第一章 現代勇者の恋愛事情 1



第一章 現代勇者の恋愛事情


       * 1 *


「何それ。意外ー」

「あたし、こんなにうまくできないかも……」

 手元を覗き込んでくる同じクラスの女子との距離に気をつけながら、俺は手早くブレザーのボタン付けを進める。

「結城君は独り暮らしのような生活をしているから、これくらいのことはできるそうよ」

「いや、まぁ、仕込まれたからなぁ」

 四時限目の授業が始まる前の短い休み時間、俺は女の子の机の上に自分のブレザーを広げてボタン付けに勤しんでいた。

 感心している女子ふたりの様子に笑む机の主である女の子は、鈴代さやかさん。

 何の因果かクラス内推薦で俺と一緒にクラス委員をすることになってしまった女の子だ。

 ボタンが取れ掛かっていることを鈴代さんに指摘されて、着け直してくれると言われたのだが、気恥ずかしくて自分ですると裁縫セットを借りてみたら、クラスの女子ふたりだけでなく、なんだか他の奴らも遠巻きに俺たちの様子を窺っているようだった。

「ありがとう。助かった」

「いいえ。役に立ててよかった」

 ボタン付けを終えたブレザーを羽織り、針や糸を仕舞った裁縫セットを鈴代さんに返す。微かに触れた彼女の指に、俺はらしくなく緊張を覚えていた。

 二年で同じクラスになって、クラス委員になったことでよく話すようになった鈴代さんは、でも違うクラスだった一年の頃から目で追ってしまうことがある女の子だった。

 可愛いと言うより、その整った顔立ちは美人というのがふさわしい彼女は、しかし人形のように、というのは侮辱に当たる言葉だろう。深めの彫りも、細いが自己主張の強い眉も、小さいながら高めの鼻も、大きな目も、生きた人間の奇跡かも知れないという造形だ。

 少し太めのしっとりとした黒髪を長く伸ばし、背は百六十半ばの俺とほとんど変わらず、身体つきはセーラーブレザーの制服の上からでもわかるくらいに魅力的だ。

 明るく朗らかで、社交的な鈴代さんは誰にでも好かれていたし、文武両道、才色兼備、影では現代の大和撫子とまで言われながらも、高飛車なところなどない。

 さらには鈴代家と言えば、この町からちょっと離れた山の方に広い土地を持ち、かなり古くからある血筋で、地元に密着しながらも様々な事業を行っている家柄だ。

 お嬢様、というのとは少し違うが、現代に生きる大和撫子というのがまさにぴったりな鈴代さんはでも、ときに影のある表情をこっそりとしていることがある。

 そんなところも含めて、かなり魅力的な女の子だった。

 ――鈴代さんと一緒に過ごせたらなぁ。

 そんなことを妄想したりもするが、俺はせいぜいクラス委員のときに話す程度だ。校内美少女ランキング総合二位だか三位の彼女は、俺にとっては高嶺の花だ。

 クラス委員の仕事でふたりの時間があるだけ幸せだと考えるのがいいだろう。

「料理も自分でつくれるんだったよね、結城君は」

「ん? あぁ。一応最低限、ひと通りは」

 見るともなしに見ていた鈴代さんにそう声をかけられて、俺は返事をしていた。

「裁縫に料理とか……。けっこう優良物件?」

「意外な才能だねぇ」

「いや、才能とかじゃなくて、必要なことだから覚えただけなんだが」

 鈴代さんの友達ふたりとは、もう五月も終わりだというのに話すのはほぼ初めてだった。

 人気者の鈴代さんと違って、俺の方と言えばクラスの奴らから避けられることが多いし、教師の心証もあまりいい方ではない。

 勉強が得意じゃないのが一因ではあったが、クセの強い短めの髪と、言ってしまえば大雑把な顔立ちの俺は、何故か不良連中に絡まれることが多く、基本的に喧嘩からは逃げるようにはしているが、どうも同類と見られて教師からも生徒からも恐れられている節があった。

