第二章 現代勇者の生活事情 1
第二章 現代勇者の生活事情
* 1 *
「ぐぬぬ……」
歩きながら俺は思わず苦悶の声を上げてしまっていた。
鈴代さんから予想とは違った告白を受けた翌日、俺は微かに夏の匂いがし始めた町並みを学校に向かって歩きながら、頭を抱えたい気分になっていた。
隣を歩く詞織は昨日からずっと心配そうな目で俺のことを見てきていたが、何を心配しているかを言ってくることはなかったし、俺も心配の内容を問うことはなかった。
――どう諦めさせるべきか。
昨日はあの後、何を言われてるのかわからない振りをして逃げの一手を打ってきた。
屋上から階段室に入る一瞬、振り向いて見た鈴代さんは涼やかな笑みを浮かべていた。
俺が闇の住人であることを確信しているかのように。
たぶん、彼女は本当に俺の力のことを知っているんだろう。
けれど深いところまで知っているわけではないと思う。何しろある程度その世界についての知識を持つ者が使う、闇の世界とか闇の住人とかの単語を使っていなかったから。
わざと使わなかった可能性は否定し切れないが、ある程度観察して目星をつけてある、学校内で闇の住人の可能性のある者たちの中に、鈴代さんは引っかかっていなかった。一年以上に渡って他の闇の住人と接触したり、闇の力を使わずにいない限り、俺が気づかないはずがない。
――そう考えると、おかしいな。
学校が近づいて同じ制服を着た人々が増え始める中で、腕を組んだ俺はまだ考えていた。
闇の力を持っている可能性は低く、闇の住人との接触をしている様子のない鈴代さんが、闇の世界のことを知っていた理由がわからない。
ネットなんかで闇の世界の情報が流れることは度々あるが、その他の誰かが流布した創作話や嘘にかき消される程度がせいぜいだ。確信を持って闇の世界の存在を知る可能性は、割と闇の住人はそこそこいるというのに、けっこう低いものだった。
――そこを調べるところから、かなぁ。
「うぅーん」
「どうかされたのですか?」
俺が上げたうなり声に、ついに黙っていられなくなったのか、詞織が声をかけてきた。
「ちょっと悩み事が、ね」
「……昨日から悩まれているように見えましたが、そんなに深刻なことなのでしょうか?」
唇を引き結びながら、心配そうに、でもどこか不満そうにも見える表情で俺のことを見上げてくる詞織。
「昨日のこと、覗き見してただろ」
「え?! それは、その、何の話を――」
「殺気を隠しもしない奴が覗いてたしな。それに聖属性の術で俺のことを走査しただろ? あの手の走査術は属性の力を飛ばして帰ってきた反応を読み取るものだ。使うと感知力に長けた相手には走査を行ったことがバレる。俺を捜すのに使うのはいいが、そうでないときは詞織ひとりじゃ戦えないんだ、隣に戦える奴がいるときだけにしないと危険だ」
「そうなんですね……」
「まぁ、詞織のことは基本的には俺が守るから問題はないが、敵を探すときは術は使わずに、相手が発する力を感じるようにした方がいい。感知できる距離は術よりかなり短くなるけどな」
「わかりました」
昨日から心配顔ばかりだった詞織が、胸元に手を当てほっと息を吐いて、笑顔を見せてくれる。
その笑顔に俺も笑みを返すが、話を逸らすことには失敗したらしい。
「あの女の人が言ったことが、気になっているのですよね?」
「まぁ、な……」
詞織には誤魔化すことができても、結局のところ問題が解決するわけじゃない。それに鈴代さんの願いは詞織にも関係することでもある。
「いまのところ教主が逃げてて魔人教団の連中がまだどこかで活動してる気配があるし、それが落ち着くまでは他の件に関わってる余裕はないからな」
「えっと、ご迷惑ばかりかけてしまってすみません……」
「そのことはいいって言っただろ。助けた限りは責任を取る。それに教団の件が落ち着いた後なら、詞織の力を伸ばすために術者を探すことだってできるようになるし、俺もいまより教えることができるようになる。それでもう少し力の使い方がわかれば、ひとりで出かけることもできるようになるさ」
「わかりました……」
シュンとしてまつげを伏せる詞織に苦笑いが出てしまう。
