第五章 現代勇者の決戦事情 3
* 3 *
風化した大理石か何かの床を蹴り、全力の勇気を身体に通した俺は、二十メートルの距離を一気に駆け抜ける。
俺の動きに反応して風斬り音を伴いつつ振り下ろされたペスティバンの剣。
「はぁっ!」
わずかに左の蹴り足を強くして右に避け、剣が床を砕くのと同時に右脚一本で飛び、気合いの声とともに聖拳を金毛の生えていない黒い腹に叩き込んだ。
「ぐぅ……。くくくっ、はーーーっ、はっはっはっ!」
俺の打撃にうつむき膝を突くペスティバンだったが、着地した俺の顔を睨みつけてきた奴は、楽しそうに口を裂けるほどにつり上げていた。
「これが全力の勇者か! 楽しい……、楽しいぞっ、勇者!! 戦うのは何年ぶりか! じっくりと楽しみ、さらにお前に苦しみを与えて殺してやろう!!」
立ち上がったペスティバンは金毛に覆われた左手の甲を向けてくる。
「くそっ」
放たれた金の光に、俺はステップを踏んで後ろへと逃れた。
ついさっきまでいた床に突き刺さっていたのは、俺の身長ほどもある金の針。
ペスティバンの剛毛そのものであろう針は、俺の全力の蹴り足でもヒビすら入らなかった床に深々と突き刺さっていた。
――案外多芸な奴だな。
奴と睨み合いながらも、俺は肘までを防護する手甲に勇気を通し、防御力を強化する。金の針はおそらく、戦闘服程度は易々と貫く威力を持っているだろう。
沈黙を破って先に動いたのはペスティバン。
水平に振るわれた剣を軽く跳んで避け、ベッドにでもできそうなほどの広さの剣の腹に手を突きながら乗る。
肩の上の位置に振り切ったところで、俺はスタートを切った。
頬の毛が針となって飛んでくるが、左腕で弾いてそのまま頬に右手の聖拳を食らわせる。
姿勢を崩したペスティバンに追い打ちを掛けようと右目を狙うが、迫ってきた左手によってはたき落とされた。
飛ばされて迫ってきた石柱。
身体を打ち付けそうになったところをくるりと回転して脚から着地し、床へと降り立つことに成功していた。
――強い。
正直、俺はそう感じていた。
戦いは始まったばかりだし、いまのところ俺が二発聖拳を食らわせてやってるだけで、ペスティバンからの攻撃をまともに食らったわけじゃない。
だが、全力の俺の攻撃を受けた奴にダメージを受けた様子がない。
五メートルはあるだろうペスティバンは、巨体に似合わず機敏で、素早い。その上サイズの違いから来る攻撃範囲の広さは、ただでさえ避けにくい攻撃をさらに避けにくくしていた。
これでも俺は自分の力にはそこそこ自信はあるし、メモルアーグ程度ならば右の聖拳で苦もなく倒すことができる。強いとは感じていたが、ペスティバンの力は俺がこれまで戦ってきたどんな敵よりも強いのは確実だった。
にやりと唇の端をつり上げるのと同時に放たれた金毛を避け、俺は前に飛ぶ。
強いが、負けるわけにはいかない。鈴代さんを助けなくちゃならないし、エリサの戦いも手伝って、詞織も守らなくちゃならない。
ペスティバンがどんなに強かろうと、俺は引くわけにはいかなかった。
振り下ろされた剣を左に避け、迫ってきた蹴り脚を寝そべるようにしてやり過ごした俺は、残っていた右足の膝裏に拳を突き込む。
バランスを崩して仰向けに倒れてくる奴の腰に向かって、渾身の蹴りを見舞った。
形は人間に近くても、サイズも誕生方法も人とは違う魔人にどれほどのダメージになるかわからないが、踵が背骨に食い込んだ感触にダメージを確信する。
「ぐおぉぉぉ……」
蹴りによって浮き上がったペスティバンの身体は、床を揺らしながらうつぶせに着地し、奴は苦悶の声を上げていた。
――よしっ。
心の中で歓喜の声を上げたのもつかの間、強烈な力を頭上に感じて俺は全力で床を蹴る。
突き刺さったのは剣。
それをつかんでいるのは紐のように伸びた奴の腕だった。
