第三章 現代勇者の怨恨事情 2
* 2 *
「ではこれから勉強をして参りますので」
自分の分の食器を洗い終え、茶の間で酒を飲んでいる父親と母親に挨拶をしたさやかは、足音が立たないようしずしずと板張りの廊下を歩き、自室へと向かった。
古風どころではなく、単純に古いこの家は鈴代本家の持ち物で、さやかが高校に通うにあたって近いここに家族で移って住んでいた。
古いままではなく、エアコンなどはあり、窓もサッシに入れ換えてあったが、三人で住むには広すぎるほどの家は全面的なリフォームはされておらず、六月になって暖かくなってきているとはいえ、隙間から夜の空気が入る廊下は寒さを感じるほどの室温だった。
鈴代家の先代頭首であるさやかの曾祖母が老後を過ごしたこの家は、しばしば遊んでもらったさやかにとっては住み心地は多少悪くても愛着があった。だが祖母である現当主の後継に任命されていて、現代建築を好む母親は頭首になり次第取り壊して新しい家を建てるつもりだと、時折父親と話しているのを聞いていた。
廊下の途中で立ち止まり、外の庭を眺める。
曾祖母が暮らしていた頃には曾祖母自身と、懇意にしていた職人の手で特徴的で綺麗に整えられていた庭は、安い業者による通り一遍の剪定がされるだけで、いま廊下から見えるものは映画のセットのような味気ないものになってしまっていた。
ため息を吐きながら障子を開けて自室に入る。
勉強のためという理由で部分的に母親好みのリフォームがされたさやかの部屋はフローリングで、勉強机や本棚、ベッドの他に、押し入れを改装したクローゼットなどがあった。持ち物こそ最低限にしているその部屋の中は、決して殺風景というわけではない。
部屋を彩っているのは壁に貼られた様々な紙。
わかっている限りの高校で行われるテスト、小テスト、学外の団体が行う模擬試験と、それに向けた勉強のスケジュールが、事細かに書かれて貼り出されていた。
さらに高校に入って勉強のためと説得して減らしたが、それでも残っている習い事や、勉強以外で必要となるだろう講習会やイベントの予定も、後半は空白が多いものの、高校三年分が書き込まれ、壁という壁に貼られている。
他にも、さやかのもの、さやかのものではない試験結果などが隙間なく貼ってあった。
濃紺のシンプルなワンピースの上に重ねた白いカーディガンの前をかき合わせつつ、机の上に置いたリモコンのスイッチでエアコンを入れて椅子に座る。
紗敏とは、あの後は禄に話せなかった。
家の用事でさやかが帰らねばならなかったからだ。
怪我どころか服にすら斬られたり汚れのついていなかった紗敏とは、後日もう一度話をするという約束を取り付けることはできた。
彼をどう説得するかよりも、さやかの頭の中に思い浮かんでいるのは別のことだった。
さやかに対して安心した顔を見せたのに対し、遅れて玄関にやってきた詞織に対しては、紗敏は優しそうな笑顔を見せたのだ。その顔を見た詞織が抱きつくように彼の側に駆け寄った様子は、見ていられなくて目を逸らしてしまった。
教科書データを入れてあるスレート端末を左に置き、集中して勉強するときには鉛筆の方が慣れているさやかは、紙のノートを開きながらも、明日の予習を始めることができなかった。
詞織に特殊な事情があるということはわかったし、襲われる可能性があるというなら、一緒に家に住んでいるのも、納得したくはないが、仕方のないことだと思うことはできた。
けれども、二年生が始まってから見かけるようになった詞織と、その側に立つ紗敏や、今日のふたりの様子には、納得なんてできるはずもなかった。
「いまはそんなことを考えてるときじゃない」
激しく首を振って考えを振り払い、乱れてしまった長い髪を軽く手櫛で整えてひとつ息を吐いてから、スレート端末に教科書のページを表示する。
一学期分の勉強は春休みの間にひと通り目は通してあるから、予習と言っても確認くらいしかやることはない。勉強を苦に感じたことはなかったし、一学期の中間テストはケアレスミスや誤読を誘う表現に引っかかっていくつかの失点はあったが、校内上位の成績は残せた。
先月の模擬試験の結果も上々で、母親が望む大学への進学も余裕がある状況だった。
「でも、そんなのは嫌」
鉛筆の手を止めたさやかは、机に突っ伏した。
