”記憶捜索者”

梅衣ノルン

第1章 法と記憶喪失者

第1話 記憶喪失者あらわる

 肌寒い、ある春の真夜中。

 はるか遠くから、自動車が澄んだ音を出しながら走っているのが聞こえる。

 ゴミひとつ落ちていない、ただただ真っすぐ伸びる開けた黒の道路。

 そんなところを、足を引きずりながら、またブロック塀を片手で引っ掴みながら、俺は少しずつ歩みを進めていた。

 もう何時間になるか、と思わず辟易してしまうほど、俺はただひたすらに、何を目指しているかもよく分からないままに歩みを続けている。

 それも、もうじき限界が来る。

 はるか遠くにあったはずの死線が、今はもう俺の眼前に迫っているのを感じたが、俺にはそれに対して反応する余裕もなければ気力もなかった。

 緩慢に、ただひたすらに緩慢に、冥界への門へと見えない力に導かれて誘われていく。

「――ねえ、あそこにいるの、誰?」

 それは俺の発した言葉ではない。鈴のような少女のような、そんな高くて澄んだ声だ。

 静かな夜の街だから、遠くにいる人間の声が、ここまで聞こえているのかもしれない。

「――私たちの家の前で、いったい何をやっているんだろう?」

 今度は、すぐにでも風で掻き消されてしまいそうな弱々しくかすかな声が聞こえてきたが、相変わらず声を発している人間の姿は見えなかった。

 随分と長い静寂を破ったふたつの声。一方、俺はそれらの声をすべて聞き流して、ただひたすらに歩き続けることにだけ集中する。しかし、今は歩いているというより、もはやその場で地面を這いずり回っているだけに過ぎなかった。

 ……俺は、死ぬのだろうか。

 そもそも、俺には産まれたという記憶がない。

 死の間際には走馬灯が見えると聞くが、今の俺には全く見えない。走馬灯を見るために必要な何かが、欠けていた。

 何も思い出すことができないのだ。

 たとえば、衣食住という概念そのものは、うすぼんやりとしたイメージが頭の中でふわふわと浮かんで、かろうじて骨格を成してはいる。しかし、具体的な肉付けとなるような記憶はいくら探してもまったく見つからなかった。

 そして、鏡を見たことがない俺は、自分が今、どんな姿をしているのかもわからなかった。

 もしかしたら、俺には本当の記憶というものがあるのかもしれない。でも、死を眼前とし、意識が朦朧としていく過程の中で、それらの記憶が霧散しかけている状態であるだけなのかもしれない。

 どちらにせよ、今の俺には、何もできることがなかった。できることと言えば、ただ無心に、がむしゃらに、前に突き進むのみ。何者かに追い立てられるように、自分が今“いる”場所を“いた”場所に変えるという、利己的な自尊心によって招来される行為のみ。

 ……そうこう考えている間に、両足がまったく利かなくなった。

 いくら意識を働きかけても、いくら本能に前進を命じても、ピクリとも動かない。まるで死んでいるかのようだ。

 ブロック塀の背景の更新が、止まる。

(あ、終わった)

 死を実感できるほどに疲れ果てることには決して慣れたものではなかったが、不思議と、俺はただ“死ぬ”と確信した。

 俺はもう動けず、ここで骨を埋める。

 なるほど、と、ひとりで静かにそう悟った。

「――」

 また、声が聞こえてくる。かすかに残った聴覚が神経系を介さずに、その声を直接分析する。

 ……これは、さっきの二つの声とは、また別のものだった。

「――助けないと!」

 助ける。タスケル。タスケルとは何か。

 何をタスケルのか。誰が何をタスケルのか。

 俺の意識が続いたのも、ここまで。

「――この人を、早く助けないと!」

 やにわに、大きな声が俺の脳を刺激するのを感じた。

(たすけ……る?)

 そして、その言葉の居場所を、その言葉の意味を、薄れゆく意識の中で把握した。




 ふと、意識が蘇る。

 条件反射的にまぶたを開いてみるが、あたりがすっかり真っ暗なものだから、俺はいまだにあの真夜中の街の中で無様に地面を這っているのだろうかと思った。

 しかし、それにしては背中に当たる感触は柔らかく、弾力に富んでいる。

 足をもぞもぞと動かしてみると――今度は何の抵抗もなく動かせた――薄い布のようなものがひんやりとした冷たさをもって俺の足に纏わりついてくるのを感じる。

(俺は今、ベッドの上にいる)

 実際問題、俺は今までの人生の中で一度でもベッドの上に乗ったことがあるのかどうかよくわからないのだが、とにかく俺はそう感じたのだ。

 俺はまだ、視覚がまったく利かない。よって、触覚に身を委ねることで周囲の状況を把握していく他なかった。

(ベッドの上にいる、ということは……。おそらく俺は、どこかの屋根の下……すなわち家の中にいるということか?)

 眠気も覚めてきて、頭がうまく働くようになってきた。

(つまり俺は今……生きている!)

 空腹なのか寝不足なのか、理由はよく分からないが、確かに俺はさっきまで死にかけていた。しかし今は手も動くし足も動くし、耳たぶを動かすことすらできる。

 調子に乗って、とびきりのウインクも披露してみせる。シャイな真夜中の空気からは、驚くほどに反応がなかった。舌打ちする。あ、舌打ちも完璧にできた。

 何はともあれ、あの絶望的な窮地を、俺は無意識のうちに脱せていたというのだ。

 脱力……しかけたが、すんでのところで留まる。

(でも……俺はなぜ死んでいない?)