「結城君はそういうところ、けっこう家庭的なんだよ」

「へぇー」

「怖い顔してるから誤解されやすいけど、けっこう話しやすいしね」

「怖い顔は余計だ」

「ふふふっ」

 冗談なのはわかってるからふてくされて見せると、鈴代さんは軽く曲げた指を唇に当てて楽しそうに笑った。

 他の人より俺のことを知ってる鈴代さんの気遣いなのか、時折こうして俺を持ち上げてくれる彼女の発言のおかげで、クラス内では少しは話す相手もできるようになっていた。

 ――本当、いい人だよな。

 ちょうど入ってきた四時限目の授業の先生に、俺たちは解散して自分の席へと戻った。

 授業の内容を半分聞き流しながら、後ろの方の席に座る俺は、少し離れた席に座る鈴代さんの後ろ姿を眺めていた。

 一学期の中間テストも終わり、まもなく六月になる教室内には気怠い空気が漂っている。

 そんな中でひとり真面目に授業を受けているらしい鈴代さんは、板書と手元の間で視線を往復させ、その度に綺麗な黒髪が動いているのが見えた。

 二年になってからだからまだ二ヶ月と経ってない俺のことなんかも気遣ってくれる鈴代さんは、本当に素敵な人だと思う。

 もちろん他のクラスの奴らへの気遣いも忘れていないし、完璧無比な人だ。

 けれどやっぱり人並みに悩みはあるようで、誰かに話すことはないようだけど、本当にたまに、思い悩んでる様子を見せることもある。

 ――悩みの相談とか、話してもらえたらなぁ。

 正直俺じゃ話を聞くくらいのことしかできないと思うが、それくらいのことで彼女の曇った表情をどうにかできるなら、いくらでも聞いてやりたいと思った。

 ――そうやって一緒に過ごせたら、幸せだろうなぁ。

 校内の男子のけっこうな人数が同じことを思ってるだろうが、クラス委員の仕事とかでなく、プライベートな時間をふたりで過ごせたなら、本当に幸せだろう、なんてことを頬杖を突いて鈴代さんの髪を眺めながら俺は考えていた。

「でもまぁ、無理だけどな」

 小さく呟き、俺はため息を漏らす。

 最低限の勉強くらいはしようと、俺は板書と教科書のページを表示した手元のスレート端末に目を向けた。

 俺と鈴代さんじゃ、釣り合いが取れないというのもある。

 鈴代さんは人気者で、俺は学校内では基本、嫌われ者だ。

 目立って何かされることは少ないが、俺はいまの自分の立場をどうにかする気はない。その方が都合がいいくらいだから。

 何より俺は、勇者だ。

 勇者の力は俺の生まれつきの力で、それに目覚めたのは三歳のとき。

 特撮ヒーローかアニメの主人公かってくらいの力を持つ俺は、現在では人類最強なんて言われる程度に力があったりする。

 でも俺はまだまだ未熟だ。

 日常的というほどの頻度ではないが、勇者の力を使わなくちゃならない場面は、不本意だがけっこうある。人類最強なんて言われてようと、敵となるのは人類以上の力を持った奴らも多くて、怪我をすることだってある。包帯巻いて登校して、喧嘩をしてきたと思われることがある程度には危険な世界だ。