詞織を守ることは彼女を救った俺の責任で、勇者の力を宿した俺の役割だと思ってる。そのことについては気にもしていないが、やはり次のことをやるにはいまは手がかかりすぎる。
「それで、闇の住人になりたいというお願いだったのですよね。あの……」
「鈴代さん。同じクラスの鈴代さやか。鈴代さんはこれまで闇の住人と接触したことはないと思うんだ。それなのに闇の住人になりたいというのはよくわからない」
「闇の住人になることはそんなにいけないことなのですか?」
「そりゃあね。基本的には光の世界以上に弱肉強食の世界だし、詞織みたいに生け贄にされるなんてことはあんまりないけど、何か衝突が起こったときには戦って決着をつける、ってことは多い。闇の住人の中には闇の力を一切持たない者もけっこういるけど、やっぱり戦いになったら弱いからね」
実際闇の住人の中には力のない者もけっこういる。そういう人は情報提供や他の闇の住人が光の世界で生きるためのサポートとか、裏方に回ることが多い。
普通の人間にもほんのわずかだけど、魔力とか聖力だとかの属性の力はあるものだから、それを引き出して道具と組み合わせて使ったり、より強い者から分けてもらって戦う力を得たりしている者もいる。
そうしたものでかなり戦える人もいるけど、やはり生来の強い力に比べると厳しい。
「そういう意味では、わたしも力は弱いですよね……」
「んなことないさ。詞織の聖属性の力は教団が生け贄に選ぶだけあって、かなり大きい。ただ使い方を知らないだけだ。鈴代さんにはそうした力はない。できれば俺は、彼女には光の世界での幸せをつかんでほしいと思ってる。それが彼女にとって一番幸せなことだろうからね」
並んで歩く詞織が、じっと俺の顔を覗き込むように見つめてきていた。
どうしたんだろうと思っていると、彼女は意外なことを問うてきた。
「紗敏さんが望む幸せって、どんなものなんですか?」
「また難しい質問を……」
この場は誤魔化そうかと思ったが、いつになく真剣な目で俺のことを見上げてくる詞織の表情に、どうやら言い逃れができそうにないことを悟る。
「俺はたいしたことは求めてないよ。小さな幸せがあればいいと思ってる」
「紗敏さんの力は、勇者の力はかなり大きいですよね?」
「まぁな。いまはまだそんなことできそうもないけど、もっと力の使い方を覚えて、使いこなせるようになれば、光の世界の国を全部ぶち壊して征服するくらいのことなら時間をかければできないことはないと思うし、闇の世界でも何割かを牛耳ることくらいは、たぶんできるんじゃないかな? さすがにその手のことはひとりで達成できることじゃないし、反発もあるから簡単にとはいかないだろうけど」
「それでも、小さな幸せ、なのですか?」
「あぁ。俺は高校を出て、大学に進学して、就職して、落ち着いた頃に結婚して、みたいな未来がほしいかな。できれば子供を育てて独り立ちさせて、老後を好きな人と一緒に過ごせれば、それが何よりの幸せだろうと思ってる」
そんな小さくて、普通の人生が、俺にとっての幸せだった。
何かと騒々しくて血生臭い世界に生きているからか、そうした普通の幸せに憧れがあった。
「元々俺の力は強くはあるけど、たいしたものじゃない。神様クラスの強属性の奴には太刀打ちできないし、魔人もメモルアーグ程度なら問題にもならないけど、魔人王とか呼ばれる伝説級の奴だと、俺の勇者の力だけじゃかなり厳しいだろう。俺が守れるのは、俺の拳が届く、ほんの狭い範囲でしかないんだ」
聖拳である右手を伸ばして、詞織に俺が守れる距離を示してやる。
何でか少しボォッとしている様子の詞織に笑いかけてやると、彼女もまた柔らかい笑みを見せてくれた。
「だから俺は、俺の拳の届く範囲にいる詞織を守り抜く。それだけで手一杯だ。鈴代さんの願いを叶えることなんてできないし、叶えるための力も持っていない」
「それでも私は諦める気なんてありませんけどね。貴方の隣に立てる人になることが、ずっと願ってきたことですから」
そんな声を後ろからかけてきたのは、鈴代さん。
密度が高くなってきていた他の生徒には聞かれないよう、声は潜め気味にしていたが、すぐ後ろに着いてきていたのか、どこからかはわからなかったけど、聞かれていたらしい。
――ずっと?