一族の者の主張に寄れば、鈴代家は平安の頃から続く家柄で、豪族や武士と言った歴史に名を残すほどの活躍はなかったが、平家の血を引く由緒正しい血筋なのだそうだ。
しかしさやかが調べた限りでは江戸時代までしか血筋を遡ることができず、林業と農業で財をなし、明治維新や昭和の戦後のごたごたで地位を手に入れた、古いには古いが成り上がりの家系に過ぎなかった。
現在ではマンションや貸しビルなどの賃貸収入が大きく、一族の多くがそうした仕事かそれに関連した職種に就いている。しかしながら林業についてはほぼ廃業状態で、農業についても大きな利益は出しておらず、不動産業についても苦戦し抜本的な改革を迫られている状況だった。
そうした話は月一度くらい開催されている一族の会合を部屋の外で聞いていても、叱責や罵倒で状況を知ることができていた。
そんな状況であるにも関わらず、頭首であるさやかの祖母は責任を追及するだけで改革をしようとはしていない。むしろ手入れもされず税金などによって負担になっている古くからの山野を、一族ゆかりの地として守ることばかりを主張している。
さやかが様々な目標を押しつけられて勉強をしているのは、次期頭首である母親の後継、一族に最も貢献する能力をさやかやその従兄弟から選定するためだった。
「そんなことをしても、たぶん意味がない」
突っ伏したまま、さやかはため息を漏らす。
具体的な数字では見ていなかったが、保守的な祖母が頭首を勤め上げ、新しいものや派手なものが好きなさやかの母親が頭首となる頃には、一族の体制は崩壊するだろうと予想していた。
さやかが勉強をするのも、祖母の長女だから後継者になったと言われている無能な母親のためではなく、いつか家を出たときにもひとりで生きていけるようにするためだった。
「本当に、大丈夫かしら……」
寒さに似たものを感じたさやかは、両腕で自分の身体を抱きしめていた。
十六年、さやかは鈴代家の中で生きてきた。
強い期待の押しつけはあったし、進学のために内申書を良くするという理由から友達付き合いの制限は緩めであったが、幼い頃から祖母や母親に厳しく躾けられてきた。その生活には不足はなく、外から見れば羨ましがられるものであることは理解している。
けれど、さやかにはほしいものがあった。
「私は、貴方のように生きていきたい」
教室の中で友達と一緒に笑っている紗敏の顔を思い出す。
時折怖さを感じるほど引き締まった顔をしていることもあって、けれどそうしたときの彼の目は、真っ直ぐに何かを見据えていた。詞織の責任を取ると言って微かに笑んでいた彼の瞳には少しも後悔の色は含まれていなくて、彼自身がそれを決めたのだと感じていた。
「私は、結城君のようになりたい」
呟きを漏らしながらも、さらに震えを感じる身体を、さやかは強く強く抱きしめる。
紗敏のようになりたいと思っていても、さやかにとってはそう思うことすら恐怖を感じることだった。幼い頃から躾けられ、ずっと鈴代家で生きてきたさやかにとっては、家を出ると考えることすら簡単なことではなかった。
ひとりで生きている人がたくさんいるとわかっていても、自分もそうできる力があると自信があっても、実際に踏み出すには足りないものがあることを感じていた。
最初に紗敏の机に手紙を入れて彼を呼び出した日。
親戚だと言われていた詞織が彼と同居していると知って焦ったことが後押しになって、手紙を出すところまではできたが、彼に言葉を伝えられるかどうか自信がなかった。
ちゃんと言うことができたし、彼に笑みを見せることもできていたが、震え出しそうになる身体を押さえるので精一杯だった。
それでもあの日、さやかは紗敏に望みを伝えることができた。
一歩でも、踏み出すことができた。
踏み出した足は、もう戻すことはできない。したくなかった。
「だから結城君。私の話も、もっとよく聞いてよ」
一度目は誤魔化され、二度目の今日も邪魔が入って充分に話すことができなかった。
紗敏のことを殺そうと現れた人々が発する気配には恐怖も覚えたが、それでもさやかは自分の望みを諦められそうになかった。
「私に力をください、結城君。私に、いまの自分を壊すための力を」
顔を上げたさやかは壁を見つめ、そこにはいない紗敏に話しかける。
「私は、貴方の隣に立てる人になりたいから」
