第一章 現代勇者の恋愛事情 3


       * 3 *


 身体を隅々まで洗い終えた詞織は、シャワーを使って身体を流す。

 どこにも泡が残っていないことを確認した彼女は髪ゴムを取って、二ヶ月の間に少し伸びてきた髪をまとめ、湯船に襟足が浸からないようにしてから浴槽に身体を差し入れた。

「わたしの幸せ……」

 翁と媼と暮らしていたときに使っていた深さのある木製のものとは違い、浅めで長さのある浴槽の中で思い切り身体を伸ばす。

 暖かなお風呂はとても気持ちが良くて、クラスの中でできた知り合いには白いと言われている肌は、ほんのりと赤色に染まっていた。

 毎日のことに組み込まれたいまでは驚かないが、最初に紗敏にお風呂の使い方を教えてもらったときには、入る前に薪で沸かす必要がなく、指で決められた場所を押すだけでいくらでも湯が出てくるお風呂には本当に驚いた。

 何でできているのかいまだによくわからないが、お風呂の床や壁も掃除は簡単で、木製の浴槽と違って、いつも綺麗にして乾かしておかなければならないということもなかった。

「わたしはどんなことが幸せなのでしょう?」

 詞織はそう呟きながら自分の身体を見下ろすようにうつむく。

 紗敏には幸せだと思えること、やりたいと思えることをゆっくり探せばいいと言われているし、見つかって決心がついたときにはこの家を出ても構わないし、そのときのためのある程度のお金は用意してあると言われていた。

 そんなことを言ってくれる紗敏が自分のためにいろいろとやってくれたり、気を遣ってくれていたりするのはわかっていた。まだ会ったことはないが、彼の姉もまた、自分のためにいろんな便宜を図ってくれ、それでいま学校に行けたりしていることも理解している。

 命を救ってもらっただけでなく、その後も本当に世話になっているのに、詞織ができているのは食事をつくったり掃除をしたりといった程度で、たいしたことではなかった。

 紗敏は教団から得たお金で楽をさせてもらっていると言うし、家事については助かっていると言ってくれるが、それが自分の命に釣り合わないことなど、詞織にもわかっていた。

 聖女の力が自分の身体に宿っていることはわかっていても、本格的に力の使い方を習ったことはなかったので、その力で紗敏の助けになることもできなかった。

「わたしが早く自分の幸せを見つけることが、恩返しになるのですかね……」

 紗敏にかけてしまっている負担を早く取り除くこと、自分が早くこの家を出ることが、彼に対する一番の恩返しになるかも知れない、とも思う。

 けれど詞織にはわからなかった。

 魔人の生け贄になるために育てられて、それが世界の平和に、多くの人々を救うために必要なことだと教えられて、そのことに疑問を持ったことがなかった詞織にとって、紗敏に救われたあの日以降の時間は存在しないものだった。

 あの日この先も生きていいと言われて驚いただけでなく、嬉しさも感じていた。

 それと同時に、わからなかった。

 あの日の後の時間を持っていなかったはずの詞織は、生きていいと言われても何をすればいいのか、何をしていいのかなんてわからなかった。考えることもできなかった。

 別れを告げた翁と媼の家には戻ることができなくて、あの家がどこにあるのかも知らなくて、元の生活に戻ることもできなかった。

 助けられた日の夜、紗敏の家にいていいと言われて、たくさんのことを教わって、夜になって柔らかい布団の中に入った後、詞織は声を立てずに泣いた。

 嬉しいのかも、悲しいのかもわからない涙だった。

 その後は見たことも聞いたこともない世界での生活に圧倒されるばかりで、話にだけは聞いていて憧れていた学校の生活が楽しくて、知らないことを教わったり、やったことのなかったことをやっている間に、二ヶ月が過ぎてしまっていた。

 思い出してみれば自分を育ててくれた翁や媼にも恩返しができていなくて、いま紗敏にもたくさんの迷惑をかけてしまっている。

「たぶん、わたしが早く自分のやりたいことを見つけて、ここを出ることが、一番の恩返しになるのでしょうね……」

 今日の昼休みにした結婚の話。

 いまひとつどういうことなのかわからなかったが、いつかは紗敏も結婚をするだろうことだけはわかっていた。それはすぐのことではないだろうけど、どんなに遅くともそれまでにはこの家を出なくてはならないだろうと、詞織は考えていた。