昨日も言われたことだけど、その言葉が気になった。
俺たちのことを追い越して振り向き、いつものように涼やかな笑顔を見せた鈴代さんは、それ以上何も言わずに昇降口へと少し早足に歩いて行ってしまった。
*
紗敏と別れた詞織は自分の教室に向かって歩いていた。
朝の気怠そうな雰囲気を醸し出す生徒の間をすり抜けて、首を小さく左右に振りながら笑む。
何となく、いつもより自分の足音が大きいような気がしていた。
最近紗敏と見ているテレビで流れている音楽のひとつが、頭の中で流れていた。
――『だから俺は、俺の拳の届く範囲にいる詞織を守り抜く』、か……。
先ほどの紗敏の言葉を思い出す。
迷惑ばかりかけていて申し訳ないと思っているのに、紗敏の言葉が嬉しかった。胸の奥の奥が、熱いほどの熱を持っているような気がしていた。
頭の中で流れる音楽に合わせて、どうしてもいつもより脚に力が入ってしまう。
開いたままの扉から教室に入ろうとしたとき、不意に腕をつかまれて引っ張られた。
「ちょっとこっちに来なさい」
「え? え?」
訳もわからず引っ張られていく詞織が見ると、腕をつかんでいるのはエリサだった。
顔を顰めたまま無言で腕を引く彼女に、用事があるのだろうと詞織は自分の足で着いていく。
連れてこられたのは屋上へと続く階段の途中だった。
この時間、屋上の扉には鍵が掛けられているそうだが、人目を避けるためか、エリサは詞織を階段の途中の踊り場まで引っ張ってきて詰め寄ってきた。
「いったい、昨日のあの女はなんなわけ?」
睨みつけるような目を詞織に向けながら、前置きもなしに言うエリサ。
「えぇっと、鈴代さやかさんと言って――」
「名前なら知ってる。学校の中じゃ有名人だからね。そうじゃなくて、あの女は紗敏とどういう関係で、あいつはあの女の要求をどうするつもりなの?」
昨日は紗敏がさやかの要求を誤魔化して階段室に向かってくるのを見て、急いでその場を逃げ出したので、その後エリサとは話していなかった。さやかのことについてはついさっきやっと紗敏から聞けたことがあるだけで、詞織も話せることは多くない。
「紗敏さんが言うには、鈴代さんは闇の住人ではなくて、闇の住人との接触もこれまでなかったはずの人だそうです。紗敏さんは鈴代さんのお願いを諦めさせるつもりだと言ってましたが……。さっきわたしと紗敏さんが話しているところに鈴代さんが話しかけてきて、『諦めるつもりはない』と言っていました」
そう言われた紗敏がものすごく苦々しい顔をしていたのは見ていた。
彼の表情と、さやかの笑顔から、簡単に済む話ではないだろうと、詞織は考えていた。
少し暗い気持ちになって、詞織は自分の上履きを眺めるようにうつむく。
「なんで鈴代さやかなんて人間が、闇の住人になりたいなんて思うのよ……」
険しい表情のまま、詞織ではないあらぬ方向に視線を向けたまま、エリサが呟く。
「どういうことですか?」
さやかのことに詳しいらしいエリサに問うてみる。
「あの人のことあんまり知らないの? まぁいいけど。文武両道、才色兼備、現代の大和撫子なんて言われてる校内美少女ランキング一位の女ね。あの人個人が完全無欠ってだけでもいけ好かないのに、家柄もよくて、ちょっと離れたところに親族の土地とかあって、すごく裕福な人だよ。その上そのうちそんな大きな家の頭首になるんじゃないか、って噂もあるくらい。あぁいう女は表ではいい子してるけど、裏ではどろどろぐちゃぐちゃってのが定番なんだから」
「そうなんでしょうか」
さやかの顔を見たのは、先日の教室で一瞬と昨日、それからついさっきの三回だけ。
彼女が紗敏に向けていた笑顔は下心や打算のあるもののようには、詞織には思えなかった。
同時に不思議にも思う。
紗敏やエリサの言うように、さやかが光の世界だけの話であっても、能力も性格も家柄も良好な人なのだとしたら、わざわざ闇の住人になりたいと思う理由がわからない。
その点については紗敏も疑問に思っていたようだが、光の世界で幸せを築いていけそうなさやかが闇の住人になりたいのには、そう願うだけの表には見えない理由があるのかも知れない、と詞織には思えていた。