 そんな世界に住む俺の側に、鈴代さんのような普通の女の子はいるべきじゃない。守りきる自信はいまの俺にはない。

「釣り合わねぇよなぁ……」

 俺の望む幸せは、鈴代さんが持つべき幸せと沿うことはない。

 鈴代さんに告白する資格は、俺にはない。

 自分の考えにばかり没頭している間に授業は終わっていて、昼休みに突入した。

 先生が退室し、購買に突撃した男子の足音や、どこで昼食を食べるかを相談する女子の声が響く中、端末を机に入れた俺は、自分の鞄に手を伸ばす。

「……ない」

 鞄の中にあるはずの弁当箱が、入っていなかった。

「あー。忘れてきたか」

 今日は日直だったのを朝になって思い出して、急いで家を出てきたから、たぶん玄関に置きっぱなしにしてきたんだろう。

 仕方なく俺は購買でパンでも買おうと席を立って、扉の方に歩き始めた。

「ユウシャーっ。お前にお客さんだぞ」

「紗敏さーん。お弁当ですー」

 小学校のころから同じ学校に通っている腐れ縁男こと遠藤の声に続いて、教室の入り口から詞織の声が響いた。

「ぐおっ」

 すぐさま俺は教室の前の扉に向かって駆け寄っていく。

「勇者、ですか?」

「そっ。こいつのあだ名。紗敏の紗の字はシャとも読めるからな。小学校の頃からのあだ名がユウシャ」

「そうなんですかー」

「んな話はいい。えぇっと、とりあえず弁当持ってきてくれてありがとう、詞織。と、とにかくちょっとそこまで行くぞ」

 割と付き合いの長い遠藤ならともかく、弁当を持ってきてくれる女の子が身近にいるなんてことをクラスの奴らに知られたらどうなるかわかったもんじゃない。鈴代さんに、どう思われるかあんまり考えたくもない。手遅れな気がしなくもないが。

 こっそり視線だけ振り向かせて見た鈴代さんは、楽しげな笑みを浮かべて俺を見ていた。完全に手遅れだ。

 ちょっと疲れを感じてため息を漏らし、俺は教室を出る。

「今度詞織ちゃんのこと、俺にも紹介してくれよー」

 背中を追いかけてきた遠藤の声に返事もせずに、俺は詞織と一緒に廊下を歩き始めた。


       *


『それじゃあこれからアンタにやってもらうことについてはメールで送っておいたから、その通りにやれば問題なし』

「いや、ちょっと待ってくれよ、姉貴」

『送ってもらった写真見たけど、可愛い子じゃない。服選び、気合い入ったなぁ。紗敏は詞織ちゃんに不満でもあるって言うの?』

「不満とかそういう問題じゃなくって……」

『これからその可愛いことほぼふたり暮らしだよ? ど・う・せ・い! まぁ話を聞いてる限りいろいろ教え込まないといけないことがありそうだけど、その辺は適当に、アンタに任せた。必要な書類と最低限の物は明日届くように手配済ませたから、受け取りよろしく。身辺には充分気をつけるのよ? それじゃあね』

「姉貴。おい、姉貴! くそっ」

 自分の言いたいことだけ言って、携帯端末の通話は切断された。

 溜まった苛々に端末を床に叩きつけたくなるが、振り上げたところでやめる。

 多くない小遣いとたまの収入で買った今年モデルの携帯は、壊すにはもったいない。

「えぇっと、詞織」

「あ、はいっ」

 LDKの中をきょろきょろと見回していた詞織が、俺の呼びかけにびっくりしたみたいにソファに座り直して応えた。

 彼女を助けてから二日が経過していた。

 あのとき詞織が着ていた服は、ローブというより本当に生け贄用の衣装のようなもので、下着すら着けていなかった。

 女の子用の服は、俺と同じくらいの身長のお袋のや、俺より背が高い姉貴の服があるが、小柄な詞織には合いそうになかった。それにいつ帰るかわからないふたりだとしても、緊急事態とは言え勝手に持ち出したなんてバレたらどうなるかわかったもんじゃない。

 仕方なくまだ一度も着ていなかった大きめのトレーナーを素肌の上に着てもらっている。

 膝近くまであるトレーナーは、脚を動かすときにずいぶん奥まで見えそうになるが、明日になるまで下着もない詞織の太股から先のことは考えないよう、見ないように努めることにする。

 そんな俺の様子を気にした風もなく、何がそんなに珍しいのか、部屋の中を見回したり、ソファの座り心地を確かめていたり、詞織は家に来てから始終そんな感じだ。

 一昨日と昨日の夜はとりあえずってことで姉貴の部屋のベッドで眠ってもらったが、疲れていたのかぐっすり眠れたようだ。

 心配していた生け贄の儀式についてのフラッシュバックや、カルト的教団信者を脱会させようとしたときみたいに暴れると言ったこともなく、あり合わせの食事も食べてくれたし、俺の言うことは素直に聞いてくれた。

 やっぱり多少は不安な様子は見せていたが、ひと通りの事情を聞き終えたいま、詞織は初めての場所に来たみたいに目を輝かせて何かを見ていたり、歩き回って質問攻めにしてきたりはなかったが、家の中にあるいろんなものに興味を持っているようだった。