「紗敏さんは、どんな人と結婚されるのでしょう?」

 湯船に霞む天井を眺めながら、詞織は首を傾げていた。

 紗敏はとても優しくて、気遣いのできる人であることはわかっていた。彼がかけてくれる笑みはとても暖かく感じるもので、彼の笑顔を見ると自分も笑顔になってしまうほどだった。

 翁と媼の笑顔とどこか似ていて、けれど感じる暖かさがどこか違っていて、胸の奥のさらに奥が暖かくなるのを感じていて、それなのに時折苦しさを感じることもあって、詞織にはよくわからなかった。

 詞織以外の誰かに見せている笑顔がたまに悲しいと感じることもあって、自分の方に向けてほしいなんてことを思うことがあった。

「よく、わからないですね」

 深くため息を漏らした詞織は、湯船から立ち上がる。

 この後お風呂に入る紗敏のために洗面器などを片付けてから脱衣所へと出て行く。

 備えつけられたバスタオルで髪と身体を拭き、身体にタオルを巻き付けてから、ドライヤーという、熱い風が出てくる機械で髪を充分に乾かす。

「……あれ?」

 紗敏の姉が送ってくれた、見たこともない可愛らしい下着や寝間着を持ってきたと思っていたのに、着替えを入れてあるはずの籠は空だった。

 頬に人差し指を当てながら考えて、お風呂に入るときそのことを告げるためにLDKに寄って、減っていた紗敏のお茶をつぎ足す際にいったんソファに置いたのを思い出す。

「仕方ありません」

 身体から滴が落ちたりしないことを確認した詞織は、脱衣所の扉を開けた。


          *


 夜のニュースを流しているテレビを横目で見ながら、俺は手元のフルタッチタイプの携帯端末に文字を打ち込んでいた。

「結婚について、と」

 追加した項目の後ろに、少し悩んで三角を書き込む。

 メモアプリにずらりと並んでいる項目は、詞織に教えることの一覧。

 丸を書き込んだ項目がかなりの数になっているが、三角やバツ、まだ教えていない未記入の項目も少なくない。

 最初の頃に比べれば項目が増える速度は低下していたが、それでも当たり前で気にもしていなかったことが詞織にとって知らないことだったりして、いまでもちょこちょこと増えていた。

「まだまだかなりあるな」

 ひとり用のソファにだらしなく身体を預けて、俺は盛大にため息を漏らす。

 人里離れて世間から隔離されて育つとどうなるのか、俺は詞織を通して身を以て感じていた。

 パタパタというスリッパの足音が聞こえてきて、詞織がお風呂から上がったのを知る。

 飲みかけの温くなったお茶を飲み干しつつ、俺は次にどの項目を詞織に教えようか考えながら携帯端末と睨めっこしていた。

「紗敏さん。お風呂空きました」

「あぁ。ちょっとしたら俺も入る」

 俺の正面にあるふたりがけのソファのところに立って詞織が何かごそごそとやり始めたのが視界の隅に入っていたが、俺はとくに気にしていなかった。

 ばさりという音とともにソファにピンク色のバスタオルがかけられたのが見えて、俺は彼女が何をしているんだろうと思って顔を上げる。

「な! 何してるんだ、詞織……」

「えっと、何でしょう?」

 小首を傾げて問うてくる詞織は、ちょうど小さな布きれを広げているところだった。

 風呂上がりの白い肌はわずかに赤みがかっていて、いつもと違って俺の目を釘付けにして離してくれなかった。

 教団の儀式から救い出したときも抱き上げたからある程度わかっているつもりだったが、そのときはそこまで注意を払っている余裕はなかった。

 そこそこサイズのあるバストはブラジャーを着けていなくても良い形を保っていて、普通の十五歳としてはスリムだろう腰はいい感じにくびれている。華奢だが丸みを帯びた柔らかそうな肩から鎖骨へと続く線は、思わず唾を飲み込んでしまうほどに美しいラインを描いていた。