詞織のように彼の影に隠れる存在ではなく、彼と並んで立てる人に。
「それに貴方は、私の責任も取らないといけないんだよ」
言ってさやかは、紗敏の顔を思い浮かべながら笑んだ。
*
ダイニングテーブルの椅子に座って、俺は少し食べ過ぎたらしいお腹を休めていた。
「やっぱり、詞織の料理は美味しいな」
一緒に暮らすことが決まった後、迷惑ばかり掛けていられないという彼女に家事を任せてみたのは正解だった。
最初の頃つくってくれたのは割と質素な料理ばかりだったが、基本はできていたので料理の本を買って渡してみたら、最近はいろんな料理をつくれるようになってきた。携帯端末や据置端末の使い方も覚えてきた詞織は、献立を考えるのにネットを利用するようにもなってきてる。
調理器具については教えないと使い方がわからないものもあったが、そうしたものにも慣れてきた彼女がつくった今日のカレーは、もう文句の付け所がないほどになっていた。
――そのうち、いろんなものを食べに連れ出してみてもいいかなぁ。
味付けについてはまだ若干不安なところがあるし、叩きのめした祭司についてはポイントになると言ってエリサが連れて行ったが、いつの間にか姿を消していて捕り逃した教主のこともあるし、詞織と食べ歩きをするのはもう少し後のことになりそうだったが。
「どうぞ」
お盆にポットとカップを乗せて運んできた詞織が、紅茶を注いで差し出してくれる。
続いて受け取ったミルクを入れてひと口飲むと、柔らかい味が口の中に広がっていった。
ここのところ紅茶に填まったらしい詞織は、緑茶との淹れ方の違いに手こずっていたようだが、今日のカレーと同じく文句のない香りと味だった。
俺の前に座って自分のミルクティをひと口飲んだ後、眉根にシワを寄せた詞織が口を開いた。
「あの……、今日はすみません」
「教団の襲撃のこと?」
「はい」
小さく縮こまるようにしながら下を向いている詞織。
祭司たちを倒して家に帰ってから少し様子がおかしくて、元気がないのはわかっていたが、やっぱりかという気がしていた。
「詞織が気に病むようなことじゃないさ。俺が闇の住人に襲われるのは、教団のことがなくてもけっこうあることだし。この前軽く紹介したけど、悪の秘密結社の奴らなんて、けっこう決定的に敵対してるからな。何しろ俺が先代首領をころ――」
「でも……」
泣きそうな目をして顔を上げる詞織に、椅子から立ち上がって彼女の側に寄っていく。
「最初から言ってるだろ。詞織のことは俺が責任を取る、って」
「ですが!」
すぐ隣に立った俺に振り向いて声を荒げる詞織の、肩を少し越えたところで綺麗に切り揃えられた髪に手を乗せ、撫でてやる。
「大丈夫。俺が気にしてない。近いうちに教主もとっ捕まえてやる。姉貴の情報網に頼ることになるかも知れんが……」
驚いたように目を見開いた詞織は、でも撫でられるのは嫌じゃないのか表情を柔らかくする。
「まぁともかく、詞織の状況が落ち着いて、詞織が自分のやりたいこと、幸せだと思えることが見つかるまで、俺は詞織と一緒にいるから、大丈夫だ」
真っ直ぐに俺の目を見つめて、でも何も言わない詞織。
なんだかボォッとしている様子の彼女。
「どうかしたか?」
「い、いえっ。何でもありません!」
慌てるように首を左右に振る彼女に、髪を撫でていた手を離して自分の席に戻る。
どういうことだったのかわからず、俺は詞織と無言のままミルクティをすすっていた。
「でもわたしは、紗敏さんのお役に立ちたいのです」
「んー。そう言われてもなぁ」
カップを傾けながら、俺は考え込んでしまう。
詞織に任せっきりにせずに俺もある程度手伝っているが、掃除洗濯はほとんどやってもらっているし、食事内容の改善は、改善が過ぎて太りそうなくらいの勢いだ。
いまでこそ武道の道場には通っていないが、鍛錬は欠かしていないし、あまり食べ過ぎないように気をつけてはいる。あくまで努力目標としてだが。
学校に通いながら専業主婦みたいな仕事をやってもらっている詞織に、これ以上やってもらうことは思いつかない。
聖女の力については訓練で伸びるのは確実だが、それもいまは難しい。
エリサのような魔属性の力を使える者は闇の住人でも多い。聖属性の力となると、使える人はたいてい強力だが、使える人が少ないため、師匠を探すのは腰を据えてかからないといけない。