「なっ?!」
驚きながら立ち上がった俺に唾液を引いた鋭い牙が迫る。
首を伸ばした噛みつき攻撃を直上に避け、「しまった!」と呟いたときには、俺はペスティバンの左手に捕らえられていた。
膝から胸にかけて、万力のような強い力が俺を締めつける。
「くっ」
肺の空気を空っぽにしそうになるのを奥歯を噛みしめて堪え、奴の指に聖拳を叩き込むが、力は緩まない。
「捕まえたぞ、勇者よ。なかなかの力だが、儂には及ばぬな」
形こそ人に近いが、ペスティバンは魔人。
メモルアーグにはその手の芸当はできないようだが、四肢や首を伸ばせる程度のことを想定していなかった俺が甘かった。
伸ばしていた首と両腕を戻し、立ち上がるペスティバン。
「じわじわと殺してやろう。いつまで堪えられるかな?」
その言葉とともに、俺の身体を包むように湧き上がる黒い霧。
吸い込まないように口を閉じ、鼻を左手で覆ったが、遅かった。
「っ!!」
声にならない悲鳴を上げていた。
わずかに吸い込んでしまった黒い霧により、身体の中に火が点いたような熱さを感じた。
ペスティバンは病魔の魔人王。
魔人教団の教主がメモルアーグについて話していたはったりとは違って、ペスティバンは文字通り人類を滅ぼしうるほどの力を持つ魔人の中の王だ。
戦いを好む性格をしているが、本来の性質は病魔。
人類のすべてを殺しうるほどの猛威は、勇気を通している俺の身体すら冒していた。
――あまり長くは保たないな。
ひりつく目も閉じた俺は、肺に残る酸素を身体に染み込ませ、右手に勇気を集中させる。
身体に触れている感触を頼りに頭の中で狙いを定め、目を開けると同時に、ペスティバンの人差し指の第一関節を狙って、全開の聖拳を叩き込んだ。
「くぉっ」
骨があるのかどうかはわからないが、関節はちゃんと関節だったらしい。
一瞬力が緩んだ隙に手から脱出した俺は、ペスティバンから大きく距離を取った。
「なにやってんのよ、紗敏! こっちはあんたの手伝いなんてやってる余裕ないんだから、しっかりしてよ!」
「紗敏さん、いま回復を」
「大丈夫だ。近づくな」
エリサの悪態と近づいて回復の術をかけるつもりらしい詞織に応えつつも、俺は激しく咳き込み、病魔の霧に冒されて喉に溜まった血を吐き出す。
「拍子抜けだな、勇者よ。もう少し戦えるかと思ったが、この程度か? あの町にあると聞いた名もなき聖剣でも持ってくるべきではなかったのか?」
上空で激しくメモルアーグとやり合うエリサがもう少し堪えられそうなのを横目で確認し、警戒しつつ詞織に笑顔を見せた俺は、深呼吸をしてからペスティバンにニヤリと笑みをかける。
「何故俺が勇者と呼ばれるのか、知ってるか?」
「何?」
訝しむように目を細めたペスティバン。
息を整えた俺は一歩前に出て、胸を張る。
「ただ強いだけでは勇者とは呼ばれない。人々を救ったり強大な敵を倒した功績のある英雄とも違う。俺はこの力に目覚めたときから、勇者だったんだ」
「何を言っている?」
警戒を強めたらしいペスティバンは、突き刺さったままだった剣を引き抜く。
そんな奴の動きを気にせず、俺は脚を広げて腰を落とし、右手を床に着ける。
――さすがは魔人の寝所だけのことはあるな。
ペスティバンは後に英雄と呼ばれるようになる者たちに敗れ、この地で失った力を回復しつつ、さらに力をつけるために眠りに就いていたのだろう。
奴が選ぶ場所だけあって、ここには大きな力が、自然の力が、星の力があふれていた。
「地の龍よ、俺の血に流れる契約に従い、力を貸せ! 地龍鎧(ちりゅうがい)!!」
俺が叫ぶのと同時に、床が割れ、噴き出した土と岩が身体を包んだ。
余計な土が落ち、形状が安定したとき、俺がまとっていたのは黒曜石のような黒い光を放つ重厚な鎧。
俺の身体を三倍にも膨らませたようなその鎧は、地の精霊の力を借りた、地龍鎧だった。
