い生活を強いられていたようだ。


『でもママは…ママと暮らすミモザはとても優しい人だって…!!』


『はじめは優しくしてくれるわ。子猫のうちは特にね。それはもう自分の子供か、宝石みたいに大切にしてくれるわよ。でもね、体が大きくなって、大人になってからも同じように大切にしてくれる人間なんて、ほんの一握りよ。』


『…そんな事…』


アレクシアの言葉を遮るかのように発した子猫の言葉を、今度はランディーが静かに遮った。


『そんな事があるんだ。いいか?お前をここに拐って来たのも、俺やアレクシアを捨てたのも、みんな人間達なんだ。傷つけられる前に、下手な期待なんてものは抱かない方がいい。』


ランディーのその言葉に、チビの頭の中に決して遠くない昔の記憶が蘇った。


チビ自身も真っ白な毛並みの母猫に抱かれて眠っていた時に、飼い主であったはずの男に突然抱き抱えられ、そしてあの空き地へと捨てられたのだった。


母猫から引き離される時、必死に地面に向かって爪を立てたのを覚えているが、その男の力になど到底かなうはずもなかった。


『…だけど…』


そんな辛い記憶を打ち消すかのように呟いたチビの言葉を遮るように、再び重たい鉄の扉が開かれた。


『…しっ!!』


ランディーのその声を号令に、アレクシアもチビも再び檻の奥へと身を隠す。


鉄の扉からは再びあの例の男二人が今度は先程よりも大きな麻袋を抱えて入ってきた。


今度は麻袋の中身は動いていない。


男達がその麻袋を床へと降ろすと鈍く重い音が周囲に響いた。


一人の男がその麻袋の口を乱暴に開くと、もう一人の男が準備してあった何枚もの鉄皿の中に乱雑にその袋の中身を分け入れ始めた。


「…なんだってわざわざ拐って来た猫達にこうして餌をやらなきゃならないんッスかね。」


「…仕方がないだろ~…『餓死させるのだけは絶対にダメだ』っていうのが、俺達のボスのポリシーなんだから。」


そう言って彼らは手際よくそれぞれの檻の中へと餌を入れていく。


一つ一つの檻は外から簡易式の鍵が備え付けられただけのようなとても簡素な作りで、男達は片手で鍵の操作をしながら慣れた手つきで餌次々とを配っていった。


ひと通りの餌を配り終えると、男達はそのまま部屋を出ていった。


思いがけず目の前へと配られた山盛りの餌を前に、思わず固まるアレクシアとチビととランディー。


『さぁ、どうする?お嬢ちゃん。』


この状況下でそう最初に口火を切ったのはランディーの方だった。


『…もちろんいただくわ。昨日から何も食べてなくて、お腹がもうペコペコなの。どうせこのままここにいたって殺されちゃうかもしれないんだし。例えこの餌が全て毒入りだったとしても、同じ死ぬというのなら、お腹いっぱいのまま死にたいわ。』


そう言って餌にがっつき始めるアレクシア。


『…そりゃごもっともで。』


そんなアレクシアの様子を見たランディーも続けて餌を口にしはじめた。


そんな彼らの姿を見て、ゆっくりと目の前の餌に口をつけはじめたチビは、ふと思った。


『…あれ?この味…ママがいつも運んで来てくれるあの餌と同じだ…』


思いがけず再会したその懐かしい味に、チビはチャチャへの想いを募らせざるは得なかったのである。



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