第2話 チャチャ

『ミモザがまだ小さい子供だった頃に、私はあの家に引き取られたんだ。』


チャチャの後を追って、ミモザの家を飛び出してすぐ。


例の高台から街へと降りる小さな階段を下って、ひときわ賑わっている大通りへと足を運んだ。


大通りではこの土地を取り仕切っている領主の住む城へと向かって様々な露店が所狭しと並べられており、沢山の人達で溢れ返ったその店先では、誰しもが忙しそうに商品の売買を行っていた。


『…悪いがあそこはあまり通りたくないんだ。今日は荷がおろされる日だから一段と騒がしくてな。』


そう言ってチャチャはすぐに大通りから外れた小さな路地へと入って行った。


「…大丈夫ですよ。僕もあまり人ゴミは得意な方ではないので。」


そう答えるコルクの方を振り向く事なく、チャチャは狭く薄暗い路地の中をどんどんと進んでいく。


コルクはその狭い路地の中で、時折体をねじらせたりしながらなるべく遅れをとらないように、必死に彼女の後をついて行った。


猫拐い事件が横行しているこの街で、ただでさえこの地方では珍しい種類のキジネコであるチャチャの姿はやたらと人目についてしまう事に間違いはないだろうし、何よりあの人だかりの中で、人々の足元を縫いながら小さな体を持つ猫が進んでいく事は、決して容易な事ではないだろう。


…急がばまわれ。

賢明な判断である。


『仕事で家を開ける事が多かったミモザの両親が、彼女が寂しがらないようにと仕事先の遠い国でまだ子猫だった私をもらって来たんだ。彼女の両親は貿易業をしていてな。日々忙しく過ごしていたが、彼らはミモザの事を本当に大切に思っていたよ。…ところでアンタ、高いところは苦手かい?』


「…いいえ。そこそこ大好物です。」


『…それは良かった。』


チャチャからのそんな質問が投げかけられたと同時に、コルク達は明るい開けた路地裏へと出た。


ここもかなり道は広いが、表の大通りとは違ってかなり閑散としている。


チャチャはコルクからのその返事を確認すると、ひょいっと近くの塀に飛び移った。


コルクもチャチャと同じようにひょいっとまではいかないが、何とかその塀によじ登り、相変わらずトットットと軽い足取りで塀の上を器用に歩いて行くチャチャの後を、両手を広げて何とかバランスを保ちながら進んで行った。


『…だが、八年前のある嵐の日にミモザの両親を乗せた船が沈没してな。それからというもの、彼女はずっと私と二人暮らしさ。』


そう言ってチャチャは、今まで渡っていた

塀の上から、また別の塀の上へと飛び移った。


コルクも塀の壁にうまく足をかけながら、その塀へと飛び移る。


「…さっき彼女の事を訪ねて来ていた人は…?」


『あの男の名前は、クリフ。三年ほど前からミモザと付き合っていてな。もうすぐ結婚もするらしい。』


「喜ばしい事ではないですか。」


コルクのそんな返答に、チャチャは一瞬チラリとこちらを睨みつけるような表情で振り向いてみせたが、すぐにまた歩きはじめた。


『…どうかな。アイツはアイツで案外胡散臭い男だよ。…こっちだ。』


そう言ってチャチャは首の動きでコルクに自分が進もうとしている方向を指し示すと、さらに狭い建物の間へと入って行った。


薄暗い建物の間を抜けると、目の前には真っ青な海が広がった。


そこは港町で、船着き場についた大小様々の船の中から、男達が手際よく大量の荷を下ろす作業をしている。


港から流れてくる心地よい潮風がコルク達の体をそっと撫でながら、その鼻先にまで海の香りを運んできた。


「…あの高台から見えてた海は、港だったんだ。」


そうポツリと呟いたコルクの足元に、チャチャはそっと座り込んだ。


吹き続ける潮風が、コルクの髪とチャチャのヒゲをなびかせる。


チャチャのヒゲがなびく度、首につけている鈴がチリンチリンと小さな音色を響かせた。


船の上で忙しそうに荷を下ろし続ける男達の姿を眺めながら、チャチャは再び口を開いた。


『…一週間ほど前かな。たまたま外を歩いていた時に、男達が子猫を拐って行くのを見かけてな…必死に後をつけて来たんだが、この港まで来たところで見失ってしまったんだ。』


そんな彼女の言葉に、コルクは思わずチャチャの事を見下ろしたが、チャチャは決してこちらに目を向けるような事はなく、ただひたすらに海や男達の姿を眺めているだけだった。