 まるで純真無垢な子供のように。

 ――いやまぁ、俺の家に入るのは初めてだろうけど。

 勇者なんてものをやってる俺だが、住んでる家は別に普通だ。

 収入は主に親父とお袋の会社勤めで得ているものだし、俺と同じ勇者の力を持つお袋と、いくつ二つ名を持ってるのか知れない魔女の姉貴によって見えない場所に様々な防護処置は施されているが、家自体も住宅街に建つ木造建築に過ぎない。

 そんな家に見た目にはことさら珍しいものなんてないと思うんだが、詞織はあらゆることに興味津々だった。

「すまないが、しばらくこの家で一緒に住むことになった」

「そうなんですね」

 俺の言葉にとくに驚いたりショックを感じたりしてる様子のない、澄まし顔で返事をする詞織。だが、俺の方と言えばけっこう焦っていた。

 魔人教団から助けたからには、俺は詞織の今後について責任を取る必要がある。

 いや、実際にはそこまでやる必要は一般的にはないのかも知れないが、俺はお袋と姉貴に自分でやったことの責任は自分で取るように言われて育った。

 話を聞いた限り、詞織は魔人教団に関連する山奥の家で、年老いた養父母と、教団の人間以外と接触せずに生きてきた。文字通りどころか豪華デラックス版の箱入り娘で、魔人に捧げられる聖女として、あのときで死ぬと言われて、それが当たり前のこととして。

 白澄という苗字も養父母のものらしく、詞織というのが実の両親がつけた名前かどうかもわからないらしい。姉貴に調べてもらってるところだが、どうやら戸籍もないようだった。

 責任を取るといっても自分で全部背負えということじゃなく、やれることは自分で動けという意味だ。だから、いろいろと普通じゃないところに融通が利く姉貴に頼ることにしたんだが、その対応が俺との同居というものだったわけだ。

 ――どうせ姉貴には何か思惑があるんだろうが……。

 姉貴のやることにはいちいち裏があることを考えなくちゃならないが、裏があったことがわかるのはだいたい事後だ。俺に対して悪意を持った裏ではないから、いまは姉貴の言う通りにするしかない。

 とは言え……。

「わかってるのか? 俺とふたりで暮らすことになるんだぞ?」

「そうなのですね。これからよろしくお願いいたします。わたしにできることがありましたら何なりと申しつけてください。助けていただいた上に、お世話になってばかりというわけにはいきませんので。本当はもっと、お返しできることがあれば良いのですが、わたしはたいしたこともできないので……」

「あー……」

 申し訳なさそうに長いまつげを伏せている詞織だが、俺はそもそもの問題点にズレがあることに気がついた。

 女の子とふたり暮らしになることを危惧している俺に対して、詞織はどう恩返しをするかで悩んでる。俺と一緒に生活することを問題視もしてなければ、危機感も覚えている様子もない。

 ――世間知らずなとこは感じてたけど、まさかそこまでかぁ……。

 他にもあるような気がするが、姉貴の思惑のひとつがわかったような気がした。

 帰る家がなく、頼る親や親戚がいないならどこかの施設に預ければ解決するが、ウルトラ箱入り娘な詞織は、世間知らずを通り越して現実での生活能力がない。社会不適合者レベルだ。