「もしかして紗敏の奴、あのさやかって女のことが好きなのかしら」
「好き……。そうなんでしょうか」
エリサの呟くような言葉に、詞織はうつむき加減に思い出す。
昨日、下駄箱で待っていてと言っていた紗敏のそわそわした姿を。そのとき見せていた緩んだ笑顔のことを。
――好き、なのでしょうか。紗敏さんは、鈴代さんのことが。
紗敏が言っていた結婚をしたいという好きな人。
それはもしかしたらさやかのことなのかも知れない、と詞織は思う。
けれどよくわからなかった。
好き、という言葉の意味はわかっている。美味しいもの、楽しいことは好きだと思う。けれども紗敏がさやかのことを好きだということについては、よくわからなかった。
よくわからなかったけれど、左手で押さえた胸が痛くて、右手で左手を覆って、さらに強く胸を押さえて、詞織は唇を引き結んでいた。
「そう思えば、鈴代さやかよりも気になってたんだけどさ」
「あ、はい」
「あんたって何者なの?」
「わたし、ですか?」
顔を上げると、詞織よりも背の高いエリサが前屈みになり上目遣いに睨みつけてきていた。
「わたしは、その、紗敏さんに助けていただいて、それでいまは守ってもらっていて――」
「その話はこの前聞いた。もう少し詳しいところを知りたいの」
「んー」
頬に指を添えながら、少し首を傾げた詞織は考える。
あまりはっきりとそういう話をしたことはないが、紗敏は闇の世界のことを光の住人に話をしていないようだった。明言されたことはなかったが、彼は光の世界を守るために秘密裏に戦っているようであったし、闇の世界についてみだりに話してはならないのだろうということはわかっていた。
けれど機光少女、闇の住人であるエリサにも秘密にする必要を、詞織は感じなかった。
「わたしは、そのですね――」
紗敏にも話した生まれ育った境遇と、彼に助けられてからのことをエリサに話した。
「なかなかハードな人生送ってるのね。でも、勇者の奴と同棲してるって……」
「はい。紗敏さんにはとてもよくしてもらっています」
「そういうことじゃなくって。ちなみにいつだったの? あいつに助けられた日ってのは」
「えっと、それは……」
何故か不満そうに目を細めているエリサの問いに、頬に指を添えながら思い出してみる。
「確か三月の、二十日くらいだったと思います。十九日の夜だったかも知れません」
「ふぅん、なるほどね。一週間はあたしの方が早いか……」
「何がですか?」
「いいのっ。気にしなくて!」
安心したように息を吐いているエリサのことがよくわからずに、詞織は首を傾げていた。
「本当、あいつ莫迦なんじゃないの? 助けたからって保護までして、その上光の住人にちょっかいまで出されて。もうちょい上手く立ち回ればいいだけでしょうに」
「そうですね……。わたしも紗敏さんにはいろいろとご迷惑おかけしてしまっています」
「詞織のことじゃなくって! 紗敏の奴には、勇者の力を持ってるあいつには、光の住人よりももっとふさわしい人が側にいるべきなんじゃないか、ってこと!」
「ふさわしい人?」
「そっ。例えば同じ闇の住人で、あいつの役に立てる人とかね」
唇に人差し指を当てながらそう言うエリサに、詞織もその通りだと思っていた。
紗敏の勇者の力はとても強く、彼はその力のことを光の世界では隠している。彼の隣に立つべきなのは、彼と一緒にいるべきなのは、同じ闇の住人なのかも知れない、と。
――でも、それは紗敏さん次第ですよね。
紗敏は光の世界でのささやかな幸せを望んでいた。彼が光の世界での幸せを強く望んでいるなら、それを実現できるのは光の住人なのかも知れない、とも思えた。
例えば、鈴代さやかのような。
胸の中にまたもやもやとしたものがわだかまり始めた。
ずきずきと痛むような、はっきりとしないものが胸の奥の奥にあるのを感じていた。
「誰よりもふさわしい人と、もう出会ってるじゃないの」
うつむきながら胸を押さえる詞織には、エリサの小さな呟きは聞こえなかった。
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