その瞳はまっすぐで、相変わらずヒゲはそよそよと潮風でなびいている。


「…船か何かで移動したって事ですか?」


『…さぁな。生憎そこまでは見ていないから何とも言えないが、その手前の曲がり角のところで男達を見失ってしまってな。私が港に着いた頃にはすでにもう誰もいなかったよ。』


そう言ってチラリと目を向けたチャチャの視線の先には、簡易式の建物が所狭しと敷き詰められており、その建物と建物の間にはまるで計算して作られたかのように入り組んだ細い路地のようなものが出来ていた。


…チャチャの言うとおり男達があそこを通ってきたというのであれば、この港に男達がたどり着いたと考えてまず間違いはないだろう。


あとはそのまま海を渡ったか、別の道を通ってどこか違う場所に行ったかだが、どちらにせよこの状況から考えて彼らがこの港を利用したと考えるのが一番自然な事のように思える。


コルクは口元に手をやりながらしばらく考え込むと、チャチャに向かってこう尋ねた。


「…その男達に心当たりはないんですか?」


『…男は三人組だったんだが、この辺ではあまり見かけない顔だったよ。あとどいつもこいつも揃ってお世辞にもガラがいい連中とは言えない感じの人間だった。…雰囲気からいって多分この辺のモンじゃあないよ。…とは言えここはこの街の玄関口ともいえる港だからね。得体の知れない人間がウロウロすることなんて、しょっちゅうさ。』


「…他に何か気になる点とかは?」


『子猫を見失って、しばらくここをうろついていた時に、一人の男を見かけたさ。多分あれは…クリフだった。』


「…それは本当なんですか!?」


チャチャの口から飛び出した意外な人物の名前に、コルクは思わず驚いた表情を見せる。


『あぁ。まず間違いないね。アイツの後ろ姿なんて、イヤという程見ているからね。』


そう言ってチャチャは顔をしかめると、さらに言葉を続けた。


『ただ、アイツの仕事は貿易業なんだ。だからその時にこの港に奴がいたとしても、なんの不思議もないさ。そもそもミモザと知り合ったのもその関係だからね。昔クリフの親がミモザの両親と取引をしたことがあるとかで、二人の距離が急激に縮まったのもそのおかげさ。…ただ、貿易業をしている人間は…』


「…荷を下ろす日の昼間っから仕事を放棄して、のこのこ女に会いに来るなんて事は、まず考えられない。」


『…ご名答。』


チャチャはコルクのその言葉に満足そうに呟くと、すくっと立ち上がってまた先程と同じように、軽い足取りで来た道を歩き始めた。


「…で?あなたは一体僕にどうして欲しいんです?」


コルクもチャチャの後をついて行きながらその質問を投げかける。


『…クリフの正体を探って欲しい。本当にクリフが猫拐いの事件に関与しているというのであれば、アイツをミモザと結婚させるわけにはいかないからな。』


そう言ってチャチャは振り向く事なく答えた。


「…本当にそれだけなのでしょうか?」


コルクのその言葉に、軽快だったはずのチャチャの足がピタリと止まった。


「…僕にはまだあなたが何か隠しているとしか思えないんですが。」


『…へぇ…私がアンタに隠し事をねぇ…例えばどんな事だい?』


そう言ってチャチャは、コルクの方をやっと振り向くと、その場に腰をかけて優雅に毛繕いを始めた。


コルクはチャチャのそんな挑発に答えるかのように言葉を続けた。


「普通、老齢を迎えた猫はあなたみたいにアクティブに外を歩きまわったりはしません。ミモザさんが言うように、もともとあまり外に出る習慣がなかった猫が、最近になって急に外に出たがるようになったのであればなおさらです。そもそもあなたみたいに知能の高い猫が、本来なら猫拐いの横行しているこの街でむやみに外に出るなんていう馬鹿なマネをわざわざ自分からするとは、どうも思えないんですよね。」


『…何が言いたい…?』


そう言ってチャチャは毛繕いを辞め、ギラリとした瞳でコルクを睨みつけた。


「…あなた、自分の死期が近いのを悟って死に場所を探していたんじゃないんですか?そこで、子猫が誘拐される場面に遭遇した。…違いますか?」


コルクのその言葉に、チャチャは真剣に聞き入っていたがしまいには静かに瞳を伏せると、フッと軽い笑みを浮かべた。


「…そちらもご名答。さすがだね、アンタ。まさかそこまで見抜かれてしまうとは思わなかったよ。ただ一つ違うのはね…私は子猫の誘拐現場に遭遇したんじゃない。…あの子猫は私が育てていたんだ。」


そう言ってコルクに向かって哀しそうな眼差しを向けたチャチャのヒゲは、またしても潮風に煽られて静かになびいていたのであった。


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