 ――早いうちに確認しておくべきだよな。

「詞織。掃除や洗濯とか、料理をつくったりすることはできるか?」

「はい。できますが……、えぇっと?」

 突然話の逸れた質問に、顔を上げた詞織はまばたきをしながら小首を傾げる。

「電気は知ってるか?」

「はい」

「テレビは?」

「……てれび?」

 いきなり雲行きが怪しくなった。

 俺の言葉を繰り返して顔を硬直させている詞織に、適当な言葉を並べ立てる。

「冷蔵庫、洗濯機、掃除機、湯沸かし器、携帯端末、ネット、電車、車」

「えっと、その……、車は知っています。乗せてもらったことがあります。その他は……」

「電気は何に使ってたんだ?」

「電灯と、井戸のポンプに。……すみません」

 思わず頭を抱えたくなるが、理性でそれを押さえ込む。

 ある意味で感動的ですらあった。

 山奥の家に住んでいたとは聞いていたが、まさかこれほどのものとは思わなかった。というか、特殊事例だ。

 詞織は聖女の力を持っていたが故の、闇の世界の被害者だ。

 疲れてきた俺は、詞織が座ってるロングソファのローテーブルを挟んだ向かいのひとり用ソファに座って、彼女と向かい合う。

「いろいろ教えないといけないことはわかった……。詞織が謝るようなことじゃない。が、基本的なことを教える」

「はいっ。お願いします」

 居住まいを正して真面目な顔になった詞織が、俺のことを見つめてくる。

 最初に見たときから可愛いとは思っていたが、こうやって真っ直ぐに見つめられると気恥ずかしくなってくるほどだ。

 ちょっと垂れ気味のぱっちりとした目は、少し青みがかって見えるその瞳に、俺の姿を写しだしていた。鈴代さんのような外人がかった感じではなく、純日本風の顔立ちは丸みが強いものの小顔で、笑むと可愛らしさが増幅される。

 背は俺より頭半分くらい低く、基本的に痩せ気味な身体つきはしているが、女の子らしい部分はしっかりと十五歳の女子である主張をしていた。セミロングと言うにはちょっと短めの髪をしている詞織は、服こそ俺のトレーナーと野暮ったいものだが、うちに秘めた聖女の力を身体で表しているような、神々しさすら感じる可愛らしさがあった。

 ともあれ。

「俺や詞織にとって、世界は主に三つに分けることができる」

「三つ、ですか?」

「あぁ」

 わからないかのように詞織は少し首を傾げていた。

「ひとつは光の世界。いま現在の人間の世界は、光の世界とその住人、光の住人が動かしていると言ってもいい。もうひとつは影の世界。詳しい話はまたにするが、悪いことをしたりして、光の世界から隠れて生きてる人間なんかだ。このふたつは表と裏と言った感じの、例外を除いて人間の世界だ。そして最後が、闇の世界。俺や詞織が生きてる世界だ」

「闇の世界……」

「闇の世界は俺や詞織みたいに、何らかの、光や影の住人が持ってない力を持ってる人間の世界だ。それどころか人間以外の、力を持った何かって奴も闇の住人だ。もちろん俺も」

「……」

 ほんのわずかに傾げた首の角度を深くする詞織がどれくらい理解しているかはわからないが、追々説明すればいいことだし、表情の真剣さは失われていない。俺は説明を続ける。

「魑魅魍魎や妖怪変化、神や悪魔や天使や星獣幻獣魔獣と呼ばれる奴ら、他にも精霊や妖精とか、人間以外の何らかの力を持ってるようなのが闇の住人だ。詞織のことを食おうとした魔人もそうだ。そうした人間や人間以外の、力を持った存在を総称して闇の世界の住人に分類する」

「んー……」

 ちょっとだけ俺から目を逸らして、考え込むように可愛く眉根にシワを寄せている詞織。

「何かわからないことでもあったか?」

「あの、ですね」

 ちょっと言いづらそうにしながらも、詞織は言葉を続ける。

「紗敏さんはわたしのことを助けてくれました。それに紗敏さんは勇者の力を持っていると言っていましたよね? 勇者というのは良いことをする人だと思うのですが、それでも紗敏さんは闇の住人なのですか?」

 そこは言葉の定義が難しい。俺も幼い頃に説明されたとき、理解できなかったくらいだ。

「闇の住人ってのは、光の住人や影の住人が持ってない、普通とは違う力を持ってる奴らのことなんだ。天神だとか聖王だとか、勇者とかってのは関係ない。たぶん魔人教団の奴らのほとんどはただの光の住人で、宗教か何かだと思ってあの場所に集まってただけだと思う。俺なんかも勇者で闇の住人だが、高校に通ってて光の住人の立場も持ってる」

「あの、聞いてもいいですか?」

「どんなこと?」

「勇者というのは、どういう人のことを言うのでしょうか?」

「まぁ勇者ってのは、英雄と呼ばれる人とか、ただ強い力を持った奴ってのとはまた別なんだ。詞織が持ってる聖属性の力、聖力や、魔法使いが持ってる魔力、他にも天律や邪気といった世界の四大属性と呼ばれてる属性に片寄らない無属性の力で、英雄のように人に対する称号ではなく、勇者というのはその力そのものと、それを持つ奴の呼び名で、人間が持ち得る最強の力とか言われてたりするんだが……。まぁ詳しい説明はそのうちするとして、だ。――詞織」