「精霊の力を借りただと? それが勇者の力だと言うのか!」
「違うさ。勇者の力ってのはそんなことじゃない」
言って俺は開いた左手を腰に添え、そこに何かをつかむように軽く握った右手を当てる。
左手を鍔に、剣を抜こうとするかのように。
「勇者ーーーーっ!」
感づいたらしいペスティバンが、剣を振り上げて走り寄ってくる。
「名もなき聖剣? 持っているさ、いつもな。……いつも寝かせてやってるんだ、たまには鞘から出てきて力を貸せ」
左手から右手を離すのと同時に、ペスティバンの剣が俺を両断しようと降ってきた。
「紗敏さんっ!!」
剣の勢いで上がった土煙の向こうから詞織の声が響いた。
「問題ない」
土煙が収まるのと一緒に振り向き、左腕で剣を受け止めた俺は詞織に笑んだ。
それから、鉄板のような魔人の剣に向かって右手を振った。
「ぐぅ」
うめき声を上げ、転びそうな身体で二歩三歩と後ろに下がったペスティバンが握っていたのは、根元近くを切り取られ、剣として役に立たなくなった金属の塊だった。
切り取った剣先を押しのけた俺は、右手に持った、飾り気ひとつない両刃の直刀を構える。
勇者の力とは、人が宿せる闇の住人最強の力であると同時に、闇の住人に好かれる力。
フェロモンのように作用して闇の住人を引き寄せ、争いも生むが、精霊や聖剣のように好かれ、力を貸してもらうこともできる力。
歴史にすら語られることのなかった聖剣は、ただ斬るだけに使われることに疲れ、いつしか俺の住む町に流れ着いてきて長い間眠りに就いていた。そして俺が出会い、つがいとなる鞘のない聖剣は、俺の身体を鞘とし、その力の一部を貸してくれるようになった。
俺の右手が聖拳なのは、聖剣に借りている力の一部だ。
「さぁ、仕切り直しだ、魔人王。勇者の真の力、とくと見るがいい!!」
走り始めた俺から飛び退いて大きく距離を取ったペスティバンは、両手の甲を見せ、無数の金の針を広い範囲に打ち出してくる。
濃密な針の群れを、しかし俺は少し顎を引くだけで避けない。
金のスポットライトのような攻撃を抜けたとき、地龍鎧には傷ひとつついていなかった。
「がぁーーーっ!」
無傷の俺を認めたペスティバンは、握り合わせた両腕を振り上げ俺目がけて振り下ろした。
床が砕け、すり鉢状の窪みをつくるほどの衝撃。
そんな打撃すらも、地龍鎧によって力も身体の強度も増幅させている俺は、伸ばした左手で受け止めていた。
「はっ!」
身体の前で円を描くように、聖剣を振るう。
斬る。ただそれだけの事象を剣の形に打ち固めた聖剣は、抵抗すら感じさせずに、ペスティバンの両腕の肘から下を切り落とした。
「勇者ーーーっ!!」
「やっぱり魔人は人じゃないな」
斬ったはずの両腕を黒い霧と化して呼び寄せ、復元した魔人王は翼もないのに空へと舞い上がる。
この手の強力な闇の住人はたいてい地も空も関係ないが、やはりこいつもそうらしい。
「仕方ないか!」
聖剣は俺が常に鞘になっていることで充分だが、精霊の力は何の代償もなく借りられるものじゃない。
精霊たちは俺の勇気を好み、力を借りている間はそれを吸い上げ続けている。そう簡単に枯渇するものではないものの、戦闘後には一時的とは言え力が減衰するし、戦いが長引けば精霊の力が借りられないどころか、戦い続けるのが困難になるまで力が低下する。
魔人王との戦いを、あまり長引かせるわけにはいかなかった。
「風よ、力を貸せ!」
俺の声に応えて地龍鎧は地へと戻り、その代わりに暴風が身体を包む。
竜巻のような風の中から空へと飛び出した俺がまとっていたのは、白い衣、嵐龍衣(らんりゅうい)。
雨のように降ってくる金の針をすべて風で吹き飛ばし、俺はペスティバンを追って剣を振る。
魔人王と空で交錯する一瞬、聖剣は奴の胸を深く切り裂いていた。