教主を捕まえて魔人教団を完全に叩き潰すまでは、保留にするしかない事柄だ。
「いまでも充分いろいろやってもらってるからなぁ」
「今日などのようなときは、わたしは何もできませんし……」
「まぁそうだけど、それは仕方ないしなぁ」
腕を組みながら、俺は少しうなり声を上げていた。
いまでも少しだが、詞織は聖属性の術を使うことはできる。翁と媼に習ったのだそうだ。
しかしあまり多くの術を使えるわけではなく、彼女に話を聞いて実際使って見せてもらった限り、本当に基礎的な術をいくつか知ってるだけだった。
力の引き出し方については勇気でも魔力でも聖力でもあまり違いはないので、それに関する訓練を少しやって、出会った頃より術の数は同じでも少しは強くはなっている。それでも攻撃に使える術というのがあるわけじゃない上、戦いにも慣れていない詞織では、今日のような場面で役に立つのは難しかった。
「いまは家のことをやってくれるだけで充分過ぎるほどだし、……正直なところ、詞織はその力があるから狙われることになってるからな。魔人教団を潰せたとしても、たぶんその後も狙われることもあると思う」
「そう、ですね……」
聖属性の力を持つ聖女は、希少で、力が強い分、それを求める者は教団に限らず少なくない。
どういう形で求めているかは人それぞれだが、そのひとつは自分に取り込むという方法。
メモルアーグはおそらく、聖女の力を取り込むことで自分の力を増そうとしていたのも、詞織を求める理由のひとつだったんだろう。
魔人の力と言っても、属性は必ずしも魔属性というわけじゃない。
宇宙の構成要素とする説がある世界属性の四つ、聖と魔、天と邪にふたつの軸のうち魔か邪に傾いている奴が多いのは確かだが、メモルアーグは強い天属性を持っていた。
属性はあくまで力の色づけ程度のもので、ロスはあるものの属性を転換することによって大きな力を取り込むことも可能だ。
別に聖や天の属性を持つから善人とか正義とかそういうことがあるものでもない。力はあくまで力。使う者の目的次第で役にも立てば他者に損害を及ぼすこともある。
詞織の持つ聖属性の大きな力は、取り込むには都合のいいものだと言えた。
「詞織の力、もし望まないなら、引っこ抜くことはできるぞ」
「そうなんですか?」
小首を傾げつつ、驚きに目を見開く詞織。
「ちゃんと調べてみないとわからないが、な。ただ血で受け継がれる力を引っこ抜くのはリスクや、力だけでなく失うものもある。外科手術みたいなことをやるわけじゃないが、実質身体をつくり直すような大がかりな術を使う必要があるからな」
「それをすると、どうなるのですか?」
「姉貴が依頼を受けてその手のことをやったときの話では、ほぼ別人になったそうだ」
「別人?」
「あぁ。姿形が変わるわけじゃないが、身体をつくり直すほどの術によって、力と同時に、記憶がほぼすべて失われることになるんだそうだ。強すぎる力を求められることが嫌になって、その人はそれまでの人生を捨てた」
詞織のことを真っ直ぐに見て、俺は彼女に問う。
「もし、詞織が追われ続けることが嫌になったら、すべてを捨てても静かに生きたいと願うときがきたら、そうすることもできる」
「わたしは……」
考え込むように、詞織は長いまつげを伏せて言葉を濁らせる。
「そう思うときがきたらで構わないさ、そういう方法を考えるのは。それでもし、それを選択して詞織がいまの詞織じゃなくなっても、俺は詞織が生きていく道を見つけられるまでは、ちゃんと付き合うからさ」
「はい……。でもいまは、わたしは自分の力を捨てようとは、思いません。そのことを願うことはありません」
「わかった」
ミルクティを飲み干した俺は、カップを指に引っかけて、立ち上がった俺は空いてる右手で詞織の髪を軽く撫でる。
「いまはそれよりも、鈴代さんをどう説得するかだなぁ」
「……そうですね」
言って飲み終えていた詞織の分のカップをお盆に乗せた俺は、ポットと一緒にそれをキッチンへと運んだ。
着いてきた詞織に振り向き苦笑いを浮かべて見せてやると、彼女もまた笑みを見せてくれた。
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