「はいっ」

 顔を引き締めて詞織の目を真っ直ぐに見つめる俺に、彼女も真っ直ぐな視線を返してくる。

「昔の、光や影の住人と闇の住人が入り交じってた暗黒時代ならともかく、いまの世の中は主に光と影の住人が世界を動かしてるんだ。詞織は闇の住人として生まれ育って、光の世界を知らなすぎる。俺が教えていくことになるが、来月からは学校に通ってもらうことになると思う」

 それに関する手続きについては、どう手を回したのかはわからないが、姉貴が手配済みだった。形式上のものかも知れないが、試験はあるものの、十五歳と俺より一歳年下の詞織は、高校一年生となるはずだった。

「学校……」

 これまで学校に通ったことがないという詞織。

 驚いたようにきょとんとしていた彼女は、しばらく何も言わずに黙っていたが、だんだんとその顔に笑みが浮かんできた。

 星でも浮かんでるみたいに目が輝き始めて、抑え切れない笑みが口元から零れる。

 期待に膨らんでいるだろう、トレーナーの上からでも大きくはないが存在をはっきり主張する胸を押さえて笑みを浮かべている詞織に、俺は彼女を助けたことを今更ながらに良かったと思えていた。

 彼女のこれからの幸せを俺の手でつくれたことが、誇らしいと感じていた。

「まだまだ学校に通うまでに光の世界の知識を詰め込まないといけないし、それだけじゃなくいろんなことをやらないといけないだろうけどな」

「はい! 頑張りますっ」

 詞織のいままでにない元気な返事に、俺の顔にも笑みが零れてきていた。

「高校の三年間。その後行きたいところがあれば大学の四年間。その間にゆっくりとでいいから、詞織の幸せを探していけばいいさ」

 そのための資金は、実はもう確保してあった。

 昨日の夜、詞織が眠った後、俺は姉貴からの情報で魔人教団の本拠地を襲撃した。魔人の威を借りて信者から巻き上げた資金の一部を、詞織の養育費として奪い取ってきた。

 本拠地の建物に壊滅的なダメージを受けた教団は、その後ツテのある人物に情報を流しておいたから、近日中に影の世界のカルトとして摘発される算段となっていた。

 儀式をやっていたときにいた教主や一部の上級の祭司については逃げられたっぽいが、事実上魔人教団の解散には追い込めたはず。詞織にかかってくるだろう危険は、かなり取り除けたはずだ。

「これから、その……、わたしもいろいろ頑張りますので、よろしくお願いします!」

 ソファから立ち上がり深々と礼をしてくる詞織に、俺も「よろしく」と返事をしていた。


          *


「あー、携帯端末、渡してあったろ?」

「はい。持ってきています」

「何か学校の中で用事があったら、それで呼び出してくれ」

「でも、学校の中では使えないのでは?」

「休み時間とか放課後は使えるから」

「そういうもの、だったんですねー」

 鈴代さんに詞織との関係を勘ぐられるのがイヤだから教室に来ないでくれ、とは言えず、昼休みに入り屋上まで来た俺は、他とは少し離れた場所にあるベンチで並んで座って、彼女が持ってきた弁当と水筒を受け取った。

 日直で急いでいた俺が忘れた弁当に気づいて、鞄に入れてきたのはいいが、走って登校したために渡しそびれたんだそうだ。

 呆れるほど晴れ上がった空から降り注ぐ陽射しは、春先の花を咲かせたり緑を茂らせる草花にさんさんと降り注いでいる。

 L字型をしている校舎は屋上もふたつに分割されていて、俺たちがいる側は屋上の緑地化実験とかで園芸部や有志によるガーデニングが行われ、昼休みになると生徒の憩いの場として利用されていたりする。もう片方の屋上は広場になっていて、校庭でやればいいのにパンを片手に男子たちがボール遊びに興じていた。