「くっ、くっ! 儂の本当の力、受けるがいい!」
黒い血のようなものを胸の傷から流しながらも、ペスティバンは俺に向かって差し出した両腕を黒い霧へと変える。風の障壁によって霧を防ごうとするが、どんどん巻き込まれていく霧が俺の視界を黒く染めていく。
「炎よ! 俺に力を!」
戦闘によって多くの割れ目ができた神殿の床から噴き上がった炎が、上空の俺にまで届いた。
火の玉となった俺だが、剣を振って火を吹き払ったとき、嵐龍衣の代わりに、燃え上がる炎をかたどったような赤と橙の衣、炎龍衣をまとっていた。
「これが、人の持てる力だと言うのか!」
驚きに顔を引きつらせている魔人王に向け、聖剣を指で挟みながら手のひらをかざす。
「燃えろ! 病魔の魔人王!」
青白く燃える炎が俺の両手からペスティバンへと向かい、奴の全身を焼き清めていく。
苦しみ、身体をよじらせる魔人王は、意識でも失ったのか、炎を散らしながら神殿へと落下していった。
「水よ! 奴を捕らえろ!」
炎龍衣が燃えるように消え、戦闘服へと戻った俺に海から鞭のように伸びた水が包み、青い氷のような鎧、水龍鎧が形成される。
海の水はペスティバンへも向かい、奴の身体を串刺し、氷の杭となって神殿の床に磔にした。
「刻むぞ、聖剣!」
空を飛ぶことも浮くこともできない水龍鎧をまとった俺は、自由落下を始めた身体を水の力を借りて調整し、聖剣を突き出しながら魔人王の上に落ちていく。
そのとき、俺は微かな闇の力の気配を感じた。
「詞織!」
彼女が隠れているはずの柱の陰に目を向けるのと同時に、悲鳴が聞こえた。
*
――やっぱりシャレにならないっ。
腰の後ろから伸びる左右の大砲、ライトバスターを斉射するが、夜の闇に沈むように飛ぶ黒体無貌の魔人は易々とそれを躱していた。
「ふんっ。お前程度が我が敵となれると思うか?」
「やんなきゃならないのよ!」
一時は窮地に追い込まれたらしい紗敏は、いまは精霊の力を借り反撃を開始していた。
横目で見る限り圧倒しているようだが、ペスティバンも魔人王と呼ばれるだけの魔人。いますぐに決着が着きそうな気配ではなかった。
メモルアーグの放った黒い雷撃をエリサはフライブルームの滑るような飛行で横に避けるが、避けきれなかった攻撃は左腕のガントレットで張った機光障壁によって防ぐ。
「くっ」
完全に防ぐことができなかった雷撃が、エリサの身体を打つ。
宝石を溶かしてコーティングしたようなワインレッドの光沢のあった機光武装は、いまはあちこちが焼け、欠けていた。左肩のアーマーは砕けて基部を残すだけとなり、右足のブーツも激しくヒビが入り、もう防御力を期待できる状態ではなかった。
「まだまだーーーっ!」
声だけでも気合いを入れて、エリサは大砲の後部に装着した箱を開いて誘導型の太い弾頭を発射する。同時にスカートのフリルのように腰に装備した機光ファミリアを八本すべてを分離し、メモルアーグを追いかけさせる。
ミサイルのように煙を引きながらメモルアーグを追う弾頭は、近接での爆破と雷撃によって次々と数を減らしていく。
ブーメランのような形状に変形した機光ファミリアは、空を駆ける魔人に追いすがり、魔力の刃を形成して斬りかかり、光の矢を放って攻撃を繰り返すが、ほとんどは当たらず、当たってもダメージになっているようには見えない。
――時間稼ぎだけでも厳しい。
攻撃を避けつつ飛ばしてくる雷撃を躱しながら、エリサはメモルアーグにバスターを打ち込むタイミングを計っていた。
悪の秘密結社や人に害する魑魅魍魎の類いならば、今回ほどの装備は必要がない。
強敵殲滅用の装備をしてきたエリサだったが、魔人との対峙は不意の遭遇以外では最低でも分隊、強さによっては小隊か、それ以上の戦力を投入することになっていた。