 ソファの背もたれの向こうに立ってるからヘソの辺りまでしか見えないが、俺が立ち上がったらその下まで確実に見えてしまう。

 本当の文字通り一糸まとわぬ姿の詞織が、俺の目の前にいま、立っていた。

 見るとソファの上に、彼女の着替えが置いてあった。どうやら持って行き忘れたらしい。

 驚きのあまり立ち上がりそうになっていた腰をソファに押しつけて、理性を総動員してそっぽを向く。

「あ! 濡れているタオルをソファに掛けてはいけませんでしたね」

「そこじゃない!」

「えっと、ではどこが悪かったのでしょう?」

 たぶんいつものように軽く首を傾げながら不思議そうな顔をしているだろう詞織。

 何かを説明するために話をするときはできるだけ目を見て話すようにしていたが、今回はそれはできそうにない。

「男にみだりに裸を見せちゃダメなんだ!」

「そういうものなんですか」

 見られた詞織には少しも恥ずかしがっている様子はないのに、見てしまった俺の方が恥ずかしくてたまらなくなっていた。

 視界の隅で動く詞織が見えないよう目をつむってみても、まぶたの裏にしっかりと焼き付いた詞織の桃色の肌が思い出されて、俺はソファから立ち上がって詞織に背中を向けた。

「禊ぎの後や、儀式の際にひとりでは着られない衣装を着るときは服を全部脱ぐことがあったのですが、それは普通のことではなかったのですか?」

「普通じゃない! 誰でも十歳を過ぎたら仲のいい人でも家族が相手でも裸は見せちゃいけないものなの!」

「そうなんですね……。あ、でも、夏になったら水泳の授業があると聞きました。水着を着るときは裸にならなければならないんですよね?」

「そういうときは別っ。着替えのときとか一緒にお風呂に入るときとか、女の子同士、男同士だったら例外。――とくに女の子は、好きな男以外には裸は見せちゃいけないものなんだ!」

「そういうものなんですね」

 納得してない感じの声で返事した詞織は、考え込むように小さなうなり声を上げていた。

「でも、紗敏さんでもダメなものなんですか? 紗敏さんはわたしに優しくしてくれますし、気を遣ってもらっていますし……。わたしはそんな紗敏さんのことが好きです」

「す、好きって……。そういう好きじゃなくて、えぇっと、例えば結婚したいと思える男にしか見せちゃいけないものなんだ! と、とにかく早く服を着てくれっ」

 最後は悲鳴っぽくなりながら、俺は必死に詞織に言い聞かせていた。

「わかりました」

 やっぱり恥ずかしがってる様子のない詞織が、ごそごそとその場で動く音が聞こえてきた。

「違うっ。着替えは脱衣所でしてこいっ」

「あ、はい。すみません」

 スリッパの音が遠ざかっていって、LDKの扉が閉じられた。

 脱衣所に入っただろう詞織の足音が止まるまで待って、俺は彼女に会ってから一番大きなため息を吐き出した。へたり込むようにソファに座り、熱くなっているのが自分でもわかる頬を擦ってどうにかしようとする。

 心臓が激しく脈打っていて、すぐにはどうにもなりそうになかった。風でスカートの奥がちらり見えてラッキーとかじゃなくて、見てしまったこっちが恥ずかしくてどうにかなってしまいそうだった。

 ――でも、すごく綺麗だったな……。

 驚いた顔で少し首を傾げ、パンティを広げた格好のまま立っていた詞織。

 柔らかそうな胸の膨らみも、曲線のはっきりした腰のラインも、赤みがかった肌も、すごく綺麗で一瞬本当に見とれてしまっていた。

「ちげぇ!」

 思い出してしまった詞織の裸を頭の中から追い出すように頭を左右に激しく振る。

「これから先、まだまだ大変なことがありそうだよなぁ」

 具体的にどんなことがあるのかを考えるのはやめ、俺はもう一度大きなため息を吐いていた。


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