 教室から逃走に成功した、とは言い難い。

 鈴代さんや遠藤はもちろん、あのとき教室内や廊下にいた奴らには詞織が俺を呼ぶのを見られているし聞かれているだろうから、明日には噂になってることだろう。

 ただまぁ、詞織とは原則登下校は一緒にしてるから、以前からこそこそとは噂になっていたみたいだが。

 教師連中も含めて詞織のことは、海外在住の親戚の子を日本の学校に通わせるために預かってる、ということにしてある。

 一応魔人教団には警察の捜査が入り、表向きは解体されたが、やはり教主を含め幹部クラスの行方は現在も不明なままだ。資金源も絶たれて大きな動きはもうできないだろうし、姉貴の調査でも、俺が調べた中でも、いまのところ目立った動きは確認できていない。

 それでも逃走を続けている以上はちょっかいをかけてこないとも限らないし、しばらくの間はできるだけ一緒に過ごすのが詞織にとって安全だと考えて、俺は彼女と行動を共にするようにしていた。

 ――仕方ないし、俺の責任でもあるんだが、なぁ……。

 水筒のお茶をひと口飲み、俺は乾いた喉に溜まっていた息を吐き出した。

 包みを解いて二段になってる弁当箱を開封する。

 片方にご飯が入っていて、もう片方にはおかずが入っている弁当の中身は彩り鮮やかだ。

 タコ型のウィンナーにほどよい焼き具合の卵焼き、小さめのハンバーグが二個と、汁気のない煮物なんかで構成されていた。

 ひょいと詞織の弁当の中身を見てみると、弁当箱のサイズが小さいだけでなく、煮物の割合が多くなってるのが見えた。詞織は和食嗜好だ。

 弁当は詞織のお手製。

 これまで面倒くさくて弁当なんてつくったことなんてなかったし、両親が海外を飛び回っていて家にほとんど帰らず、年の離れた姉貴も半分行方不明な状況で独り暮らしをしている俺の生活は、詞織を魔人教団から保護したことで大幅に改善されることとなった。

 詞織の炊事や家事の能力は完璧と言っていいほどだ。

 中学に入ってからは独り暮らし状態で家事をこなしてきた俺なんか目でないほどに、彼女の主婦能力は長けている。

「そう思えば改めて訊いたことなかったけど、料理とか掃除はいつ習ったんだ?」

「わたしを育ててくれた翁と媼に必要だから、と教えてもらいました。魔人の生け贄になることは、花嫁になることと似ているから、だと聞いています」

「なるほどな……」

 詞織を育てたのは彼女も名前を知らない翁と媼という、老夫婦らしい人だという話は、保護してちょっとしてから聞いていた。

 そのふたりが詞織の中にある聖女の力を見抜いたらしいし、教主の指示で彼女を聖女にふさわしい教育を施したようだから、たぶん魔人教団に所属している人たちなんだと思う。

 翁と媼の教育には勉強も含まれていたらしく、建前かと思った帰国子女扱いの入試はガチなものだったらしいが、そこそこの成績でパスしていた。

 使っていた教材が古い上に教団への反抗心を生むような内容は避けられていた感じはあるが、詞織はすでに高校レベルの勉強はあらかた終えていて、俺よりも勉強ができる。

 主婦能力はもちろん、よほど俺より勉強ができて、一度も学校に通ったことがないという詞織が授業をちゃんと受けられるのも、彼女が白澄の翁、媼と呼ぶふたりの仕込みの賜だ。

 同時に、極端なほど世間知らずでもあったが。

 いまでこそ掃除機も洗濯機も使えるようになったし、冷蔵庫の意味もテレビがどんなものかも携帯端末の使い方も大きな問題はなくなっているが、俺と一緒に暮らすようになった当時はお金の概念すらよく理解していなかった詞織には、いろいろ苦労をした。