機光少女アプリのエネミーリストに記載があるメモルアーグの予想戦力は、小隊クラス。殲滅を行うならば二小隊の投入が必要と予想されていた。
紗敏が素手で撃退したと聞いているメモルアーグだが、その強さは機光少女に過ぎないエリサでは敵わないことを、いまはっきりと実感していた。
「でも、あたしがやるしかないじゃない!」
機光ファミリア二本を自分の自動防御に回して数を減らし、エリサは自身も腰部と背部のスラスターから光を噴射して速度を上げ攻撃に参加する。タイミングと回避予想を行った左右の砲撃は、魔人の黒体をかすめるが、充分なダメージにはならない。
「こんなところで、死ぬわけにはいかないのよっ!」
残ったすべての誘導弾頭を発射し、ファミリアとともにメモルアーグを追い詰めていく。
死ぬつもりなんてなかった。
痛いのは嫌いだった。
だったら最初から戦いに参加しなければよかったのだと頭ではわかっていたし、自分さえ一緒に行くと言わなければ紗敏は詞織をここまで連れてくる必要もなく、彼ひとりで戦いに行っただろうことはわかっていた。
――痛くても、死ぬかも知れなくても、それでもあたしは紗敏の役に立ちたいのよ!
奥歯を噛みしめながら攻撃を続行する。
誘導弾頭が尽き、ファミリアの半数が打ち落とされたとき、両腕と翼を広げたメモルアーグがこれまでにない攻撃を放った。
「死ね」
黒い稲妻が全方向から、逃げる隙間もなくエリサの身体に迫る。
身体を縮めて魔力の障壁を張り、防御をするエリサだったが、稲妻は容赦なく障壁を打ち破り、彼女の身体を舐めた。
「あああああーーーーっ!」
飛びそうになる意識はかろうじて保つことができた。
全身に走る痛みに、エリサは魔力の光を灯した手を身体にかざす。白いアンダーウェアを焼き、炭化した肌は、光でなぞった後にはウェアごと元の状態に戻っていた。
それはエリサの原性魔法。
治癒ではなく、部分的な時間の逆行魔法。
魔属性の特性である破壊の力によって、進んだ時間を破壊する魔法の一種。
父親と母親から受けた暴力をなかったことにするために、幼いエリサが目覚めさせた彼女の最初の魔法だった。
「まだ生きているとはしぶといな。しかしお前ひとりであとどれくらい戦える?」
月明かりで見える顔には目も鼻も口もないため表情もなかったが、声には余裕が感じられた。
「そんな余裕を見せてていいわけ? 貴方の主はずいぶん苦戦してるようじゃない」
「構わん。あの方は強く、戦いを好むが、自分の戦いに水を注されることを好まない。それに勇者の力を削ぐことができれば充分だ。あとは勇者を倒し、あの方ごと我が力とすればいい」
「ふんっ。あんたたちって、仲間意識もないのね」
先ほどの攻撃に反動があるからなのか、余裕を見せているだけなのか、攻撃をしてこないメモルアーグに適度な距離を取りつつ、エリサは警戒を続ける。
傷は回復したが、もう魔法はあまり使えそうになかった。
機光武装に蓄積していた魔力はほぼ底を突き、たいした攻撃を行うこともできない。
――それでも、あたしはあんたの役に立つよ、紗敏。
心の中で紗敏に呼びかけ、無貌を睨みつけるエリサ。
ポイント稼ぎに始めた戦いを邪魔されるという最悪の出会いをし、その後何度か結界の残り時間近くにエリサごと戦場を破壊してきた紗敏。
それでも、エリサは知っていた。
彼は邪魔を目的として戦闘に介入してきたのではなく、光の世界に、その世界に住む人々を守るために戦ってきたことを。
殴られ、貶され、何度も殺されるような日々を過ごし、笑顔を見せていても次の瞬間には豹変し、そうでなくても裏では蔑む人づき合いしか中学までのエリサは知らなかった。
けれど紗敏は違っていた。
ただひたすらに、守るために戦っていた。
莫迦だと思うのに、そんなことをしても紗敏が幸せになれるわけがないはずなのに、彼はそうした自分を変えることはない。