 脳がまだこの現実に追いついていないが、まさにそのことが、今のこの現状を非現実的なものだということを示しているように思えた。

 自分は今、なぜだか分からないが何らかの外的作用によって生かされていて、どこかよくわからない場所にいて、なにで出来ているのかよくわからないベッドで横になっていて、何時なのかわからないまま時を刻んでいる。

 それは何故だか、良くないことのように感じた。

 もしかしてここは死後の世界なんじゃないのか、と疑ってしまう。いや、その可能性の方がはるかに高いのではなかろうか。

(どうすべ……)

 このフカフカのベッドは現に俺の中で渦巻いている眠気というものを勢いよく絶賛招来中といった様相であるわけであるが、この誘惑に負けたが最後、絶対に現実の世界には戻って来れないような気がした。

 ……よし。

 俺は失いかけた鋼の意思を急いでかき集めて、ベッドの上でガバッと立ち上がる。

(ここを出よう)

 右を見てみると、さっきまで自分がいた夜の街を四角く切り取っている、シンプルなデザインの窓が眼前に現れた。

 ということはおそらく、このベッドは部屋の隅に配置されている。

 なら左だ。

 俺は背伸びをしながらもう一度決意を固めて、ベッドから足を踏み下ろした……。

「うげっ」

 それは俺の声ではない。

 パルス波のような短くうめくようなノイズが、俺の足元から発せられた。

 それと同時に、何か生き物を踏んづけたような感覚も。

(え、なんか踏んだか?)

 そう思ったときには、もう遅い。

 今しがた踏んづけたものが丸っこい形状だったようで、片足しか踏み出していなかった俺は身体のバランスを一挙に崩すこととなった。

 あまりにも予想外の出来事に反応しきれなかった俺は、

「うおおお!?」

 と、俺自身聞き覚えの無い奇声を発しながら無様にも前のめりに転倒する。

「いた!?」

「ひえ!」

 床に打ち付けられそうになった頭の近くで、また別の声がふたつほど聞こえてきた。

(……ヤバい)

 そこで俺は悟った。

 スーパーコンピュータ、名付けて“俺の脳”君が、複雑な計算過程を踏む必要すらなく瞬時に常識的に現状を記述し出す。

 ……俺がさっきまで寝ていたベッドのすぐ横で、この家に住んでいる人間が三人、横一列に並んで眠っていたのを今しがた俺が踏んづけたりボディプレスしたりして起こしてしまった、ということらしかった。

(やべえ、地獄行きにされる!)

 ここはやはり死後の世界、冥界だったのだ。現に、人がいる。その主に見つかったが最後、逃げるしかない。俺は半ば衝動的に部屋の中を駆け回るが。

「ぐお!? 壁がありやがる! うお、こっちの方向にも壁が!? どうなってんだコレ、俺を取り巻くように四方八方が壁で囲まれてるじゃねえか!?」

 部屋の中は真っ暗であったため、どちらが出口か分からないまま俺は壁にぶつかっては進路を変え、壁にぶつかっては進路を変えを繰り返しつつ、奇声を発しながらセルフゴムボールのごとく部屋の中を縦横無尽に跳ね回った。

「クソッ! ただの地獄のくせになんでこんなに入り組んでんだ! って今度は何かが降ってきた!?」

 手触りだけでその物体を確かめてみたところ、それは大量の本だった。

「こんのアホトラップが! 出口はどこだ。こっちか! 違った! また壁じゃねえか! じゃあこっちが出口か! 痛えッ! また違った! 壁しか無いとか地獄が聞いて呆れるわ!」

「ここは家の中ですから、壁に囲まれてて当たり前です! とにかく落ち着いてください!」

 怒り心頭の少女のような声が聞こえてきたと同時に、視界が一気に白く染まった。

 目潰し!? ……かと思ったが、単に部屋の電気がついただけだった。

「……ええと」

 目が明るさに慣れるまで、ついでに俺の精神が落ち着きを取り戻すまで少し待ってから周囲を見渡すと、三人の少女が寝間着姿で各々約百二十度ずつ間隔を開けながら俺の周りを取り囲んでいるのが理解できた。

 眠たそうな顔をしているが、スキの無いフォーメーション。どの隙間を通ろうとしても、誰かから捕まるのは必至のようだった。

「……というか俺は、いったい何から逃げてるところだったんだ?」

「そんなの、私が聞きたいくらいですよ!」

 さっきと同じ声が、銀色の髪を腰まで伸ばした少女から聞こえてくる。

 目をこすってから、もう一度この部屋の中をよく観察してみる。

 三途の川も、血の海地獄も、針山も無かった。目を引いたのは、大量に床になだれ落ちている本に囲まれた、木製の本棚だけ。

「……もし、そこのお嬢さん方。俺はもしかして、外で死にかけていたところを、君たちによって助けられた身……なのですかい?」

「「「……」」」

「……本棚を崩してしまって、すみませんでした」

「「「……」」」

「ふえぇ」

 返事の代わりに六つの目に睨まれた俺は、斜め下の虚構を見つめながら、最後の手段、防衛本能スキル“幼児退行”を発動させる。

「ばぶーばぶー。ばぶぶぶぶぶばぶーぶー」

「あの」

「ばぶぶぶばばばぶぶぶぶぶー!」

「……ちょっと、お話よろしいですか?」

(あ、終わった)

 本日二度目の詰み。

 さっき俺に「落ち着け」と言った少女が、直立不動の俺の身体を優しく掴みながら、憐れみの表情を向け言い放つ。

「とりあえず……座ってから話し合いましょう?」

 俺は、さめざめと泣きながら「うん」と答えた。

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