 隣に座ってジャガイモを口に運んで微笑んでいる彼女の様子を見ると、そんな経験はもちろんないが、自分の子供が育ってくれているみたいな、ちょっと感慨深いものがあった。

 俺も弁当に箸をつける。

「んっ……」

「ど、どうかしましたか? 味付け、失敗していましたか?」

「いや、そうじゃないんだ。美味いよ、やっぱり詞織の料理は」

 できるか否か程度の完璧さだけじゃなく、詞織の料理は美味い。先月までの俺の食生活なんていまさら考えられないほどに。

 高級な店で出てくるような特別な味ではないが、素朴で、何というか、幸せな味がした。

「これくらい料理も家事もできるなら、詞織はすぐにでも結婚しても大丈夫そうだよなぁ」

 さすがに世間知らずなところは天然ボケを通り越した部分があるから、不安ではあるが。

 俺の言葉に何を感じたのか、箸の手を止めた詞織は、唇をすぼめて難しい顔をする。

「あの、お訊きしてよろしいですか?」

「どうしたんだ? 改まって」

 少しためらう様子を見せながらも、詞織は続く言葉を口にする。

「結婚って、何のためにするものなんですか?」

「うぐっ……」

 また難しいことを訊く。

 中学以降はともかく、闇の住人という特殊な環境はあれど家族と一緒に過ごしてきて、テレビを見たり本を読んだりしてきた俺は、結婚に疑問を持ったことはなかった。

 真剣な顔つきで俺の顔を見つめてくる詞織には、茶化した様子はない。たぶん翁と媼と、一部の魔人教団員としか接触がなかった彼女にとっては、本当にわからない概念なんだろう。

「血縁をつなぐための儀式とか契約……。役所への届け出、とか? 本人同士が想い合ってる証拠っていうか、一緒に暮らすための口実? んんっ」

 改めて考えてみると、結婚をする理由というのがよくわからない。

 婚姻届を役所に出して公的に結婚が認められれば、法律に基づいた義務や権利が発生するし、いわゆる内縁の関係ってのではあり得ない面倒事が発生したり、逆に得られなかったものが得られたりする、ってのはわかる。

 でもなんか、俺が考える結婚のイメージとは違う。

 結婚をするふたりが愛し合ってるからこそするものだ、っていうのはあるけど、想いがなくても結婚する人はいるし、想い合って結婚したはずなのに離婚する人もいる。

 詞織の素朴な質問に、俺は食べかけの弁当を放置して考え込むほどになってしまった。

「んー」

 頬に人差し指を当てながら小首を傾げて考え込んでいた詞織が言った。

「一緒に暮らす、という意味では、わたしは紗敏さんと結婚しているのに近い状態なのでしょうか?」

「そ、それは違うっ」

 思わず俺は大きな声で否定していた。

 別に詞織と一緒に暮らすのが嫌だとかそういうことはない。でも彼女との生活が結婚のそれと同じかと問われたら、違うと即答することができる。

 目をつむってしばらく考え、俺は曖昧ながらも自分の想いを紡いだ。

「一緒に暮らしてるってだけじゃ、同棲、っていうか同居っていうか、詞織と俺とのだと、共同生活、かな? 人によっては定義は少しずつ違うんだと思うけど、俺にとっては……、そうだな、一緒に生きて、一緒に過ごして、一緒に幸せをつくっていきたいと思える人とする、約束、かな?」

「約束、ですか?」

「うん。いまでも家柄とか会社関係とかで本人が望まない結婚をする人もいるし、離婚をする人だっている。でもたぶん、お互いが好きで、愛し合ってする結婚は、一緒に幸せになろう、っていうことをふたりでする、約束なんじゃないかな、と思う。なんかよくわからないけどさ」

 最後はちょっとごまかしつつも、気恥ずかしくなった俺は残りの弁当を口の中にかき込み、お茶で流し込む。

 ――うん、やっぱり美味しい。

 詞織がつくってくれる弁当は文句なく美味しい。家事全般が苦手なお袋や、基本手抜きな姉貴はもちろん、うちで一番料理が上手い親父のそれよりも、詞織の料理は美味しい。

 聞こえるか聞こえないかのうなり声を上げて考え込みながらご飯を口に運ぶ詞織。もし彼女と結婚する奴は、幸せになれるんじゃないかと思えた。

 ――ヘンな奴と出会ったり、騙されたりしないよう気をつけないといけないだろうけどな。

 こいつの親父か、みたいなことを考えながら、俺は詞織の横顔に向かって声をかける。

「そういうことも含めて、ゆっくり探していけばいいさ。詞織にはいま、それだけの時間があるんだから」

 俺の顔を見て目を丸くする詞織。

 何かを悲しむかのようにまぶたを少し伏せた後、口元に笑みを浮かべた彼女は、わずかに首を傾げながら満面の笑みを見せてくれる。

「はいっ!」

 詞織の笑みは、俺にも笑みが伝染してしまうほど魅力的だった。


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