そんな紗敏から目を離せなくなっていたのがいつからだったのか、よくわからなかった。
出会ってからまだ四ヶ月も経っていないのに、紗敏はエリサにとって、優しさと、芯を持った、側にいたいと思える人になっていた。
「あたしは違うのよ! あんたたちと違って、知り合いを、友達を、好きな人を、守りたいとも思うのよ! あんたを倒してね!!」
魔法拡張空間に仕舞っていた両手剣を顕現させ、エリサはそれを両手に構える。もう幾ばくもない魔力を振り絞ってバスターを連射しつつ、滑るように空を駆け、魔人へと迫る。
「やはりこの程度だな」
「ぐっ」
砲撃は避けられ、スピードを乗せて振るった剣は、親指と人差し指の二本だけで受け止められていた。
――死ぬ。
眼前にかざされた黒い手を見て、エリサは自分の死を覚悟した。
「ほほぅ! まだ役に立つか、彼奴め」
メモルアーグの感嘆の声に続いて聞こえたのは、女の子の悲鳴。
「詞織?!」
状況を忘れて振り向くと、柱の陰に隠れていたはずの彼女は、先日見かけた黒いローブを着た白髪の男に抱きかかえられていた。
「め、メモルアーグ! どこへ!」
かざされていた手が消えたかと思うと、黒い身体が詞織目がけて飛んで行っていた。
その場所には詞織を助けようと紗敏が向かっている。
エリサよりも低い位置にいる彼は、近づいてくる黒体の魔人に気づいている様子はない。
「紗敏!!」
エリサもまた、詞織の元へと向かってフライブルームとスラスターを操り、飛んだ。
*
「頑張って、ください」
柱の陰に隠れて、祈るように胸の前で手を握る詞織は、ただ見ていることしかできなかった。
小さく見えるほどの上空で、赤い閃光と黒い稲妻の応酬が繰り広げられていた。
病魔の霧から逃れた紗敏は、精霊の力を借りた黒い鎧を身につけ魔人王と戦いを続けていた。
見ていることしかできない詞織は、力のない自分に歯がみするばかりだった。
――もっと、もっとわたしに、力があれば……。
元々は自分を助けたために起こった戦いであることはわかっていた。
さやかが掠われたのも、紗敏がいま戦っているのも、エリサを巻き込んだのも、自分が戦いを見届けたいとわがままを言ったこと、――元を正せば自分が生きたいと願ってしまったことが原因であると、詞織は理解していた。
それでも詞織は、紗敏の戦いをこの目で見て、彼と一緒に生きて行きたいと思っていた。
だから彼女は、ひたすらに祈る。
自分にできることはさやかを守るために張った障壁を維持することだけ。
この神殿にあふれている空気は、紗敏はもちろん、機光少女のエリサや聖女の詞織にはさほどの影響はないが、病魔の魔人王の放つ力に冒され、普通の人間では長くいれば身体を壊し、死ぬことすらあり得るほどに毒されていた。
維持し続ける障壁は徐々に詞織の力を枯渇させ、力が減るのと同時に途切れさせることのできない集中が、少しずつ意識を曖昧にしつつあった。
戦いが終わるまで障壁を解除してはならないと、詞織は祈りながら術の維持に精神を傾ける。
「頑張ってください、紗敏さん、エリサさんっ」
目をつむり、手に額を着けて祈りの言葉を口にしたときだった。
「お前が直接ここに来るとは好都合だったよ」
そう言って詞織の背後に現れたのは、教主。
「さぁ、聖女よ。お前は我らの魔人の生け贄になるために引き取り、ここまで育てたのだ。本来の役割を思い出し、儀式の続きのために着いてこいっ!」
両手を上げて迫ってくる教主に、振り返った詞織は後退る。
「魔人はいつか世界を滅ぼす。封じておくためにはお前の命が必要なのだ。来るのだ! 聖女よ!!」
「嫌です」
教主の言葉に、詞織は拒絶の言葉を返す。
魔人教団のやっていたことについては、すでに紗敏から聞いていた。
教主と一部の祭司のみが平和を望む信者から贈られた財産を使い、見えない場所で贅沢な暮らしをしていることを。魔人の力を借りて教団を信じることによる利益を演出していたことを。
紗敏の言葉だけを鵜呑みにしてはならないのはわかっていたが、学校に通い、楽しい時間を過ごす間に、それ以前の生活について気づくことがあった。
教団の信者の人々の目には、クラスメイトや紗敏やエリサと違って、光がなかったことに。
記憶の魔人の力は確かに強力なのではあるだろうけれど、紗敏や他の力ある闇の住人によって倒しうる存在。封印のために生け贄が必要だという教主の言葉は、信者から利益を得るための言い訳でしかなかったことに。
「わたしはもう、あなた方の元には戻りません。わたしは自分と、それから紗敏さんや、他の人々と一緒に生きていきます」
少し前まで、詞織にとって教主の言葉は絶対だった。
そうであるものとずっと教えられ続けていて、疑問に思うことはなかった。
けれどいまは、教主の目を真っ直ぐに見、怒りを湛えた彼の視線にも負けじと睨み返す。
「わたしはこれからも生きていきます。自分の幸せのために。自分と、わたしの手が届く人たちの幸せのために、生きていくと決めたんです」
紗敏のように。
紗敏がそうしているように、詞織も生きていきたいと思った。
彼に告げた自分の想い。
否定されたように、あのとき詞織は紗敏を失ってしまうかも知れないという焦りを感じていたのは確かだった。
捨てられたくない。ひとりにはなりたくない。
そう思っていたのも本当だった。
けれどもいまならばそれだけじゃないと確信できる。
詞織はいま、紗敏と並んで歩いて、生きていきたいと胸の奥の奥から思っていた。
だから教主の言葉を、もう聞き入れることはできなかった。
「ならば無理矢理にでも連れて行くまで!」
教主の手に見えた黒い稲妻に、詞織は守りの障壁を貼ろうと手をかざすが、さやかの障壁と同時に張れないことに気がついて、一瞬ためらった。
「あぁ!!」
稲妻が詞織の胸を打つ。
全身に強い衝撃が走ったと思ったときには、意識が遠のいていくのを感じていた。
――ダメ。ダメです……。
「詞織!」
紗敏の声が聞こえたが、もう応えることもできなかった。
必死で意識をつなごうと思うのに、詞織の視界はにやつく教主の顔すらも、真っ黒に染まって見えなくなっていった。
*
振り向いた俺が見たのは、詞織の身体を抱き上げる教主の姿。
苦しそうな表情をする詞織には、意識がないようだった。
それを見た瞬間、俺はペスティバンのことを忘れた。
「くっ!」
水龍鎧を解除して嵐龍衣をまとい、飛ぶ。
「なっ?!」
目の前に立った俺に驚きの声を上げる教主の手から詞織を左腕で奪い返し、風の力を込めた蹴りを胸に見舞う。
一瞬にして見えなくなった教主は石畳の道を越え海に落ちたと思うが、魔人に借りた力がまだ残っているなら死にはすまい。気を失えば溺れるかも知れないが、知ったことではない。
「詞織っ。詞織!」
「んっ……」
服の胸の辺りに少し焦げた跡があるが、大きな怪我をしている様子のない詞織に呼びかけると、うっすらと目を開けた。
安心してホッと息を吐く。
「紗敏ーーーーーっ!!」
「あぁ、気づいてる」
覚醒した詞織を立たせながら、エリサの声に呟きで応えた俺は振り向きもせずに左腕を後ろに伸ばした。風よりも速い動きで迫ってきていたメモルアーグの拳を、風のクッションと左手によって受け止める。
振り向きざま、聖剣を黒体の胸の真ん中に突き刺した。
「ぐふっ」
斬る力のみを剣の形にした聖剣は、抵抗もなくメモルアーグの身体に潜り込んでいた。
「そのままでお願いっ!」
記憶の魔人を追って飛んできたエリサ。
空に留まったまま、彼女は額の髪飾りにはめ込まれた宝石から光を放ち、横一線のそれが黒体を頭から足までを走査する。
「そこだーーーーっ!」
右の大砲から槍のように光が噴き出す。
腰のジャンプスラスターと、幾分欠けてはいるが背中のスラスターから光を噴射して勢いをつけたエリサが、魔力の穂先をメモルアーグの腰に突き刺した。
「!!」
悲鳴の声すら上げず、黒体無貌の魔人は、黒い塵となって空気に解けていった。
「やった……。倒した……。あたしがメモルアーグを倒した!!」
飛行する力ももうないのか、装備も身体もぼろぼろになったエリサが床にしゃがみ込む。
「何をやったんだ?」
いつも綺麗に結っているツーサイドアップの髪の片方がほどけてしまっているエリサに訊いてみる。
「あんた、魔人のこと、何も知らないのね」
疲れた顔はしているが、笑顔を見せるエリサ。
魔人とは何度か戦ったことはあったが、タコ殴りにするか、聖剣で切り刻めば倒すことはできていたから、あまり気にしたことはなかった。それなりのダメージを受けていたにせよ、メモルアーグほどの魔人を一撃で倒す方法なんて、俺は知らなかった。
伸ばしてきたエリサの手をつかんで助け起こしてやりつつ、こんなときだが彼女の話を聞く。
「魔人には倒し方ってのがあるの。それはね――」
「紗敏さんっ!!」
悲鳴のような声を上げる詞織が指さす方向を見ると、水の杭から逃れたペスティバンが一番奥、玉座の隣に置かれた台のところに立っていた。そこには詞織が鈴代さんを守るために貼った障壁の白球があるはずだったが、それは見えなかった。
目に勇気を通して見てみると、台の上に横たわった鈴代さんの身体に、黒い霧がまとわりついていた。
ペスティバンの両腕はすでに霧となり、どんどん鈴代さんを冒していく。
「何をしている!」
「言ったであろう。お前が一番苦しむ方法で殺してやると」
言葉を発する間にも魔人王は霧となり、吸い込まれるように鈴代さんの身体に消えていく。
俺にやったように病魔の霧で鈴代さんを殺すのかと思ったが、違っているようだった。
ペスティバンの存在そのものが、鈴代さんの身体に取り込まれていくような、そんな力の流れが感じられていた。
ついに魔人王の身体は消えてなくなった。
その代わりにゆらりと立ち上がった鈴代さん。
緩く開いた両手を顔の前まで上げ、「ふんっ」という気合いの声とともに握った瞬間、彼女の身体を包んでいた制服は弾け飛んだ。
その下から現れたのは、黒い身体。
まるでペスティバンの霧が鈴代さんの服になったかのように、水着か、レオタードにも見える身体の線がはっきりと出た格好をしていた。
でも、俺はそれが間違いであることを知っていた。
折れてしまいそうなほどの細い腰。
服の上からではわからなかった想像以上の胸。
綺麗だと思っていた顔すらもその半分ほどが黒く染まっている鈴代さんは、ペスティバンをまとっているわけじゃない。
俺の勇者の力は、彼女の身体が魔人王に乗っ取られていることを感じていた。
台から飛び降り、ゆっくりと近づいてくる鈴代さん。いや、魔人王ペスティバン。
「紗敏さんっ」
「紗敏っ」
悲しそうに顔を歪めて声を上げる詞織と、泣きそうな顔をしているエリサに精一杯の笑顔を見せてから、俺はふたりから離れて前に出た。
「好いた娘に殺されるというのは、どんな苦しみであろうかの?」
鈴代さんの身体をし、鈴代さんの顔をし、けれど鈴代さんのではない、ナイフのように尖った指を見せつけてくるペスティバン。
――俺は、俺は彼女を救うはずだったのにっ。
詞織を助けに行ったことには後悔はない。
しかし鈴代さんを助けられなかったことには、身体が沸騰しそうなほどの怒りがこみ上げてきていた。
「ペスティバンーーーっ!!」
俺は聖剣を両手に構え、唇の端をつり上げて笑う魔人王を睨みつけていた。
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